春の岸辺に

鐘方天音

春の岸辺に

 彼女からおもむろに手渡されたのは、涙の形をした硝子のペンダントであった。私が何かを言う前に、彼女はある願いを私に託した。

 ――私が死んだら、これに骨と灰を入れて海に撒いて欲しい。出来れば、夜の海を見たことがないから満月の夜に。

 血の気のない顔に薄い笑みを浮かべて、彼女はそう言った。私は縁起でもない、と何とか笑って誤魔化したが、そのときの彼女の瞳の奥には確かな、強い光があった。そうして私に願いを伝えた三ヶ月後に、彼女はこの世を去った。丁度桜が満開の時期であり、火葬場の煙が上る青い空の下には、桜が咲いていた。


◇◇◇


 葉桜になった頃、私は満月の夜を待ち、ついに彼女の願いを叶えるときがやって来た。海に近い駅まで電車を乗り継ぎ、そこからタクシーを捕まえる。くたびれた中年の運転手からは怪訝な目で見られつつ、後部座席に乗り込んだ。行き先を告げるとさらに怪しいものを見る目になったが、適当な理由を話して何とか切り抜けた。道中一方的に運転手から質問をいくつか投げかけられたが、聞いているふりをしてそれらしく相槌を打つ。会話の内容は一切覚えていなかった。

 目的地である海浜公園に着くと、料金を払ってタクシーを降りる。最期まで運転手は怪訝な表情をしていた。海浜公園の周辺には民家が少なく、個人でやっているレストランやバー、民宿などの明かりがぽつぽつとあるだけである。私は海浜公園を通り抜けて、海の独特な香りが漂う砂浜へ出た。


◇◇◇


 誰もいない静かな、玲瓏とした潮風が吹く浜に立つと、私は息を呑んだ。眼前には黒い海に、大きな満月がただ悠然と在るのみである。夜空に星はなく、月の光が煌々として夜の天空を支配している。一方海は、何も言わずにただ満月の姿を映し、光を反射させていた。波と風の音だけが耳に入り、この世界には私一人しかいないと錯覚してしまいそうになる。ふと、そこで私は一人ではないことに気が付く。――涙の形のペンダントには〝彼女〟もいるのだ。だが、彼女の願いを叶えてしまえば、彼女は海と一つになり、私はまた孤独になるのだ。

急に臆病な気持ちになった私は、浜辺と並の間で足を止める。このまま引き返せば、私は孤独ではなくなる。私の手には彼女がいる。だが――彼女はどうなのだろうか。このまま硝子細工の中にいれば、彼女は海にも月明かりの中にも行けず、それこそ永劫の孤独を味わうことになるのではないか――。私は波打ち際へ行くことを暫し逡巡したあと決心した。彼女を裏切ってしまう前に。



 波の届かない場所に靴と靴下を脱いで、スラックスの袖をまくって海へと近付く。波が足を濡らした瞬間、私の全身には痺れが走った。傍から見れば今の私は入水しようとしているように見えるだろう。実際、春の終わりでもこんなに冷たい海に入れば死んでしまう確率は高い。刺すような冷たさを耐えて足首まで海に入ると、私はペンダントを上着のポケットから取り出した。暗闇の中でも分かる彼女の小さな白い骨と灰。ペンダントはロケットと同じ構造になっており、表側をずらせば中の物が取れる仕組みになっている。ペンダントをずらしたときに少しだけ、遺灰が零れてしまったので私は少し動揺し、動かす手も慎重になる。表の硝子を全てずらし終わったところで私は一つ、二つほど深呼吸をし、遺灰をつまむと海に向かって投げた。 遺灰は潮風に流されふわりと空中に少し漂ったあと、水面に着水してゆっくりと溶けていった。それから私は、とにかく無心で彼女の遺灰を撒く。その度に灰は風に乗って遊んだあと、海へ吸い込まれていった。

 遺灰を全て撒いたあとに残ったのは、彼女の小さな遺骨である。手でつまんでみると、少し力を入れてしまえば砕け散りそうな脆さであることが分かる。生前の彼女がどれだけ病で苦しんでいたか、この骨の一欠片で痛感した。

 ――ふと、私は異変を感じた。足元が急に覚束なくなり、体ごと前に進んでいるのである。それが潮の満ち引きの仕業であることは頭の片隅にあるのだが、これはまるで、自分が月に、そして海に連れて行かれているような気がしてしまった。私は咄嗟に踏ん張る。まだ彼女と共に海に帰りたくはない、と生への執着を捨てきれずに抗うのだ。暫しの間、全身に力を込めて仁王立ちしていると、その感覚は徐々に消えて行った。私は酷く安堵すると、彼女の遺骨を月が映る水面に向かって投げた。小さな骨はあっという間に見えなくなり、音も立てずに海へと飛び込んで行った。彼女はとうとう、海と一つになって二度とこちらへ戻っては来なくなった。

 感傷的な私に、大きな月と海は同情も憐憫もなく、最初から変わらずにただそこに在り続けるだけであった。



                                 ―了―

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