誰でもない君へ
ゴミ出しに命を懸けて幾星霜。
自転車が直角に曲がらなかったおかげでAはまだ生きていて、今日も抜けるような青空に洗濯物をさらしている。
近頃少しだけ、ゴミの量が増えていた。若者のくせに時々ジジくさい男が、時おり手土産を持ってやってくるせいだ。
初めて出会ったのは居酒屋だった。たまたま混んでいて、たまたま相席に応じる気になって、話しているうちに意気投合して入り浸られた。
Aがゴミ出しに命を懸けていると聞いた時、男は手を叩いて大爆笑した。「いいねえ!」大きな声で肯定した。
「最高だな、それ」
Aは、男がすべての偶然をも肯定したと、すぐに分かった。あの日自分はこの部屋にいて、眼下の自転車に手前勝手に生死を託し、そして今も勝手に生きている。それを男は朗らかに笑い飛ばした。
彼は彼で何か探しものがあるらしく、訪ねてくると一度は必ずベランダから往来を眺めていた。Aが問えば、彼は答えた。
「知り合いを探してるんだ。伝え忘れたことがあって」
内容までは尋ねなかった。単純に、Aにとってはそんなに興味のないことだったから。ただ、訪ねてくる友人のおかげで息抜きができるのは有難かった。
彼の知人はいっこうに現れない。変わらず日々は回っていく。休みの日、ゲームも飽きてお互い勝手に飯を食う時間に、男はぽつぽつと彼の目的を話してくれた。
「『タケオ』って男か女を探してたんだけど、もう居ないかもしらん」
「もう居ない?引っ越し?」
「ああ。次元をひとつ、飛び越しちまったのかなぁ」
その時Aの頭に浮かんだのは「イマジナリーフレンド」という単語だったが、ブンブンと頭を振ってその単語を払った。彼の言葉の肉感が、どうも空想とは思えないくらいに迫ってくるのだった。
「伝えなきゃ死んでも死にきれないんだ。『いい名前付けたじゃねえか』って」
「疲れてる?大丈夫ですか?散歩でも行きますか」
「馬鹿にすんなよ! 行くぞ、散歩!」
今日が続いていく。生活の隙間に友人が訪ねてくるのが嬉しくて、眠る前にも幸福を感じる。昼間見かけた向かいのビルの老婦人は、相変わらずきっちり美しかった。人知れずAの命の恩人となった自転車の男は彼女の番犬役に忙しい。
カメラのピントがぴたりと合うように、Aは自分の感情とその程度がはっきり分かるようになった。うれしいたのしいさみしいかなしい。すべてがAのものだ。
幸福のありかは他人が決めるものではない。
「タケオ」を探し続けるジジくさい友人もそれを知っているらしい。
この街の住人は、激しい感情に飲み込まれることもなく、深い絶望に落ち込むこともなく、湖にたゆたうような穏やかさで今日を過ごしている。
「タケオ」と名乗る変な商人を見つけた友人が、興奮気味に玄関のチャイムを連打してAを叩き起こすまであと二日と三時間。
日の当たる場所はいつもこの街にある。
それでも続く生活の 碧海カツオ @katsuo_aoumi
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