花の器

小林犬郎

花の器

 私が死に場所に選んだ高層ビルには、先客がいた。最期くらいは壮大な景色の中で何もかもを見下して死んでやりたかった。そう思ってここを選んだのだけれど、彼女はどうなんだろう。せめてそれを知りたくて、彼女の最期の話し相手に立候補した。私が屋上にたどり着いたとき、彼女は既に靴を脱いで縁に佇んでいた。


「あなたはなぜここを選んだのですか」

「どうせ死ぬのなら、最期に空を飛んでみたかったのです。幸せに生きて幸せに死んでいく人間にはできない経験ですから」

「幸せかどうかが大切なのですか」

「不幸せかどうかの方が大切かも知れません」

「不幸せとは何でしょうか」

「それをお伝えするには、私の歳とおなじだけの時間が掛かってしまいます。あなたはどうなのですか」

「そこまでは掛かりませんが、あなたのお邪魔になってしまいます。あの世に持って行くには面白くない話です」

「そうですか。もう行ってもいいですか」

「私に止める権利なんてはじめからありません。私も死のうとしているのですから」

「それもそうでしたね。では最期にお手本をみせてあげますから、参考にして下さい。さようなら」


 そう言って彼女は空中に倒れていった。私もそれに続こうと、彼女に倣って靴を脱ぎ縁に立った。とても高いビルのさらに一番高いところからも、彼女だった赤黒い点は見えた。結局彼女は空を飛べずに死んだ。アスファルトに這いつくばって潰れた。最期にと選んだ景色は地面の色に上書きされてしまう。死体を見下しながら、幸せな人間は歩き去って行く。私が望むことは死んでも手に入らないということを悟ると、涙があふれた。私からこぼれた涙が一滴、ビルからもこぼれた。


 私は彼女が履いていたスニーカーを抱きかかえて、階段を駆け下りた。精一杯走ったけれど、彼女のお手本と比べると地上に着くまで何倍も時間がかかった。土が欲しくてたまらなかった。土を求めて彷徨う内に、公園を見つけた。茂みに入っていつかの雨で硬まった土を手で掬い、彼女を失って空っぽになったスニーカーが満ちるまで注いだ。その結果、公園には小さな穴ができた。それから電灯の根元に咲くタンポポから綿毛を一粒失敬して、スニーカーに埋めた。土をこぼさないことだけを考えながら再び高層ビルを登り、彼女が残したのと同じ場所に直した。


 それから私は毎日ビルを昇り、スニーカーに水を垂らしてやった。雨の日も風の日も私は欠かさずビルを昇った。彼女のスニーカーも欠かさずそこにいてくれたからだ。


 いずれスニーカーからは芽が出た。柔らかく小さい、弱い緑。それでも確かにそこにあった。私はスニーカーに水を垂らして下っていった。


 いずれスニーカーからは葉が生えた。スニーカーを包みこむほど大きく広げた緑。それは決意とともにそこにあった。私はスニーカーに水を垂らして下っていった。


 いずれスニーカーからは茎が立った。瑞々しさを湛えながら空に伸ばした緑。それは力強くそこにあった。私はスニーカーに水を垂らして下っていった。


 いずれスニーカーは花を咲かせた。ありったけの美しさを託された小さな黄色。それは儚げにそこにあった。私はスニーカーに水を垂らして下っていった。


 そして花は白い綿毛に変わった。私が肌に感じたかすかな風で、綿毛は散っていった。よほど空を飛びたかったんだね。遥か遠くの中空へと旅だったぼんやりと優しい白。いずれ見えなくなったけれど、どこかにある。私はゆっくりと階段を下っていった。

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花の器 小林犬郎 @tkomori

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