手向けの名
あまりに長く生きてきたので、自分の名前さえ忘れてしまった。
会った人間、数知れず、別れた人間、数知れず。ひとところに住むこともできず、あちこち旅をして、知らず商人の真似事を始めた。
砂漠で買った紙の文書を、大都会の教授様が買っていく。
「それは最近のものだから学術的価値はありませんよ」
親切にも忠告する俺。
「ああ、いいんだ。こればっかりは僕の趣味でね。娘に無駄遣いを怒られるから、内緒だよ」
紳士的なウインクにときめく俺。
あるときには、池で馬鹿みたいにたくさん釣れた魚を売るかわり、猟師が小さな道具をくれた。道具ということはよく分かるのだが、なんのための道具だかは分からない。そういうものがこの世にはたくさんある。今年はどうも魚が獲れなかった、やれ嬉しいと喜んでくれたので、まあそれでよしとして、道具を自分のズタ袋に入れた。
のっそりのっそりと、俺は毎日歩いて暮らしている。
「あら」
ある街で、物々交換で手に入れたソーセージを提げて歩いていると、鈴の転がるような少女の声がした。自分に向けられていたようなので振り返ると、上品そうな色白の少女がそこに立っていた。
「物売りさん、その腸詰め、譲っていただけないかしら。厚かましいとは思うけれど…」
「とんでもない!お嬢さんほどの美人に食われるならこれらも本望だろうね。もちろんお代はいただきますよ」
少女は知人の屋敷に居候していて、手持ちがほとんどないらしい。その時の対価は、ツケということになった。普通なら頑としてお断りだが、たまにそういうおおらかな気持ちにもなる。事実、彼女はその後利子付きで大金を返してくれたのだから、俺の人を見る目も捨てたもんじゃない。
「しかしアンタ、名前を忘れちゃ不便じゃないか」
ある時、酒場で爺さんがいった。カクシャクとして人生を楽しみすぎているこの爺さんは、お得意様である。商人、商人としか呼ばれない俺を憐れんでくれているらしい。
「無いほうが都合がいいこともありますよ、
「この世には二種類の人間がいる!」
唐突に始まる演説にびっくりする俺。
「命を売れるやつと売れねぇやつだ。お前は売らねぇ。悪人相手なんかやめときな」
「はぁ、まあ、そっすか」
驚きのあまり適当な返事をする俺。
「この俺が言うんだから間違いねえよ」
「爺さん婆さん赤ん坊、人みな間違えることはあるでしょう」
爺さんはフッフッフと曖昧に笑ってまた唐突に話を終えた。
一年後の同じ時期、酒場に爺さんは来なかった。
名前など、ただの記号でしかない。俺は誰にも特定されないほうが都合がいい。灰色の群衆こそ最高の隠れ蓑。そう思って放っておいた「自分の名前」が、突然気になりだした。
俺が名前を名乗ったら、今ごろ土の下で眠っているであろう爺さんへの、手向けの花束がわりにはなるだろうか。どうかな。
それからまた一年、俺はTと名乗って旅をした。名前を得ても案外生活に変わりはなくて、損も得もしていない。ただまあ、悪人相手の仕事は減った。
数多の別れのたった一つが、なぜこうも気にかかるのだろう。俺は、年にたった一度だけ、あの爺さんと呑む酒が好きだった。大好きだった。
それだけだ。
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