第2話 魔物

──魔物は裂け目よりあふれ出て、地上の命あるものを食い荒らす。


 精霊の言葉によって伝えられる、昔々の、おとぎ話。


 天から地へ。地の上から地の底へと堕とされた悪神は、地上に強い恨みを抱いた。

 悪神の怨念は、途方もない時間を経ても鎮まることはなく、たびたび地表を引き裂いては、開いた傷口から魔物を送り込む。

 地表に開いた裂け目は、しばらくすれば塞がるが、恨みが深いものは癒しきれずに残るのだ。


 悪神が最も執着する裂け目。

 天から落とされ、地の底へと堕ちた、まさにその場所。


 地上を恨み、天に焦がれた彼女によって幾度も抉られ、決して癒えることのないその傷こそが、カルレヴィーア大樹海を混沌の地たらしめるのだという。



 堅牢な外壁が、街と森とを隔てていた。


 ルナリアに連れられ到着したのは、大樹海の深部に面する門だった。

 門はカリナンの四方にあるが、警鐘が打ち鳴らされるのは、大抵ここだ。


 なぜなら、大樹海にひしめく魔物はすべて、最深部よりやって来るからだ。


 重厚な門の周囲には人だかりができている。

 彼らのほとんどは、修行に訪れた討伐者か、希少な魔物の素材と未知を求めて来た冒険者のどちらかだ。

 全体的にたくましい様子の野次馬は、門の外の光景を熱心に見つめているものの、誰ひとりとして外へは出ていない。


 殺伐とした雰囲気だ。リージェンは母親の手を強く握った。


 ここに来るのは初めてではない。

 けれどこの張り詰めた空気には、前世の記憶を思い出した弊害もあるが、しかし何度来ても慣れることができなかった。



 広大にして、未開。大地の南一帯を覆う魔の森、カルレヴィーア大樹海。

 その北東部、比較的浅い位置にあるカリナンは、魔境のなかの唯一の街だ。


 魔物がひしめく森を歩き進み、あまつさえその只中で野宿ができるのは、世界広しといえども一握りの強者に限られる。


 しかし、挑まねば強くはなれない。

 カリナンは揺るがぬ拠点として、大樹海に挑む討伐者や冒険者の受け皿になっていた。


 カリナン領主であるリージェンの両親の役目は、街を大樹海の猛威から守り維持するとともに、挑戦者の手に余る魔物を退けることだ。

 リージェンはこれに、物心ついた頃から積極的に同行していた。

 将来この役目を受け継ぐから、ではない。


 理由は母親にあった。



「ルナリア様!」


 人だかりの中から、壮年の男がひとり駆け寄ってくる。

 いかにも熟練者といった風体だ。何かの甲羅でできた胸当てを身につけ、身の丈と同じくらいの大剣を背負っている。


「追われてきた5人はどこに?」

「あそこに! ジーク様が既に保護してます」


 間髪入れずにルナリアが問うと、男は門の外を指差した。

 そこには座り込む討伐者の一団と、白髪頭の若い男が見えた。

 逃げてきた5人は血と土にまみれ、息も絶え絶えという様相だ。中には気を失っている者もいる。

 いくつかの光る石が、彼らを取り巻くようにして宙に浮いていた。


 一団を介抱する男こそが、ジーク・ライン。リージェンの父親だ。

 彼の腰には空っぽのさやがあり、その中身は、一団のそばに突き立てられ、石と同じように淡い光を放っていた。


 地面には、巨大な何かが這いずり回った跡が色濃く残る。


 先に駆けつけていたジークは、魔物の討伐よりも人命の保護を優先したらしい。


 ルナリアとリージェンが門に着くまでの間、激しい揺れが何度かあった。

 魔物との衝突があったのだろう。だが、彼に疲弊の色は一切見えない。首の後ろで結わえた白い髪は、秋の昼下がりの日に照らされ、涼しげに風になびいている。


 ジークが一団の手当てをしている間に、ルナリアは壮年の男から魔物の詳細を聞き出していた。


「数は1、胴長ね。第3位階なら見当がつくわ。それで、魔物は逃げたんですって?」

「はい、ルナリア様がいらした途端に。そのまま去ればいいんですが……」


 男の表情は渋い。

 ルナリアは目を伏せ、何事かをつぶやいた。それはリージェンが知っている言葉ではなかった。


 しばらくして、彼女は首を横に振った。


「……まだ息をひそめているわ。怪我人を壁の中へ、誘い出して討伐します」


 ルナリアが言うと同時に。

 やりとりに聞き耳を立てていた野次馬たちが、一斉にわらわらと壁の外へ出た。

 そうして、疲弊した一団を取り囲んで肩を貸し、あるいは担ぎ上げ、またすぐに門の中へと引き上げていく。


 時間にして、10秒にも満たない早業だった。

 ジークも既に、ひとりを担ぎ、壁の内側へと運び終えていた。


「……そこまで、深い所には行ってなかったんだ」


 気が抜けたのか、一団のひとりが、呻くように言った。


「なのに、気づいたら後ろにいて……あの野郎、土の中をちょこまかと……」

「腕、俺の腕は…………」

「ガーウィン、しっかり……!」

「お前たちはよ~くやったよ! ここまで戻ってきたんだからな!」

「腕の1本2本なんぞすぐまた生える! ここの治療院はすごいぞお!」


 悲壮に暮れる一団を、野次馬たちが口々に励ます。

 ここにいるのは皆、死線を経験してきた者たちだ。傷ついた5人への共感と連帯感があった。


「さ、もう大丈夫。回復に専念するように」


 元気づけるように、ジークが一団の肩を軽く叩いた。

 傷が深いものから順番に、彼らは再び担がれていく。きっと治療院に運び込まれるのだろう。


 リージェンはそちらには行かず、いつものように母親と手をつなぐ。


「さて、と」


 呟くと同時に、不可視の何かが、ルナリアの全身からぶわりと立ちのぼった。

 それは花の香りに似ていた。

 深い森の奥にひっそりと咲く幻の花のような、涼やかで、かぐわしい匂い。


 悠々とした足取りで、彼女は一歩、また一歩と門に近づく。

 そうしてついに境界を越え、母子ふたりは魔の領域へと踏み入った。


 地面が蠢く。


 ルナリアが纏うものは、魔力だ。

 生命と肉に付随する力。

 魔物が持たず、それゆえに惹かれ、求めるもの。


 揺れはしだいに激しくなっていく。

 立っていられず、リージェンは母親の腕にしがみついた。


──神秘は、恐るべき脅威である。


 だが、矮小な身にもその恩恵は与えられる。

 身を守る鱗として。

 脅威を砕く牙として。


 すう、と。肺が空気で満たされるのを、リージェンは聞いた。


「──すべてを溶かす光は彼方かなた


 瞬間、空気の質が一変した。


 空が陰る。

 雲に隠されたのではない。日の光は依然としてやわらかに降り注いでいる。

 が、先程よりも随分遠くにあった。

 まるで、深い井戸の底に落とされたかのような。


 リージェンは鼻先に冷気を感じた。冬の訪れは、まだ当分先のはずなのに。


 大地がひときわ大きく揺れた。

 土が割れ、木々が崩れる轟音が、冷えた空気を震わせる。


 巨大な牙が、地面の下から現れた。


 続いてその全貌が日の下に晒される。

 魔物だ。

 その姿はリージェンの知るムカデによく似ていた。

 しかしそのスケールは、途方もなく大きい。

 牙だと思われたそれは巨大な顎だ。

 長く平たい胴体は、黒々とした甲殻に覆われ、その両側には、無数の足がずらりと生え揃う。頭部では、細長い触角が小刻みに動く。


 ルナリアの魔力に誘われた魔物は、極上の獲物を前に、赤い目を光らせる。

 大きな顎から涎がべちょりと垂れた。


(──怖い)


 リージェンは母親の影で硬直した。

 初めて見る魔物だ。今までに見たどの魔物よりも大きかった。

 魔物の足のひとつひとつは、大人の脚よりも太い。この巨体が襲い掛かれば、子どもでなくとも、容易くすり潰されるだろう。あの顎に挟まれれば、言うまでもなく命を落とす。

 最悪の想像をしてリージェンは震えた。


 魔物がほんの少しでも踏み込めば、容易く噛みつける距離だった。

 だが、ムカデの魔物が動く様子はない。様子を伺うように、じっとりとルナリアを見つめている。


 上質な魔力には、相応の力が伴う。

 ルナリアは強い。おそらくこの場の誰よりも。魔物もそれを理解してか、微動だにしない。


 魔物の視線がふと、後ろに隠れるリージェンに向いた。

 魔物の目には、ルナリアよりもはるかに弱い、それでいて良質な魔力を含む、やわらかい肉が映っている。


 ギチギチと不気味な音を立て、魔物が巨大な顎を鳴らした。


 無数の足がざわめき、子を全速力で奪い去らんと、その身を低く屈め──


「永遠の雪原よ、その孤独に、慰めを与えましょう」


 ルナリアの冷ややかな声が、それを遮った。

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