継傷

源カイバ

継傷

 「えっ、捨てちゃったの!?」

 素っ頓狂な声で聞き返す。

 「えぇ……確か、和也が学校から持って帰ってきてすぐに」

 「何でだよ、一人息子の思い出の品なんだから、ちゃんと取っておいてくれよ」

 「うん、そうよね。ごめんなさい……」

 はあ、と大きくため息をついて見下ろした床には、形も大きさも様々な作品が並んでいる。全て、一人息子の和也が小学校に上がってから高校を卒業するまでの12年の間に図工や技術、工芸の授業で作ったものたちだ。大きな土笛、版画、木彫りのレリーフ、ペン立て、小物入れ……色使いやデザインは控えめであるが、どれも親の贔屓目を抜きにしたって出来の良いものばかりで、和也の優秀さや謙虚さがにじみ出ているように思えた。

 妻の幸恵は、じっと俯いて落ち込んでいる様子だった。彼女が捨ててしまったのは、和也が小学校3年生のときに作った図工の作品だ。他の学年の作品は、小学校1年生のときの紙粘土の人形から高校3年生のときの焼き物の器まできっちり取っておいてあるのに、なぜかその年のものだけ捨ててしまったらしい。他が揃っているだけに、諦めきれない気持ちが、油のようにじんわりと腹の底から浮かんでくる。

 和也たちの式で、和也の小さい頃の思い出の品々を並べて昔話でもしようと思いついたのは俺だった。きっと口数の少ない和也のことだから、自分のお嫁さんにも、自分が子供だった頃の話をすることなんかなかっただろう。幸恵は、子供たちの大切な式で余計なことをしない方がいいのではないか、などとつまらないことを言っていたが、身内だけの小さな式であるからこそ、内容を充実させてやりたいのだ。そういう理由もあって、思い出が一つだけ欠けたこの中途半端な状態を、どうしても許容しきれずにいた。

 「あ、そうだ!絵は?」

 「絵……?」

 「図工の授業で、一年間同じものを作ってるってことはないだろ。工作の作品を捨てちゃったんなら、図画の方のはないの?」

 「あぁ…そうね、どうだったかしら……」

 幸恵はいつものようにはっきりしない、歯切れの悪い返事をした。視線をさまよわせるばかりで、絵を探すことも何かアイディアを出すこともしない。チッ!と舌打ちをして催促すると、幸恵はチラ、とこちらを見てから、ようやく動き始めた。押し入れを開け、上半身を突っ込むようにして中を探った後、奥の方からたくさんの画用紙が入った紙袋を引っ張り出してきた。

 「これ……」

 自分で中身を見ることもせず、ただ紙袋を突き出してくる幸恵に、余計に腹が立つ。何故もっと早く出さなかったのかということについてもそうだが、中身を袋から出すことすらしようとしない気の利かなさにうんざりする。

 紙袋を受け取ろうと、取っ手に指先を浅くかける。すると、袋が思ったよりも重かったせいで取っ手が指先から外れ、紙袋の中身を床にぶちまけてしまった。

 「あぁー、もう!ちゃんと渡せよ!」

 物をただ渡すという、この上なく簡単なことすらスムーズにできない妻に対し、苛立ちが爆発する。

 「ごめんなさい、ちゃんと持ってくれてると思ったから……」

 幸恵の非難がましいその物言いが、いっそう俺の神経を逆撫でた。

 「何?俺のせいなの?」

 「そうは言ってないけど……」

 「じゃあ聞くけど、普通はさ、重かったら“重いからちゃんと持ってね”とか言わない?せめて受け取る側がちゃんと持つまで手を離さないとか、いくらでもあるじゃん。それでも俺がおかしい?俺が悪いの?」

 「だから、悪いなんて言ってない……」

 「言っておくけど、社会ではそうやって気を利かせるのが普通だからね。まぁ俺は、あなたと結婚するまで、女の人って何も言わなくてもそういう気が回るものだと思ってたけど」

 「……ごめんなさい」

 幸恵は俺の目を見ない。悪びれもせず、口先だけで謝っているのだ。早くこの場を収めたいと思っていることを隠そうともしない図々しさには、感心すら覚える。この30年間の結婚生活で聞いた幸恵の謝罪の言葉は数え切れないが、その中に、誠意がこもっていると感じられたものはいくつあっただろうか。初めのうちは、その都度幸恵に反省をうながすようにしていたが、いつまで経っても幸恵は口先ばかりで不遜な態度を崩さず、いつからか俺もそんな幸恵に愛想を尽かし、真面目に叱ることをしなくなっていた。

 「……で?」

 「え……」

 「だから!この中の!どれが!3年生のときの絵!?」

 「この中の……どれかが」

 毎度のことながら、この話の通じなさには本当にイライラさせられる。俺を怒らせたくて、わざとやっているとしか思えない。

 「あのさぁ!俺は、それを探してって言ってるの!!何でわかんないの!?ほんと、アッタマ悪いなぁ-!」

 「……」

 いかにも渋々と言った顔で、幸恵はしゃがみ込み、絵を探し始めた。嫌がらせのつもりなのか幸恵の手の動きは緩慢で、いい加減に怒りが爆発しそうになる。しかし思ったよりも早く、目的のものは見つかった。

 「これが、3年生の時の……」

 受け取った絵には確かに、『3年2組 山ノ井和也』と書いてある。しかし、そこに描かれているものを見た途端、俺の頭にすっかり抜け落ちていた記憶が蘇った。

 「この、宇宙の絵……」

 「……」

 「もしかして和也の3年生の時の工作って、万華鏡みたいなのじゃなかった?」

 「うん……」

 「捨てたの、君じゃなくて、俺だった……?」

 その絵に描かれていたのは、紙いっぱいの宇宙だった。深い紺とも紫ともつかない空間に、色とりどり、大きさも様々な星が散りばめられていて、右下に大きく描かれている青と緑の星は明らかに地球だった。そしてその地球から飛び立ってこちらへ、絵を見ている人間の方へ向かってくるロケットがあり、その上には宇宙飛行士らしき人間が乗っかっていて、ニコニコしながらこちらを見ている。

 俺はこれを見たことがあった。この絵を見るのは初めてだったが、確かにこれと似た景色を見たことがある。あの日にのぞき込んだ、あの万華鏡の中で―――――。

 「……あー!そっか、俺だったかぁ、捨てちゃったの。それならそうって言ってよ!幸恵も、無駄に怒られちゃったじゃん」

 「……」

 こちらが下手に出てやっているにもかかわらず、幸恵は何も言わずに俺の顔を見ないまま、黙って散らばった他の絵たちを片付け始めた。

『ほら見ろ』

しゃがみ込んだ幸恵のつむじが俺を詰る。

『悪いのはお前だったじゃないか、ちゃんと謝れよ』

 胃がムカムカとしてくる。確かに幸恵が捨てたと勘違いしていたのは悪かったが、俺が勘違いをしていることを知っていながら今まで黙っていたのは幸恵本人だ。初めに訂正していたなら俺も幸恵を怒鳴ったりしなかったし、余計な恥もかかずに済んだはずだ。それに、俺がさっき注意したのはそれとは全く関係ない、人として基本的なことについてだ。だというのに、こちらの粗を見つけるやいなやあからさまに被害者ぶった態度を取って……本当にいやみで、大人げがない。

 とりあえず見つかったその絵を額縁に入れて、小学校3年次の作品とすることにした。額縁は、リビングに長年飾っていた絵の額縁を幸恵に持って来させた。デザインがシンプルで大きさもちょうど良く、なかなかいい塩梅の仕上がりになった。

 「あの、もともと入っていた絵は……」

 「いいよ、その辺に置いておいて。もう使わないし」

 ようやく揃った作品たちを古いものから順に並べてみると、なかなかに壮観だった。小学校低学年のうちは紙を主に使った簡単なものだったのが、段々と本棚やオルゴールといった複雑なものになっていって、まるで和也の成長を記した年表を見ているかのようでもある。思い出の品として図画工作の作品を選んだのは、和也があまり物を持たない子供だったので半ば仕方なくだったのだが、結果的に正解だったようだ。

 しかし、やはりなんとなく、しっくりこない。

 「うーん……」

 思案に暮れる俺に、幸恵が焦れたように声をかける。

 「あの、そろそろ準備しないと……」

 「うん、でもなぁ……」

 やはり他が工作の作品であるのに、一つだけ絵というのはどうにも違和感があった。それに他のものは全て立体で自立できるのに、これだけはどうしても厚みが足りず、倒しておくしかないというのも見栄えが悪くて嫌だった。

 「やっぱり1枚だけ絵っていうのがなぁ。これだけは寝てるから、近くに寄らないと見えないし」

 「……後ろに缶ビールでも置こうか?」

 幸恵の提案に、ハッとする。どうしてそんな簡単なことを思いつかなかったのだろう、後ろに支えを置いたらいいのだ……。しかし感心したのも束の間、頭の悪そうなことを言ってしまった恥ずかしさと、幸恵に、自分よりも頭の悪い人間に先手を取られた決まりの悪さから、もやもやとした苛立ちが湧き上がる。

 「そういうことじゃなくってさぁ……。わっかんないかなぁ、思い出の品を紹介するんだから、思い出の品以外は置きたくないの」

 「じゃあ、壁に立てかけるとか……」

 「だから、そういうことじゃないんだって!」

 幸恵の、まるで俺を諭すような、言い聞かせるような口調がこの上なく腹立たしい。大学もろくに出ていないくせに、よくこの俺に意見できるものだ。大体、こういう単純なものは多少馬鹿の方がよく考えつくと聞く。そう、猿の浅知恵というやつだ。いい言葉を思いついた。

 「そういう猿の浅知恵みたいなのはいいからさぁ、もっと役に立つことを言ってくれよ……」

 ぐっ、と息を飲む気配がして、幸恵は黙りこくった。馬鹿を的確な言葉で論破することができて、ムカムカしていた気分がすっと良くなる。しかしそれでも、幸恵の言うことを聞いてやるつもりにはならなかった。けれど、このままで式を迎えるのも嫌だ。となれば、するべきことは一つだ。

 「じゃあ、作るわ」

 「……えぇっ?」

 「あの万華鏡、作るよ。俺が捨てたんだし、責任取るよ」

 「いや、でも、今から?そろそろ準備しないと……」

 「子供の工作なんか、すぐできるだろ。終わったら行くから、先に始めといてよ」

 「でも、材料買ったりするでしょ?それに高いところとか、私一人じゃ…」

 さっき猿の浅知恵と言われたことを根に持っているのか、幸恵はしつこく食い下がってきた。

 「だから、後ですぐ行くって!材料なんか、あんなもの有り物ですぐできるだろ!」

 「だってあの中は、和也が作ったロケットとかが……」

 「そんな真面目にやんないよ!見た目がちゃんとしてればそれでいいんだから!」

 ようやく黙った幸恵を横に押しやって、部屋を出て行こうとする。すると後ろからまた、幸恵が負け惜しみを言ってくる。

 「あの……なるべく早く、ね?紗笑さんも、疲れてるところを無理して来てもらってるんだから」

 インターネットで調べたところ、意外にも万華鏡の材料には、アクリルのカードや黒い大きな紙など一般家庭にはなかなかないものが含まれていた。全部集めるには材料を買いに行く必要があるが、それでは幸恵の言うことが正しかったということになってしまう。それに材料を集めたところで、一からちゃんと作るのは思ったより手間がかかりそうだった。正直に言って面倒だ。しかし、さっき幸恵にも言った通り、真面目に作る必要はないのだ。家にある材料だけで、できるところまで作ろう。見た目が万華鏡らしければそれでいい。のぞき込まれればすぐにバレるだろうが、そんなことをする者はいない。

 面倒な材料を抜けば、他はすぐに集まった。ラップ、アルミホイル、牛乳パック、ビーズ……ビーズは幸恵が趣味の手芸で使っているものを拝借した。

 和也が作っていたのは、確か三角形の筒型の万華鏡だった。

 ある日、仕事から帰ってくると、和也が嬉しそうにその筒をのぞき込んでいたのだ。聞けば、図工の授業でずっと作っていた万華鏡がようやく完成したのだという。一生懸命に作った力作だというので、俺は和也にその筒を借りて、中をのぞき込んだ。

 宇宙をテーマにしているということは一目でわかった。深い紫色の大きなビーズがたくさん入っていて、そのビーズ同士の隙間に見える光が、瞬く星々を表現していた。そしてほとんどがその紫色のビーズである中に二つだけ、青と緑の地球らしきビーズと、三角形のロケットのようなビーズが混じっている。地球のビーズとロケットのビーズは自分で手作りしたというので、俺は驚き、そして尋ねた。

 「どうして図工の授業なんかで、そんなに凝ったものを作ったんだ?」

 「僕ね、宇宙飛行士になりたいの。これを見てたら、宇宙を飛んでるみたいでしょ?」

 その言葉を聞いたときの俺の気持ちは、今でも言葉に表しきれない。息子の無邪気な笑顔を見ながら、俺は途方もない怒りと悲しみに押しつぶされそうになった。

 俺の父親は有名私立大卒の国家公務員であり、いつも他人を見下して威張り散らしているつまらない人間だった。俺は小さい頃から親父に馬鹿にされて育ち、そんな親父を見返すために、自分は親父の出身校よりも偏差値の高い大学に入って弁護士になってやろうと必死に勉強していた。しかしその年の試験と相性が悪かったせいで志望校に落ち、そのショックで滑り止めにしていた親父の出身大学にすら受からず、結局俺が入ったのは地方の三流大学だった。そこで一生懸命に勉強して弁護士になってやろうと努力しようとしたが、受験の結果に怒った親父が仕送りをほとんどしてくれなかったせいでバイトに追われ、法科大学院に受かることすらできなかった。

 この悔しい思いを息子の和也にはさせまいと、和也には夢を叶えて欲しいと、小さい頃からこの話をよく言って聞かせていた。それにもかかわらず脳天気に、よりにもよって宇宙飛行士などという非現実的な職業を軽々しく口に出す息子がどうしても許せなくて、そして情けなかった。俺はその万華鏡を叩きつぶしてゴミ箱に入れ、さらに和也の横面をひっぱたいた。和也は痛みよりも、何故自分が叩かれたのかがわからず驚いているようだったが、ここまでしてまだ俺の、父が子を想う気持ちが伝わらないということに俺は愕然とした。

 以来俺は、和也が宇宙飛行士になりたいだとか、弁護士にはなりたくないだとか言う度に和也の顔を叩いた。幸恵はその度に和也をかばったが、そもそも教養のない女が、子どもの教育方針に口を出していいわけもない。幸恵を静かにさせるにはいつも和也の2倍も3倍も叩かなければならず、本当に手間だった。それでも小学生のうちはしつこく宇宙飛行士になる方法だとか、宇宙飛行士のやりがいだとかを俺に訴えてきた和也だったが、俺もその度に根気よく、和也がちゃんと理解するまで何時間でも説いて聞かせることを繰り返しているうち、いつしか和也もかつての俺と同じく弁護士を志すようになっていた。そして親父の出身大学よりもさらに偏差値の高い国立大学の法学部に入り、法科大学院を首席で卒業し、見事弁護士となる夢を叶えたのである。

 俺は、和也が自分の息子であることが心の底から誇らしかった。和也が弁護士になったことで、俺自身が夢を叶えたような気持ちになった。親父、大学の同期、幸恵…今まで俺を馬鹿にしたり、俺の足を引っぱったりしてきた奴ら全員を見返すことができた。俺の教育は、人生は、間違っていなかったのだ。あの日、あの万華鏡を捨てたおかげで、和也も俺も夢を叶えることができた。

 あり合わせの材料で作った万華鏡はひどい出来で、ラップで口を塞いだ紙筒のなかにビーズを入れただけの代物となったが、俺はとても満足だった。これでいいのだ。これが正しい形なんだ―――――。

 物置部屋に戻ると、さっきまで並べてあった和也の作品が無くなっていた。多分幸恵が運んだのだろうと階段を降り、紗笑さんと和也がいる部屋へ行ってみると、やはり作業する幸恵の足下に作品たちは並んでいた。昔は和也の子供部屋だったこの部屋は陽当たりが良く、窓から差し込んだ光が床に反射して、柔らかく部屋中に広がっている。

 「できたよ」

 声をかけると幸恵は振り返り、俺の持っている万華鏡を見てぴくりと眉毛を動かした。が、結局何も言わず、作品たちが並んでいる場所のぽっかり空いたスペースを指さした。

 「じゃあ……、そこに」

 言われた場所に万華鏡を置いて、部屋を見渡す。準備はもう随分進んでいるようだった。窓の目張りは、幸恵の手の届かない高い部分以外には全て施されているし、練炭コンロや着火剤、睡眠導入剤など、インターネットの掲示板に書いてあった必要なものはあらかた用意されている。

 「おぉ、仕事が早いね。感心感心」

 せっかく褒めてやっても、幸恵は嬉しそうな顔の一つもしない。

 「それじゃあ、窓の上のところ……」

 幸恵から布ガムテープを受け取り、窓の上の方をしっかりと目張りする。テープの粘着力が強く、テープを剥がす度にビーッと大きな音が鳴った。するとその音で、紗笑さんが目を覚ました。

 「あれ……?」

 かわいらしい声が聞こえてきて振り返ると、まだ眠いのか目をしばしばさせる紗笑さんと目が合った。

 「……えっ?えっ!?なに!?」

 自分の状態に驚いたのか、紗笑さんは大きな目をさらに見開いて肩を揺すった。しかし、両手は結束バンドで束ねられて椅子の後ろに回されているし、両足もガムテープで椅子の脚に固定されているので、ほとんど身動きは取れていない。彼女が暴れる度に、大きな胸だけがゆさゆさと揺れた。

 「あ、起きちゃった?紗笑さん……」

 「えっ……!?お、お義母さん?何ですか、これ…」

 激しく動揺している紗笑さんに、幸恵がゆっくりと近づき、目の前にしゃがみ込んだ。紗笑さんの手は後ろに回されているので、代わりに彼女の膝小僧に手を置いて、いたわるように撫でさする。

 「紗笑さん、和也のお式の準備、ありがとうね。昨日のお通夜も、とっても立派にしてくれて……」

 「はぁ……」

 「でもね、私たち夫婦で考えたの。和也のお葬式のついでに、私たちも、死んでしまおうって」

 「……えぇ?」

 目をぱちくりさせる紗笑さんをよそに、幸恵は陶然とした口調で語り始めた。

 「あのね、紗笑さんね。私はね、これまでずっと和也を支えに生きてきたの。それなのに和也が、あの子が死んでしまって、私はもう生きていられなくて、和也のそばに行きたいって、そればっかり思うの。それで、和也のところに行くとき、どうしたら和也が一番喜んでくれるかって考えたときにね、パッとあなたのお顔がね、思い浮かんだの」

 「……はぁっ!?なん、なんですか?言ってることが、全然わからない…」

 伝わらないのも無理はない。要は和也を愛するもの同士で一緒に心中しようというだけの話だ。幸恵の要領の悪い話し方には、俺も随分イライラさせられてきた。

 幸恵が話をしているうちに窓の目張りを終わらせた俺は、他に必要なものがないか部屋の中を点検した。俺と、紗笑さんと、和也と幸恵の4人で天国に行くために必要なもの。見る限りは大体揃っているようだった。和也の好物だったというオムライスも、和也のベッドボードの上に置かれている。

 和也の遺体は、和也のベッドの上に寝かせてある。紗笑さんは和也の勉強用の椅子に座っていて、和也の思い出の作品は窓際の、よく陽の当たるところに行儀良く並べられている。準備は完璧だった。

 「それじゃあ、そろそろ始めようか。ドアも目張りするぞ」

 俺がそう言うと、幸恵がまた水を差した。

 「あ、ごめんなさい、炭がまだ見つからなくて……」

 「炭?そこに箱ごとあるじゃん」

 「あれ、中身がほとんど入って無い……」

 「はぁ!?」

 急いで中を確かめると、幸恵の言うとおり、中に炭はほとんど残っていなかった。まさかこんな重要なものがないなどと思わなかったのでさっきはわざわざ確認しなかったが、そのまさかだった。

 「炭なんて重要なもの、なんでちゃんと用意しておかないんだよ!?」

 「だって、あなたに訊いたとき、たくさんあるから買わなくていいって…」

 確かにこの前、俺は幸恵に炭の有無を訊かれたときにそう言った。自分でも覚えている。しかし、いま思い出したが、夏に親戚の集まりでバーベキューをやったときに使ってしまっていたのだ。

けれど、勘違いなんて誰でもすることであるし、無いと言われてもちゃんと確認しておくのが、常識というものではないのか。どれだけ気が利かないのか……。こんな時まで役に立たない幸恵に、俺は心底腹が立った。

 「ちゃんと自分の目で確認するでしょ、普通はさぁ!!何、俺のせいにしてんだよ!」

 「……もう、これ以外にはないのよね?」

 「ないのよねって、お前が倉庫から出してきたんだろ!?」

 「うん……」

 「そのとき他に箱はあったんですか!?」

 「なかった、です……」

 「じゃあ無いに決まってんだろ!バッカじゃねぇの!?ほんと、勘弁してよ……」

 「……」

 幸恵は黙りこくって、立ち尽くしている。いつもこれだ。俺に注意されて、黙りこくって、そこからどうしたら良いか自分で考えようともしない。俺がいちいち指示しなければ動かない。頭の悪い、使えない人間だ。こんな女が自分の妻だというだけで、夫である俺の頭まで悪く見られるような気がして、ずっと本当に嫌だった。

 「……それで?どうすんの?」

 「……」

 「ないと困るんじゃないの!?炭!!」

 「……」

 「買ってきてって、わざわざ言わないとダメ!?」

 「……はい、買ってきます…」

 自分が悪いくせに被害者気取りなのか、涙目になりながら幸恵は炭を買いに出かけていった。

 炭を置いているホームセンターは、車で行くならそれほど遠くない場所にあるが、非力で鈍くさい幸恵が重い炭を運ぶにはそれなりに時間がかかるだろう。こんな風に水を差されたのでは、最愛の息子を追って心中という、ドラマチックなシチュエーションも台無しだ。

 イライラしながら窓の外を眺めていると、ふいに、すすり泣く声が耳に届いた。

 「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 見ると紗笑さんが、大きな瞳から涙をぽろぽろとこぼして泣いていた。白い頬を涙が伝い落ち、その跡がきらきらと輝いている。

 「ごめんなさい、許してください、ごめんなさい……」

 「紗笑さん……?」

 紗笑さんが、泣きながら俺を見上げてくる。涙に濡れたその顔の美しさに、俺はハッと息を飲んだ。

 「私、結婚してからずっと和也さんに暴力を振るわれていたんです……。初めのうちは折檻としてだったのに、段々「俺を馬鹿にしてるんだろう」とか、暴力の理由が理不尽になって、エスカレートして…背中とか肩とか、痣がすごくて……」

 紗笑さんは和也の大学の同級生で、大学のミスコンで上位に入ったこともあるほどの美女だ。まだ二十代の、若くて美しい女の泣き顔を見て、心の中に久しく忘れ去られていた感情がわき上がる。庇護欲、守りたいという気持ちだ。

 「それで、このままじゃ殺されると思って、気付いたときには階段で和也さんの背中を……。隠すつもりは無かったんです、ちゃんと言おうと思ってたんです!警察にも本当のことを話します!だからお願い、殺さないで……、助けて…!」

 助けて。

 その言葉が、俺の心の奥深くに突き刺さった。

 もう一度、紗笑さんの姿をよく見る。涙に濡れた目元は可憐で儚く、喪服のスカートから伸びる脚は、掴めばすぐに折れてしまいそうなほどにか細い。

 この女性を守りたい。幸せにしてやりたい。彼女の涙が、俺にそう強く思わせた。

 「わかった」

 俺の答えに、紗笑さんは目を見開いた。

 「えっ……」

 俺は紗笑さんに近付き、しゃがんで、紗笑さんの足に巻き付いたテープを外し始めた。幸恵のことは、帰ってきたらちゃんと説得しよう。そしてこれからは3人でこの家に住もう。もし幸恵が納得しなければ、この家から追い出せば良い。俺は紗笑を、和也が愛したこの女性を守らなければならないのだから。

 「大変だったろう、怖かったろう、紗笑さん……。もう、大丈夫だから」

 「お、お義父さん……」

 紗笑は、すがるように何度も、ありがとうございます、ありがとうございますと繰り返した。強力なガムテープを何とか剥がしきって、立ち上がり、紗笑の顔をのぞき込む。そして、二人で見つめ合った。たった数秒のことだが、俺にはとても長い時間に感じられた。

 「え……あの、お義父さん…」

 「辛かったね……これからは俺が、幸せにするから」

 そう言って、紗笑の唇に、そっと優しく口づけた。

 考えてみれば、息子が愛した女をその父が守るのは当然であり、むしろ美しいことであるように感じられる。和也の夢は俺の夢で、俺の夢を叶えた和也が手に入れた女は、つまり夢を叶えた俺が手に入れるはずだった女だ。俺はこの結末に、至るべくして至ったのだ。

 「んー!んー!」

 紗笑が強く歯を食いしばって開けてくれないので、諦めて一度口を離した。

 「やめてください!なんなんですか!?どういうつもりなんですか!?」

 紗笑はまだ混乱しているようだったが、問題は無い。愛はこれからゆっくり深めていけば良いのだから。

 「紗笑、大丈夫だよ……」

 あやすように肩を撫でてやり、優しく語りかける。

 「足、あげられるかい?体育座りみたいに……」

 俺がそう言うと紗笑は一瞬きょとんとした顔をして、次の瞬間、まるで猿のようなけたたましい叫び声をあげた。

 「ぎゃああああああああっ!!!いや!いや!離れろ!離れてぇ!!」

 紗笑は細い首を折れんばかりに振り乱し、解放してやった足をばたばたと暴れさせた。あまりにもうるさいので黙らせようと手を近づけると、さらに狂乱して、あろうことか俺の腹を思いきり蹴りつけてきた。俺は体勢を崩し、ベッドに寝かされている和也の枕元に倒れ込んだ。その拍子にベッドボードに手をぶつけ、置いてあったオムライスの皿を落としてしまう。ひっくり返ったオムライスは和也のおでこのあたりにべしゃりと当たり、和也の髪を汚しながらずるずるとベッドの上に落ちていった。

 「この……!」

 腹を蹴られた痛みに、俺は束の間、我を忘れた。紗笑の胸ぐらをひっつかみ、地面になぎ倒す。受け身もとれず、紗笑はしたたかに顔を床にぶつけたようだった。

 痛みにうめく紗笑をしばらく眺めているうちに、俺は段々と冷静さを取り戻していった。紗笑は、ただでさえ怖い目にあって混乱しているのだ。あのまま優しくして、落ち着かせてやらなければならなかったのに、俺としたことがカッとなってやりすぎてしまった。すぐに慰めてやらないと、このままでは嫌われてしまう。

 「大丈夫かい、紗笑。ごめん、やり過ぎたよ…」

 紗笑の横にしゃがみ、抱き起こそうと肩に触る。しかし次の瞬間、俺は胸にドン!と強い衝撃を受け、後ろに尻餅をついた。突然のことに目を白黒させる俺をよそに、紗笑は縛られていたはずの両手を使って立ち上がると、猫のように素早く部屋を飛び出した。さっき俺がなぎ倒したときの衝撃で、手を縛っていた結束バンドが外れたのだ。そのことにようやく思い至るのとほぼ同時に、玄関の方から、紗笑が走り去っていく足音が聞こえてきた。

 そのまま何をするでもなく部屋で呆然としているうちに、幸恵が戻ってきた。

 「戻りました……えっ?どうしたの!?紗笑さんは!?」

 幸恵の声がいつもよりさらに癪に障る。そもそも、悪いのは幸恵だ。こいつが炭を買いになんて行かなければ、こんなことにはならなかったはずだ。が、そんなことを怒る元気すら、もう残っていない。

 「何があったの?ねぇ……一体どうしたの!?」

 幸恵が詰め寄ってくるが、どうでもよかった。俺はもう冷めているのに、いつまでも状況について来れずにしつこく騒いでいる幸恵が心底うっとうしい。

そのうち幸恵は、和也の頭に落ちたオムライスに気がついた。

 「あっ!?和也!!どうして、こんな……、ひどい……」

 幸恵はベッドに飛びつくと、和也の顔や髪を丁寧に拭いて綺麗にし、見る影もなくなったオムライスを皿の上に戻し始めた。戻しながら、肩を震わせて泣き始めた。50歳をとっくに過ぎた幸恵の髪に艶はなく、体の線には全くメリハリが無い。そんな年老いた女が泣きながらぐちゃぐちゃになったオムライスを必死に集めている姿はあまりにも惨めで、見るに堪えない。

 「おい、やめろよ……」

 幸恵は俺の声を無視して、オムライスを集め続けた。手指を脂やケチャップで汚しながら、いつまでも未練がましく、オムライスを拾っている。

我慢の限界だった。俺はオムライスをかき集める幸恵のみすぼらしい背中に歩み寄って皿をひったくると、幸恵の頬を力任せにひっぱたいた。

 「こんなことして!何の!意味があるんだ!」

 頬を抑えてうずくまる幸恵の目の前に、オムライスを叩きつける。チキンライスや卵がはじけ飛び、机、椅子、ベッド、色々なところに飛び散った。

 「何をするのよ!!」

 幸恵が怒鳴った。

 「私は和也のために……和也のために作ったのよ……!!」

 そのとき、久しぶりに幸恵が俺の目を見た。立ち上がり、怒りと憎しみに歪んだ顔で、俺の目をぎりぎりと睨みつける。しかしそれもほんの数秒の間だけだった。すぐに目を逸らすと、幸恵は和也の体に覆い被さってまたシクシクと泣き始めた。

 「あぁ、和也……ごめんね、和也……」

 幸恵の泣き声を聞きながら、俺は、さっきの幸恵の目を思い出していた。憎しみが漲ったあの瞳。その奥に映った、男の顔。皺がたるみ、シミばかり目立つ、夢なんて何一つ叶えられないまま老いた男の顔だった。

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継傷 源カイバ @pandaonthsofa

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