竜と硝子窓 ─異界交錯─

八凪 薫

1章 梯子編

第1話 回顧

 木を隠すなら森の中へ。

 特異なものは、特異なものの内に紛れ込ませてしまえばいい、と。


 人間に思いつくことは、より上位の存在にだって当然考えつく。むろん、実行までには大きな隔たりがあるわけだが。


「いやハや、キミはじつにガいい! このボクですラ、運命の存在を信ジてしまいそウなくらいニね!」


 短い生を終えたばかりの魂を前に、真っ白な容貌の少年が笑う。


「キミに選択権は与エない。運命なんテがないように、ソんなものは最初から存在しナい。キミはこのまマ、順当に生まれ変わルだけでいい。

 うつわモ、鍵も、必要ナものは、そレですべて揃ウのだから!」


 楽しげな声には、時折、機械音のような違和が混ざる。

 彼はそれを意に介さず、滔々と、まるで劇を演じるかのように語る。聞き手には一切の野次も介入も、席を立つことすら許されない。


「もちロん、キミには色々と手伝ってモラうよ? でもそれも、こノ素晴らしい偶然に比べタら些細なものサ。お疲れのトころ悪いけど、長イ余生を過ごスつもリで──

ついでニ、世界を救ッておくれ?」


 白い髪、白い肌。輪郭を判別する影すらも排除された、純白の容貌。

 そのなかで唯一の、青い色の目が、慈愛を湛えるように細められる。その瞳孔にあたる部分は、白く抜けていた。


 そこに何もこもっていないことを、何故だか知っている気がした。



 これが、おそらく、生まれる前のこと。

 この7年間忘れていた会話を、リージェン・ラインは自室のドアノブを破壊した瞬間に思い出した。


 無残にもぎ取られた金属の塊が、手のひらから滑り落ちて床の上を転がる。それには目もくれず、彼は急いで鏡へ向かった。


「……僕は、仁科にしな健二けんじ。18歳。妹がいて……」


 鏡を目指しながら、覚えていることをぶつぶつと口に出す。もう一度忘れてしまう前に、この記憶の真偽を確かめる必要があった。


 このやりとりが本当なら、仁科健二は死んで、新たに生まれ変わったということになる。


 過去の自分についても、少年との会話と同様、彼は今の今まで忘れていた。

 だが、約7年の空白があるにもかかわらず、それらはすべて昨日のことのように思い出せる。家族の名前も、住所も、あの日のお昼に食べた弁当の中身すらも。

 むしろ今も、仁科健二のまま生きているように思えた。


 そう、車に撥ねられた記憶だけが嘘で。あるいは、リージェン・ラインとして経験したものがみんな、昏睡状態のなかで見た夢だったのではないかと。

 鏡を見れば、そこには何の変哲もない、見慣れた自分の姿がある気がした。



 願いとは裏腹に。

 鏡の中には、見知らぬ子どもがいた。


 黄金を溶かし入れたような金色の目が、動揺を宿してこちらを見返す。

 凛々しくも幼い表情。あの少年に似ているようで異なる、植物の穂のような白い髪。


 明らかにただの人間ではない存在が、そこにいた。


 何かを言いかけて口を開くと、鏡の中の子どもも口を開ける。自分ではないものが自分の意思で動いている。なのに、鏡の中のこれが自分のものだ、という確信があった。


 当然だ。生まれてからずっと、この容姿で過ごしてきたのだから。


「…………事後承諾にも、程があるでしょう」


 真っ先に口をついて出たのは、少年への恨み言だった。それから一拍遅れて、何かがすとんと腑に落ちる。


 そうだ。

 家族3人で住んでいた家に、こんな内装の部屋はない。

 自分は。仁科健二という人間は、本当に死んでしまったのだ。


(天国なんてところは、なかったんだ)


 納得と、同じくらいの落胆がじわじわと胸に広がった。脳裏に妹と、病身の母、そして小さな遺影がよぎる。


 境界線が引かれていた。

 それはけして越えられない。自分は既に、仁科健二ではないのだから。


「……僕は、リージェン・ライン。明日で7つ。4人家族で、両親と、兄がひとり」


 一語一語を、噛みしめるように口に出す。

 齟齬を起こしかけていたものが、元のようにおさまっていく感覚。鏡面に額をぶつければ、ひんやりとした感触がつたう。混乱していた思考は、すでに冷静さを取り戻しつつあった。


 改めて鏡を見れば、少しの違和感はあるが、見慣れた自分の姿があるだけだ。


 言いたいことも疑問も、山のようにあった。

 どうして自分がとか、なぜ今日になって思い出したのか、とか。特徴的な容姿も、この怪力も。言葉にすればきりがない。

 だが、そのうちのいくつかは、今までに得た知識から答えが出ることにリージェンは気が付いた。頭は完全に平静を取り戻していた。


 落ち着いたところで、一番肝心の問題が口をついて出る。


「それで、僕は結局、何をやればいいんです?」


 答えはない。


 家具のミシミシと軋む音が、リージェンの苛立ちを拭い去った。

 取っ手ノブを失った扉が、ひとりでに開く。部屋全体が小刻みに揺れていた。遠くの方で、鐘がけたたましく鳴っている。


「これは……」


 鐘は立て続けに3回、一拍おいて5回。それが切羽詰まったように繰り返される。これが警鐘のひとつだということを、彼は約7年の生活で身に染みて知っていた。

 鐘には当然、意味がある。それを聞き取ろうとして。


「リージェン」


 玲瓏な声が名前を呼んだ。


 開いた扉の隙間から、金色の目がのぞく。

 ひとりの女が姿を現した。


 リージェンと同じ色の目。けれどその眼差しは、月の光のように涼やかだ。絹のような白い髪は、編み込まれ首元で束ねられている。

 彼女の出で立ちは、そのすらりとした長身も相まって、貴婦人、あるいは淑女と呼ぶにふさわしい品の良さがあった。


 彼女はルナリア・ライン。リージェンの母親だ。


「今日も一緒に、……あら?」


 部屋に踏み入ってすぐ、床に転がっている金属の塊に目を止めて、ルナリアは眉根を上げた。同時にリージェンの表情が固まった。


 色々とあったせいで、つい先ほど扉の取っ手を破壊したことを忘れていた。

 破壊。そう、器物の損壊。この母親は大抵柔和だが、時々妙に厳しいところがあった。少し前、部屋を駆け回ってうっかり花瓶を割り、その結果、じっくり時間をかけて叱られたのも記憶に新しい。

 リージェンの心配をよそに、ルナリアは「まあ」と笑みを浮かべた。


「破壊期ね。成長のしるしだから驚くことはないわ。戻ったら片付けましょうか」


 彼女にしては珍しく、表情は喜色で満ちあふれている。拍子抜け半分、安堵半分でリージェンは息をついた。

 通過儀礼、それこそ七五三のようなものだろうか、と思った。それにしてはあまりにも物理的だが。

 その後、かろうじていつもの決まり文句を思い出す。


「ええと、兄さまは?」

「書庫よ。集中しているみたいだったわ」

「そうですか……」


 ルナリアの返答も聞き慣れたものだった。5つ上の兄は、他の何よりも書物を偏愛しているらしい。


「行きましょうか。今日の魔物は少し大きいかもしれないわね」


 魔物、と聞いてリージェンの挙動が一瞬止まる。が、すぐに不思議なことではないと思い直した。


 リージェンの暮らすここは、カリナンという街にとっては、それが日常だった。


 魔物だけではない。

 魔法や、精霊。仁科健二として生きた世界では、絵空事とされていたもの。

 神秘と呼ばれる、神代かみよの気配を色濃く残すものたちが、ここでは鮮やかに生きていた。


 ルナリアに手を引かれて屋敷の外に出ると、木々の重苦しい匂いが出迎える。

 どこからか獣の耳障りな声が聞こえる。鳥にしては大きい影が、羽音も立てず地面を横切っていった。通り過ぎた風は冷たく、かすかに湿り気を含んでいる。


 ここは、カルレヴィーア大樹海。

 広大でありながら未開。神秘息づく青の大地で、最も混沌に満ちた場所である。

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