開けて(2/2)
気が付けば、あたしは保健室のベッドの上だった。
真っ白いシーツが、この身を包んでいる。
「起きた?」
すぐ傍から、優しい声が聞こえた。
首だけ動かすと、ベッドのすぐ傍に、沙耶がいた。
「う、ん」
あたしが体を起こそうとすると、沙耶が手を伸ばした。
「まだ、安静にしてたほうが良いよ。その、結構ショック受けてたみたいだし」
その言葉で、徐々に記憶が戻ってくる。
――そうだ、あたしと仁は階段を下りていて、それで、その途中で仁が……。
「仁は、――仁は、どうなったの!」
普段からは想像も出来ないほど、ヒステリックな声を上げて、陽夜は沙耶を問い詰めた。
「大丈夫。大丈夫だよ。ちょっと前、病院に運ばれたから、大丈夫だよ。
今、貴理が病院に先生と一緒に行ってるから。何か分かったら、連絡あると思うし」
大丈夫、大丈夫と、優しい彼女は、あたしを安心させようと言ったが、正直その言葉を信じる気にはなれなかった。
自分は、あの現場に居て、彼が固い廊下の床に頭を打ち付ける音を聞いたのだ。
――あたしの所為だ。あたしが、もっとしっかりしていれば。彼を、支えることが出来ていたら。
自然と涙があふれてくる。
シーツで拭いても、拭いても、拭いても、涙は止まらない。
びしょびしょになった、白かったシーツを手放して、両手で顔を覆った。
「あたしッ! あ、たしが、もっと、しっかり、して、れば……!」
泣いているせいで、上手く喋れない。
「陽夜、大丈夫、大丈夫だから――」
携帯の着信音。あたしのではない。ということは、と沙耶を見ると、彼女がポケットから取り出している最中だった。
しばらくメールを操作して、それから嬉しそうにあたしに見せてきた。
「ほら、大丈夫って、貴理が!」
涙でかすんで、良く見えないが、どうやら、仁が一命を取り留めたらしき内容だった。
――良かった。本当に良かった。
その日から、あたしは仁の元へ通うようになった。
貴理から病院の場所を聞き、放課後は必ず彼のところにお見舞いに行くことにしたのだ。
頭を打った仁は、打ったところを包帯でぐるぐる巻きにされて、静かに眠っていた。
昏睡状態らしく、いつ起きるかは分からないそうだ。
貴理と沙耶はたまに、来るぐらいで、ほとんどあたしが一人で来ていた。
先生から聞いた話だが、あたしと仁の分の学園祭の仕事を、二人が引き受けてくれたらしい。
皮肉なことに、彼が怪我をしたおかげで、こうして二人きりになれたのだ。
だが、あたしはちっとも嬉しくない。
聞きたい声は聞けず、欲しい温もりも貰えず、ただただ彼の安らかな寝息を聞くばかり。
涙は枯れた。
泣きすぎて、涙はもう出ないらしく、今はとてつもない悲壮感を感じているのに、涙は一滴も出ない。
そうしたある日、あたしは夜遅くまで、学校に残ることになってしまった。
理由は学園祭の準備だった。
舞台のセットが完成に間に合いそうにない、ということで、皆で夜遅くまで、学校に居残って作業したのだ。
絵の具で、形作れられたダンボールを、緑に染めていく。
正直、たまにはこうした単純作業も必要だ。こうしたことに没頭して、現実を忘れるのも、生きていくためには、必要なのだろう。
あまりに夢中になりすぎたのか、周りを見渡せば、すでにあたししか、教室にはいなかった。
それどころか、学校の中に、一人だけかもしれない。職員室ですら、明かりがついていないのだ。
――もう、帰ろう。でも、その前に仁のところへ寄らないと。
あたしは、片付けもおざなりに、引き上げることにした。
バッグを手にして、教室に鍵をして、廊下に出る。
病院に行く為に、階段に向かう。
足音。
靴ではない。何か、もっと別の足音が聞こえる。
――そう、たとえば、着ぐるみの……。
音は後ろから聞こえる。
人気の無い校舎。
聞こえる不気味な足音。
最愛の仁を失って、乾いていた心に、恐怖が染み渡って豊かになっていく。
足音はだんだんと、近くなってくる。
恐る恐る振り返ると、そこには黄色い熊の着ぐるみが、直立していた。
夜の闇に、黄色い笑顔が浮かんでいる。
それは、仁が来ていたモノ。
――言いようの無い、形容のしようのない、恐怖。
何が怖いかなんて、自分でも分からない。
だがしかし、意味不明で正体不明の恐怖があたしを支配したのは事実。
百足が背中を這い上がるような感覚。
熊の着ぐるみがあたしに向かって走ってくる。
不気味に笑っている笑顔が、後ろからやってくる!
あたしの足は、恐怖に操られて、むちゃくちゃに動いていた。
だが、理性が飛び、恐怖で支配されたあたしは、逃げるために降りるのではなく、上がってしまった。
階段を駆け上がり、屋上へと飛び出していたのだ。
しまったと、思ったときにはもう遅い。
階段から、屋上へと続く扉を閉めようにも、すでに着ぐるみは、あたしを追って屋上に出てしまっているのだから。
「いや……。お願い、来ないで」
か細い声で、拒絶しながら、あたしは後退していく。
その間にも、熊はじりじりと距離をつめてくる。
背中にフェンスの感触。
――もう、逃げられない。
笑顔が、眼前に迫って――。
けたたましい笑い声。
というか、聞いたことのある声が、その中からしたのだ。
「お前、ビビリすぎ」
着ぐるみが、その頭を取った。
中から、憎たらしい眼鏡が現れた。
「貴理……」
中身の名前を言って、あたしは力なくその場に座り込んだ。全身の力が見事に抜けた。
――次に、小さな怒りが、大きな怒りへと代わっていく。
「ちょっ! 本当に怖かったんだから! シャレになんないわよ、それ! マジで!」
「ごめん、ごめん」
目に涙を浮かべながら、あたしが怒ると、貴理は苦笑した。
「ったく、そんな着ぐるみまで着て。悪趣味にもほどがあるわよ」
「だから、ごめんって。まぁ、お前にとってかなり良いニュースを持ってきたんだ。それで勘弁してくれ」
「良いニュース?」
首をかしげるあたしに、貴理は嬉しそうに笑った。
「仁のヤツ、意識戻ったらしいんだよ」
「え」
――仁が……。
「ウソじゃないわよね!」
「当たり前だ。さっき本人からメールが届いてな。今夜、病院を脱走して、学校に来るらしい」
「な、何でよ」
「学校で一人さびしく内職してるお前のことを、仁に言ったから、だろ」
枯れていた涙が、戻ってくる。
今度は嬉し涙。
歓喜の涙だ。
あぁ、彼に会える。
彼の声を聞ける。彼と話が出来る。
――何よりも、彼の笑顔が見れる!
屋上の夜風と満月が、あたしを祝福してくれていた。
静かな夜は、あたしの小さな笑い声を響かせる。
「僕もテンションあがっちゃって、張り切ってお前を脅かそうと―――」
「もう、それは良いって」
――あぁ、神様。ありがとう、本当にありがとう。
「時間的に、もうすぐ――」
貴理が言い終わるより先に、彼の携帯の着信音が鳴り響いた。
「仁から?」
着ぐるみを上だけを脱いで、制服のポケットから携帯を取り出す貴理。
「残念、沙耶から。そうだ、沙耶も呼ぶか」
小さく笑って、携帯に出た。
「もしもし」
――早く会いたい。一刻も早く。そして、会ったら今度こそ、伝えるんだ。自分の気持ちを。
携帯をポケットに仕舞う貴理。
「朝霧」
「何?」
いつになく、真剣な表情で、貴理があたしを見つめる。
「どう、したのよ。突然。何、もうドッキリは良いから、やめてよ」
けれども、貴理の表情はこわばったままだ。
「落ち着いて、聞いて欲しい」
「な、何?」
僅かな静寂の後、彼が口を開いた。
「今さっき、仁が――死んだ」
――え?
「ちょ、ちょっと待ってよ。だって、あんたさっき……」
――そうだ。おかしい。だって、貴理はさっき仁に意識が戻った、と言ったのだ。そして、彼はもうすぐ来る、と言った。
それなのに、死んだ、というのは。
「あぁ、僕も信じられない。だが、沙耶が、仁の最後を見ている、病院の病室で」
「じゃ、じゃあ、仁は、一度意識が戻って、それから――」
「違うんだ」
あたしの言葉を、震える貴理の声が止めた。
「沙耶に聞いたけど、仁は一度も意識を取り戻していないし、それにアイツの携帯は階段から落ちたときに、壊れてるんだ」
「で、でも……」
「あぁ、あぁ! 確かに、僕はアイツからメールを受け取ったんだ」
――これは、いったい、どういう………。
足音。
「陽夜~」
懐かしい仁の声。
階段を上がってきているのだろう。
でも、この声の主は死んでいる。
「陽夜、屋上におるんやろ?」
――再び、背中を百足が這い上がってくるような感覚。
とっさに、貴理が動いた。
屋上に続く扉を閉め、鍵をかける。
「陽夜」
扉のすぐ向こうがわで、仁の声が聞こえる。
――沙耶は、病院で仁の最期を見ている。貴理が受け取ったというメールは、本来なら、存在しないはずのモノ。
昏睡状態で、しかも携帯が壊れている仁に、貴理にメールを送るなど、不可能なのだ。
「貴理………」
おびえる声で、あたしは言った。
「朝霧、沙耶は仁が死んだ、と言ったんだ。だから、だから、この向こうにヤツは………」
「陽夜」
扉が小さく振動する。
向こう側にいる何かが、無理やりこじ開けようとしているのだろう。
――貴理は、この声の主は死んでいると言った。
ならば、ならば、この扉の向こうに居るのは、一体――。
「陽夜、陽夜、陽夜、陽夜、陽夜、陽夜! 陽夜! 開けて! なぁ、開けて!」
扉が激しく揺れる。
待ち焦がれた仁と、その声はこの扉の向こう側にある。
――だがしかし、あたしたちに、この扉を開ける勇気はない。
「開けて! 開けてって! なぁ、開けろよ!」
N氏の日記 ガイシユウ @sampleman
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