夏、京都、風鈴
千崎 叶野
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祇園祭の夜は嫌に湿度が高い。京都が湿度の高い場所なのは盆地だからだが、それとは別に人の熱だ。生温い体温のような湿度が肌に絡みつく。 観光地といえば、と言うまでに有名な場所であるから仕方ないとは思うが、この中で浴衣を着て歩く人達の気は知れない。私はノースリーブの涼し気なワンピースだった。
いつもは賑わう河原町をぬけて烏丸へ行くと、年齢層が高めの店が多く落ち着いた印象を受ける。しかし、今日ばかりはそんなことは関係ない。どこへ行けどこの喧騒からは逃れられない。
りんご飴を買って、舐めながら歩いていくと、姫林檎ではなく普通の大きなりんご飴を買ったことを後悔し始めた。気温で雨が解けてきて、手がべたべたする。見た目は可愛いがそれを可愛らしく食べられるかと言われたらそれは別で、大きく口を開けてかぶりつかなくてはならないしそのとき口の周りには同じように溶けた飴がつく。しゃく、しゃく、とかりっ、かりっ、かが入り交じった音がリズム良く鳴り、私はやっとりんご飴を片付けた。手を洗いに入ったコンビニで、てきとうな酒を買った。別に酒は好きな訳では無いが、ふわふわとする感覚は嫌ではない。なにより、そうでもしていないとこの人混みを通って家に帰る気にはなれなかった。
金魚すくいは最近あまり見かけなくなった。動物の命が、なんていう活動は色んなところにありふれていて、生育環境も良さそうでない祭りの金魚が規制されていたとしても何ら不思議ではない。 一年目には、そっと横を通り過ぎた。二年目だから、立ち止まった。きっとその時、立ち止まるように言った人がそこにいた。そっと背を押した。
もたもたしていたら和紙は破けてしまって、結局1匹も取ることができなかった。隣の彼は見ていて、と呟いて金魚を掬った。茶碗の中に、跳ねさせるようにして投げ入れる。油ものをしている時、油を避けるとしたらこんな動作かしら、と考えて可笑しくなった。金魚たちは汗を流しながら自分を凝視する私たちを嘲笑って、冷たい水の中で踊っていた。馬鹿ね、と笑いながら水面を揺らす金魚は、狭い子供用プールの中でも悠々とした生活をしているようだった。私はどうだろう、こんなにも広い京都でまだまだ窮屈な暮らしをしている。そんなことない、と自分に誇示するために髪をかきあげてピアスを揺らした。鈴がなるような音がして、心が休まるのを感じた。
三条大橋を渡りきると、流石に静かだった。またね、と手を振った。その手を握ろうとして、不自然さに身を引いた。またね、と言って通り過ぎようとしたあの人は、私の手を握りこんだ。一瞬だった。階段を下りて改札に行ってしまったあとも、余韻が残っていた。
次彼に会うまでには一週間も空かなかった。連絡が来たのは嬉しかったが、そうだろうな、とも思った。夜の木屋町は治安が良いとは言えず、道に倒れ込む学生や私のような子供には黙って知らん振りを決め込む黒服、酒が回りきったスーツの集団がそこらにいる。それでも高瀬川の流れは風情があるし、少し北に上れば一人で感傷に浸ることも出来る。鴎外の『高瀬川』を思い出したが、こんなに浅瀬であのような壮大な物語が書かれていると思うと滑稽だ。きっと当時はもう少し川幅の広い川だったのだろう。最近の流行りの本など読まないから純文学についてしか造詣が深くないが、それを彼はいいことだと褒めた。彼自身は高瀬川については川の名前しか知らないが、私の話を聞くと楽しそうに相槌を打つ。終電の時間を過ぎてしまったが、下心がないのはわかっているから、別になにも指摘しなかった。朝の五時までやっているバーで日を越した。酔わないように甘いカクテルを何杯も飲んだし、そのせいで口の中はねっとりしていた。
日が昇るのが早い。4時過ぎには空は雲に光を混ぜてきた。地下から階段で上がってくるときには、ああ朝日だ、という絶望を感じた。私は元々朝日が嫌いだった。どこにも逃げ隠れ出来ないような気がして、人に晒すことの出来ない私の濁った心は逃げ惑う。まだ日が昇りきっていないから外を歩ける程度の暑さだ。逃げ惑う心をぎゅっと掴んで離さないようにして、私は彼と並んで歩いた。夜はあんなにも騒がしかった木屋町も、この時間帯は大人しい。朝日が昇っているくせに、ここはやっと夜の睡眠を楽しんでいるようだった、それが違和感であった。
家に帰ると私は布団に入った。親がこの夜を知ったらなんというだろうか、そんなの想像しなくても分かるから考えないようにした。私の中の私の背を押すだけで、方向を特に示さない彼は、今の私にとってはとても心地よかった。肯定されることは幸せである、当然のことを今更知った。ジャムの瓶で泳ぐ金魚がひらひらと、馬鹿にしているようにも祝福しているようにも見えた。
祇園祭が終わると秋の風が吹くんだ。そう彼が言っていたのは正しかった。昼間はそうはいかないものの、夕方になると肌寒さすら感じる。散歩にはこれぐらいの温度がちょうどいい。もっと寒くなっては家を出るのが億劫になるし、これより暑くては身体が持たない。薄手のカーディガンに鍵と財布だけを入れて身軽に外出ができるのは、1年でこの時期だけだ。スマホを置いていくと帰った時親からの通知が十件は溜まったものだが、もうあまり気にする事はない。1日に100件ほどの通知が溜まったことを覚えている身としては、母親も大人しくなったなとしみじみ思うほどである。親との連絡以外にスマホを要することはほぼなかった。会いたいと思えばいつでも彼に会うことが出来たし、彼以外の人と休みにわざわざ連絡を取ろうとは思わなかった。彼は、BALの地下の丸善でよく本を立ち読みしていた。私が読みたい本は彼が求めるものではなかったので、一通り気になるものを眺め終えると地下二階に降りた。彼はそこにいる。待っていたのではないかと思うほどタイミングよく顔を上げて、
「君も本を見に来たんだね」
と本を閉じる。待ち合わせをしていた訳では無いけれど、そのあとどこかへ2人で行くのが慣例だった。チェーン店でご飯を食べることもあれば、「このままどこかに行きたいね」と言って適当に切符を買って電車に乗り込むこともあった。
一度、前日に親と喧嘩をして、連絡のためにスマホを持っていったことがあった。彼はふざけた様子でそれを取り上げた。
「こんなの置いてくればいいよ」
違う?ときかれてそうだね、と返した。その日はもう親に連絡は返さなかった。いつもは憂鬱な通知の確認も、いっそ清々しかった。自分の反抗が赦された気がしていた。
何度も何度も彼に会いに行った。彼はにこやかにいつも私を受け入れた。私がどんなわがままを言っても、あるいはストレスをぶつけても、飽きずに相手をしてくれていた。飽きずに、かはわからない。もしかしたら飽きていたのかもしれない、でも彼は私に対して否定的な意見を出すことは無かった。受け入れていてくれていたのか、猫をからかっているだけだからそう見えるように流していたのか。わからない、それでも私は彼に毎日のように会った。彼の赦しを求めた。私の心を鎮めてもらおうとした。
金魚は死んだ。私は初めて、心の奥底から解放を感じた。笑みが浮かんでくるのを、内頬を噛んでぎゅっと殺した。
夏、京都、風鈴 千崎 叶野 @Euey_aio
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