駄鍋

芋鳴 柏

その男は最早、死にかけだった。


寂れた温泉街の廃墟群を男が一人歩いていた。

暮れかけた日を痩せぼそった背に浴びて、ボロボロの衣を纏いながら、彼は彷徨い歩いていた。年は壮年で細長い体躯をしていたが、ぼうぼうと伸び切った髭という髭の中でその相貌はまさに死人のそれであった。


彼は家を失くし、職を失くし、家族を失くして、手元にはもはや何もない。

ただ赤茶けてくすんだビニール袋を両手に持ちながら、ふらふらと道を行く。


しかし、その貧しげな彼の姿とは裏腹に、ビニールは満杯であった。

中には肉と数種の野菜と小さなガスコンロ。水を湛えたペットボトルに市販の食物。

買った分だけ、僅かな金は底を尽き、財布は空になっている。

文字通りの文無しとなり果てた彼だったが、落ち行く陽の中、男は確信していた。

寒さに凍えた日々とその日暮らしの幾数年。それが今日で終わる事。

己の死を確信していた男は最後にそれをする事を選んだ。

日も落ち、辺りが真暗くなった後も、誰も通らぬそこを男は歩き続けた。

鈍る夜目を研ぎ澄まし、目指す所へ足を運ぶ。

崩れかけた廃墟の中で、唯一規制線が張っていない廃旅館があった。

街道の中道、渓谷を流れる川を背に立つ、そこに男は瓦礫に躓かぬように足を踏み入れる。

中は酷く荒れていて、辺りには年代物のあらゆるものが散らばっていた。

旧日の賑やかさがあったろうそこは、既に主を失っていた。

主もまた、この廃墟が並ぶ通りの主人がそうしてきたように、夜逃げしたのは想像に難くない。玄関口近くに置かれていた埃まみれのパンフレットを引き抜きのぞきこむ。


昇りだした隙間から覗く微かな月明かりを頼りに男はまた歩き出した。

朽ちた階段を登り、両脇に抱える重い食材を必死に落とさぬように着実に一歩一歩と歩を進める。踏み抜けば最後、命はない。目指すは七階、宴食会場の大広間。

一階、もう一階と上りながら男は汗ばみ始め、夜のどぎつい寒さが男の体を蝕みだす。

手に食い込むビニールと重い荷物にかじかむ両手が感覚を失くしていく。

男はされど諦めなかった。

彼はどれほど、そうやって自分の手から機会を滑らせていたかを知っていた。

軋む足と疲労感、かじかむ手と凍えた空気。男は既に限界に近かった。

何分経ったろうか。

やっとの思いで男は大広間にたどり着く。

ぜえぜえと病人のような息切れにのどを乾かせるが、それを構うことなしに男は大広間を見据える。広間の端から壁が崩れ落ちた大広間には、映える月明かりに照らされた真鍮の鍋が男の目に映った。

中央に置かれ、輝くそれに男は心を震わせる。

彼は間違ってなどはおらず、最後の期待は現実のものになった。


鍋。鍋。鍋があれば何ができる。

外と直に接して渓谷を見下ろす、崩れた廃墟の中、男は最後の力を振り絞り、「それ」に取り掛かった。

鍋の近くの凹みにコンロを取り付け、震えた手でマッチを擦る。

何度目かの挑戦でようやく灯がともる。

それはこの寒さでは焼け石に水だったが、彼の人生の幕を飾るには十分な火であった。

囲むように暖を取りながら、瀕死とも思えぬような手際で準備していく。

埃まみれの鍋を自らの布でふき取り、ペットボトルの水を灌ぐ。

ビニールから肉と野菜をとり、そばにあった錆びたナイフを突き立て、牛肉を鍋へと放る。

野菜を引き千切るように切り、白菜、エノキ、椎茸、人参、諸々を放り込む。

木綿豆腐を開け、その水で、そばにあった欠けた食器を洗い。

手に載せてから、落ちたガラスで四つに分ける。

男の思う以上にそれらは冷たく、震えて形が崩れていく中、何とかそれをこなしていく。

ビニールから割りばしと鍋の素を取り出し、それを注いで。

透明色に肉と野菜がぶくぶくとうなるだけの物が、素で一気に赤く染まり、ピリッとした芳香を辺りに漂わせ始めた。男の体は疲労で泣いていたが、迫る空腹と目の前に出来つつあるキムチ鍋に心は高ぶり、腹が鳴る。


これが僅かばかりの路銀で為せる最上の至福そのものなのだ。

割りばしでうまくかき混ぜ、ぐつぐつと煮えていくそれに忘れていた食欲が疼きだした。

沸騰寸前でコンロを消して、それを前に手と手を合わせる。

彼は己の人生に感謝などは出来なかったが、ただ、その鍋には手を合わせる義理がある。

暗い廃墟、凍えた寒空の下で湯気を昇らせながら泡立つキムチ鍋に男は全霊を以って、全ての食に感謝をささげた。

凍り付いた口に、喉元まで唸らせた食欲をその一言にただ捧げる。


「いただきます」

寒々の大広間、そこに彼の一世一代の感謝が鳴った。

その言葉の後には、迷いはなく堰を切ったかのように、憑りつかれたかのように、鍋を前に昂った。

欠けた食器を鍋に浸し、具ごとそこに入れて箸で掻き込む。

肉を舌で転がし、うまみを喉で感じる。

白菜を肉で巻き、エノキをはつはつと、食感に身悶える。

豆腐の熱さが口に染みるが、汁を飲み込み流し込む。

美味い、美味い。ただ、うまい。

確かな辛味は冷えた体に熱を与えて、かつての日々の温もりが思いこされる。

男はいつの間にか汚れた頬に涙が伝う。視界がぼやけて、映るキムチ鍋さえがぼやけだす。

至福は気づけば半分ほどになっていた。鍋の具材がどんどんと減っていく。

噛みしめる。忘れぬように。

死が近づくにつれて、鍋には輝く底が見え始めてしまっていた。

温まり、気づけば服すら脱ぎ捨て、腹に収めていく幸せがあっという間に遠くなっていく。

男のぼやけた眼には、彼の人生のあらゆる事が過ぎ去っては消えていく。

僅かになった肉と豆腐に名残惜しさを感じ、男は不意に箸を止めた。

鍋が冷えるのは知っていても、このままなら自分には永久の幸福があるのではないかと、男は一人考えてしまう。

ここにいるだけで、ただ己のこの時ばかりは、幸せであれる。こんなザマでも。

卑怯者じゃないか、きっと永遠にこの一時が続けば、自分は。

走馬灯が彼の人生を取り巻く全てを鍋にうつしていた。

鍋に映るのは醜い浮浪者ただ一人。

だからこそ、そうではないんだ。

幸せなど、幸福など、腹いっぱいに愉しむべきだった。

後先など、考えなくていい、やりたいように愉しめば、それでいい。

そうする事に鍋を食らう意義がある。

拙い頭でも、それが限りあるならば、温かい内に掻っ込むのが最善なのだ。

肉と豆腐を口に放り、男は痩せこけた体で、腹を括る。

素腕で涙を脱ぎ取り、細い腕で鍋を持つ。

ほのかに熱いそれを慎重に持ち上げ口につけた。

流しこむ怒涛の汁。辛旨い赤い汁が口に、顔に流れ込む。

味という味で一杯になった、底を一気に屠る。

口の中にそれ以上のものが、心に震える何かが、滝のように流し込まれる。

幸せの味。ほかならぬ至福の時。

この一時ばかりは、どんな成功者も、果報者も届かぬほどに、彼は世界で最も幸福な人間であれた。

やがて口に追い付かず、脇から流れた汁が下へと落ちていく。

だがもう、男はそんな些末なことは気にもしなかった。


空になった鍋と、仄かに残る香りの残滓、男は一人静かに寝落ちていた。

満杯になった腹と飲み干した汁に、男は確かなものを見たのだろう。

食らう最中に見た、走馬灯も、飲む汁もすべてが彼の幕引きだった。

熱も冷め、近づく寒さが男一人の命を消しとる夜更け。

男の顔には死人と思えぬほどの幸福の笑みがあった。

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