アフターピル
なつみ
アフターピル
慌てて、腕と首と足首だけには日焼け止めを塗った後、貰った一万円札を財布に入れて家を出る。早朝でない時間に家を出ると、太陽がぎらぎらと肌を刺してくるので厭だ。
行きつけの洋服屋にでも入るかのように、軽々と婦人科の扉を開けた。クーラーの効いた室内に入ったことで、肌が安らぐ。
「今回はどうされましたか」
研修中の名札を胸につけた受付の若い女性に尋ねられ、「アフターピルを」と告げる。おそらく、この病院に入って間もないであろう新米の受付員は、アフターピルと言い放つ患者の対応をしたことがないようで、細いCカールのマツエクをした目元を何度も瞬きさせながら、渡した診察券を片手にファイルやノートの中から何かを探そうとしている。まだ一日目か二日目なのだろうか。アフターピルをもらいに来る人間なんて、毎日来るだろうに。
隣にいた、ナース服の上に淡黄色のカーディガンを袖を通さず羽織った先輩看護師が、「問診票を書いてもらって」と、こちらに言うのではなく、新米に言う。新米は、先輩から受け取った問診票を渡してくるが、ボールペンがついていない。指摘することなく黙って受け取り、受付に最も近い椅子に腰を掛けた。鞄から筆記用具を取り出し、普段書くより大きな雑な字で必要事項を記入し、すぐに受付に戻した。
わたしの後に受付に来た、黒縁眼鏡で茶色いロングスカートの女性が、「昨日、失敗して…」と、おどおど話している。受付員は、「こちらの問診票を」と、慣れたように対応していた。肩を風で切るように受付で、「アフターピル」と言う人間の方が珍しいだけか。
二か月ぶりのセックスだった。由也とのセックスが二カ月ぶりなのではなく、セックスという行為が二カ月ぶりだった。由也とは、たぶん五カ月ぶり。あんまり覚えていないけれど。
射精を終え、由也が一息ついてわたしの腰を持ちちんぽを抜いた後、「うわっ」と叫ぶ声が背中から聞こえてきた。何事かと思い、くるりと振り返ってみると、由也の視線は彼の下半身にある。陰茎の根元を抑える輪っかの部分は残ったままで、ちんぽを覆っていたはずの透明のフィルムがくしゃっと丸まって、水風船が割れた時のようになっている。白い液体がその水風船の周りにべったりと垂れるように付いていた。
「あーあ」とわたしは言ったが、由也は「え?うそでしょ?」と見事なほどに顔が真っ青になっている。ただ、高い鼻の上にしっかり汗が残っているのは滑稽だった。「久しぶりだからいっぱい動いちゃう」と、先ほどまで楽しそうに腰を振っていた姿が浮かんでしまう。汗かくほど動くからだよなんて、冗談でも言ってみようかと思うが、たぶん彼は今それどころではない。
「ピル飲んでたっけ?」
「今は飲んでないよ」
「え?何で?辞めたの?」
どうして今、ピルを飲んでないわたしが責められてんだよと、腹は立ったが、「しばらく中断してただけ」と返す。バックをしていた姿勢からずっと固まったままで動かない由也に代わってコンドームを外し、ティッシュで精液をふき取る。ありがとうと由也は言うが、顔は引きつっている。
取り外したコンドームを指で撮んで見てみるが、派手に破れている。ホテルの備え付けを使わず、「夏だし、0.01がいいと思って」と、よくわからないことを言いながら、嬉しそうにパッケージを開けていた。自分でわざわざ買ってきたものが破れたんだから、驚くのもわかるが、大きな身体をしているくせにいざと言う時の包容力が全くなく、呆れる。
ゴムの破片を、精液でぐっしょり濡れたティッシュでぎゅっと包み込む。
「仕方ないよ」
「仕方ないって?」
ごみ箱に向かって二人の行為の残骸を、放り投げた。
「アフターピルもらってくるね」
そう言った瞬間、我に返ったかのように由也の顔色が戻った。そっか、その手段があったのかというようなわかりやすい顔。ごめんねと言って急に頭を撫でて来たが、その大きいごつごつとした手をやんわり払うように、「ゴム破れたの、誰のせいでもないじゃん」と言って、枕元に置いていたスマホを取り、婦人科の診療時間を調べ始めた。
「明日が病院お休みだから、明後日仕事始まる前に休暇取るよ」
「すぐ飲まなくて大丈夫なの?」
「72時間以内に飲めばいいらしい」
「ホント?」
疑うなよ。安心しろ、お前の子どもを産む気はねえよという言葉が喉元まで出かかったが、抑えた。七千円と診察料がかかると、虚偽なく伝えると、由也は財布から一万円を取り出し「お願いします」と渡してきた。
「病院に行きたいので、午後から出勤したいのですが」
学校に電話を掛けると、教頭が出たので休暇を取りたい旨を伝える。
「大丈夫?社会科の先生に自習に行ってもらいますね。お大事に」
お大事にと言われると、体調が悪いわけではないので違和感があるが、命にかかわることなので、大事にされるのは当然かもしれないとも思う。ただ、出勤してから、どこが悪いのと聞かれるのは手間だ。今頃、別の場所で平然と働いている由也を恨みたい。
婦人科で受け取った薬を手のひらに乗せる。やけにどギツいピンク色をしていて、幼い頃に遊んだバービー人形の唇の色を思い出した。タブレット菓子のような頼りない小さな粒。90%妊娠を防いでくれると、医者から説明された。
「アフピル飲んだ?」
由也からLINEが来ていた。平然と働いていると思ったが、男の方が自分で行動できない分、平然じゃないのかもしれないと思い直す。一万円掠められたかどうかそれは心配だろうし、掠められた上に妊娠されてはたまったものじゃないだろうから、ちゃんと飲んだと即レスしてあげる。薬の写真も添付する。
「なんか、可愛い色」
間抜けな返事に笑ってしまった。「本当は飲んでない」なんて泳がせるのも、面白かったかもしれないが、由也の顔から笑顔を消す時間を増やすのは良くないと思った。
**********
「お姉ちゃんは、バービーちゃん」
妹が、わたしに人形を渡す。しぶしぶ人形を受け取る。年上の権力を発揮すると、決まって親は「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と叱ってくる。
小学生くらいの頃の女の子たちは、リカちゃん人形か、ジェニーちゃん人形か、バービー人形を親から与えられた。「クリスマスプレゼントはお人形さん」と、ほぼ全ての女の子がサンタさんにお願いをして、瞳を閉じる。朝方、与えられた人形を見て女の子たちは喜んだ。
三人姉妹の親は、トイザラスのクリスマスプレゼントコーナーで三体の人形を購入した。娘の喜ぶ顔を想像し、どの包装がどの人形だったかは忘れて、娘たちの枕元に置く。起きてから姉妹はすぐさま包装を剥がす。
わたしが手にしたのはジェニーちゃん人形だった。リカちゃん人形より少し化粧が濃くて、でも日本人っぽくて鼻の丸い童顔で、可愛い。最新の着せ替えもセットされてる。箱を開けた瞬間から、ずっと大事にしようと思っている傍で、末っ子がわんわんと泣き出す。
「リカちゃんか、ジェニーちゃんがいい!」
駄々をこねる妹。わたしは察する。ああ、クリスマスの朝っぱらから、叱られるのは勘弁だ。
庶民的な家庭の、日本人らしい顔として生まれた女の子が欲しがる人形は、リカちゃんかジェニーちゃん。断然この二体だ。バービーはスタイルも顔立ちも、日本人が憧れる範囲を逸脱している。綺麗でおしゃれだが、外国の香りが強くて、自分の生活からかけ離れた感覚になるのだ。
ガンダムのロボットも、バービー人形もおそらくあまり変わらない。人形ごっこをするにしても、ガンダムとバービーは同列の、家族ではない登場人物にされてしまう。
受け取ったバービー人形は、真っ黒に日焼けした肌で、ピンク色の唇と真っ白なアイシャドーは肌から浮き出るようだった。コバルトブルーの伸縮性の高い服も、好感は持てなかった。ただ、鼻が高いところは羨ましいかもとは思う。
「お姉ちゃんは、隣の奥さんの役ね」
**********
「先生、自習監督していただきありがとうございました」
午後から出勤して、二つ歳上の同僚に話しかける。
「いえいえ、体調は?」
「あ、大丈夫です。自習課題は」
「ああ、教育実習生に考えさせた課題があったから、先生のクラスでもこのプリントを使いましたよ」
プリントを受け取ると、『夫婦別姓に賛成か反対か』と書いてある。ネットニュースの記事を読んで、自分の意見を書くものだった。現代的で身近な問題を、いくつかの記事から考察させる、よく出来たプリントだなと感心する。
生徒が書いた意見に目を通すと、「夫婦別姓だと、子どもが困る」「兄弟が別の名字だと嫌だ」というものが目立った。結婚は、子どもが産まれることが前提かと思いながら、自然と目線が自分の腹の方に向かう。
もしこのお腹の中に、子どもが宿っていたとしたら、どちらの名字がいいのか。
いや、考えるのが早すぎる。早いというより、意味のないことだ。
婦人科に寄った後、通勤するまでに買った、コンビニのかつ丼をレンジで温めると、むわっとした空気と衣の香りが社会科準備室内を覆った。それのせいか、アフターピルのせいかわからないが、吐き気に襲われレンジの扉を開けっ放しにしてしゃがみ込んでしまう。クーラーがなく、扇風機三台で凌ぐしかないこの部屋の暑さも、嘔吐を引き起こす要因には違いなかった。
氷嚢を冷蔵庫から出し、自分の机に頭をつけながら休む。朦朧とする意識の中で不思議と、自分の膣の奥が見えた映像が浮かぶ。白くてとろみのある、由也の精液がわたしの子宮を覆うような感覚があり、下腹部が重たくなるのを感じる。
予鈴が鳴った。やむを得ず、かつ丼を放置したまま、次の時間に使うプリントを籠の中に突っ込み、授業に向かった。隣の席の、今は甲子園の話題にしか興味がない七十歳間近の非常勤講師は、イヤホンでラジオを聞いたまま腕を組んで眠りこけていた。
「先生、顔色悪いよ」
チャイムが鳴らないうちに教室に入ろうと、廊下を小走りする生徒たちの中で、わたしが歩くのを追い越した女子生徒の一人が話しかけてくる。やはり、バレるか。アフピルを飲んだ後に出勤なんて、無茶をしたかもしれない。
「生理ぃ?」
「え?」
「ちゃんと薬飲みなよ~」
ジャンルとしては惜しいが、どこから違うと言えばいいのか分からないし、何より歩く度に、子宮に鉛を入れられているような気がして、余計な会話をしたくない。目元に、健康的でない笑いじわができてしまう。
病気ではないのに、自分が失敗したことなのに、心配される罪悪感で余計に教室への足取りが重くなる。本鈴が蝉の鳴き声をかき消した。
「元気?とりあえず飲みに行こうよ」
アフピルを飲んでから、敢えて由也への返信をそっけなくしていたが、十日ぶりに来た連絡がこれかと思うと、頭を抱えるしかなかった。こんな馬鹿と関わると吐き気がする。アフピルを飲んだ直後の吐き気を思い出して、余計に憂鬱になった。
由也は、白熊みたいな人だ。顔の彫りが深くて、大きな身体そのままの楽天的な性格で、わたしと同じく初めて由也と一緒に飲んでいた自校の教員たちも和んでいた。「俺ね、メンマってずっと、割り箸から作られてるんだと思ってたの」と言うものだから、こんなにも正直で飾らない人がいるんだなと驚いたな、そう言えば。
由也からしたら、孕んだとわかって女を粗雑に扱うような男にはなりたくないから、こうして連絡してくるんだろうが、今のわたしには疎ましい。
お望み通り産まないってば、お前との子なんて。もし産むことになっても、お前の名字には興味ないから安心してくれ。ほっといてくれ。
中学校時代の同級生が、急にLINEのグループを抜けた。Instagramもフォローを外されたと騒ぐ同級生がいる中、わたしとは相互のままだった。思い切って理由を聞こうとメッセージを送ると、「流産した」と返ってきた。
「他の子どもの写真とか見るの、無理で」
「そりゃそうだよ」
「しばらく、こうさせてね」
「わたしもみんなミュートしてるから大丈夫」
「そうだったの」
すでに結婚している同級生の投稿は、普段から見ないようにしていた。自分の教え子以外の子どもの成長には、まったく興味がない。自分に持っていないものを、既に持っている人の投稿を素直に楽しめるほど、人間はできていない。子どもができたら、この気持ちは変わるのかもしれないとは思うけれど、今のわたしには分からない。
とにかく今は、流産した子に寄り添おうと思った。自ら、流産を選択したようなわたしだが、自分の腕の中に子どもを抱けない気持ちは、他の同級生より分かるから。
生理が来た。
アフピルを飲んで三週間以上が経っていた。和式の便所に跨りながら、トイレットペーパーに付着した鮮明な血を眺める。四分後には黒板の前に立ってないといけない状況なのに、涙がこぼれた。子宮のあたりに手を添える。
「ごめん」
最初から、いないのに。謝りの言葉を呟くことを、止められなかった。
性格は頼りないところはあるけれど、由也のように目鼻立ちがはっきりした子を産めたらよかったなと、今更後悔なのか何なのか、説明しようがない雌としての感情が襲ってくる。コンドームが破れた直後は、あれだけ冷静だったわたしなのに、子どもがお腹の中にいなかったと分からされると、自分の存在価値を否定されたかのような気持ちになる。
妊娠する可能性が、10%あると知ったこの三週間、本当は少しわくわくしていた。Instagramで子どもの写真しか載せない同級生たちを、フォローし直せる自分になれるかもしれないと、思ったのだ。
アフピルを飲んだふりをして、こっそり妊娠の確率を上げればよかったのに、わたしは正しく生きることしかできなかった。
「生理来た。検査薬も陰性だった」
由也に連絡する。
「連絡ありがとう。俺も安心した」
よかったな。保健の授業をこれから真に迫って教えてくれ。コンドームは正しく装着しないと破れやすい。アフターピルは性交渉後72時間以内。妊娠中に飲酒したら、危険性が多いことくらい知っててね。採用試験、いい加減受かれよ。
生理用品を買おうと帰り道に寄ったドラッグストアで、バービー人形の唇のように濃いピンク色のリップを見つける。吸い寄せられるかのように近づき、サンプルを指先にとって、鏡を見ながら唇にのせてみる。あ、わりと似合う。学校にはしていくには派手だけど、このリップを買って、今からブルームーンでも飲みに行こう。
あの時、アフピルを飲むと決めたのはわたし。バービー人形を選んだのもわたし。わたしの産む子は、誰が父親だろうと必ず可愛い。
アフターピル なつみ @natsumi0451
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。アフターピルの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます