エピローグ

 朝起こしに来てくれる、近所に住んでいて自分に好意を持っている可愛い女の子、というものに対する憧れがないかと言われれば、お兄ちゃん大好き系の妹に対する憧れと同じくらい、下手をすればそれ以上にはある、と答えざるを得ない。


 いや、正直な話年頃の日本人高校生男子ならある程度誰でも抱いた事のある欲望だと思うのだ。昔話の類をあされば大変良く分かるのだが、どうも大和の男というのは得てして幼女と雪女と通い妻が好きなのである。

 何が彼らをそこまで駆り立てるのかは知らないが、性別不詳の神としてしられる月の神、ツクヨミノミコトには幼女説が平安時代から存在するという。よほどのものだ。

 まぁ現代においては、そういう情報錯綜は日本神話の元となった異端世界に接続した、平安時代当時の《異端者》が幼い少女であったのだろう、というのが定説なわけだが……いやそういう話ではなく。


 ともかく、有司も欲望に忠実なようなそうでもないような年頃のオトコノコとしてその辺への憧憬というかなんというかは一定数ある。幼女に関しては妹があれなのでどうにもコメントしがたいところではあるのだが、雪女と通い妻というものへの思慕は確かにあった。普段は隠している性的嗜好せいへきであるが、同志たちと集まれば何かしら語れる自信がある。


 では、その両方を同時に満たす人物が、目を覚ましたら自分の腹の上に乗ってもじもじしていた場合。

 一体三橋有司は、どのようにコメントをすればよいのだろうか?


「……何してるんだ?」


 その結果がこれである。完全に想定外過ぎて反応が鈍っていたのだろう。随分冷静な声が出たと自分でも思う。


「……何してるんでしょうね」


 返答の方も想定外であった。まさか頬を朱色に染めたまま、彼女がそのまま身を屈めてくるとは一体どうすれば想像できるだろうか。

 無理である。待ち合わせ場所の扉を開けたら中で銀髪美少女が着替えていることを予測するくらいには無理である。


 その当の銀髪美少女は、初対面の時の服装を思わせる黒の下着姿でしなだれかかってくる。そのスタイルで十五歳は無理でしょ、と大昔のスラングを口にしてしまいそうになるほどに量感のある双丘が、有司の胸板との間でもにゅんと形を変えた。

 これはいけない。柔らかすぎる。舞花の関東平野並に平らかな胸を押し当てられたところで何か思うでもないが、これはちょっと色々と、主に下の方が耐えがたい。お相手が霜使いだけに。


 というか雪女とは言ったが、その体温のなんと高いことか。人肌恋しさとかそういうのを全部埋めてくれそうなこのフィット感は何なのだろうか。こいつ実は俺の運命の女とかそういうサムシングなのでは――などと世迷言を脳裏で紡いでしまうばかり。

 そんなことをしているうちに、氷菓の青い瞳と小さな鼻が、文字通り目と鼻の先に。


「いやいやいやいやいや時凍どうしたんだ一体マジで。お前そんな人間キャラじゃなかっただろ! むしろそういうの忌避してツッコミを入れてくれるような奴だっただろ!」


 がばっ、と勢いよく上半身を起こし、氷菓の身体を押しのける。舞花の場合ように抵抗されはしなかったが、むしろ軽すぎてこちらが怖くなるほどだ。あと細い肩なのに異常に柔らかい。一体全体女の子の身体とはどうなっているのだろうか。


 氷菓はそのまま数秒ほど呆然と中空を見つめると、ふいに頬を赤らめてこちらの顔をうかがってくる。なんだその表情は? なぜ恥ずかしそうに少し体の向く方向をずらす?


「……突っ込んで、くれるんですか? その……私の、恥ずかしいところに……先輩の、下半身の、その……」

「え」


 ぴしり、と空気が凍結する。いや錯覚だ。単純に有司の全身が金縛りにあったかのように動かせなくなってしまっただけだ。


「お前、それはどういう」


 その反応を拒絶と受け取ったのか。氷菓は悲しそうに視線を落として、沈んだ声で問う。暗い表情が心を締め付けてきて、下手をすればなんでも言うことを聞いてしまいそうだ。


「それとも私では駄目ですか? 魅力がないのでしょうか? 確かに先輩には舞花ちゃんがいますし、彼女と比べれば私は随分下品な体つきを……」

「待て待て待て!! 」


 もみゅもみゅと黒いブラジャーの奥の果実を寄せてみせる銀髪の契約者に、有司は大慌てでその行動を止めさせる。あまりにも目の毒だ。煽情的過ぎて鼻血が出る。

 そもそもこの少女は自身の容姿の破壊力についていまいち理解していないのではなかろうか。健全な男子高校生としては、このまま欲望に身を任せてしまっても恐らく後悔はしないだろう。そう思えるだけの魅惑的な肢体を持っているのだ、彼女は。


「本当にどうしたんだ時凍。お前ついこないだまで俺と舞花がこういう会話してるの見て『不潔です』とか『いやらしい』とか言ってただろ」

「それは……そうですし、今でもそう思うんですけど……」

「じゃぁなんでお前が率先してやってんだよ。矛盾しすぎだろ。楚の国の人もびっくりだぞ」


 氷菓は困惑の表情を浮かべる有司から目を逸らすと、もじもじと落ち着かない様子。


「その、最近ようやく、舞花ちゃんの行動が理解できるようになってきたと言いますか」

「そんなもん理解せんでいいわ馬鹿。さっさと忘れろ!」

「でもっ」


 顔を上げた氷菓の、あまりにも真に迫った表情に、有司は危うく喉を詰まらせか

けた。


 上気した頬は桜のごとし。潤む瞳は雪解けの水。氷を操る冬の娘たる彼女の印象は、きっと時凍氷菓を語るための全てではないのだ。彼女は雪の精霊であると同時に、春の訪れを告げる運命の女神──。


「我慢できないんです……っ! 先輩の近くにいると、お腹の奥深くの方がむずむずしてきて、もっと先輩と近づきたい、もっと先輩と繋がりたい、って……!」

「……っ!」


 瞬間、有司は全てのトリックを理解した。目が覚めたような気分である。


 この状況、間違いなく正統世界の理論で説明できるものではないだろう。

 そもそも、いくら《第三最大異端》に憧れ異端騎士を目指し、今や運命共同体となった契約者とは言え、氷菓は本来かなり貞操観念においてお堅い性格のはずだ。下着姿を見た相手を、問答無用で処刑しようとするくらいには。


 それがこうも獣欲方面の衝動に突っ走るとは。どう考えても普通であるわけがない。


「舞花が封印解除のたびにおかしくなったのはそういうことか……!」


 有司はにわかに頭痛を覚え、思わず額に手をやり呻く。衝動的に前髪を弄りながら、有司は氷菓に忠告する。これは由々しき事態だ。


「手遅れになる前に目を覚ませ時凍。そりゃ《百装無神》の副作用だ。畜生、舞花以外に自律思考する異端生命取り込んでないから全然気が付かなかった。まさか比喩でもなんでもなくマジもんの隷属効果がくっついていやがるとは……!」


 よく考えれば当然である。《百装無神》は本来主を持たないはずの、いわば『はぐれ』に分類される《異法》や異端兵装を、自分の傘下として再定義し、従える力なのだ。そんなものに取り込まれた時点で、異端生命という意識ある存在が、その在り方に変調をきたさないわけがない。


 できることなら、舞花も氷菓も、そんな呪縛には強く抗いながら生きてほしいところなのだが。


「嫌です」

「え」


 氷菓の返答は、またもや有司を凍り付かせてしまうのだった。


「私に目を覚まさせないでください、先輩。十二時の鐘なんて鳴らさないで。ずっと私を、夢見る灰被り姫サンドリヨンのままでいさせて――」


 歌う様に、彼女は有司に身を寄せる。


「それで、私のこと……先輩の見させる夢で滅茶苦茶にしてください」


 果たして彼女は、自分の言葉の意味を理解しているのだろうか。無意識にそれらの言葉を選び取っているというのなら、きっと時凍氷菓は生まれながらの魔性だ。いっそそういう方向性の《異法》を持って生まれたと言われた方が納得のいく話だ。


「はしたないですよね、出会ってからまだそんなに経っていないのに……でも、でも私、この感情が抑えきれなくて……」


 所作の一つ一つが愛らしい。俯いた彼女の、悩まし気に唇をかむ姿も、きゅ、と胸元で組み合わされた細い手も。何もかもが、この雪の妖精を引き立てる舞台装置になっていた。

 真剣な表情で近づいて来る彼女に、有司は思わず気圧されてしまう。


 氷菓との距離が、限りなくゼロに近くなる。唇の筋や睫毛の一本一本、彼女の虹彩までもがはっきりと分かる様な位置に、恐ろしいほど美しい、時凍氷菓の顔がある。

 シミ一つない、処女雪のような白い肌が、有司に蹂躙してくれと訴えかけてくる。

 寄せられた眉根は、それが思い込みや一時の病などではなく、本当の本当、本心からくる本物の想いなのだと、如実に物語っていて。


「教えてください、先輩。この気持ちの名前は、なんというのですか……」

「とき、とう――」


 妹のそれとは違う、甘く欲情した乙女の香りに導かれるがごとく、有司は氷菓の細くも豊満な体をそっと抱き締める。存外に熱いその腰に指が触れると、彼女の口から、あ、と驚くほど色っぽい声が漏れる。畜生抗えない。もう限界だ。


 甘い吐息を吐き出し半開きになる氷菓の口。その潤んだ唇に、有司が己の唇を――





 ――重ねる直前で、バキグシャドガァ、と、ドアの方からあまりにもひどい音がした。

 弾かれた様にそちらを見れば、金具があり得ない形状にひしゃげているではないか。

扉そのものにも異様な罅が入っている。異端世界ならともかく、正統世界の物理法則的に意味不明な方向に奔る亀裂のせいで、有司の背筋を冷たい汗が流れ落ちる。


 その隙間から、ホラー映画もかくやというおどろおどろしい光を湛えた、舞花の金色の瞳が見え隠れしていた。いっそ血走ってすらいるように思う。そこいらのB級映画の三百倍は怖い。間違いない。


「氷菓が兄様を起こしに行くのを見て、たまにはいいかなと放っておいたら、これは一体どういう状況……? やっぱり堕肉は堕肉だった。見た目に違わぬ色情魔ぶり」


 めきぃ、とまたひどい音がする。舞花の小さな指が、そのどこから出るのか最早想像もつかない圧倒的なパワーで扉に新たな罅を入れていた。ああこれは買い替えだな、学生寮の備品なのに……などと内心で頭を抱える。

 いや、そんなことを気にしている場合ではなかった。燃え上がる舞花の憤怒は、憎むべき堕肉だけではなく有司にまで向けられている。ひぇっ。


「兄様も兄様でどうして抗わないの。私のときにはあんなに全力で嫌がったのに……」

「い、いや、これはだな……」


 わたわたと言い訳を探すが、中々見つからない。これはまた面倒な癇癪でも起こされるか、と、とっさに身構えてしまう。朝から大喧嘩は二度と御免である。

 ところが当の舞花と言えば、ふっと涼しい顔に戻ると、胸元をまさぐりなにかを取り出す。


「……いい。私には兄様からもらったこれがある。氷菓はその分だけ私の方が先を行っていると思うと良い」


 それは先日のショッピングで購入した、銀の縁取りのネックレスであった。あの乱闘の最中、結局家具類は全滅してしまったわけだが、そもそもの話舞花が持っていたこれだけは無事だったのだ。

 ペンダント部分に嵌まった宝石は、光を通すと舞花の瞳と同じ明星色の光沢を帯びる。何という名前なのかは知らないが、舞花には大層よく似合う代物だった。

 目の保養にもなるし、妹の精神安定にも役立つ。うん、家財を結局買えなかったことも含めてお財布には大打撃だったが、結果的には十分元は取れたと言えよう。


 そんなことを思いながら有司が胸を撫でおろしていると、とてとてと部屋を出ていきかけた舞花が、くるり、と振り向き告げてくる。


「……兄様、そろそろ起きないと、学校遅れちゃうよ」

「……学校?」

「あ……」


 その言葉に、ぽかん、と口を開けて。


「そうでした。それを言いに来たんでしたね」


 時凍氷菓は、先ほどまでとは別種の感情に頬を染めて、はにかんだ。

 この本末転倒感というかなんというか、以前の氷菓からは感じられなかったドジな側面は、有司との契約のせいなのだろうか。それとも、こちらの方が氷菓にとっての素なのだろうか。何にせよ、それを確かめるだけの知識を、今の有司は持っていない。


「これからも、よろしくお願いしますね、『先輩』」


 そんなのだから、紡がれた言葉の意味が、一瞬理解できなくて。


「……は?」


 有司は、間抜けな疑問符を浮かべてしまうのだった。


 ***


 円形闘技場とショッピングモール……即ち《騎士狩り》がその力を振るった場所では、今でも復旧作業が進む。

 トレイズ・モールトンの身柄は、異端騎士で構築された《特区》の警察機関に引き渡された後、世界中の異法犯罪者を取り締まる役割も担う《第二最大異端》の審判を待つらしい。事件後、一度面会に行ったが、随分安らかな顔をしていた。あの様子なら、鬼の断罪者も悪いようには処遇するまい。


 結果として有司と舞花が新出雲市に停留する理由は、一応なくなった、と言ってよかったのだが――結局二人は、今も私立神無月学園の学生寮に住んでいるし、これから三年間もきっとそうだろう。


 何故かと言えば、その答えはここ、神無月学園理事長室にある。執務机の上に置かれているのは、出した覚えもない編入申請書と、でかでかと押された承認印。

 言うまでもなく、三橋有司と三橋舞花を、神無月学園の生徒として編入する、という内容のモノだった。何の相談も受けていないのに。何の相談も受けていないのに!


「こんのクソ姉貴! これは一体どういうことだ!!」

「どういうことも何も見たまんまよ。氷菓ちゃんが有司のモノになっちゃった以上離すわけにはいかないし……何より、目の届くところにいた方が私も安心だし?」

「畜生こいつ最高戦力を管理する気満々だ」


 悪戯っぽい色を込めつつにこにこ笑う三橋美有の姿に辟易しながら、有司は大きくため息をついた。この姉に良識とかそういうのを期待した自分が馬鹿だった。繰り返しとなるがこいつと同じ策謀家の血が自分に混じっていることに心底辟易する。


「いいじゃない別に。有司にも悪い話じゃないはずよ。色々安定するはずだしね」

「そりゃぁ、そうだけどさ……」


 はぁ、ともう一度ため息をつくと、有司は新しい一張羅に視線を落とす。

 氷菓が普段着ているものとよく似たデザインの、ダークグレーの縁取りが施された白いブレザージャケット。胸ポケットに刻まれた校章は神無月学園のもので間違いない。

 繊維状に加工されたハイ・カーボンを編んだというこの制服は、異端騎士の装備としても一級の品物だ。校舎を構成する最上級ハイ・カーボンといい、この学校は色々と金をかけ過ぎではなかろうか。まぁ困っているわけでは現状ないからまだマシだとは思うが……。


 隣でオレンジジュースをすする舞花も同じ服装だ。こちらは艶やかな黒髪との対比でよく似合う。自分の方は微妙に似合っていない分少々腹立たしい。やっぱり長い前髪が不健康そうに見えるからだろうか、などと思いつつ、その前髪をいじる有司。


「……それにしても」

「……何ですか、その視線は……」

「ううん、なんでもなーい」


 反応の悪い弟に暇を持て余したのだろうか。美有が黒い瞳で、有司の隣、舞花とは反対サイドに座る氷菓に目をやった。

 彼女はと言えば、有司がソファに腰を下ろしてからこっち、ずっと腕を絡めてきては胸元を二の腕に押し当ててくる。この積極性は、冷静な彼女の一体何処に潜んでいたのだろうか? それともこれもまた、《百装無神》の影響なのだろうか?


 まぁ順当に考えれば後者なのだが、それはさておき朝の記憶がフラッシュバックして大分マズい。何のチキンレースを仕掛けられているのだろうかと不思議に思うほどだ。


「ねぇ有司、随分距離が近くなったけど、いつの間に手を出したの? お姉ちゃんちょっと心配してたくらいなんだけど、あなたもやっぱり男の子ね。安心したわ。私も手籠めにされたいわぁ」

「馬鹿、そういうんじゃねぇよ!」

「その通り。兄様に手籠めにされるのは私の方が先」

「そういう話でもねぇ?」


 声を荒げる有司。その様子に、隣の氷菓が可愛らしく噴き出した。


「……なんだよ」

「いいえ。楽しいな、と思って」

「……そうか。なら、お前の選んだ未来が正解だったってことだろうよ」

「先輩に手籠めにされたら、もっと楽しい未来を見せてくれますか?」

「だからそういう話じゃねぇっつってんだろ!!」

「その通り。兄様が手籠めにするのは私。貧乳派の兄様が堕肉に手を出すことなどあり得ない」

「なんでそうなるんだよ!!」


 再三叫ぶ。まったくこいつらの倫理観はどうなっているのだろうか。

だけれど、不思議と悪い気はしなかった。口角が自然に上がるのを止められない。

それはきっと、今という未来が《第三最大異端》にとっての正統だからなのだと思う。


 先のことはまだわからない。けれども選んでいければいいと思う。そう思える未来を、これからも、ずっと。

正統と異端を分ける選択の時は、きっとまた、すぐそこまで迫っているのだろうから。


 これは少年が、あの《戦争》で勝利してから、六年と少しあとの話。

 最大異端が選び取った、正統なる未来の物語。

 新たに定まった、確定事項である。ご理解、いただけただろうか?



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百装無神の最大異端<オーヴァーロード> 八代明日華 @saidanMminsyuu

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