My Heart Leaps Up

酔人薊Evelyn

第1話

 今からずっと昔、物心つく前から、わたしは何かを探していたような気がする。

 それは、朧げな昼寝の夢、あるいは盛りをとうに過ぎて閑散とした夜会の片隅で眠りに落ちたときに、人の会話が夢を少しずつ侵食して空想と溶けあうのにとてもよく似ている。

 ボートの腹に打ちつける波の音と何千もの蠟燭の輝き、バルコニーから見える古い街並みと遠いバグパイプ、劇場のボックス席の闇と話し声、舞踏室のワルツとすり減った練習用の靴、狐狩りの日の朝の白いカーテン、苔むした石像と溢れるような薔薇、ハンモックに置かれたままのキーツの詩集、深い池に揺らめく赤や青の焔みたいなステンドグラス。

 今日このとき、これまでのすべての記憶を、心からこぼれるような感情を、黄金のペンで刈り取り花束にして、わたしは石畳の向こうへと歩みを進める。



「ねぇ、メリッサ。彼は跪いたの?」

 そう聞いたふたつ下の妹のバーバラは緑の芝生に寝転んで、スケッチブックに何か描いている。プリムローズ・イエローのドレスは普段着だが、その明るい鳶色の髪と薔薇色の唇に映えていてとても綺麗だ。

「そりゃあ、跪いたけど」

 わたしはノートを置いて、伸びをすると見せかけて顎をつんとそらした。そのとき、突然ある日の光景が自分と世界のあいだに降りかかってきた。

 あれは金色の午後だった。もうすぐ五月、何もかもが素晴らしい夏へとまっすぐに道を下りて向かっていく月。小さい頃から過ごしてきた古い屋敷がよく見える細い筋の伸びた芝生の樫の木の下に、わたしたちは寝そべっている。ここでは食事の片付けをするメイドたちや草木の手入れをする庭師たちの立てる騒音も聞こえず、向こうの花壇のそばの日時計をずっと見ていると時が過ぎるのが遅く感じるように、ただひたすらに時間がのろのろと過ぎていく。あのときも今日のように、お茶の時間が済んだ後、わたしとバーバラはそれぞれノートとスケッチブックを持って屋敷の庭へ向かったのだ。もうすぐ社交の季節が始まるので、ロンドンに行かなければならないわたしたちが領地で過ごす最後の週だった。

「嘘でしょう!あの彼がそんな当世風の結婚の申し込みかたをするとは思えないわ。」

「嘘じゃないの。さすがにあのひとも、そこは世間に従ったほうがいいと気を回したんでしょ」

 わたし、メリッサ・ティーズデールは、今、樫の木に縛りつけたハンモックに横たわりながら、先週とある男性に求婚された話を妹に聞かせている。そうだ、あの初夏の日もわたしが書いた物語のヒロインが求婚された場面を話していたときにも同じような会話をしたのだった。

「それからいったいどうなるの?」

 記憶のなかでバーバラが続きをせがむ。そうしているあいだにもわたしの頭のなかは言葉と色で溢れていく。

「指輪を見せてよ!」

 物語世界で、ヒロインの妹が指輪を見せてくれるよう迫る。

 妹がスケッチブックを放り出してにじり寄り、避けようとするわたしの右手を掴むことに成功する。特に秘密主義ではないわたしは、結局上ってくる笑みを抑えきれずにあっさり負けた。

 永遠を表す蛇のような金の綱を模ったデザイン。あのひとらしいと思う。空に手をかざし、わたしは自分の手を撫でる。信じられなかった。冗談でなくこのわたしが婚約しているだなんて。結婚してほしい、とあのひとは確かに言った。跪くなどというロマンティックな行動は、違和感があるとともに似つかわしかった。普通の淑女というものは、求婚された瞬間を後生大事に抱え続けるものなのだろうか。この先何が起こったとしても―。

「彼女は彼と結婚して幸せになるんでしょう?」

 ハンモックのすぐ下、わたしの黒い髪の毛が滝となって混じりあうほどそばに横たわったバーバラと目が合い、まるでかすんだ目の焦点が合うように現実が戻ってきた。

「わたしにも素敵な人が早く現れないかなあ」

 バーバラは夢見るように言う。物語のなかでヒロインが妹の甘いミルクの匂いがする頭のてっぺんにキスをしたが、わたしはただ黙って鉛筆を舐めたのだった。

「お嬢さまがた!そろそろお休みになる時間ですよ!まぁそんなところに寝転がって」

 今、手を叩きながら探しにきた乳母が、赤みがかった光に濡れながら枯葉の散った芝生に寝そべるわたしたちを発見する。社交界デビューももう済んだ娘たちであるのに未だに子ども扱いだ。そして、わたしはそう扱われるのが好きだった。

「メリッサさまは、お着替えの前にご夫妻がお呼びです」

 乳母が優しくも真剣な目で言う。そのとき、わたしは改めて、その子ども扱いが少なくとも世間的にはこれ限りとなることを実感したのだ。

 家族の居間へ向かうと、父はまだ机に向かって書き物をしていた。母はソファで刺繍をしている。そのそばに腰を下ろしたわたしに、彼女は愛しげな笑みを向けた。

「かわいい子。本当にあなたが嫁ぐ日が来るなんて思いもしなかったわ」

「お母さま、そんなわけないでしょう。本当はそうなってほしいって思っていたくせに」

 わたしはいつものように母の膝に座ってそのしゃんとした白い首に腕を巻きつける。妹とよく似た柔らかい匂いが今晩は少しだけ胸に痛い。

 すると、父が書き物から顔を上げて眼鏡越しににやっと笑った。

「ヴェールの花嫁というよりは、洗礼式の赤ん坊に見えるだろうがな」

「お父さまったら、ひどい!」

 バーバラなら本気で怒るので、父はわたしにしかこんなことを言わない。気が強くて背の高いバーバラでなく、いつしかふたつ年上のわたしのほうが一家の末っ子のようになっていた。

 床に入ってもなかなか寝つかれず、わたしは夜も更けた頃になって起き上がり、薄暗いランプの灯りのなか窓に近寄る。黒く冷たい水に似た窓ガラスから青白い自分の顔が海底から現れた人魚のように見つめ返す。思えば、この数ヶ月間さまざまなことが起こった。わたしはなんと大きく変わったのだろう。ガラスに手を掛けると、指輪と擦れる音がした。今ならば、この感情に身を任せてもいいだろう。あなたが覚えていてくれさえしたら。



 その日の舞踏会は退屈な部類に入るとバーバラは言った。

「でも、舞踏会に本なんか持ってくるのはメリッサだけね」

 と笑ったのは妹の隣、壁際の椅子に座って肩をそびやかすエメリン・クラークソン。寄宿学校時代の頃からの大の仲良しで、ロンドンでは近くに住んでいるわたしたちの従姉妹だ。わたしは腰を下ろしページをめくりながら、わざと怒った顔をしてみせた。わたしはそのとき、週刊雑誌『エディンバラ・リテラリー・マガジン』のこの頃お気に入りの投稿者―フィオナ・スコットの作品を読んでいた。

 舞踏会のあいだ、ずっと座っていられたらどんなにいいことか。殿方の足を踏みつけずに優雅に踊ってみせたり各界の名士の顔と称号を一致させて雑談すること、扇の陰の目くばせやらダンスの順序から誰それの恋の相手を把握することを同時にやってのける器用なご婦人がたには頭が下がる。

「メリッサは殿方より本に夢中なのよ。この間なんて、せっかく若い男の子がダンスに誘ってくれたのに、顔も上げずになんて返事したと思う?『第四章が終わるまでちょっと待って』ですって」

 エメリンがこんな軽口を叩けるのは、彼女が現在オックスフォード大学に通っていて気兼ねなく好きなだけ本を読んでいられるからだ。近くに口うるさく付き合う相手を選別する母親もいない。

「仕方ないわよ。最近メリッサの執筆熱がものすごいのよ。しかも、ディラン・フレイザーなんて男性の筆名を使ったりなんかして。エメリンの影響よ」

 バーバラが立ったまま椅子の背に手だけついて言う。子どものゲームか何かのように、彼女がダンスに疲れて腰を下ろそうとするたびにわたしたちは〈壁の花同盟〉の仲間入りとからかうのだった。

 エメリンは肩をすくめた。

「次はシルクハットを被り出すか、大学に入りたがるかもね」

 五月の最初の週、社交期まっただなかのロンドン。ハイド・パークの南に位置するケンジントンの住宅街で行われる、いわゆる超上流ではない人数の多い舞踏会。夜も更ける頃には精一杯着飾ったドレス姿が見るも無惨なほどもみくちゃにされてしまうような混雑ぶりだったが、とにかく沢山の男性と知り合うにはもってこいの催しだった。十八歳で社交界にデビューしてから二年になるというのに縁談話どころか色恋沙汰すらまったくないわたしは、母を始めとする一族の女性たちの期待の視線に震えながらも広げた雑誌で毎晩のように全世界を締め出していた。今、母は舞踏会の主催者の女主人とのお喋りに夢中で睨みをきかせてはいない。

 ダンスの合間、氷のように滑らかな真珠色の大理石の床に自慢げに姿を映してそぞろ歩く人々。頬髭をたくわえた紳士がバーバラに話しかけて、すくい上げるように喫茶室へ拉致していった。立ち昇る熱気に目眩がし、わたしは本から顔を上げた。金銀の尖ったシャンデリアのきらめきが眩く、頭の隅に刻みをつけるような甲高いヴァイオリンの音色と重なってみえる。

 フィオナ・スコット。この頃気に入って読むどの雑誌にもその名は現れる。今夜も持ってきた雑誌にフィオナの幻想的な詩が載っていた。いったいどんな人なのだろうか。きっとその詩や物語の舞台となるような荒涼としたスコットランドの丘陵に住まう浮き世離れした女性で、こんな舞踏会には足を踏み入れたこともないだろう―。

「あら、あれはダーウェント・ローランド卿じゃないかしら」

 ふと、エメリンがわたしの腕に手を掛けた。見ると、広間の向こう、深緑の地に金糸の刺繍の重たげなカーテンの掛かった小さな喫茶室から若い男が滑り出してくるところだった。

「だあれ?知り合いなの?」

「前の学期に送った手紙に書いたでしょ。文学を志す貴族の次男坊よ、学内で有名なの。わたしたちは<レイクランド・ソサエティー>に勧誘しようと目論んでいるのよ」

 エメリンは、大学の読書サークルから分離した秘密結社である<レイクランド・ソサエティー>の会員なのだ。週に一度、文学好きの学生たちが夕食後に設立者である彼女の友人の下宿に集まっては、上質のシャンパンを片手に自作の詩や小説や論文を朗読して批評しあったり政治や学問について議論を戦わせたりするのだ。わたしは学期中に彼女への手紙で彼らの活動についての話をせがんだものだった。

「サマヴェル女子学寮は彼のコレッジからは遠いし、紹介がないと知り合えないでしょう?書くものはどれも本当にすばらしくて、去年の入学以来何かと話題を振り撒いているの。ずっと話してみたいと思っているのに、なかなか機会がないのよ」

「わたしだって、そんな大貴族、共通の知り合いなんていないと思うけど……」

 やや視力が悪いのもあるが、遠目に見て彼は特に変わった様子はなかった。エメリンが注目するほどの学生なのだから、よほど話の巧みな人物なのだろうか。

 がっかりしながら別の話題に移っていこうとしたとき、ふたりしてほぼ同時にさっき若者の出てきた喫茶室からこちらを目指してくる知った顔を見つけた。イングランド北部の小地主であるわたしの一家が住んでいる教区の牧師の妻ビーチャム夫人だった。わたしたちは立ち上がって挨拶する。

「お嬢さんがた、こんばんは。まさかここでお会いするとは思わなかったわ。さっき喫茶室でバーバラに会ったけれど」

 イザドラ・ビーチャムはすらっと長身で、よく熟れた穀物のような赤褐色の巻き毛が目立つ。母より少しばかり年下で、白レースの繊細なドレスがその若々しさを引き立てていた。

「あなたのお母さまはどちらに?」

 わたしは未だにこの家の女主人と世間話に花を咲かせている母を指し示した。

「あらそう?まぁよかったわ。わざわざロンドンでお会いすることもないでしょ」

 ビーチャム夫人は、レディとしての礼儀を欠く寸前の苦味走った表情を一瞬浮かべた。彼女と母は、慈善事業などの教会の活動で意見が対立することも多く、地元では密かにふたり揃って白の女王赤の女王と呼ばれていた。このときは献花のことで取るに足らないいざこざを起こしていたのだ。

 エメリンは、さえずるようなビーチャム夫人の話題が王立美術院の最新の展覧会や女王陛下の即位六十年記念式典の噂に移る前に、上手く先ほどの何とか卿という若者の話に持っていった。

「ビーチャム夫人なら、さっき喫茶室から出ていった金髪の若い紳士をご存知ですよね?」

「ダーウェント・ジェームズ・ローランド卿のことかしら?隣の教区に屋敷をお持ちのカンバーランド公爵のふたりめの孫息子よ。何回か教会関係のお茶会でお会いしたことがあるわ。まるでボッティチェリの絵画の天使みたいな坊やで……。最近、王室近衛連隊ハウスホールド・キャヴァルリィに入ったばかりの上の息子さんのほうはハンサムで有名なの。今ロンドンじゅうの未婚の娘を持つ母親でお近づきになりたがらない人はいないほどの兄弟ね」

 ビーチャム夫人は、歩く貴族名鑑と称されるほどに上流の名士のことなら何でも知っていたが、まさか顔見知りだったとは。同じ地域に名だたる公爵家の名前は社交界に疎いわたしも耳にしたことはあったが、その孫の名前まで覚えてはいなかった。

「一生のお願い、ビーチャム夫人。どうか、そのローランド卿に紹介していただきたいの。大学の活動でどうしてもお近づきになりたいのよ」

「このことは母には言わないし、次の教会のバザーの件はおばさまの味方をするから」

 わたしも言い添えた。エメリンがそこまで言うならと、俄然興味が湧いてきたのだ。

 社交上のマナーでは女性が優先であり、顔見知りであれば相手の年齢や身分が高かろうと女性側から声を掛けることができる。

「ローランド卿、こちらはミス・メリッサ・ティーズデールにミス・エメリン・クラークソン。主人の教区の信徒ですのよ」

 ボヘミアンかデカダン。白の女王に捕まって引き立てられてきた人物への印象はそんなところだった。ボタンホールにはどこで摘んできたものなのかブルーベルの真っ青な焔のような花を飾り、ほかの男性は皆短髪を整髪料で丁寧に撫でつけているというのに、驚くことにダーウェントの髪は長くて後ろで軽く結ばれている。女性が好むような銀色の耳飾りをなぜか左耳にだけつけていた。この頃社交界を騒がせているとかいう有名な芸術家の仲間に見える。それにしては恐ろしく若く、まだ少年のようだが。

「ミス・ティーズデール、ミス・クラークソン、ダーウェント・ジェイムズ・ローランドです。お見知りおきを」

 そうだ、思い出した。エメリンが何枚か送ってよこした手紙に書いてあった。耽美主義者のような格好をした、小柄でほっそりした学生がいると。常に肩によく喋る緑の鸚鵡を乗せて歩いていること。学内で出版されている雑誌に載った彼の立派な頌詩の数々のこと。日が暮れるとコレッジの屋根の上で一番星にヴァイオリンを奏でて聞かせるのだとか。

 握手をする。薄い夜会用の手袋越しに手が触れる。一瞬こくんと脈が打つ。離れる。

 そのときわたしは、ダーウェントがブルーベルと同じ鮮やかな青い瞳をしていることに気づいた。

「それなら、あなたがたも湖水地方にお住まいなのですね?同郷というわけだ」

「ええ、わたくしとミス・ティーズデールはね。それに、ミス・クラークソンのほうはオックスフォードに通っていますの」

 わたしたちが未婚の令嬢として礼儀上慎ましやかにしている間、ビーチャム夫人の先導で軽やかに世間話が続けられ、どちらかと次のワルツを踊ればいいということになった。

「ダンス?僕と踊ってもいいことはないですよ。ブーディッカのほうがずっと上手に踊れる」

 ダーウェントは明らかに逃げ腰だった。社交界慣れしていない学生だとしても、令嬢とのダンスを断るだなんて礼義を逸した行いだ。わたしたちはビーチャム夫人がかすかに顔を赤くするのを見て気づかれないように目配せした。エメリンのコルセットで締めつけられた腹が弾けそうに震えていた。

「その、ブード……何とかいわれるお嬢さんと次のダンスの約束があるのなら、残念ですわ」

 おそらく猫か何かの名前だろうが、ビーチャム夫人は人名だということにしてその場を切り抜けようとした。

「いや、ブーディッカは鸚鵡の名前なんです」

 ダーウェントは眉ひとつ動かさなかった。

 憤怒をぶつける標的を失ったビーチャム夫人は、わたしの手もとにある雑誌に目をつけた。

「メリッサ、まあなんてこと!舞踏会に本を持ち込むだなんて。先週お母さまにも言われたでしょう」

「いえ、これは馬車で読むために持ってきたんです……」

「招待してくださった奥さまに失礼だと思わなかったの。後でお母さまに話しますからね!」

 話を耳にしたらしい何人かがちらりと一瞥をくれる。頬がじわりと熱くなった。

 兄が呼んでいると理由をつけて去る前に、ダーウェントはちらとわたしの手もとの開きっぱなしのページに目をやった。フィオナ・スコット―赤い唇がそう動いた。

「スコットランドのケルト風の幻想文学を書いている人ですよね。それは僕も好き。―ミス・ティーズデール、ミス・クラークソン、またお会いしましょう」

 そう言って初めて笑ったダーウェントは、会釈をして去っていった。

 そういえば、故郷のもっと北のほうに同じ名前の湖があったなとわたしはふと思い出した。ダーウェント湖。紺碧の焔走る水面の。

 そのとき、エメリンが驚くべきことを耳打ちした。

「フィオナ・スコットはローランド卿のペンネームよ」



 ある晩、寝室でメイドに付き添われて寝支度をしていると、おやすみの挨拶をしに母が入ってきた。夜だというのに、まるで廊下の花型のランプの灯りを背後に従えているかのようにきびきびした足取りで。昨日は地主としての仕事を片づけた父が遅れて列車で南下してきて、家族揃って久しぶりにロンドン巡りをした。その疲れが残っていたため、母は今日は誰にも会わずにゆったりとした普段着を身につけていたのだが、それでも輝くばかりの美しさだった。「赤の女王」というのはエメリンがビーチャム夫人と対になるようにつけたあだ名だが、やはりそのセンスに頷かずにはいられない。ロンドンの屋敷でも湖水地方の館でも、その清らかな白い山羊革の手袋をはめた手のうちにすべてがあり、母が命じれば庭の日時計も針の向きを変え、もの想いに沈むパンジーもうなだれた首を起こすだろう。

「メリッサ。今日は家にいたのにきちんとコルセットをつけていたのね。いい子だこと」

 ちょうど、わたしはドレスを脱いでメイドのアリスにコルセットを緩めさせるところだったのだ。わたしはコルセットが大嫌いだ。堅くて尖った骨が肋骨に当たり、息を吸い込むことも満足にできやしない。こんなものを毎日つけていられる令嬢たちには頭が下がる。バーバラは勇敢なことに、この鎧のようなものをベッドのなかでも装着している。夢のなかでジャンヌ・ダルクのように聖戦にでも出かけるつもりなのだろうか。

 母はわたしの姿をまじまじと見た後、指輪をはめた手でアリスを下がらせコルセットの紐を締め始めた。わたしの身体の貧相なラインが気になるのだ。特に痛みもなく、すっと姿勢を正してピアノを弾くにはちょうどよく、芝生の上でテニスをするには苦しいくらいの強さで身体が砂時計型に矯正されていく。薄い胸がふっくらと盛り上がり、少年とも少女ともつかない身体が女になっていく。少し浅黒いが薔薇色の艶のある肌にカラスの濡羽のような黒髪。鏡に映った姿は母によく似ていて、美しいと言っても良いくらいだった。たぶん、来週のパーティで数人の殿方にダンスを申し込まれて本を置かなければならないくらいには。

「女性らしくするならこのくらいは締めないとね。とても綺麗よ、メリッサ」

 両親にとって娘たちは丹精込めて育て上げた花だ。彼らはその花に水をやり肥料をやり虫を取り除き、さらに美しく花咲かせたいと望んでいるだけなのだ。花屋が花を売らずして何をするというのだろう。そして花が咲き誇らず種をつけることもないなどということがあろうか。わたしはつられて微笑み、今が好機と話を持ち出す。

「お母さま、今度の土曜日にエメリンとハイド・パークにサイクリングに行きたいのだけど……」

「自転車なんて、淑女が人前で乗るものじゃないわよ。行くのなら馬車か馬になさい。」

 本物の淑女はコルセットをつけ、ピアノを弾き、ダンスを踊り、難しい本は読まないし自転車にも乗らない。そしていつかは本物の紳士に手を取られて結婚する。太陽が昇っては沈んでゆくようなものだ。イヴが耕しアダムが紡ぐ時代など来るはずもない。わたしは会話を切り上げて母におやすみのキスをし、いつものようにアリスとお喋りすることもなく、寝間着を着せかけてもらうと彼女をすぐに下がらせた。コルセットはつけたまま。傷に塩を擦り込むような真似はやがて快感となって習慣化する。

 ベッドに入ってもランプはつけたままでノートブックを開いた。しかし、この間書いたところから話は進まず、なんとなくヒロインをそのまま結婚させるわけにはいかないような気がした。

「ディラン・フレイザーさん。包み隠さず助言させていただくと」

 これはあるとき原稿を持ち込んだ出版社の編集者が親切にも送って寄越した手紙に書いてあった言葉。ディラン・フレイザーはわたしの筆名だ。

「あなたの物語には、リアルさが足りないように思われます。特に読者を納得させ、気づかないうちに魅了しきってしまうような、リアルで説得力のある感情が。平凡な田舎育ちの若い女性の主人公、牧師館にやってくる新任の牧師―題材の卑近さはジェーン・オースティンのようですが、現実味に欠けているのです。一から世界を想像したいとお考えなら、幻想文学をお書きになったら良いのでは?」

 空想的な小説など子どもだましに過ぎないと言い張る歪んだ眼鏡の男が見えてくるようだった。しかしフィオナ・スコットがいるではないか。スコットランドの霧深い寒村や古城を舞台に妖精、幽霊、幻獣などが登場する目眩くような物語や詩で成功していると言っていい彼女。それがあの女性のような顔をした反抗的な学生だとは思えない。わたしはエメリンから借りた今週の『エディンバラ・リテラリー・マガジン』を乱暴にめくった。フィオナが珍しく現代ロンドンを舞台に短篇を投稿していた。

 舞踏会で出会う長身の黒髪の少女と小柄な金髪の少女。黒髪の娘のお行儀悪くゆらゆらさせた足と手もとの一冊の本。物語に目を輝かせ放心しているその様子に、青いドレスに金の耳飾りの金髪の娘は思わず声を掛け軽くからかう。深紅のドレスに身を包み、銀色の耳飾りをつけた黒髪の娘。

 ふと視界が輝き脈が聞こえる気がした。これはあの舞踏会の晩のわたしたちの服装に近いものだ。身長と耳飾りの色だけが逆だった。

 書き手の顔を思い浮かべようとしても、まだはっきりと思い出すことができない。心象風景に浮かぶのは、ミルク色の霧に溶けゆく色とりどりの砂糖菓子のように、青や赤や金の―ダーウェントの持つ色彩だけだ。もしかすると、無意識が忘れさせようとしていたのかもしれないが。わたしは頬杖をついて指先を唇に当てた。もう一度会って確かめなければ……でも何を?



 湖と同じ名のダーウェントと再会するまでにはそう長くはかからなかった。それから一週間後にエメリンの姉が開いたお茶会にいたのだ。

 姉のロザリンドはエメリンより五つ年上で、とある新聞社の社主と結婚してメイフェア地区のグロブナー・スクウェアの邸宅に暮らしていた。明るくまたたくはしばみ色の瞳を持つ彼女は学問の道を突き進む妹とは対照的に、常にリバティ百貨店の薄い包み紙やピンクのリボンやピンクッションの詰まった裁縫籠やティーポットの金の細い注ぎ口とともに思い出されるタイプの女性だった。その薔薇を指す名前は幼い頃から幾重もの花びらに包まれている。その温厚そうな雰囲気の夫、ヨークシャーに邸宅を構える父親、わたしの叔母である母親、妹のエメリン、もしかしたらわたしもその花びらの一枚だったかもしれないが。

 その日は彼女の在宅日だったが、ロザリンドには知り合いは少なく夫のフレッドも留守だったので、わたしが到着する頃にはほとんどエメリンの大学の友人の集まりのようになってしまっていた。ガラス張りの談話室コンサヴァトリーがついている立派な客間は、日本製の風景画の描かれたついたてや赤みがかった絵の中国の陶器、孔雀の羽根、溢れるほどのシダ類の鉢のせいでもともとまるで別の国にいるようだったが、珍妙なお客がその異国的なムードをいやがうえにも高めていた。そう、部屋の中央の椅子に緑の鸚鵡を連れたダーウェント・ジェームズ・ローランドが座っていたのだ。

「メリッサ、来てくれて嬉しいわ」

 久しぶりに会ったロザリンドと抱擁を交わす。ティーカップを手にしたエメリンが振り返る。

「ごきげんよう、メリッサ。ちょうどいいところに来たわ。ダーウェント卿がブーディッカを連れてきてくだすったの!」

 その日の顔ぶれは実に奇妙だった。エメリンがよく手紙に書いて寄越す<レイクランド・ソサエティー>の三人の会員―ポール、ジョージ、リチャードが来ていてわたしに挨拶した。どうやら、そのなかのひとりがダーウェントの近しい友人のちょっとした知り合いだったため、ダーウェントとその友人がここに呼ばれたらしい。つまりはエメリンと仲間たち以外はほとんどが初めましてであり、互いのことを噂でしか知らなかったのだ。

「こんにちは。ブーディッカに餌をやってみませんか?」

 ダーウェントが麦粒を差し出しながら話しかけてきたが、その口ぶりはまるで一度も会ったことがないかのようだ。この人なら忘れていてもおかしくないような気がする。今日のダーウェントは両耳にあの銀色の耳飾りをつけていて、そのそばで頭の半分ほどの大きさの鸚鵡が金色の目をしきりに瞬きさせていた。

「ダーウェント卿、こんにちは。―ブーディッカはお喋りするんですか?」

「もちろん。この子はどこへでもついてきて、僕のすることに助言してくれるんです。いい相棒ですよ」

 わたしはそばにかがみ込んで恐る恐るブーディッカの嘴に指を近づけた。鸚鵡の虹彩が拡張と収縮を繰り返し、頭部の羽毛が逆立った。鐘の舌か握りこぶしによく似た先の丸い舌で器用に麦粒をつまみ取って食べる。ダーウェントの暗い金髪がプリムローズの花のピンクがかった茎に見えるほど細い首にかかっている。ちりちりと銀の耳飾りが揺れる。ブルーベルの、いやそうではないような、鉛筆や草いきれを思わせる匂いがした。急に心がじんわりとして、わたしはこの羽根持つ生きものが気に入ってしまった。

 麦粒を飲み込むと、ブーディッカが乾いた高い声で何かを言った。

「ありがとうと言ったんですよ。ローランドはこいつに何言語か教え込んでるんです」

 と言ったのは、ダーウェントの寄宿学校時代からの友人で寮も同じだというエドワード・ジョン・スミスだった。寄宿学校の伝統で互いに名字で呼びあう彼はどうやらダーウェントの崇拝者らしく、憧れを隠そうともしない。イングランド南西部の皮革製品で財を成した富豪の息子だというが、大学でダーウェントについてまわって世話をする校僕スカウトと間違われたこともあるという話をまるで誇らしい話であるかのように吹聴してまわっていた。

「ローランドは、何でも持ち込み可能の試験になんとブーディッカを持ち込んだんです。ところが彼女、ラテン語の気分じゃあなかったらしく、突然廊下に響き渡るような声でカルメンのハバネラを歌い出したせいでローランドは落第というわけ。あれは傑作でしたよ」

 ふくよかなオペラ歌手のように自慢げに喉を震わせるブーディッカと、彼女を黙らせることができず長い睫毛をぱちぱちさせて困っているダーウェント。通路を慌てて走ってくるガウン姿の試験官。

「おい、スミス。ブーディッカに『持ち込んだ』は失礼じゃないか」

 この話は学内で有名だったらしくその場の学生たちは笑ったが、当のダーウェントは肘掛け椅子に片ひじをついて至極真面目な顔をしている。

「ダーウェント卿は僕らと同じ入学年度でしたね、首席で卒業された兄上と入れ違いだとか。確かF教授の歴史学の講義で一緒ですよね」

 ソサエティーの創設者のジョージ―黒髪を丁寧に撫でつけ、濃い髭を整えた洒落者―が言うと、ダーウェントは頷いた。

「兄は学内でも噂の的でしたからね、まあ、僕とは違う理由で。僕のほうも<レイクランド・ソサエティー>の皆さんをよく山猫軒でお見かけしていますよ。あなたが書いたハーディの新作についての批評はとても興味深かった」

 オーロラがかった薄紅色の貝殻のようなティーカップに注がれた赤い紅茶は薫り高く、おそろいの小皿に載せられた卵白の軽い菓子はまるで海の泡のようだった。部屋の隅に置かれたテーブルにそれらは並べられ、客たちは好きなときに立ったまま飲食ができるのだ。

 立食パーティは着席の食事会よりも盛り上がるものだ。エメリンと文学仲間たち、そして彼らと意気投合したスミスはダーウェントとともに<レイクランド・ソサエティ>に入る方向で話を進めていった。わたしはエメリンの文学仲間の集まりの雰囲気も味わってみたかったのだが、引き寄せられるようにダーウェントに近づいていった。先ほどから話の輪に入らずガラス張りの談話室コンサヴァトリーにいたのだ。包み隠さず言えば、この風変わりな人物のなかにいるはずのフィオナ・スコットを確かめたかった。

 ガラス張りの談話室コンサヴァトリーは多角形の屋根のついた全面ガラス張りの温室で、溢れるほどの植物の緑が白い枠にも映えている。シュロチクやシダの洪水に埋もれて、庭を見つめるダーウェントの横顔が見えた。その空間だけ妙に静かで、小さな時計の精密な機械の音が聞こえるほどだ。黒いリボンでまとめられたしなやかな金髪、伏せられた扇形の睫毛、青や紫の絹糸に真っ白な蝋をかぶせたかのような血管の走る薄い目もとの皮膚、細い鼻先、小さく尖った顎、折れそうなほどの華奢な首筋。時がその指先で触れるのに躊躇している。話しかけるのがためらわれたが、その右腕に止まった鸚鵡が先に気づいて「ごきげんよう」と喋ったのでダーウェントは振り向いた。

「お茶会はあまりお好きでないの、ダーウェント卿?」

「いや、特別嫌いというわけではないですが。社交界がどうにも面白いと思えなくて」

 この世界に属していて、はっきりと言い切る人間にはほとんどお目にかかったことがない。殊に、それがマナー違反などではなくて、何か愛想が良くて悪戯っぽい侵入のようなものなのだとこちらがつい思わされてしまうような表情と声音で話す人間には。

「わたしも、特に舞踏会はあまり好きではないですね。殿方の世間話に頷くのとダンスするのを同時にやるのは骨が折れるし、切り抜ける手段を講じることができるほどの身分もありませんし」

 相手の率直さへの返礼として、わたしは言葉に王族用の膝を曲げる大仰な会釈を混ぜあわせたつもりだった。しかし、このときの相手の表情はそれに気づかなかったと解釈するほうが穏当だったろう。

「舞踏会は苦手?あなたも?友だちでさえも同意してくれる人は本当に少ないんですよ!」

「でしょうね。それで、ダーウェント卿は、パーティで退屈したときは何をなさるんです?」

 本を持っているようには見えなかったけれど。とわたしは思った。

 すると、ダーウェントはよくぞ聞いてくれたとでも言うように微笑んだ。

「今目の前にはないものを心の眼で見る。本を読んでいるのとは違って、人の話を聞いているように見せるのが楽です」

 降参だ。このひとは確かにあの晩のわたしを覚えている。

「先週のマガジンをお読みになったでしょ?」

 英国貴族の少年は、曖昧な明るい表情を浮かべて言った。ブルーベル色の目だけは窓を突き通す光のようにまっすぐで、わたしは答えが思いつかない。

「僕もまたお会いしたいと思っていたんですよ、ミス・ティーズデール。―さあ、庭でも見てまわりませんか?ブルーベルは土に植わっているものを見るのに限る」

 ダーウェントはやはり、夜の遠い建物の窓辺にいるわたしに向かってランプの合図を送ったのだ。そしてわたしはそれに気づいた。いったいどう返せばいいのだろう。わたしは帰ってひとまず書き物机の蝋燭に火を灯した。



 その日からというもの、わたしは頻繁にダーウェント・ジェームズ・ローランド卿を見かけるようになった。ロトン・ロウの乗馬用道路の上で。オペラを家族と観に行った劇場の大階段の下で。貸本屋ミューディーズの高い本棚の列で。帽子に手を掛けて送るはにかんだような合図。こうなると女性側から声を掛けるしかなくなる。このいささか唐突で礼儀を欠くと言ってもいい好意の表出に、わたしはもう少しで抱きかけた感情を敵意と見なすところだった。

 わたしはフィオナ・スコットが投稿している雑誌を何冊も買いあさり、少女だったり少年だったりする黒髪でほっそりした人物やふたりで話した夢の断片や会話中にふと浮かんだ思いつきが翌週の詩や物語に現れるのを見つける。当惑しつつもわたしは貸本屋でオスカー・ワイルドやアーネスト・ダウスンの詩集を借り、消灯後に蝋燭の灯りでラテン語の勉強を始めた。若い娘の読み物ではない新聞をこっそり読みさえした。ハイド・パークで通り過ぎるすべてのポプラの幹にその名を刻んでしまいたかった。知るべきことはあまりに多く、時間はガラス瓶のなかの蜂蜜のように滴り落ちてゆく。

 ロンドン、いや英国じゅうがヴィクトリア女王のダイアモンド・ジュビリーに沸いたその夏、例のお茶会にいた<レイクランド・ソサエティー>の仲間たちはエメリンの家によく集まったり、熱気に乗せられるようにロンドンを遊びまわったりしたが、わたしたちはしばしばふたりきりで会った。ダーウェントはときおり仲間の集まりに出てこないときがあった。

「あいつはいわば憂鬱質の気質なんですよ。昼間から引きこもって何か満足できずに書き散らしているんでしょう、スコッチ・ウイスキーでも飲みながら。かわいそうに、いつものことです。まあ、ハウスマンの『シュロップシャーの若者』を地でいく繊細さがダーウェントの霊感の泉となっているのは否定できませんがね。あのひとは子ども時代の箱庭に捕らわれたままなんだ」

 スミスはまるで惚れてでもいるかのように、その大きな薄青い目を見張って言った。普段無邪気なダーウェントがときおり見せる寂しげな表情は、いつだったか仲間の誰かが評した通り、ラファエル前派の画家ロセッティの<モンナ・ヴァンナ>の扇を手にした気怠げな女によく似ていた。

 そして、ダーウェントの身辺を星のように回っている風変わりな人物。献辞に現れる何人かのイニシャル、ダーウェントが週末を過ごしに郊外に訪ねてゆく退役軍人風の男―古地図のコレクションが素晴らしいんだ、とダーウェントは嬉々として話すが、どこか胡散臭そうできっと紳士ではないに違いない。名前はボズ、ボズウェルだったか―それから、オックスフォードの別の読書会のメンバーと思われる若者と腕を組んで歩いているところを大英博物館で見かけたことがある。その日一日わたしはベッドで甘草を噛んで過ごした。

 わたしは、母がわたしたち姉妹のために開いた夕べのガーデンパーティをまるで夢遊病者のように歩きまわっていた。辺りにはニオイアラセイトウの香りが満ち満ち、夕暮れの迫る芝生の向こうには色とりどりのランタンが幾つも輝いている。ベッドに入ってからノートに書きつけるための物語の断片を空想して時間を潰した。

「メリッサ。ローンズリーさんのお相手を忘れていますよ。バーバラは進んでお客さまのおもてなしをしているのに」

 ローンズリ-氏は、北東イングランドの染布工場や造船業で財を成した一族出身の男性で、ずっと年上だ。去年の社交期の舞踏会のうちのひとつで主催者に紹介されてから、母は彼を何回かパーティに招待した。

 母は言われなくては何もしない怠惰な娘だとなじっているのだろう。振り返ると、バーバラは数人の紳士を相手に和やかに談笑している。部屋の柔らかい灯りを背にしているので、わたしの髪より明るい巻き毛のほつれがまるで後光のよう。わたしの視線に気づくと、にやりと笑みを送って寄越した。わたしは頷いて母に背を向けた。

 ローンズリー氏は、白いガーデンチェアにどっしりと腰を下ろしてひとりトルコ産の太い煙草をふかしていた。近づくわたしに気づいて、微笑みながら隣の椅子を指し示す。

「お待ちしていましたよ、ミス・ティーズデール。あ、煙草は消しましょうか」

「いえ、そのままで構いませんわ」

 淑女にも煙草があればいいのに。でなければグラスになみなみと注がれた酒。ああ、それを飲み、小暗い森へと消え去りたい!

 そんなわたしとは裏腹に、ローンズリー氏は満足げな面持ちで庭に散らばった人々を眺めている。その開きかけた口から、人がちょうどいい言葉を見つけられずにその場しのぎで何かを言おうとしているときの音がした。

「ああ、一杯の年代物の葡萄酒を!」

「ジョン・キーツの『小夜啼鳥の寄せる頌詩』ですね。こんな素敵な夕暮れにはぴったり」

 頭のなかの百科事典を全速力で調べ上げなくとも、著名な詩人の代表作はすべて完璧に暗記している。この点においてのみ、わたしも淑女の鑑と言えそうだ。

「そう。肝心の小夜啼鳥のさえずりが聞こえてこないのが残念ですがね」

「キーツは実際には鳥の声を耳にしてはいなかったのではないかという説もありますよ」

 わたしの返答を聞いて、ローンズリー氏の笑みが大きくなった。

「さすがですね。文学の話ができる若い女性は魅力的ですよ。覚えてます?初めてお会いした舞踏会で、あなたはキーツの初版詩集を抱えてらした」

 それはまったく記憶になかった。そして気づいた。自分がどんなにはっきり覚えているかを。初めて会った日のダーウェントの耳で銀色の耳飾りがどんなふうに揺れるか。道端で出会ったダーウェントが帽子に手をやって微笑むその微笑みかた。ブルーベルの柔い花の香り。ダーウェントは誰かと即位記念式典のパレードを見に行くつもりなのだろうか?

 美―あるいは限りなくそれに近いもの―と個性で翻弄したと考えれば気は楽だった、ときどきわたしの前にも現れるほかの紳士たちのように。現に今、わたしは目の前で紫煙をくゆらせている男性のゆったりとした態度にはどこか焦燥の甘い匂いがしていた。だが、それを認めることは快感であると同時に、わたしには才気がないことを自分に証明してしまったかのようで不愉快でもあった。

「ミス・ティーズデール?どうかしましたか?」

 ローンズリ-氏の心配そうな声に、夏の夜の庭に滲んでいた灯りが輪郭を取り戻した。

「何でもありませんわ」



 夏が近づくにつれ真っ青なブルーベルが道々の奥で花開いては次々に凋れてゆき、ダーウェントがボタンホールに飾る花はライラックになり鈴蘭になり、やがて小ぶりの白薔薇となった。ある日の午後、わたしたちは連れだってロンドン郊外にピクニックに出かけた。

 空が青く高い。上空を雲雀の小さな影がかすめた。遠くからかすかにその黄金色のさえずりが旋回しつつ降りてくるのが見える。その姿は雲間に紛れてわたしたちのところからは見えなくなった。

 歩いていく途中、石の上に腰を下ろした長い灰色の髭の浮浪者がエメリンとわたしの前を歩くダーウェントの袖を掴んだ。ダーウェントはにっこりと微笑んで、上着のポケットに入っていた林檎をひとつと、財布の貨幣をすべて彼にやってしまった。

「道端の浮浪者すらもダーウェントが好きみたいだ」

 スミスが囁いた。ほかの四人はダーウェントの前を歩いていたのだ。

 わたしたちは、川沿いの草原で食事の支度を始めた。

 普通、火おこしは紳士の仕事だが、〈レイクランド・ソサエティー〉では淑女が名乗りを上げても誰も何も言わない。初めての経験だったので、風の力を利用しながら火を大きくするやり方を男性陣が教えてくれた。もちろん、長いドレスの裾に火が燃え移らないように細心の注意を払いつつ。

「これこそ湖水地方レイクランドらしいレジャーだ!」

 外出用の軽快なカンカン帽を被ったポールが笑った。

「そもそも、なぜ〈レイクランド・ソサエティー〉なのですか?エメリンから初めて聞いたときは、本当に釣りかハイキングでもするサークルなのかと思ったの」

 わたしは皆に聞いた。

「それならダーウェント卿に入会資格はなさそうだな」

 みんなからリッキーと呼ばれているリチャードにそう言われて肩をすくめたダーウェントは、身体を動かすのが恐ろしく苦手だったのだ。そういえば、テニスにもダンスにもほとんど参加しない。

「湖水地方をこよなく愛する散策同好会とはよく間違われますね。実際に湖水地方から連想してつけた名前なんですよ。かの有名な湖水派詩人レイク・ポエッツ―ワーズワースやコールリッジのことですね―彼らは今世紀の初め頃、湖水地方の雄大な山々を歩きながら思索に耽り、一七九八年の詩集『叙情民謡集』のような偉大な傑作が生まれた。つまり、彼らのように身体を動かして偉大な自然に学び仲間と語りあうことこそが健全な創作に対する態度だと考えたわけ。ワーズワースも言ったでしょう、『妹よ、書物を捨てよ。』とね!」

「大抵は酔っぱらったうるさい学生がよく通るジョージの下宿か、山猫軒の牙を剥き出した猫の絵に睨まれながらの開催だけれどね」

 ジョージが説明すると、エメリンが悪戯っぽく付け足した。

 特に地元出身の大詩人ワーズワースのことはわたしもよく知っており、幼い頃からその詩に親しんでいたが、こうして光差す草原に座って感覚を楽しませながら話しているとその思想には説得力があるように思われた。今わたしは本を、舞踏会でダンスする暇も惜しんで夢中になった本を家に置いて太陽の下にいる。

 白いシートの上に籠から出したマグや皿が並べられていく。誰も下僕やメイドを連れてきておらず、すべて自分たちで準備をするのだ。青りんごのような香りのエルダーフラワーのコーディアル、ふわふわのスポンジケーキで作られた冷めてもおいしいチャンセラーズ・プディング、さくさくと崩れる甘いスコーン、こってりしたクロテッドクリーム、歯ごたえのいいきゅうりや卵が挟まれたマスタードの効いたサンドウィッチ。

「ねぇ、ポール?あなたはシェイクスピアの描くヒロインたちがリアルだって言うけれど、それは男性作家から見た女性の理想像に過ぎないのではないかしら?」

 エメリンが伸びをするついでのように、ピクニックの輪に議論の種を蒔く。一同は喜んで水をかける。

 いずれ話はシェイクスピアからエリザベス朝演劇、一八世紀の小説からロマン主義へと至るだろう。コーディアルのコップを何度も口に運んだので、甘さがかすかな頭痛に変わった。ただ名前を知っているだけでは上手くカードは出せないのだ。

 遅めの昼食後、誰もが自由に使えるように川岸に繋いである三艘のボートに乗ろうということになった。ポールとリッキーは釣具を持ってきていた。なんとなく、わたしとダーウェントはふたりで同じボートに乗り込んだ。エメリンが一緒に乗ろうとしたスミスの腕を押さえるのが見えた。

 淡い灰がかった緑の柳の葉の合間に金色の日光が差し込む。水に映った細長い影の震えと何かを隠しているかのような川床を赤褐色に変える光のゆらめきが音楽となって聞こえる。うつむいたために長く垂れた柳の髪を受け止めるように、水面が楽しげに波の手を差し伸べてさざめいた。ボートが揺れ、オールが船体に当たるくぐもった音がする。ふたりして見つめあいながら心地よい場所、体勢を探った。まるでシカモアの鍵型の種子か綱渡りのようだ。わたしは喜んでオールを取り、ダーウェントは寝そべるようにして向かいの白いクッションの上に座った。ボートはゆらゆらと川の中央に滑り出した。後ろを振り返ると、皆はまだ舫い杭の付近でのろのろしている。


ああ、君は上の道をゆき、僕は下の道をゆく

スコットランドに着くのは僕が先

しかし苦難が起こり、多くの人の胸は痛む

ああ、ローモンド湖のきれいなきれいな岸辺


 ふとダーウェントが歌を口ずさんだ。

「それは何の歌?」

「スコットランドの民謡。グラスゴーの北にあるローモンド湖に伝わっているんですよ」

 ダーウェントはそれらしくスコットランドの訛りを再現してくれた。その柔らかくややかすれた声が耳に触れると、胸がざわめいた。きりきりと空まで伸びて水辺にまっすぐ落ち込む峰の紫色の旋律だ。

「スコットランドが前世紀に併合される前、最後の戦闘と言えるカローデンの戦いでイングランド側の捕虜になった兵士が恋人との最後の別れを詠ったという話がある。恋人は生きて山道を通ってスコットランドに戻るけれど、兵士は地下の道を通って―つまり、死んで彼女より早く故郷に帰るんだ」

「なんて悲しい歌。でもどうしてか、とても惹かれる気がする」

「本当にね。僕も民謡のなかではたぶん、いちばん好きですよ」

 ダーウェントとは、いつも丘を越えて青空へ漂っていく淡い煙突の煙のようにおぼろげな会話ばかりしている。考えてみればこの人について未だによく知らないのだ。わたしはオールから手を離して、持ってきたミルクティをカップに注いだ。陽光に照らされてその金髪が淡く輝き、ブルーベル色の瞳に睫毛が金褐色の影を落としている。

「そういえば、ダーウェントは大学でどんな勉強をしているの?」

「フィオナが書いているような世界を研究しています。そう、スコットランドの伝説やバラッドや民間伝承の世界。ゲール語も勉強していますね。中世詩の贋作を行った詩人がいたでしょう。僕はいつかあんなことをやりたいんですよ」

 ダーウェントは急に饒舌になり、瞳を輝かせて語り始めた。

 前世紀に、自身が創作した擬古体の詩篇を架空の十五世紀の人物トマス・ローリーの作品と偽って発表した若き詩人トマス・チャタートンがいた。彼は貧窮に喘ぎわずか十七歳で命を絶ってしまうのだが、悲劇性も相まってその早熟な才能は後の世に高く評価される。生まれ育ったブリストルの教会の敷地内にある記念碑や安置されていた古文書によって古語での詩作を覚えた天才少年の頭脳には、遠い過去と言うにはあまりにも鮮やかな中世の世界が息づいていたのだ、薊にタータンにバグパイプ。目の前の金髪の若者の心の眼には、北の地の荒涼とした峡谷グレンが広がっているのか。

「ダーウェントは、どうしてそんなにスコットランドが好きなの?」

「小さい頃、国境近くのハドリアヌスの長城のところまで父が連れていってくれたことがあって。そこで見た景色が忘れられなくてね。スコットランド人の乳母から教わった民謡や伝説が一度に胸を駆け巡るようで」

 わたしは思わず絶景のなかにいる幼いダーウェントを想像して微笑んだ。

「そうだった、そういえばわたし、ダーウェントの家族の話を聞いたことがなかった。お兄さんと弟さんがいらっしゃるんでしょ?ねえ、今度湖水地方のお屋敷に招待してちょうだい。せっかく近いのだし」

 すると、ダーウェントは不意に目を伏せて笑った。

「そのうちにね。まあ、家族の話はよしましょう。今ここにはいないんだから」

 今ここにはいない。その赤い唇がこの言葉を発したとき、ふと冷たいものがわたしの胸に降りた気がした。

 辺りはあまりにも静かになってしまった。ずっと後ろでエメリンが水をかけられて笑う声がした。

「―ダーウェント、髪の毛を編んでみてもいい?」

 わたしは、できるだけボートが揺れないように注意しながら背を向けたダーウェントに近づく。金色の髪は和毛のように柔らかく、蜜蝋によく似たフランキンセンスの石鹸の匂いがした。黒いヴェルヴェットのリボンをほどき、持ち歩いている小さな銀の櫛で髪を梳く。数え切れない日々、妹やエメリンにしてきたように優しく、指を操り耳上から首の後ろまで編み込んだ。きつく編んだ髪を夕方にほどいてできる癖は木の幹にナイフで刻んで尖ったイニシャルが年月によって丸くなってゆくのに似ている、しかしこれはたった一日でかかる魔法だ。

「舞踏会なんかより、ここにいたほうが楽しいな。ずっとここにいられたらいいのに」

「このまま川を下って駆け落ちごっこする?」

 ダーウェントが急に身体を起こしたので、ボートがゆらゆらと揺れてカップのミルクティが少しこぼれた。わたしたちは笑い、ワルツを踊るときのように身を寄せて膝立ちで手を取りあった。

「それは名案ね。わたしを連れ出してみてよ。今日みたいにこんなふうに、ずっと仲良くして」

 わたしは今日のようにいつまでもこのまま遊んでいたいのだというつもりなのだった。ダーウェントもそう受け取ったはずなのに、ただ笑ってまた向かいに座った。さざ波がまたひとつ生まれて消えた。

 ほっそりと華奢なダーウェント、額のあたりにわずかに歪みを浮かべながらも、その比類ない美しさはステンドグラスの天使のよう。ふいにスミスの言葉を思い出した。「あのひとは子ども時代の箱庭に捕らわれたままなんだ」

「おーい!ふたりとも、そろそろ川辺で魚を焼かないか?」

 そのとき、ポールの呼ぶ声が聞こえてきた。振り返ると、一緒に乗っていたリッキーが後ろから彼にじゃれつくのが見える。ボートがぐらぐら揺れ、立っていたポールがどぶんと川に落ちた。ポールが立ち泳ぎしながら浮かんだカンカン帽を振ってみせると、ほかのボートの一同はげらげら笑った。

「そろそろ戻りましょうか」

 ダーウェントはやっとこちらを見て、笑い混じりに言う。

「流れ着くオフィーリア姫がふたりだなんて、宮廷人たちからしたらあまり有り難くないでしょうからね」

 ボートから下りた後、今日は機嫌の悪いところを見せてしまった気がするとダーウェントは謝った。名残を惜しむように急くように思わず互いに両手を合わせたとき、幼い頃に台所でこっそり噛んだ甘草のように舌には残らない溶けゆくような甘さが心をかすめた。手袋は食事場所に置きっ放しにしていた。紳士淑女はこんなことはしない、少なくとも子どものようには。だがわたしたちは紳士淑女ではなく、アダムとイヴですらないのだ。巣のなかでぬくめあう羽根もつ生きものが最も近いところで、互いの境界すらわからないような心地だった。わたしは相手を抱く力をやや強くした。しかし、きつく縛り上げられたコルセットの感触に気づいたらしいダーウェントは、軽く背中に手を置いたままだった。

「また新しい話が載ったよ。読んで」

 食事場所へと戻る小道を歩き出しながら、また表情を変えてダーウェントが言った。差し出すその手には今週の『エディンバラ・リテラリー・マガジン』。

「あなたも何か書き終えたら見せて。約束」

 その晩、夢を見た。

 ここは確かにスコットランドだ、とわたしにはわかった、夢のなか特有の洞察力で。風が強く、辺りにはミルクのような濃霧が立ちこめていてただひたすらに白い。足下を踏みしめているはずなのに横になって何かを抱きしめているような感覚もあった。柔らかく小さく温かな生きもの。その感覚はすぐさま誰かの手を握っている感触へと変わり、わたしはダーウェントだと実感する。その手は柔らかくて温かくて、何かが溶け出して自分にまっすぐ向かってくるかのようだった。しかし、それはお湯のなかでふいに感覚がなくなるようにその存在自体が消え去ってしまうことをも意味する。わたしは急に恐ろしくなってその名を叫んだ。気づくと、そこは自分のベッドのじっとりと濡れたシーツの上だった。

 わたしは起き出して書き物机に向かう。寝ているあいだに呼吸が止まっていたようで鈍い頭痛があった。書きたいことがあるのに、ペンからは一文字も生まれない。きっと目が開かれるのがあまりにも遅すぎたのだ。

 翌日、ダーウェントが家まで話しに来た。ベッドから起き上がり、白く切り取られたカーテンの隙間から覗くと、下で下僕と話すダーウェントが見えた。しばらくその場を動こうとしない。が、この世界のルールでは、主人がいないと言ったらいないのだ。その影の濃い後ろ姿を見送りながら、ロトン・ロウで馬上のわたしを見かけてわざわざ道路を横断してやってくる姿を見るよりもっとずっと気持ちが良いと思った。上等な絹を裂くときより、白いパンを握り潰すときよりも。そう、傷に塩を擦り込むような真似はやがて快感となって習慣化する。そしてわたしたちには決してルールを破ることなどできない。



 そしてまた、こうしたことが噂にならないはずはなかった。<レイクランド・ソサエティ>は大きな団体でも過激派として当局から目をつけられているような団体でもなかったにせよ、良家の若い娘がおおっぴらに関わって良しとされるような集団ではない。反帝国主義的思想や婦人参政権、非国教徒に関する議論もしばしばなされていた。「不可知論者の集まりよ」母は言い、それに関してはビーチャム夫人と見解が一致した。その言葉を口に出してみたかっただけだろうけれど。仲間たちは誰も社交界の噂話など気に留めなかったが、やがてそれよりもさらに気がかりな話をわたしは確かな情報源から聞くことになった。

 ある日の午後、わたしがリバティ百貨店近くのティールームで待っていると約束どおりの時刻にエメリンが現れた。

「ごきげんよう、メリッサ。あなたのほうが早いなんて、今日は午後から雨でも降るかしらね」

「からかわないでよ。ほら、きっと今週でいちばんのいいお天気じゃない」

 店の窓を振り返ると鉢植えのゼラニウムの濃いピンクが金の日光の溜まりに溶けていた。わたしたちは、楽しみにしている『ストランド・マガジン』で連載中の探偵小説の話や、エメリンが書こうと思っている新しい物語の話など、いつものように文学の話に花を咲かせた。レース模様のティーカップ、おそろいの皿に夏らしいゼリーでくるまれたオレンジの載ったケーキが来ると、それが合図のようにわたしはフィオナ・スコットの最新の短編について触れてしまった。

「最近、本当に彼の話が多いわね」

 わたしはダーウェントのことをペンネームどおりに'she'(彼女)と呼んだが、エメリンのほうはいつでも彼だった。

「あなたたちがとても仲良しなのは誰の目から見ても明らかよ。まったく心配になるくらい」

「エメリンが心配する必要なんかないと思うけど。だってわたしたち、本当にいい友だちなんだもの」

 エメリンの話しかたはプディングによく似ている。熱々として何か大袈裟なもののように見えるが、その実身体によくて健康に必要不可欠なのだ。

「ただの友だちならばいいけど、もしも彼を愛していて求婚を待っているのなら万事平穏には運ばないわよ、って言いたかったの」

 求婚。

「結婚するだなんて、まったく考えたことなかった。それに、問題ってどういうこと?教えてよ、エメリン」

 エメリンは、小さな鞄から新聞の切り抜きを取り出した。王室や社交界の名士がああしたこうしただの、スキャンダルが主な内容という三流紙だ。エメリンはこうした話に積極的に口を出す軽々しい人間ではないのだが、わたしとは違って社交上の話題として仕入れている。彼女が指差した枠のなかに、ダーウェントの兄―カンバーランド公爵の一番上の孫息子であるクラレンス・ウィリアム・ローランドに関する醜聞が書かれていた。彼には会ったことはないものの、舞踏会や競馬場でその姿を遠くから見かけたことはあった。貴族の子弟が伝統的に大学卒業後に送られる大陸周遊旅行グランド・ツアーから戻ってきて、王室近衛連隊ハウスホールド・キャヴァルリィに入ったばかりという長身で見栄えのする若者だ。

「『カンバーランド公の孫息子が若いメイドと許されざる恋。婚約発表も間近か』ですって。今ロンドンじゅうがこの話題でもちきり。知らないのはあなたくらいよ」

 エメリンは身を乗り出してわたしの目を覗き込んだ。

「大学を出たばかりの有望な貴公子なら身分違いの恋をしたところで、社交界から追い出されたりはしないでしょうよ。それどころか、物珍しく思って応援する人だっているかもしれない。ただ、ひどい醜聞であることは確かだし、家の格が落ちると見なされてしまうとなると、次男とあなたの結婚は難しくなってしまうかもしれないのよ」

 エメリンの言葉の意味はよくわかった。しかし、自分が結婚するということがどうしても想像できなかった。ダーウェントとも、誰とも。

「それにね、あのお家がどこか変わっているという話をビーチャム夫人から聞いたわ」

 エメリンは続けた。

「知ってのとおり、ローランド家はノルマン時代まで遡れるたいそう古い家で、もともとの所領は湖水地方のあなたのおうちの近くにあるの。おじいさまであるカンバーランド公にはひとり娘しかいなくて、その方と爵位継承権のある遠縁の若者が結婚したことによって相続問題は解決したことになっている。彼らがダーウェントたち四人兄弟のご両親ね。お父上は身体が弱いということで、北のほうの空気が綺麗な保養地にいらっしゃるの。でもそれは表向きでご夫婦の仲は険悪、愛人と一緒に暮らすためだという話があるわ。それで、四人の子どもたちを育てたのはおじいさまであるカンバーランド公というわけ。公爵はお忙しいからすべてを使用人に任せて、子どもたちだけで、山奥の陰気な館で。ダーウェントがときどきひどく辛そうなのは、不幸な育ちかたのせいもあるのでしょうね。いつもはあんなに感じよく明るく見えるけれど」

 ここで彼女は言葉を切った。

「要するに、ダーウェントは夫になって堅実に生きていくのには向いていない人だと思うわ。あなたがそんなことを気にしない人だということは知ってるし、そこが好きなところよ、メリッサ。でも心配なのよ」

 コース料理の皿で順繰りに頭を思いきり叩かれていったような気分だった。兄の不祥事。家庭の不幸。憂鬱質の気質。そして結婚。最後のひと皿があるなんて知らなかった。いつもは黙って見守っていてくれるエメリンが口を出すのだから、よほどのことなのだろう。

「エメリン、わたしたちは結婚なんかしなくちゃいけないの?本当に、淑女には家庭に入る道しかないの?」

 わたしの声に、エメリンが目を見開いたまま眉をひそめる。

「メリッサったら、そんなことを考えていたの?あると言えばあるし、ないと言えばない。人それぞれよ。世間の目を考慮しなければね」

 フォークを置き、纏まらない思考を束ねて言語化しようとしたが成功しなかった。ただオレンジが苦い。

「いいの。忠告ありがとうね」

 わたしは唇を噛んだまま口角をを上げた。 

 パーティとお茶会の日々をこなしていくことは雛菊の首飾りを編んでゆくようだ。繋ぎあわされた花はただの紐のままでは済まされず、最後には望ましい男性との結婚という形で円として完成される。そして円には終着点などなく、わたしたちは永久に回り続けるだけだ。今までぼんやりとそうなるだろうと考えていたことが、もうすぐそこまで来ている。

 ロンドンじゅうの若い娘を持つ母親たちが、露骨に言えば金持ちで理想を高くすれば爵位持ちの適齢期の男性を罠に掛けようと泳ぎまわっているのが見えてくるようだ。

「ほら、ご覧なさい。クラレンス・ローランドさまよ」

 白い大理石の階段上で、羽根飾りつきの扇たちがざわめくのを見かけた。

「確か、ご親戚の女性の衣装係のメイドが相手だとかいう話よ」

「玉の輿を狙うだなんて、まるでサッカレーの本に出てくる悪女ね!あの方、次はどこの舞踏会に呼ばれるのでしょう」

 意識してみればこのような噂はいくらでも耳に入ってきたが、それでもわたしには、弟より鋭い角度を持った端正な顔立ちをした暗褐色の髪の若者が身分違いの恋愛に身を投じるという情熱的なことをやってのけるような人間には見えなかった。彼はスキャンダルが発覚したために、かえって招待状の数が増えたようだった。

 わたしは新しくあつらえたルビーの首飾りをつける。耳にはあの金の耳飾りも。ダーウェントは、新しいドレスや丁寧にこてで巻いた髪に気づいて笑ってくれる。階段下で静かに待っている。わたしは掬い取られる。その様は落ちてきた果実に似ていて。ふたりは踊りはしない。



 バーバラとわたしはメイドを連れて、花で溢れるロンドンの街を歩く。縞模様の橙色のドレスの上で明るい褐色の髪が跳ねて、右に左に揺れては回る白い日傘が想い人がいることを物語る。

「恋文を頂いたの!殿方に手を取られるのって、ほんとに幸せ」

 バーバラが眩しい陽光に照らされて振り向く。

「ねえ、メリッサにはそんなかたがいないの、たとえば……ローンズリ-氏とか?あのかた本当に優しくて紳士ね」

「どうかな。恋心は秘めておくものよ」

 わたしはつまみ上げたスカートをくるくる回した。

「それか、ダーウェントさま!メリッサはあのかたを愛してる?」

「バーバラ、しつこい」

 わたしたちがじんわり汗を滲ませながら戸口をくぐるのは小さな小さなティーハウス。緑のつやつやしたドアで、なかにはソファや低いテーブルに混じって大きな本棚がずらり。紅茶や焼き菓子を頼むこともできるこぢんまりした店で、今時はやりの貸本屋の類いだ。<レイクランド・ソサエティー>の仲間たちとここで集まることもしばしば。

 バーバラはつい本に夢中になってしまうわたしに呆れ顔だが、今日は彼女の恋物語を聞きに来たようなものなのでおあいこなのだ。

 いつものように詩集の棚に近寄ったとき、後ろからさっと手が伸びてわたしは思わず声を上げそうになった。スミスだった。

「なんだ、ミスター・スミスだったの。驚かさないでよ」

 スミスの水色の目は奇妙な翳りを帯びていた。

「ダーウェントが逮捕されたんです。今留置所にいるって彼の執事が」

「待って、妹に聞かせたくない」

 わたしはすべて了解した。状況は何ひとつわからないが、どうやら行かなくてはならないらしい。

「とにかく本当なんだ。ダーウェントが何かしでかして、捕まった」

 わたしはメイドにバーバラを任せて、スミスとエメリンの家に行くことになった。

「奴が何か悪事をしでかしたということは考えにくいなあ」

 道中、わたしに腕を貸しながらスミスは見解を述べた。

「トランプでしこたま擦って借金を作る。ホワイトチャペルだかにある阿片窟に行って廃人同然になる。インド産のダイヤだかの宝石を変なルートで手に入れて、それが盗品とわかって大騒ぎになる。そんな悪徳には奴は興味がないからね」

 彼はいかにもありそうな事例を並べ立てて言ったが、慰めにはならなかった。

 集まった<レイクランド・ソサエティー>の仲間たちは、ダーウェントが掛けられている嫌疑について低い声で話していた。彼らは重苦しい空気のなか話を続けたが、わたしは加わる気になれずに背を向けた。

 わたしたちは悶々としながら数日待った。やがて、ダーウェントが釈放されたとの情報が入った。その一連のニュースは具体的ではなく、明らかに人々の目線を感じはするものの、どの新聞にもその名は載ることがなかった。ジョージの予想では、公爵が動いたのだろうということだった。

 下僕に部屋まで通されると、ダーウェントはソファに腰掛けて葉巻を吸っており、わたしたちに向かって手を広げた。

「こんなのってないよ」

「ダーウェント、何をしたんだ」

「久しぶりに会って第一声がそれはおかしいだろう。悪いことをした前提で話すのはやめてくれよ」

「いや、君がそんな様子じゃそりゃ説得力があったもんじゃないぜ」

「祖父が送り込んだ弁護士が何とかしてくれた」

 ダーウェントはそれ以上何も言わなかった。噂は噂だ。この世界のルールでは、仲間内から話が漏れ出さなければすべてなかったこととなる。世間でほかの階級の人々の口にまで上るようにならなければ、醜聞にはならないのだ。

「よくあることだよ。パブリックスクールでは当たり前のことだった」

 皆で待っていた数日間、スミスが部屋の壁に向かってそう呟いたのが胸に跡を残した。

「愛に境界などあってたまるか。愛は自由なものだ。何が真実であろうとね」



「メリッサに似合うのは上半身が総レースで白薔薇のついたドレスよ、そうに決まってるわ。ねえ、バーバラ?」

「違うわ。何度も言うけど、レースは首もとだけのほうがこの子らしくて清楚よ。イザドラの趣味は何というか、新大陸的だわ。ねえ、バーバラ?」

「あなたってとても優しいのね。わたしが派手好みすぎるってわざわざ忠告してくださっているんでしょう。感謝するわ」

「まあ、せっかく褒めてあげたのにそう聞こえないなんて、残念だこと!―ねぇ、メリッサはなぜさっきから何も言わないの、あなたの話なのよ?」

 ぼんやりと心を遊ばせていたわたしは、漁師の網に掛かったかのように一気に現実に引き戻された。居間のテーブルでは両端に陣取った赤の女王白の女王が睨みあい、ふたりのあいだには今秋の女性向け雑誌に掲載されたファッションプレートのウェディングドレスのページが開かれている。挟まれたバーバラが気の毒だ。目を逸らすと、マントルピースの上の海泡石が見えた。

「もう、お母さまもビーチャム夫人もやめて。結婚式までまだ半年以上あるのに」

 女性というものは、他人に降りかかった出来事をまるでみんなで遊ぶ金の鞠か何かと勘違いしているとしか思えないときがしばしばある。<メリッサの婚約>と書かれた輝かしい鞠は母の手を離れて空中に打ち上げられ、ビーチャム夫人がそれを奪い取ってバーバラに投げつける。わたしは妹の手に渡る前に鞠を取り返して自分の手もとにしまった。いつのまにやら手垢だらけだ。

「だって、舞踏会に行っても本ばかり読んでいたメリッサがようやく求婚されたんだもの。みんな驚きよ」

 バーバラがからかうように言う。そしてまた鞠は宙を飛び交った。

 ボート遊びから一週間が過ぎ、わたしは―いったいどのようにしてだろうか、婚約していた。まるでそのまま失神していたかのようにすべてはいつのまにか決まっていた。

 ローンズリー氏と初めてダンスしたとき、その手は大きく温かく、わたしの頭はその肋骨に嵌り込むような位置にあった。彼はわたしに求婚し、話はとんとん拍子に進んだ。両親は娘が爵位のある男性と結ばれることを望んでいたが、彼の富を前に口をつぐんだ。一文無し同然の貴族の次男以下と結婚されるより良いと考えたのだろう。家には娘しかいないのだから。

 ダイアモンドが嵌め込まれた縄模様の金の指輪をいじるのがわたしの新しい癖になった。知的な娘が好きだと言ってくれる男性は初めてだった。この大きな宝石に映るたくさんのわたしの像は、従順で可愛らしいだけの娘ではない。しかしどれも女だ。その手を素直に取ることさえできれば!

 そして、ダイアモンドのDはダーウェントのDだ。指輪をいじりながら浮かび上がるそんな連想を打ち消そうと心を砕くほど、わたしは誠実にはなれない。



 パレードの朝、わたしはいつもより早く目を覚まして寝間着のまま屋根裏に上った。立てつけの悪い出窓を開けると驚いた鳩が飛び去った。金の光に濡れたような重なりあう屋根の向こう、式典が執り行われるセント・ポール大寺院の丸ドームの影がくっきりと浮かび上がってみえる。淡い水色の混じるクリーム色の雲のたなびきに温かい鳥の胸に似た匂い、今日はよく晴れるだろう。家々のバルコニーから垂れるユニオンジャックや花綱、翻る色とりどりの吹き流しで溢れた街を見ずとも人々の熱狂は想像できた。王族のパレードをいちはやく見ようと、数日前からバッキンガム宮殿の塀の外で寝ている人もいるらしいとメイドたちが話しているのを聞いた。

 きらきら輝く屋根の道を通って、どこか遠くに行けたらいいのにね。こうひとりごとを言った。コマドリの卵色の薄青いシフォンのドレスにしようと考えながら、家族が目覚めるまでじっと待った。昨夜遅くまで書き物をしていたのだから、今日くらいは休んでもいいものだろうかと考えごとをしながら。

「今日十一時に女王陛下が宮殿を出発される前、電信で大英帝国全体にお言葉を発表されるそうだ。海底電信ケーブルを通って、何マイルも先のインドや北米にまで一瞬でだ。まったくすごい時代になったものだよ」

 朝食に降りていくと、新聞を読んだ父が目を輝かせていた。女王御自らが打った黄金のメッセージのアルファベットのひとつひとつが人間には見えない何か不思議な暗号に姿を変え、急降下する隼のすばやさでロンドンの通りを走り遙かな海を滑り、ふたたび解読可能の言葉となって順序正しく紙の上に滴り落ちる。それと似たことをわたしとダーウェントはこのひと月続けてきたのだった。物語や詩のなかの、ときおりきらめく翡翠の羽ばたきのような、ただふたりだけにしかわからない合図で。できることなら名づけてしまいたくなかったものを、わたしは命名で掬おうとしていた。

「わあお、とんでもない人ね。メリッサ、迷子になっちゃだめよ!」

 その数時間後、わたしはエメリンとともにウエストミンスターまでの路上を歩いていた。わたしが珍しくエメリンを誘ったのだ。多くの上流階級の人々は邸宅の白いバルコニーやティーハウスのテラスで優雅にパレードを鑑賞した。ほとんどはその黒光りするトップハットや最新流行のドレスを見せびらかすためだったろうが、群衆でごったえ返した敷石の上でもみくちゃにされたくないという建前も信じてしまえそうな混雑ぶりだ。ダイアモンド・ジュビリーの小さな旗を持った人々がどよめき、物売りが記念品のマグや安物のぴかぴかしたメダルを売り歩く声が響いた。わたしとエメリンは何度か手に持った日傘をなくしかけた。

 そんな混沌のなかでもわたしはダーウェントのことをひたすら考えていた。群衆のなかのあるまなざしや顎の線だとかに類似した何かを見出し捕まえたと思ったとたんに、その姿は砂に描いた絵のように消え去ってしまうのだ。帽子が照りつける太陽で温まり、アリスにきりきりと締めさせたコルセットの内側に汗が滲んだ。

 ダーウェントは、花綱の結びつけられた街灯のそばにひとり立っていた。フロックコートを羽織りステッキを持ち、何か違和感があると思えば、山高帽の下の髪は短く切られていた。大勢の人のなかにその姿は際立って見える。わたしはダーウェントの視線の先を追う。道の向こうには騎馬の若者。赤い軍服に銀の胸当てが眩く、金色の房の揺れる兜の下から形の良いほっそりした顎が覗いている。ダーウェントの兄だ。美しく若い男は大英帝国の栄光を背負って燦然と輝く路地を過ぎていった。

 あなたにひとつ聞きたいことがある。どうして、どうしてわたしをそんなに気に入ってくれるのか。

「ダーウェント!」

 わたしは叫んだ。ゆっくりと―遅すぎると感じられる速度でダーウェントは振り返り、帽子に手を掛け微笑む。よくこんなふうに笑う、まるで相手が世界でいちばん会いたかった人だとでも言うように。

「メリッサ。よく僕を見つけられたね?」

「ダーウェントに言わなくちゃいけないことがあるの。お願い、今聞いて」

 わたしはその手を取る。

「ダーウェントはわたしを好きでいてくれるの?」

 自分の声に限りなく媚びに似た響きを感じてふと嫌になった。

「僕はいつでも好きですよ。急にどうしたの?」

「わたしね、求婚されたの。前に話したローンズリー氏に」

 やがてただならぬ気配を感じ取ったらしい相手に怪訝な表情が浮かぶのを見る。指輪のダイアモンドが日を浴びてきらめく。

「女王陛下だ!」

 そのとき、誰かが叫んだ。群衆が一斉にどよめく。下がれ下がれと怒声が響き、騎馬の近衛兵が彼らを制する。立ち並ぶ銃剣が女王を守る無敵の柵のようだ。

 ダーウェントの青いほど白い顔が群衆のなかに奇妙に浮かび、その唇が何かを言いかける。そして人に押されてダーウェントの顔は見えなくなった。いったいどのくらいの時間が経ったのだろうか。やがて馬のいななきが聞こえ、エメリンがわたしの冷たく汗ばんだ手を掴んだ―。

 気づくと、玄関ホールのソファの上にいた。母が眉をひそめて、ハンカチでわたしの額の冷や汗を拭っていた。そばにはエメリンと知らない紳士が話している。わたしはあのとき失神して、誰か親切な人がエメリンとともに家まで運んできてくれたようだ。ダーウェントはどこにもいなかった。わたしが倒れる前にはぐれてしまったのだ。あるいはあれは元からわたしの幻想だったのか。

「コルセットを締めすぎたのね。かわいそうに」

 母はわたしの髪を撫でつけながら言う。いつもはしっかり締めろと言うくせに。手の力が抜けて持っていたノートブックがばさりと落ちた。

 その夜、ロンドンの灯火はひと晩じゅう消えなかった。お祝いのかがり火が金の雛菊の鎖となって英国じゅうの丘を繋ぎ、闇を照らし続けた。これは平和な時代の狼煙、沈まない大英帝国を象徴するものだ。それだのに、わたしは自分のランプをすぐ近くにあるように見えた丘の上の人に示しておきながら、自らかき消してしまったのだ。



 夏の薔薇が凋んですべてドライフラワーに変わる頃に社交期は終わりを告げ、上流階級の人々はそれぞれの田舎の邸宅へと引き上げていった。今度は田園を舞台に地主のスポーツである狩の季節が始まるのだ。

 パレードの日から後、二度とダーウェントの姿を見ることはなかった。<レイクランド・ソサエティー>の仲間にもスミスにさえも別れを告げずに雲隠れしてしまったのだ。ドーヴァー海峡を渡る蒸気船に乗り込むダーウェントを見かけたという噂が流れてきたが、ただそれのみだった。

 ところがその直後、ダーウェントの兄が身分違いの恋人と駆け落ちしたとのニュースが大きく報じられたのだ。

 関係者の陰謀だ。兄を廃嫡したくない人間たちに盾にされたに違いない。それで数年海外に留まるつもりなんだろう。ダーウェントは駒として使われたのだ。―新聞やあらゆる客間で語られているだろう疑惑を敢えて口に上らせる仲間の顔は青い。スミスが俯いていた。

 感情が遠い。わたしは思った。耳もとで常に波のざわめきが聞こえているようだ。確実に舵を取っているのは己であるのに、何者かに操られているような気分なのだ。 

 床に入ってもなかなか寝つかれず、わたしは夜も更けた頃になって起き上がり、薄暗いランプの灯りのなか窓に近寄る。黒く冷たい水に似た窓ガラスから青白い自分の顔が海底から現れた人魚のように見つめ返す。ガラスに手を掛けると、指輪と擦れる音がした。

 わたしはダーウェントにどうしてほしかったのだろうか。その両手の温かさはよく覚えているけれど、それは指輪やコルセットが与える波が次第に身体を囲い込んでゆくような感覚には繋がってはいなかった。世間はなぜあの安らかさとおののきの混じりあったものに愛だ恋だのと名づけたがるのだろう。

 ふと胸からももまでに稲妻のようなものが走り、わたしは激情に任せて寝間着を捲ると引き裂くようにコルセットを剥いで投げ捨てた。鉄棒のように並んだ骨と金具が床に当たって鈍い音を立てた。いつもなら、そのままシーツを噛んで熱い涙が湧き出すままにしていただろう。しかし今夜はふと浮かんできた突拍子もない思いつきに高笑いしたいくらいだった。

 冷たい石の指輪は寝る前に外されて、書き物机の上に置かれた。



「メリッサ!何も言わないで……」

 馬車から降りたエメリンが小走りに近づいてきてわたしを掬うように抱きとめる。母に呼ばれたのだ。

 そしてそのままカーライルから汽車に乗って北へ―スコットランドに向かう。エメリンの親戚が低地地方に住んでいて、招待を受けたのだ。

 エメリンは先ほどの禁止を自分にも課しており、その通りに何も言わなかった。メリッサ・ティーズデールのロバート・ローンズリーとの婚約破棄は、ダーウェントの兄の出奔の影に半ば隠されていたとはいえ醜聞に変わりはなかった。

 軽度の憎しみはともすれば重大な好意に変わりやすい。殊に自分のペースを乱されたと感じることによって生まれる反感は。

 ダーウェント・ジェームズ・ローランド卿は、座って本を読み物語を書いていれば満ち足りていたわたしの前に現れた知の旗だった。もしもあなたになれないのなら、あなたの持っているものを得られないのなら、あなた自身を繋ぎ止めてしまいたいと考えたのがまず、誤りだった。

 顔に窓の格子の影が掛かり、降りた駅で買ったチョコレートの包み紙とオレンジの皮が西日に照らされ輝く。手すりのつややかなマホガニーの金を帯びた赤褐色。列車がただひたすらに押し流してゆく国境地帯ザ・ボーダーズの丘陵の緑。ふとポケットに手を入れると、金の耳飾りが入っていた。それを太陽にかざして弄ぶ。わたしはダーウェントが初めて書いた物語を思い出した。数ヶ月間心を支配した霧の向こうから、うっすらとふたりの少女の姿が浮かび上がってきた。

 遥かなスコットランドの野に遊ぶ少女たち。魔法。妖精の輝き。わたしのペン躍る。

 ある物語を初めに作り出すとき、光あれと言って虚無から生み出すのではない。物語のほうからやってくるのだ。幻灯機にガラスのスライドを挿し入れるように、ばらばらの場面が後頭部に降りてくる。それらを順序正しく並べて言葉をつけていくのはその次だ。

 わたしはわたしと駆け落ちする。これは、もしかすると今まででいちばん長い手紙になるかもしれなくて、あなたにはきっともう捧げられないお話だ。

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My Heart Leaps Up 酔人薊Evelyn @birdlady_kochi

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