第2話 神代の名残り
──魔物は裂け目よりあふれ出て、地上の命あるものを食い荒らす。
昔々の、おとぎ話。
地の底に堕とされた悪神は、地上に強烈な恨みを抱いた。その怨念は途方もない年月を経ても鎮まることなく、たびたび地表を引き裂いては、開いた傷口から魔物を送り込むのだという。
地表に開いた裂け目は、大地の精霊のなぐさめによってしばらくすれば塞がるが、恨みが深いものは癒しきれずに残るのだ。
悪神が最も執着する裂け目。地上を恨み、地上に焦がれた彼女によって幾度も抉られ、決して癒えることのないその傷こそが、カルレヴィーア大樹海を混沌の地たらしめる。
◇
堅牢な外壁が、街と大樹海とを隔てていた。
南一帯を覆う魔境、カルレヴィーア大樹海。カリナンという街は、その北東部、比較的浅い位置にある。
浅部とはいえ、カリナンにはこうして頻繁に魔物が襲い来る。それを討伐するのが両親の役目で、リージェンは物心ついた頃から積極的に同行していた。将来この役目を受け継ぐから、ではない。理由は母親にあった。
ルナリアに連れられ到着したのは、大樹海の深部に面する門だった。門はカリナンの四方にあるが、警鐘が打ち鳴らされるのは、大抵ここだ。
大樹海にひしめく魔物はすべて、最深部からやって来る。
そこにあるのは、ただの裂け目ではない。
悪神が地底に堕とされたとき、大地に深く刻まれた傷跡。
『嘆堕の大深淵』と呼ばれる、最古にして最大の裂け目が、カルレヴィーア大樹海の中にあった。
そう、おとぎ話は虚構ではない。
地底に堕とされ、嘆きの雨を降らせた悪しき神も。彼女を堕とし、世界に光をもたらした古き神も。
神秘は、あまねく物語となった。
世界に遍在する精霊たちが、その語り手だ。精霊はいたずら好きで、昔を語るのは気まぐれによるもの。だが、『記憶違い』を何よりの恥とする彼らが、嘘を教えることは決してない。
かつて万物を育み、今ではかたく閉じられた揺り籠の庭。炎の女主人から不朽の炉を奪い取った、はじまりの竜。美しい毛並みを持つ、カリナという名の巨大な狼。人間の国を、一瞬にして炭と灰に変えた青い雷。精霊と人の身でありながら恋に落ち、役目を捨てた冬の主と銀の王も。
青の大地には彼らの足跡がありありと残り、中には、当時の原型を留めるものもある。彼らはたしかに、遠い過去に存在し、あるいは、今も生き続けているのだ。
この門の向こう、鬱蒼とした森の中に、大いなる深淵がぽっかりと口を開けているのを、リージェンは想像した。踏みしめている地面のはるか下には、今も悪神が閉じ込められている。そう思うと、えも言われぬ震えが体の芯から生まれた。
神秘は時として、恐るべき脅威となる。特に、矮小な身を持つ者にとっては。
門の周囲には、人だかりができていた。
「ルナリア様!」
そのうちの1人、壮年の男が駆け寄ってきた。何かの甲羅でできた胸当てを身につけ、身の丈ほどの大剣を背負っている。いかにも熟練者といった風体だ。
「5人はどこに?」
「ジーク様が既に」
間髪入れずにルナリアが問うと、彼は門の外を指差した。そこには座り込む討伐者の一団と、白髪の若い男が見えた。
逃げてきた5人は血と土にまみれ、息も絶え絶えという様相だ。中には気を失っている者もいる。
「そこまで深いところには行ってなかったんだ……」
一団のひとりが呻くように言った。
「なのに、気づいたら後ろにいて……あの野郎、森の間をちょこまかと……」
「腕、俺の腕は…………」
「しっかりして、ガーウィン……!」
「よくここまで戻ってきた。もう大丈夫、回復に専念するんだ」
いくつかの光る石が、彼らを取り巻くようにして宙に浮いている。
一団を介抱する若い男こそが、ジーク・ライン。リージェンの父親だ。彼の腰にある鞘の中身は、一団のそばに突き立てられ、石と同じように淡い光を放っていた。
地面には、巨大な何かが這いずり回った跡が色濃く残る。
先に駆けつけていたジークは、魔物の討伐よりも人命の保護を優先したらしい。
リージェンがここに向かっている途中、何度か激しい揺れがあった。魔物との衝突があったのだろう。だが、彼に疲弊の色は一切見えない。首の後ろで結わえた白い髪は、秋の昼下がりの日に照らされ、涼しげに風になびいている。
ジークが一団の手当てをしている間に、ルナリアは男から魔物の詳細を聞き出していた。
「数は1、胴長ね。第3位階ならだいたいの見当がつくわ。それで、魔物は逃げたんですって?」
「はい、ルナリア様がいらした途端に。そのまま去ればいいのですが……」
男の表情は渋い。ルナリアは目を伏せ、何事かをつぶやいた。それはリージェンに理解できる言葉ではなかった。
しばらくして、彼女は首を横に振った。
「……諦めていないようね。怪我人を壁の中へ、誘い出して討伐します」
彼女が言うと同時に。
やりとりに聞き耳を立てていた野次馬たちが、わらわらと壁の外へ出た。そうして、疲弊した一団を取り囲んで肩を貸し、あるいは担ぎ上げ、またすぐに門の中へと引き上げていく。
時間にして、10秒にも満たない早業だった。
ジークは既に、1人を壁の内側へと運び終えていた。リージェンはそちらには行かず、いつものように母親と手をつなぐ。
「さて、と」
不可視の何かが、ルナリアの全身からぶわりと立ちのぼった。
それは花の香に似ていた。深い森の奥にひっそりと咲く幻の花のような、涼やかで、かぐわしい香り。
悠々とした足取りで、彼女は一歩、また一歩と門に近づく。そうしてついに境界を越え、
地面が、ふたたび蠢いた。
ルナリアが纏うものは、魔力だ。
生命と肉に付随する力。魔物が持たず、それゆえに求めるもの。
揺れは激しさを増していく。立っていられず、リージェンは母親の腕にしがみついた。
──神秘は、恐るべき脅威である。だが、矮小な身にもその恩恵は与えられる。
身を守る鱗として、牙として。
すう、と。肺が空気で満たされるのを、リージェンは聞いた。
「──すべてを溶かす光は
瞬間、空気の質が一変した。
空が陰る。
雲に隠されたのではない。日の光は依然としてやわらかに降り注いでいる。が、先程よりも随分遠くにあった。まるで、深い井戸の底に落とされたかのような。
リージェンは鼻先に冷気を感じた。冬の訪れは、まだ当分先のはずなのに。
大地がひときわ揺れる。轟音が、冷えた空気を震わせる。
木々を薙ぎ払い、土煙を巻き上げ、巨大な牙が地面から突出した。
──魔物だ。
その全貌は、途方もなく大きいことを除けば、リージェンの知るムカデによく似ていた。
牙だと思われたそれは、巨大な顎だった。
ルナリアの魔力に誘われた魔物は、極上の獲物を前に赤い目を光らせる。長く平たい胴体は黒々とした甲殻に覆われ、その両側には無数の足がずらりと生え揃う。頭部では細長い触角が小刻みに動く。
悪神の眷属、その禍々しい姿を前に、リージェンは硬直していた。唾液すら飲み込めないほどに、恐怖していた。
魔物の足のひとつひとつは、大人の脚よりも太い。この巨体が襲い掛かれば、子どもでなくとも、たやすくすり潰されるだろう。あの顎に挟まれれば、言うまでもない。
ほんの少しでも踏み込めば、容易く噛みつける距離だ。だが、魔物が動く様子はない。様子を伺うように、じっとりとルナリアを見つめている。
上質な魔力には相応の力が伴う。
ルナリアは強い。おそらくこの場の誰よりも。魔物もそれを理解してか、微動だにしない。
魔物の視線がふと、後ろに隠れるリージェンに向いた。ルナリアよりもはるかに弱い、それでいて良質な魔力を含む、やわらかい肉に。
ギチギチと不気味な音を立て、魔物が巨大な顎を鳴らす。無数の足がざわめき、子を全速力で奪い去らんと、その身を低く屈め──。
「──雪原よ、慰めを与えましょう」
ルナリアの冷ややかな声が、それを遮った。
竜と硝子窓 ─異界交錯─ 八凪 薫 @KaoRuYanagi
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