第3話 亜竜と雪原

 魔の森は静寂に包まれた。

 ルナリアは魔物を指している。その指先には、青白い光が灯る。


 リージェンは、吹雪の中に立っているように錯覚した。


 実際に吹雪はない。新たに現れたのは、ルナリアの指の光だけだ。

 頭ではそう理解している。けれど、呼吸も、鼓動すらも許されないと思うほどの、絶対的なものが眼前に広がっている。

 すさまじい圧迫感に思わず後ずされば、足元からざくりと音がした。

 霜が降りていた。

 鼻から吸い込む空気は、痛みを感じるほどに澄み渡っている。


 目には見えない、暴力的な冷気がそこにあった。


──これは、魔法だ。


 霜は、地面を白く染め上げている。

 ルナリアは『雪原』と言った。まさにその言葉通りの光景だ。


 リージェンはこの魔法についてよく知っていた。

 母親が、魔物を倒すときに現れる、美しいもの。

 幼いリージェンは少なくとも、そう認識していた。これを見るのが好きで、両親の務めに毎回ついていったほど。


 だが今、その認識がいかに甘いものだったかを、まざまざと突き付けられた。

 これは脅威だ。強大な力を持つものだ。魔物と同等、あるいは──


(──それ以上、の)


 いつの間にか、リージェンの中から魔物への恐怖は消え去っていた。

 かわりに、心の底で湧き上がるものがあった。それは恐怖でも、畏怖でもない。

 もっと単純で、愚直で、熱い感情。


 母親の後ろで、リージェンはぶるりと身を震わせた。寒さのせいではなかった。

 手は繋がれたままだ。けれど、不思議とその体温は感じられない。きっと自分の手が熱いせいだった。


 周囲の異変に気づいた魔物が、威嚇するように顎を大きく開けた。

 赤い瞳が爛と輝いた。それを合図に、亀裂のような赤い線がムカデの全身に広がっていく。


 異様な変化が魔物にも起きていた。けれど、ルナリアが怖気付いた素振りはない。


 ルナリアの右手を纏う青白い光の輝きは、刻一刻と大きく、強くなってゆく。

 彼女は優雅に笑みを湛え、またひとつ、言葉を紡ぐ。


「種子は此処ここに、糧は其処そこに」


 指先の光が収束し、美しい軌跡を描いて飛んだ。

 同時に魔物が地を滑るようにして後退した。

 だが、それよりも早く、光は魔物の額で弾け、そこに雪の結晶のような印を刻む。


 ミシリ、と軋むような音がどこかで生まれた。軋む音は、初めはかすかに、しだいに確かなものになっていく。


 光に撃たれた魔物は、その身をよじった。印を落とすためか、潔く逃げようとしたのか。しかし、それは叶わない。

 地面を踏む無数の足を、端から氷が侵食していく。

 大地を覆う白い霜は、荊のように魔物を捕らえて離さない。むしろ、魔物の足の方が、大地に深く深く、根を降ろしているかのような。


 魔物の巨体は、純白の大地に繋ぎ止められた。

 つんざくような悲鳴が魔物の喉からほとばしる。


「その命をもって、目を愉しませ、償いなさい」


 冷たい威厳を宿した声が、寒空の下に凛と響く。

 ムカデの全身を、ゆっくり、淡々と、しかし着実に、霜と氷が覆っていく。


 ルナリアの目は、魔物を見据えているようで、見ていない。

 その、うっとりとした黄金の目に、一体何を重ねているのか。それは、子であるリージェンにも分からなかった。


 そこには、幼いリージェンでも理解できるほどの、圧倒的な力の差があった。


 ルナリアが作り出しているのは、まさに死そのものだ。

 彼女の魔法には情も慈悲も、感慨もない。粛々と巡り来る厳冬のように、ただ、弱いものの命を奪い去る。


 初めから、魔物は捕食者になり得なかったのだ。


 魔物は、なおも死から逃れようともがく。負荷に耐えきれなかった足が数本、千切れてもげた。傷口から黒い血液が流れ出て、大地を染める前に凍りつく。

 足は一本、また一本と大地に置き去りにされていく。それにも構わず、力のままに身を捩る。

 魔物には心も意思もない。が、本能的に死を恐れるのは、地上の生き物と変わらない。


 突如として、魔物は横へと倒れ込んだ。バキバキと多くの足が折れる派手な音がして、ムカデの巨躯が大地から切り離される。

 残った足で、魔物はよろめきながらも地を這った。その間にも、白い霜は胴体を侵食していく。

 魔物は顎で土を掘り返し、地に潜ろうと頭を埋めた。


「──さあ、【氷の花を咲かせましょう】」


 たった一言、それがこの巨大な魔法を完結へと導く。

 鋭利な花弁が魔物をうちから貫いた。


 魔物を糧に咲く氷の花。

 青白い光を宿すその花は、甲高い音を立て、魔物の体のあちこちで蕾をひらく。花は頭を潰し、厚い背中を砕き、わずかに残った足を余すことなく破壊する。

 魔物の目は徐々に鮮やかさを失い、濁り切る前に、弾けて赤い花となった。


 黒い巨躯は純白の霜に覆いつくされ、触角の先に至るまで凍りついている。

 大地に顎をうずめたまま、それきり魔物は動かなくなった。


 誰もが固唾をのんで、この光景を見つめていた。


 魔物の胴体に大きな亀裂が走る。その巨体がひび割れ、崩れ、砕けて落ちた。

 破片は大地に折り重なり、日を浴びて白くまばゆく輝く。


 リージェンは思い出したように息を吐いた。


 いつの間にか、空は元通りになっていた。

 暖かい日の光を背に、ルナリアが微笑む。そこに先ほどの威厳は欠片もない、いつもの穏やかな母親の顔があった。


「さすがは亜竜の……」


 呆然とした声で誰かが言った。

 壁の中の野次馬たちも、つられてざわめきを取り戻す。


「彼女が噂に聞く“冬の魔女”か」

「それじゃ、今のが精域魔法? なんて規模だ」

「お前あれできる?」

「無理に決まってるだろ、人の魔法が亜竜に及ぶかっての」

「しかしあの魔術も見事な……」


 観衆は口々に、感嘆と畏怖の混じったささやきをこぼす。

 逃げてきた一団の姿は、既に見当たらない。今頃治療院で本格的な手当てを受けているところだろう。


「皆さん、お騒がせしました。魔物は屠りましたので、安心して、引き続き英気を養ってください」


 父親の声がして、リージェンはそちらを振り返った。

 ジークはすでに剣を腰に納めていた。


 脅威は去った。


 呼びかけられた観衆は、領主夫妻に向けて礼や賛辞やらを投げかけると、踵を返し、それぞれの宿や贔屓の店へと散らばっていく。

 その多くは、人族──リージェンがよく知る『人間』が占めていた。中には耳が長い者や、獣の特徴を体に持つ者、異様に背の低い者もいる。

 色々な種が混在していた。当然、その髪や瞳の色はさまざまだ。


 だが、リージェンや両親のような白い髪や金の目は、誰ひとりとして持たない。

 年若い一家は、この場においてひときわ異彩を放っていた。


 亜竜、という言葉で、リージェンは己の身分を思い出した。


 カリナンの領主を代々務める一族は人間ではない。はたまた他の種族でもない。

 ラインの一族、あるいは亜竜と呼ばれるものだ。そう呼ばれるわけは、文字通り、一族が竜の血を引いているからだ──と、信じられている。


 竜。

 大きな体で空を飛び、鱗を持ち、角と牙を有する、あの竜のことだ。


 本当か? とリージェンの中の仁科健二的な思考が疑問を投げかけた。以前の彼はこういったに対して懐疑的な傾向があった。

 だが、リージェンは約7年分の経験と知識をもって、その問いに是と答える。


 リージェン・ラインは知っている。

 竜の血を裏付ける、古い物語があることを。

 そしてこの世に伝わる物語は、そのほとんどが現実に起こったものであることを。


 己の由緒も、この街の成り立ちも、魔物の起源さえも。

 古い物語は、今も世界に深く根ざしている。


(とんでもないところに生まれてしまった……)


 リージェンは大樹海を仰ぎ見た。

 森は鬱蒼と茂っている。

 そのさらに奥深くに、大いなる深淵がぽっかりと口を開けているのをリージェンは想像した。踏みしめている地面のはるか下には、今も、悪神が閉じ込められている。

 そう思うと、えも言われぬ震えが体の芯から生まれる。


 リージェンは母親と手をつないだまま、呆然と立ち尽くした。

 途方もないことだ。リージェンの知る、あれだけの神秘的な物語のすべてが、世界の歴史であるということは。


 胸の中にはさまざまな感情が渦巻いている。

 恐れだけではなかった。

 むしろ、冷めやらぬ熱が、他のすべてを飲み込もうとしていた。


「明日が楽しみかい?」


 ジークが隣に来て、頬を上気させる息子にそう問いかけた。

 一方のリージェンは、父の言葉の意図をつかめず首をかしげた。


 明日には、何がある?


「──あ!」


 リージェンは目を大きく見開いた。

 明日は7歳の誕生日だ。それが指すのは、つまり──


「魔法が使える!」


 リージェンは高く飛び跳ねた。

 ずっと楽しみにしていたのだ。魔法は、7つになるまで使ってはならないから。

 憧れの魔法だ。

 母さまが使う、強くて綺麗な冬の魔法を、ついに自分も使えるのだ。


 喜びにはしゃぐ息子を、夫妻は微笑ましく見守った。もっとも、ジークの視線だけは、やや生温いものであったのだが、リージェンはそれに気づかない。


 街と大樹海の深部を隔てる門には、束の間の平穏が訪れていた。

 しかしその平穏も、砕けた魔物の氷像が溶け切るころには跡形もなく崩れ去り、またいつものように、混沌に呑まれることだろう。

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滅びゆくもの 萌芽編 八凪 薫 @KaoRuYanagi

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