後
まだ夕方でよかった。そう思わざるをえなかった。これで日が落ちていたら、わたしはこの得体のしれない山の中を一生さまようことになっていただろう。まあ、日の光があっても目的地がないことに変わりはないが。
「
しばらく黙々とついてきていた
来るわけねーじゃん。初めてだわこんな山の中。
「何? 帰りたければ帰れば? わたし一人でいくから」
「いや、行くけど……女子ふたりでこんな山道登ってたの?」
口から出まかせに思い出の場所なんて言ったはいいもののどこに行っていいのかわからず、本当に
とにかく先ほどの葬儀場には戻らないように、それだけに気をつけて山を登っていると、あら不思議。いつの間にか道なき道をかき分けて進む、過酷な登山となってしまっていた。
ヘビ的な生き物に遭遇しないことを祈りながら、目の前の屈強な草木をかき分けることだけに集中して進む。
「ふたりだけでここに来るのは危ないよ」
「うるさいな」
なんっなんだこいつは。もう二度と来ないんだからいいだろ。つーかだから来たことねえわ、信じるなよこんなあからさまな嘘。
いい加減適当なところで「はいここです」なんて雑な嘘でもついてやろうかと思ったとき、足元がずるりとすべった。さすが山奥。カンカン照りなのも関係なく地面がぬかるんでいる。
「わっ」
地味なうめき声をあげて倒れかけたが、後ろについていた金魚のフンがすかさず腕を伸ばして体を支えた。
「大丈夫?」
「……大丈夫です」
やはりでかい。思わず敬語で返したのが少し恥ずかしくなったが、そんなわたしの様子はまったく気にも留めない昔懐かしいぼんやりした顔は、ふうと安どの息をついた。
何を気にしているのか、そのままキョロキョロとあたりを見回している。
「……なに」
離せよ腕を。
「いや……、あ」
何かを見つけた竜也が、少し先のほうを指さす。残念ながら周囲の木々が邪魔をして、そこに何があるのかはまったく見えない。
「あっち行こう」
「は? なんで。わたしはあっちに行きたいんですけど」
別に行きたいわけでもないが反対方向を指さした。
「うん、あとでね」
「いやだから、道あっちなんだってば」
「急がなくてもいいじゃん。休憩できそうなところあるから、こっち」
「いてててっ」
おい、もっと優しく引っ張れよ。こちとらいま滑ったばっかりなんだぞ。
うめき声も空しく、犬のさんぽ道の軌道修正かのごとくなかば引きずられるようにして道を先導される。――いっけん柔和に見えて、再開したときから一貫して強引続きなこの男は、こちらを気遣う様子がまったくない。
本当にはた迷惑なやつだ、さてどんな罵詈雑言をあびせてやろうかと考えていたときだった。とつぜん視界が開けた。ずっと肌をちくちく擦っていた草木の感触が一気になくなる。
広場とはいかないまでも、そこはずいぶんと開けていた。本当に休憩用スペースなのかもしれない。まるで誰かが親切に用意していてくれたかのように、大きめのちょうどいい岩がどっしりと鎮座していた。どうやら背の高いこいつにはこの岩が見えていたようだ。
腕から手を放した
「あ、ちょうどいいのがある」
そう言って腰をおろしたのは、だいぶ泥ででろでろの、大木の根っこ的な部分だ。……ちょうどいいか? それ。ケツべちょべちょだろ。
まあ気にする義理もないので、わたしもイスに腰かけることにした。いったんあたりを見回してみる。
「あー、ほんとだ、ちょうどいいのがあるわ」
適当に枯れ木を足で蹴り集めた。何本か折り重なったところで、その上に座る。
……いてえ。当たり前だが痛い。刺さる。
だいぶ傾いてきた陽の光があたって、葉っぱがきらきらと輝いている。地面にうつる影も、まるでひとつの作品みたいにきれいに揺らめいていた。田舎をとおりこしていよいよ原始的になってきたな。
それにしても、さきほどまでの蒸し暑さと一転、山の中はさすがに涼しい。空気がおいしいとはこのことか? 竜也にばれないように、鼻から深呼吸をこころみた。
「くるのは何年ぶりなの?」
「……」
おいおいまだ信じてんのかよその設定。純真無垢だな。
「10年ぶり」
「ってことは……中学生のとき?」
「そうだね」
知らん。計算早いね。
「どうやってこんなところまで来たの。家から遠いよ」
「歩いた」
「え、そーなの?」
とても驚いた様子だ。やはり根本的に人を疑うという機能が備わっていないらしい。
「大変だったでしょ」
「まあね」
「何回くらいきたの」
「覚えてない」
「どうしてきたの」
「忘れた」
「ふうん」
そういうもんか、と納得したように竜也が言った。いや。そういうもんではない。
「あんたの話よくしてたよ」
「俺の話?」
「そ。食べこぼしが多いって。ボーっとしてて可愛いって」
「それすごい昔の話じゃない?」
「そーだね」
竜也が小学生に上がりたてのころの話だから、相当前だ。そのときわたしはすでに人生のほとんどがうまくいっていなかった。その数年後から、
まいにち夕飯をせしめに行ってたってのにあの両親、本当に嫌な顔ひとつしなかったな。おじさんなんて宿題手伝ってくれたよ。笑えるわ。
「わたしと一緒にいるときは、家族の話してることが多かった。基本的にあんたのことだったかな」
ほかに共通の話題なんてなかった。友達もいない、趣味も特にない、そりゃ話題にも困るわけだ。普通にしてたら話すきっかけすらない。
それでも、
「そんで、わたしはこいつすげー奴だなって思ったよ」
那智は、みんなから好かれていた。
「だってさ、考えてみ? わたしが家族とうまくいってないの知ってんだよ? 邪魔者扱いされて、いろいろされて。学校に行っても似たようなもんなのに、自分がどんだけ幸せかって話を毎日まいにち聞かせてくんの。ね、すげー奴でしょ? バカじゃね?」
お父さんがおもしろい、お母さんが優しい、弟がかわいい、どこそこに遊びに行った、この間の連休は旅行にも行った。
金もやさしさも有り余ってる家庭で育った、まるで本のなかの女の子の話を聞いているようだった。
「あいつ、わたしがいじめられてんのも知ってたんだよ? それでも話しかけてくんの」
今でも鮮明に覚えている。季節は夏だ。
ベランダの水道で手を洗っていたら、カギがかけられていた。
みんなの楽しそうな笑い声が聞こえる。……何を話しているんだろう。わからない。窓の外からは誰とも目が合わなかったのに、全員がこっちを見ているような気もした。
ふつうに話してるだけかもしれない。コンコンってすれば誰かが開けてくれるかもしれない。もしかして、たまたま気がつかなくて、間違って閉めちゃっただけなのかもしれない。
そう。きっとそうだ。移動教室のときでさえ戸締りを忘れるこいつらが、わたしだけがベランダに出ているときに限って、意味もなくたまたまカギをかけてしまって、しかもそのことにだれも気がつかない。きっとそれだけだ。うつむきながらそう考えた。わたしの足は、その日の朝から上履きを履いていなかった。
そんなとき、カギが開いたのだ。ちょっとー、しまってんじゃーん、だれー? とか言いながら。だれも開けられなかったカギを、開けてくれた。
みんなの人気者で雲の上みたいな存在だった那智はわたしと目を合わせて、ごめんね、となんでもなさそうな笑顔で言った。
あのとき、わたしはどれほど、どれほど彼女に感謝したか。
「まいにち、ずーっと話しかけてきてさ。じゃあさ、あのさあ、なんで、なんで止めてくれないんだよ。人気者じゃん。人望もあるじゃん。なんで、あーゆーの止めてくれないの? どういうつもりで話しかけてくんの?」
「……静子姉ちゃんは……」
黙って聞いていた竜也が急にしゃべった。
そうか、こいつ反応するんだった。サンドバックか何かと勘違いしてたわ。
「……静子姉ちゃんは、那智のこと恨んでる?」
どろりと重たい頭を上げると、少しだけ離れたところに、あの那智の弟の姿が見える。那智のことは呼び捨てにするくせに、わたしのことは姉ちゃんなんて呼んで、慕ってるふうに接してきた小学生の男の子。
たぶん本当に慕ってたんだろう。こいつに裏表なんかない。だって、誰かに嫌われるんじゃないかとビクビク会話をすることがなければ、嘘をつく必要もないんだから。
口を開こうとすると、ふと気になるものが目にはいった。竜也の背後だ。木々の奥。いっそう陽の光が強い気がする。
なにかに目を奪われているのに気がついた竜也が、のろりと後ろを振り返った。
「夕日だ」
「……そだね」
「これ、もしかして、こっち行くとよく見えるんじゃない?」
おもむろに立ち上がると、光のほうの草木をかきわけて進みだした。おいおいわたしをおいてく気かよ。やめてくれこんな山の中で。
遭難を回避するためにいやおうなしに後についていくことになったが、なんのことはない。そこまで時間はかからなかった。4、5歩進んだところで、わたしは目の前の景色に言葉を失った。
「……すごい」
「……」
圧巻だった。視界が開け、おおきくてまん丸な、朱い夕日が目の前にあった。
眼下を見下ろすと、恐ろしいほど田舎じみたふるさとの街並みが見える。遠くには駅も見えた。いやあそこまで歩くんかい。
その景色に誘われるように歩みを進めてはじめて、がけっぷちにちゃんと柵があることに気がついた。腐りかけの木製のものだ。しかしこうなってくるともはや腐った木でさえアジに見えてくるから不思議だな。
「よく見えるね。あ、あそこ学校だ。えー、こんなところからでも見えるんだ。もっと遠いと思ってた」
「……」
「これ、家も見えそうだね。たぶんあのへんかな……あー、市役所が邪魔だなあ」
「……」
「静子姉ちゃんの家はどっちだっけ? 思ったより高いよ、ここから見えるんじゃ……」
「ここ」
急に饒舌になったこいつにずっとしゃべらせておけばよかったのに、口が勝手に動いてしまった。なぜだろう。きょとんと竜也が振り向いた。
「ここ、思い出の場所」
「え、そうなの?」
「そうなの」
そう。ここが、わたしと那智の思い出の場所だ。一度も来たことのない、存在も知らなかった、この場所が。
「思い出した。10年前にきた。ちょっと遠くに遊びにいこってなってさ、那智が勝手に山のなかに入ってったの。わたしはやめよって言ったんだけど、しょうがないから、そのままついてった。そしたらここに出た。それで、那智はこっからいろんなところ指さしたんだよ。いまのあんたみたいにさ。こっちがどうだ、あっちがどうだって言って、たしかその辺にふたりで立って。そしたらさ、那智がこう言うんだ。ちっちゃいなって。遠くまできたつもりだけど、遠くに逃げたつもりだけど、でもやっぱり学校も家も、いつでもすぐそばにあるんだよ。どこまで逃げても、わたしはいつまでも、このちっちゃい、どうしようもない、くだらない町の中でずっと生きてるんだよ」
おかしい。泣いていた。高校を卒業して地元を出てから、泣いたことなんて一度もなかったのに。悲しいことつらいことなんて、むかしに比べたら全然ないはずなのに。
「うん」
相当ブサイクになっていることを承知で横を見ると、すこしだけ離れて竜也が立っていた。いつもどおりのだらりとした風貌で、てきとうな相づちを打ちながらこっちをじっと見つめている。
「それで……」
それで、なんだろう。
「それで……それで、わたし、わたしほんとは、那智とは違う高校行ってた」
「そっか」
「中学で那智とは縁が切れた、でも、自分の家が嫌で、おうちに戻れなかったから、わたし、学校終わったら毎日那智の家に行って」
「うん」
「学校いっしょだったときも、那智と毎日話してたけど、それはほんとだけど、そんなに仲いいわけじゃなかった。学校より那智の家でのほうがずっともっとしゃべってた、学校なんて那智が暇なときだけの話し相手だった、友達なんかじゃなかった! それなのに、それでも那智はいやな顔ぜんぜんしないで、毎日まいにちわたしをおうちに入れてくれて」
「うん」
「でも高校卒業してから、わたしがここから出て……就職して、一人暮らし、はじめて……そっから、わたし、一回も、那智から連絡なんて、来てない……」
「それから?」
耳慣れない低い声がわたしの鼓膜をゆらした。それから? それから、なんだろう。それから先なんて多分ない。
これがわたしと那智とのぜんぶだ。
「静子姉ちゃん!」
「なに……」
「まって、ちょっと待って!!」
また腕を思いきり引っ張られた。柵を乗り越えようとした体が前につんのめっている。
「なにしてんの!」
「なにって……」
特になにも。
「そっちはだめ、こっち来て」
「なんで?」
「いいから、なんででも、とにかくこっち」
「いいじゃんもう……べつに、だって、もう話すこと何もない……」
「あるよ!」
泣きすぎて酸欠なのか、頭がふらふらしている。ぐらついている体を無理に引っ張ろうとする腕は、先ほどとは比べ物にならない強さだった。
「話すこと、まだあるでしょ!」
「もうないよ。いま言ったのでぜんぶだから」
「嘘だ。だって俺、さっきの答えまだ聞いてない」
さっきの答え? 何の話だ。まったく頭がまわらない。
がらにもなく焦った表情の竜也が、じっとこっちを見ていた。こいつ、那智の話を聞いたとき、いったいどんな顔をしたんだろう。いつもぼーっとしてるけど、やっぱりこいつでも泣いたりなんかしたんだろうか。
「恨んでたの?」
「……」
「静子姉ちゃんは、那智のこと、恨んでた?」
ゆっくり、まるで子供に問いかけるような口調だった。
恨んでいた? わたしが那智を?
最近SNSで見た那智の写真が、ふと思いだされた。こんなときに浮かぶ顔は、ふたりでいたときのものじゃなくて、友達と楽しそうにしているときの笑顔だった。
「……恨んでたよ」
「……」
「恨んでたよ。恨んでるよ。あたりまえじゃん」
ふりほどけるかと思って腕を振ってみたが、すこし動いただけでぜんぜん自由にはなれなかった。竜也の視線が痛い。痛すぎる。耐えられない。
「わたしがいじめられてても、知らんぷりなのが憎かった。移動教室で一緒に移動する人がいなかったとき、そんなときだけわたしに声かけてくるのが憎かった。そーゆーのをぜんぜん悪く思ってなさそうなところも、でも決めたみたいにいちにち一回は絶対話かけてくるところも、なにかあったらなんでもなさそうに助けてくれるところも、ぜんぶぜんぶ憎かった!!」
急にいなくなってしまった姉の話をこんなふうに聞いて、なにが楽しいんだろうか。いや、楽しいはずがない。聞きたいはずもない。なんでわたしにこんなことを言わせるんだ。こんなこと言いたくない。ずっと黙って生きてきたのに。
「一回だけあるよ、あいつに相談したこと。家族の仲が悪いんだって、学校が怖いんだって、もう死にたいって! そしたらあいつなんて言ったと思う!? 一緒にがんばろって言ったんだよ!! わたしだっていやなことあるけど生きてるよ、そんなことで死んじゃうのもったいないよ、辛かったらずっとうちにいればいいじゃん、おとなになったら楽しいこといっぱいあるから、それまでがんばって生きようって! 卒業して働いたら、お金ためて、一緒に、旅行、行こうって……」
高校を卒業して、わたしはすぐに地元を出た。掃除婦になった。べつに給料はよくも悪くもなかったけど、とりあえず貯金をした。
那智は、そのあいだ、友達と遊びまくっていた。大学に進学したんだ。楽しかっただろう。SNSの投稿によると、バイトもしているようだった。バイト先でチャラチャラした彼氏もつくっていた。稼いだお金以上に遊んでいるように見えて、貯金なんて、あいつは絶対にしていなかった。
「バカだよ!! 自殺ってなに!? ちょっと仕事が辛かっただけで!? ちょっと環境が変わっただけで!? なんでそんなことで死ぬんだよ!! わたしのほうが、あんたの何倍も辛かったよ!! なんでお前が死ぬんだよ!! なんで、なんで……なんで死んだの……なんでわたしが生きてるのに、那智が死んでるの……」
どうして教えてくれなかった、連絡のひとつもくれなかった。辛いんだって言ってくれなかった。なんで、どうして。
どうしてわたしは、何度も助けてくれた那智に、この最悪な人生を生きろと言ってくれた那智に、ラインのひとつも送る勇気が出なかったんだ。
「……家族でごはんをするとさ」
まだ緊張しているのか、指には力がこもっているが、幾分か平静をとりもどした調子で竜也が言った。
「よく静子姉ちゃんの話になったよ。元気なのって」
「……」
「母さんたちには、うん元気だよ、よく遊んでるよって、那智言ってたけど」
「……」
「俺があとから聞いたら、ほんとはよく知らないっていうんだ。連絡とってないって。SNSも更新しないから、近況どころか生きてるかどうかさえわからないって。でも、自分からは絶対連絡しない、とか言ってさ。なんでだと思う?」
「……なんで」
竜也は、なんともいえない顔で笑った。
「自分ばっか遊びたいみたいで悔しいから、だって。たまにはそっちから誘って来いよ。いつも受け身ばっかだから、そういうとこがムカつくんだよってさ」
「……ム、ムカつく?」
ムカつく。思わず復唱した。
ムカつくってなんだ。那智がそう言ったのか。あの那智が? 聖人君子で人の悪口なんていっこも言わない、あの那智が? ムカつくって? しかも、仲のよさそうなあいつらにではなく?
「わたしのことを?」
「そう。ぜったい連絡してやらない、って言ってたよ」
「那智がそんなこと言ったの?」
「言った」
「……わたし、ぜったい自分から連絡するタイプじゃないじゃん」
「そうなんだ」
「離れたら余計しづらいに決まってるじゃん」
「そうかもね」
「なんでそんな意地悪なことすんの」
「さあ。まあ、那智も人間だから」
竜也が当たり前のことを言った。
……そっか。その通りだ。
「そうか……そうだね……」
なんだ。どっと体の力が抜けた。
そうか。そうだったのか。言われて、急にいろいろなことが腑に落ちた。
そう。どうしてあいつはいじめを止めなかったのかって、そんなの答えは簡単だ。ビビっていたからだ。止めれば次は自分の番なんじゃないかと、あいつは恐れていたんだ。
そして、わたしはそれを許せなかった。誰からも好かれている聖人君子なおまえが、わたしを見捨てるなよ。天使様だろ。傷ついてでも庇えよ。わたしをちゃんと守れよ。そう思っていた。
だけど、そう、聞いてびっくり、あいつはなんと完璧超人の天使様ではなかったのだ。
なんてことだろう。信じられない。あいつは打算もするしズルもする。嫉妬することだってあるしいじわるな気持ちになったりもする。そして、わたしとも仲良くしたいし、あいつらとも友達でいたい。
――なんのことはない、あいつは自分の感情に素直に行動しただけの、実に人間じみたやつだったのだ。
まったく、アホみたいだ。ただの人間にわたしのこの泥船みたいな人生の救済を求めるなんて、まったくお門違いもはなはだしい話だった。
「ほらね」
「なにが」
「話すこと。たくさんあったでしょ」
すっかりもとの調子の竜也は、ようやくわたしの腕を離した。なぜか若干得意げだ。
その手を見てわたしは仰天する。
「あんたっ、いつのまに……!」
「ん?」
手の中には、ハンカチが握られていた。いったいいつのまにポケットからくすねたのか。
きのう葬式用にあわてて買った地味なハンカチを得意げにヒラヒラさせた竜也は、はじっこをつまんで風に流すようにふんわりと開いた。まるで待ってましたといわんばかりの強い風が一陣吹く。
「あっ……」
あとはもう見守ることしかできなかった。塵のような細かい何かが、風情もなにもなく勢いよく飛んで行く。
わたしは思わず、柵からふたたび身を乗り出した。
「バカッ、なに考えてんの!! 那智が……!」
「いや、たしかに那智はみんなのものだなって。お墓だけに入れるのはよくないかも」
しみじみとした調子で竜也が言った。なんなんだこいつ。最初は全部回収するまで、地の果てまでも追いかけるくらいのテンションだったのに。
「……静子姉ちゃん。来てよ。お墓参り」
そう言いながら、竜也がハンカチから手を離す。風の勢いにいったん乗ったかに見えたハンカチは、すぐに勢いを失ってゆらゆらと崖の下へと向かって落ちていった。
「ここからまだ出られないって、さっき言ってたでしょ。でも、いつかは静子姉ちゃんも抜け出せるからさ。どこか遠くに逃げきれるまでは、那智に会いに来てよ」
まだここから出られない。――その通りだ。
卒業しても、どんなに遠くの町へいっても、学校と家はすぐ後ろにいる。背中のほうから、黙ってじっとわたしのことを見つめているんだ。
わたしは、いつまで学校と一緒に生きていくんだろう。こいつの言うようにどこか遠くへ逃げ出せる日は、はたして訪れるんだろうか。……わからない。きっと自分で考えたってわかるものじゃない。答えを知っている大人はきっとどこかにいるんだろうが、その誰かを探すのも骨が折れる。もしかしたら、時間が解決するとかいうあの陳腐な言葉は、ここで使われるためにあるのかもしれない。
まったく、なんてことだろう。泣けるじゃないか。時間しか解決の手段がないだなんて、そんな苦しくて辛いことがあっていいんだろうか。こんなに耐えてきたんだぞ? まだ耐えろっていうのか? いったいいつまで、どこまで。
そこまで考えて、わたしは自分の横を見た。
――でも、だけど。落ちていったハンカチをなんとなしに覗いているこいつが、いま言った。会いに来ていいって。
わからないとか言ってるあいだは、こうして迷っているあいだは、那智に会いに来てもいいのかな。いつどのときに、あんたがどんな気持ちだったのか、わたしのことをどう思ってくれてたのか、そんなことを考えてもいいのかな。
わたし、あんたのところに、あんたの家族がいるこの町に……思い出したくもないことしかないこの町に、また、顔を見せにきてもいい?
「……まあ、たまには、来てやらんでもないよ」
いつのまにか止まっていた涙が、またぽろりと零れ落ちる。
那智が、死んだ。
懐かしい街並みに半分ほど姿を隠した夕焼けが、じりじりと沈んでいっていた。
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