平成の怪物に挑む
以下のお題をいただいて書きました。
「全盛期の松坂大輔」「腹黒天使ちゃん」「バターチキンカレー」
◆
師が走ると書いて、師走。
年の瀬とは例外なく、どこもかしこも忙しいものだ。
私もその例に漏れず、京都にある実家から『たまには顔を出せ』と呼び出され、家中をひっくり返すほどの大掃除に付き合わされてしまった。数年ぶりとなる帰省、のんびりと年越しを迎えるはずが、蔵の掃除をすることになるとは。
蔵の掃除を始めてから約一時間。埃まみれの床がようやく綺麗になってきたところで、私の持つ箒が何かに触れた。
屈んで確認してみると、それは随分と年季の入った段ボールであった。好奇心に突き動かされ、すっかり粘着力をなくしたガムテープの封を剥がし、中身を確認してみる。
「懐かしいなあ」
グローブにボール、ユニフォーム――その中身は、私が高校球児であったころの道具であった。甲子園を目指すでもなく、練習に力を入れるでもなく、ただなんとなく野球を続けていた三年間の思い出が一気に蘇ってくる。
思えば当時から、私には何かに熱中した記憶がない。
高校球児と言えば聞こえはいいが、半分幽霊部員のようなもので、へらへらと笑いながらへろへろとした球を投げていた。
それが、この今まで続いている。
仕事に精を出す訳でもなく、家庭を持つ訳でもなく、没頭するまでの趣味があるわけでもない。
1998年の夏。
私の魂が燃え、私の胸が躍ったのは、それ以来ないかもわからない。
「辛気臭い顔をしているわね、人間」
そんなことを考えていると、ふと頭上から声が降ってきた。
「お前だ、お前」
驚きつつも見上げてみると、そこには女の姿があった。蔵の天井近く、そこに女が浮いている。寒さで頭がどうかしてしまったのだろうかとも思ったが、思考も視界もはっきりとしている。あんぐりと口をあけたまま頬をつねってみるが、確かに痛い。どうやら夢でもなさそうだ。
「私は天使だ。ちょいと気まぐれに人間界へとやってきてみたが、なんだお前は。年の瀬にしょぼくれた顔をしやがって」
ふわふわと浮かぶ女は、自らを天使だと名乗った。
彼女の姿をじっくりと眺めてみると、なるほど確かにその背には大きな羽根が二枚生えている。
「私は人の心が読めるんだ。お前、情熱を費やす何かがないことに気づいて自己嫌悪に陥っているな」
まったく人間と言うのは面倒な生き物だ――などとぼやきながら、天使は肩をすくめてみせた。
「これも気まぐれだ。おい人間、お前の願いを何でも一つ叶えてやろう。金か、女か、それとも地位か」
これは現実なのだろうか。新手の詐欺ではなかろうか。
だがしかし、この女が天使だということを、この女が私の願いを叶えてくれるということを、すんなりと受け入れている自分がいた。彼女の人間離れした風貌や立ち振る舞いがそうさせているのだろうか。
願い。私の願いとはなんだろう。
そんなことを考えていると、ふと足元の段ボールが目に入った。
かつて私がなんとなくで続けていた野球。そして、なんとなくでやっていたことを後悔した高三の夏。私の胸を震わせた、1998年の夏。そのことが頭に浮かび上がってくる。
「中学生に戻って、人生をやり直したい」
すると、そんな願いがいつの間にか口から漏れていた。
「ほう。何故だ」
「京都の名門高校野球部に入るんだ。そして、甲子園を目指す」
私の人生において、最も興奮した出来事。
それは、1998年、夏の甲子園だ。
1998年、夏の甲子園。
この言葉を聞いて、ピンとくる人は多いだろう。
「私はあの怪物から――松坂大輔からヒットが打ちたい」
平成の怪物・松坂大輔。
西部ライオンズ時代やレッドソックス時代の彼も勿論素晴らしいが、彼の全盛期は高校時代だと私は思っている。この世代の野球人たちが『松坂世代』などと呼ばれるほど、彼は甲子園で一際輝いていた。
甲子園・準々決勝。
松坂大輔は、延長17回を一人で投げ切り、そして勝利をもぎ取った。
準決勝では、9回に登板し、彼の所属する横浜高校は華麗なる大逆転をしてみせた。
そして、決勝。
「松坂は、決勝でノーヒットノーランを達成したんだ。対戦相手は私の地元、ここ京都の高校だよ」
後に『平成の怪物』と呼ばれる彼は、とんでもない快挙を、それも甲子園の決勝で成し遂げてみせたのだ。
「私はそれを、テレビに齧りついて見ていた。私の心があれほどに燃え上がったのは、それ以来ない。松坂の怪物っぷりに驚くのももちろん、地元の高校が完膚なきまでに叩きのめされたのが、悔しくて仕方がなかった」
1998年夏の甲子園で語られるのは、松坂伝説ばかりだ。もちろんそれは同世代として誇らしく思うし、素晴らしいことだと思う。
「私は、あの怪物からヒットを放ちたい。怪物に、一矢報いてやりたいんだ。地元の高校で、甲子園の決勝で、『怪物に噛みつける男もいる』のだと、世間に知らしめてやりたい」
だが同時に、私の胸は悔しさで一杯になった。
地元の高校が、私たちの代表が決勝まで進んだというのに、松坂大輔という怪物に食われてしまったのだ。
できることならば、その歴史に反旗を翻してやりたい。
弱者の一撃を、怪物にも喰らわせてやりたい――そう思った。
「なるほどわかった。では願いの対価として、私の願いも叶えてもらおう」
うんうんと頷いてみせる天使は、我が耳を疑うようなことを言ってのける。願いの対価、確かに彼女はそう言った。そんなものがあるだなんて、聞いていない。やはり詐欺ではないか、こんなもの。
「人聞きの悪い。この世の中はギブアンドテイクだ。なあに、私の願いは大したもんじゃあない。私は人間界の食べ物に目がなくってな。お前が過去に戻り、そして現在まで再び時を歩んできたら、私の好物を振舞ってくれ。それだけでいい。そうだな、最近はカレーライスにハマっていてな。バターチキンカレーでも食わせてほしいかな」
この天使はどうやらグルメなようで、好物さえ食わせてくれればそれでよいらしい。だが、ほっと胸をなでおろしている私に天使はしっかりを釘を刺してくれる。
「ただ、ちゃんと私の満足するクオリティのものを振舞えよ。そうでなかったら、契約不履行として魂を貰っていくからな」
とんでもないことを言ってのける天使に、私は思わず肩を震わせる。
だが今はそんなことはどうでもいい。私はただ、中学時代からしっかりと野球に打ち込んで、名門野球部へと入学する。そしてレギュラーを勝ち取り、甲子園決勝で怪物と対峙するのだ。
カレーのことなど、その後にゆっくりと考えればよい。高校を卒業してからこの歳になるまで、二十年以上も時間があるのだから。
「では、目を瞑れ」
そう言うと、天使は私の額に手をかざす。彼女の言葉に従って目を閉じると、段々と意識が遠のいていくのを感じた。体が、すぅと消えていくような感覚。頭が、徐々にぼやけていく感覚。
「なにしてんの。あんた遅刻するよ」
それを覚醒させたのは、母の声だった。
はっと気が付いて目を覚ますと、そこは実家の私の自室。その布団の上で私は寝転がっていた。
大掃除をしている内に、どうやら眠ってしまったらしい。お陰様で、天使だの願いだの、奇妙な夢を――
「今日は中学の入学式だろう。初日から寝坊だなんて、いい度胸だね」
夢では、なかった。
布団から飛び上がり、姿鏡の前に躍り出る。そこには、一回り小さく若々しい、中学一年生の私の姿があった。
どうやら本当に、私は過去へ戻ってきたらしい。天使は、私の願いをしっかりと聞き入れ、それを叶えてくれていたのだ。
それからというもの、私は青春のすべてを野球に費やした。
中学では勿論野球部に入部し、休みなく練習に明け暮れた。家に帰ってからも素振りやトレーニングを欠かさず、来る日も来る日も白球を追いかけ泥にまみれたのだ。突如とした心変わりに両親や友人は大層驚いたが、それも時が流れるにつれてなくなっていく。
遠く離れた東京の地では、後に『怪物』と呼ばれる彼も、リトルリーグで練習に明け暮れているはずだ。数年後、1998年の夏、怪物に牙を剥くためには、自らの牙を研ぎ澄まさなければならない。怪物からヒットを奪わなければならない。そのためには、練習あるのみ。
そして、あっという間に月日は流れた。
私は高校生となり、高校三年生となり、そして1998年の夏を迎えた。
『試合終了! 横浜高校・松坂、甲子園の決勝という舞台で、なんとノーヒットノーランという偉業を成し遂げました!』
怪物の姿は、ブラウン管の向こうにあった。
私は中学校生活三年間を野球に捧げたが、大した成果を得ることはできなかった。地元の公立中学校ですらレギュラーの座を奪うことは叶わず、もちろん名門野球部からの声がかかるはずもなかった。
結局、かつての母校である高校へ進学して熱心に野球を続けたが、ここでもレギュラーとなることはできなかった。もちろん甲子園など、もってのほかだ。
とうとう歴史は変わらず、京都の高校は松坂大輔から一度もヒットを打つことはできなかった。松坂大輔は『怪物』として1998年の甲子園に君臨したのだ。
私の情熱は、とうとうここで終わりを告げた。
『ただ、ちゃんと私の満足するクオリティのものを振舞えよ。そうでなかったら、契約不履行として魂を貰っていくからな』
テレビの前で肩を落とし、意気消沈する私の脳裏に、天使のかつての言葉が蘇る。
そうだ。私は彼女と契約をして、この時代まで戻ってきた。過去に戻らせてもらう代わりに、私は彼女に美味しいバターチキンカレーを振舞わなくてはならない。そうしなければ、私は天使に魂を奪われてしまう。
私はそれから急いで料理を勉強しだし、寝る間も惜しんでカレーの研究に没頭した。天使を満足させるほどのカレーを作らなくては、私は死んでしまう。天使を満足させるカレーとは、どれほどのものなのか。それを考えてしまうと、いかなる味にも納得できず、来る日も来る日もカレーを煮込んでは食べた。
青春時代は野球に、それから先はカレー作りに熱中することとなるだなんて、かつて何事にも熱中することができなかった私からは想像もできないだろう。
「へいいらっしゃい!」
「大将、今日もカレー食べにきたよ」
それから二十余年。
私はカレー屋を営みながら、天使の舌を唸らせるバターチキンカレーを作る研究の日々を送っている。客からは『美味い』との声を多数いただいているが、それは天使を納得させるものであるのかはわからない。
「はいよお待ち! 当店自慢の『天使も唸るバターチキンカレー』だ!」
「うお、今日も美味そうだ。いただきます」
天使と契約を結んだ日まで年月は流れたが、天使は未だに現れない。けれども、あの日と同じようにふと現れるのではないかと、こうしてカレー屋を切り盛りしながらビクビクとその時を待っているのだ。
「美味いなあ、やっぱり」
「ありがとうございやす」
そうそう。
夢を諦め、死から逃れるために始めたカレー屋だが、ひとつだけ良い出来事があった。
私の夢が、時を遡ってまで叶えたかった夢が、思いもよらぬ形で叶ったのである。
「大将のカレー屋は、ここ西武ドームの名物だもんね。俺も含めて、ライオンズの選手も行きつけだもんなあ。そうそう、この間も松坂さんが『大将のカレーには敵わないなあ』って嬉しそうにぼやいてたよ」
私は、『平成の怪物』に、一矢報いることができたのだ。
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