第2話 魔物
──魔物は裂け目よりあふれ出て、地上の命あるものを食い荒らす。
精霊の言葉によって伝えられる、昔々の、おとぎ話。
天から地へ。地の上から地の底へと堕とされた悪神は、地上に強い恨みを抱いた。
悪神の怨念は、途方もない時間を経ても鎮まることはなく、たびたび地表を引き裂いては、開いた傷口から魔物を送り込む。
地表に開いた裂け目は、しばらくすれば塞がるが、恨みが深いものは癒しきれずに残るのだ。
悪神が最も執着する裂け目。
天から落とされ、地の底へと堕ちた、まさにその場所。
地上を恨み、天に焦がれた彼女によって幾度も抉られ、決して癒えることのないその傷こそが、カルレヴィーア大樹海を混沌の地たらしめるのだという。
◇
堅牢な外壁が、街と森とを隔てていた。
ルナリアに連れられ到着したのは、大樹海の深部に面する門だった。
門はカリナンの四方にあるが、警鐘が打ち鳴らされるのは、大抵ここだ。
なぜなら、大樹海にひしめく魔物はすべて、最深部よりやって来るからだ。
重厚な門の周囲には人だかりができている。
彼らのほとんどは、修行に訪れた討伐者か、希少な魔物の素材と未知を求めて来た冒険者のどちらかだ。
全体的に
殺伐とした雰囲気だ。リージェンは母親の手を強く握った。
ここに来るのは初めてではない。
けれどこの張り詰めた空気には、前世の記憶を思い出した弊害もあるが、しかし何度来ても慣れることができなかった。
広大にして、未開。大地の南一帯を覆う魔の森、カルレヴィーア大樹海。
その北東部、比較的浅い位置にあるカリナンは、魔境のなかの唯一の街だ。
魔物がひしめく森を歩き進み、あまつさえその只中で野宿ができるのは、世界広しといえども一握りの強者に限られる。
しかし、挑まねば強くはなれない。
カリナンは揺るがぬ拠点として、大樹海に挑む討伐者や冒険者の受け皿になっていた。
カリナン領主であるリージェンの両親の役目は、街を大樹海の猛威から守り維持するとともに、挑戦者の手に余る魔物を退けることだ。
リージェンはこれに、物心ついた頃から積極的に同行していた。
将来この役目を受け継ぐから、ではない。
理由は母親にあった。
「ルナリア様!」
人だかりの中から、壮年の男がひとり駆け寄ってくる。
いかにも熟練者といった風体だ。何かの甲羅でできた胸当てを身につけ、身の丈と同じくらいの大剣を背負っている。
「追われてきた5人はどこに?」
「あそこに! ジーク様が既に保護してます」
間髪入れずにルナリアが問うと、男は門の外を指差した。
そこには座り込む討伐者の一団と、白髪頭の若い男が見えた。
逃げてきた5人は血と土にまみれ、息も絶え絶えという様相だ。中には気を失っている者もいる。
いくつかの光る石が、彼らを取り巻くようにして宙に浮いていた。
一団を介抱する男こそが、ジーク・ライン。リージェンの父親だ。
彼の腰には空っぽの
地面には、巨大な何かが這いずり回った跡が色濃く残る。
先に駆けつけていたジークは、魔物の討伐よりも人命の保護を優先したらしい。
ルナリアとリージェンが門に着くまでの間、激しい揺れが何度かあった。
魔物との衝突があったのだろう。だが、彼に疲弊の色は一切見えない。首の後ろで結わえた白い髪は、秋の昼下がりの日に照らされ、涼しげに風になびいている。
ジークが一団の手当てをしている間に、ルナリアは壮年の男から魔物の詳細を聞き出していた。
「数は1、胴長ね。第3位階なら見当がつくわ。それで、魔物は逃げたんですって?」
「はい、ルナリア様がいらした途端に。そのまま去ればいいんですが……」
男の表情は渋い。
ルナリアは目を伏せ、何事かをつぶやいた。それはリージェンが知っている言葉ではなかった。
しばらくして、彼女は首を横に振った。
「……まだ息をひそめているわ。怪我人を壁の中へ、誘い出して討伐します」
ルナリアが言うと同時に。
やりとりに聞き耳を立てていた野次馬たちが、一斉にわらわらと壁の外へ出た。
そうして、疲弊した一団を取り囲んで肩を貸し、あるいは担ぎ上げ、またすぐに門の中へと引き上げていく。
時間にして、10秒にも満たない早業だった。
ジークも既に、ひとりを担ぎ、壁の内側へと運び終えていた。
「……そこまで、深い所には行ってなかったんだ」
気が抜けたのか、一団のひとりが、呻くように言った。
「なのに、気づいたら後ろにいて……あの野郎、土の中をちょこまかと……」
「腕、俺の腕は…………」
「ガーウィン、しっかり……!」
「お前たちはよ~くやったよ! ここまで戻ってきたんだからな!」
「腕の1本2本なんぞすぐまた生える! ここの治療院はすごいぞお!」
悲壮に暮れる一団を、野次馬たちが口々に励ます。
ここにいるのは皆、死線を経験してきた者たちだ。傷ついた5人への共感と連帯感があった。
「さ、もう大丈夫。回復に専念するように」
元気づけるように、ジークが一団の肩を軽く叩いた。
傷が深いものから順番に、彼らは再び担がれていく。きっと治療院に運び込まれるのだろう。
リージェンはそちらには行かず、いつものように母親と手をつなぐ。
「さて、と」
呟くと同時に、不可視の何かが、ルナリアの全身からぶわりと立ちのぼった。
それは花の香りに似ていた。
深い森の奥にひっそりと咲く幻の花のような、涼やかで、かぐわしい匂い。
悠々とした足取りで、彼女は一歩、また一歩と門に近づく。
そうしてついに境界を越え、
地面が蠢く。
ルナリアが纏うものは、魔力だ。
生命と肉に付随する力。
魔物が持たず、それゆえに惹かれ、求めるもの。
揺れはしだいに激しくなっていく。
立っていられず、リージェンは母親の腕にしがみついた。
──神秘は、恐るべき脅威である。
だが、矮小な身にもその恩恵は与えられる。
身を守る鱗として。
脅威を砕く牙として。
すう、と。肺が空気で満たされるのを、リージェンは聞いた。
「──すべてを溶かす光は
瞬間、空気の質が一変した。
空が陰る。
雲に隠されたのではない。日の光は依然としてやわらかに降り注いでいる。
が、先程よりも随分遠くにあった。
まるで、深い井戸の底に落とされたかのような。
リージェンは鼻先に冷気を感じた。冬の訪れは、まだ当分先のはずなのに。
大地がひときわ大きく揺れた。
土が割れ、木々が崩れる轟音が、冷えた空気を震わせる。
巨大な牙が、地面の下から現れた。
続いてその全貌が日の下に晒される。
魔物だ。
その姿はリージェンの知るムカデによく似ていた。
しかしそのスケールは、途方もなく大きい。
牙だと思われたそれは巨大な顎だ。
長く平たい胴体は、黒々とした甲殻に覆われ、その両側には、無数の足がずらりと生え揃う。頭部では、細長い触角が小刻みに動く。
ルナリアの魔力に誘われた魔物は、極上の獲物を前に、赤い目を光らせる。
大きな顎から涎がべちょりと垂れた。
(──怖い)
リージェンは母親の影で硬直した。
初めて見る魔物だ。今までに見たどの魔物よりも大きかった。
魔物の足のひとつひとつは、大人の脚よりも太い。この巨体が襲い掛かれば、子どもでなくとも、容易くすり潰されるだろう。あの顎に挟まれれば、言うまでもなく命を落とす。
最悪の想像をしてリージェンは震えた。
魔物がほんの少しでも踏み込めば、容易く噛みつける距離だった。
だが、ムカデの魔物が動く様子はない。様子を伺うように、じっとりとルナリアを見つめている。
上質な魔力には、相応の力が伴う。
ルナリアは強い。おそらくこの場の誰よりも。魔物もそれを理解してか、微動だにしない。
魔物の視線がふと、後ろに隠れるリージェンに向いた。
魔物の目には、ルナリアよりもはるかに弱い、それでいて良質な魔力を含む、やわらかい肉が映っている。
ギチギチと不気味な音を立て、魔物が巨大な顎を鳴らした。
無数の足がざわめき、子を全速力で奪い去らんと、その身を低く屈め──
「永遠の雪原よ、その孤独に、慰めを与えましょう」
ルナリアの冷ややかな声が、それを遮った。
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