12.お節介

 里美が務める雑貨店は夕方の時間になり学生や仕事帰りの会社員でにぎわい始める。里美は新しく任させた革製品コーナーの陳列変更を行っていた。両手に雑貨を持ち唸り声を上げる。その瞳は真剣だ。


(もう少し大人っぽいアンティーク色の強いの雑貨を探してこよう)

 

 里美がかがんだ姿勢から立ち上がるとうっかり通りすがりの客にお尻が当たってしまった。慌てて頭を下げる。


「も、申し訳ございません! お怪我はありませんか?」


「わ、いや、大丈夫です……」


 仕事帰りのOLさんらしい。にっこり笑って通り過ぎようとするとピタリと動きが止まり私の胸元の名札を見る。続けて顔に穴が開くように見つめられる。知り合いにこんな目力の強い友達はいない。


「あなた、もしかして……吉田くんの彼女さん、ですか?」


「へ? あ、あ……もしかして──」

 

 前に駅のパン屋にいるときに見かけた黒髪の女性だ。確か憲司と同じ職場の事務員さんだ。


「やっぱり! はじめまして菊田と言います。お世話になっています」


「田中、里美と言います。こちらこそ憲司くんがお世話になっています」


 頭を下げると菊田が微笑ましい目で里美を見ている。


「惚気るわけね、吉田くん飲み会でいつもあなたのことを自慢するのよ。だから私もあなたの名前を覚えちゃったのよ」


 意外だ、憲司が惚気ていた? いや、それはきっと冗談だろう。里美が苦笑いをしていると菊田が探るように声のトーンを落とす。


「もしかして……なんかあった?」

「──え?」


「もしよかったら、話してくれない? たぶん、いや、間違いないけど力になれるかも……」


 時計を見るとあと十五分ほどで上がる時間だ。菊田にその旨を伝えると「じゃあ決まりね」といって微笑んだ。そのまま里美が仕事が終わる時間まで菊田は待ち、里美は菊田と近くの喫茶店に入った。夕食時間帯ということもありまだそこまで混雑はしていないようだ。


「コーヒーでいいかな?」


 手早く注文をすると菊田は椅子に腰掛けて携帯電話を取り出す。その左手には結婚指輪が輝いていた。


「ごめんなさい、少し電話させて」

「あ、お構いなく」


 菊田は誰かに電話をかけると相手が何か言った言葉に嬉しそうに微笑んだ。きっと電話の相手はご主人なんだろう。

 電話を切ったタイミングで注文したものがテーブルに置かれた。「さて……」と言い菊田が前のめりになる。


「……里美ちゃん、もしかして爆発した?」


 菊田が苦笑いを浮かべているが、少し確信めいた表情をしている。もしかしたら憲司が話したのだろうか。


「あ、違うよ。吉田くんは何も言ってないからね」


 何も言っていないのに菊田さんは一言追加した。どうして思っていることが分かったのだろう。


「実は──」


 里美は一ヶ月前のことを話していた。不思議だった。なぜか菊田には話してもいいような気がした。


 憲司が仕事ばかりでどんどん素直な気持ちが言えなくなったこと。

 憲司がこの一ヶ月変わったこと、彼に無理をさせている気がしていて不安だったこと……。

 菊田は頷きながら黙って聞いてくれた。それだけなのになぜか嬉しかった。


「そうね、まぁ……一緒ね──」

「え?」


「吉田くん里美ちゃんのこと大切にしていたわよ? 仕事に追われてて自分の気持ちを前面には出せなかっただけで。事務所では彼女大好きキャラだもの。すごい惚気るのよ、彼」


「そうなんですか……」


 一番伝えなきゃいけない相手に伝わらずに周りには分かっているなんて変な話だと思った。やはり私達は不器用すぎる。


 菊田はアイスコーヒーのストローをくるりと回して氷を混ぜた。


「少し前から、菊田くんが変わったわ……。前はね本当に必死で仕事をしてたの。先輩の仕事を手伝ってやらなくてもいい事まで率先してやって……。強迫観念っていうのかな? 本当何かに追われるような人だったの。そんな彼があなたの事を惚気る時は本当に幸せそうでね、あなたがいるから頑張れてるんだなって、そう思ってたの」


 菊田が里美に視線をもどす。その瞳は慈愛に満ちている。


「私から見ても今は上手く仕事を捌けるようになったわよ。無理もしない、自分ができない範囲のことはきちんと伝えるようになった。以前の彼なら勉強してでも引き受けたでしょうね」


「そう、だったんですね……」


 睡眠時間を削っているわけではなかった。憲司が無理をして会ってくれていたのではなかった。逆に、無理することをやめていたと知り嬉しかった。憲司を信じてよかった……。


 突然、菊田が持っていた携帯電話の待受を里美に見せる。ホーム画面には菊田と何かスポーツをしていたのだろうかすごく胸板の厚い爽やかな男性と中央にまだ小さな女の子が写っている。家族写真だろう。その写真に写る男性の笑顔を指でなぞると菊田は優しい顔をした。


「私、税理士だったのよ。若い頃はね。今は子供が小さいし、責任持って顧客の要望に応えられないから補佐として事務員をやっているけどね。税理士の頃は朝から晩まで事務所に外回りに動き回って部屋に帰ったら死んだように寝たわ。その繰り返し。その頃にはいまの旦那と付き合っていたんだけど、デートは遅刻するわ、記念日や恋人たちのイベントの日に仕事が入るわ……もう最悪だった」


 憲司と、私と一緒だ……。


「それでも旦那はずっと支えてくれてね。私も甘えてそのままそんな生活が続いたの。でも、ある日起こっちゃった……」


「起こっちゃった?」


よ。今回の里美ちゃんみたいに」


 里美は黙り込んだ。爆発というのは、きっとさっきの優しそうなご主人の事だ。菊田は爆発の日の事を話し始めた。


「その日は珍しく旦那が酔って、当時一人暮らししていた私のアパートに来たの。水を飲ませて寝かせたんだけど……」


 菊田がその当時を思い出したように感極まり、涙を流した。唇をきつく結び耐えているようだ。目尻に溜まった涙を指でこすり上げると「ごめんなさい」と言い鼻をすする。

 なぜだろう、里美もつられて泣いてしまう。


「横で寝ていた私を、ね? ぎゅって抱きしめて……泣くのよ。あんな大きな体をした男が、こう、ぎゅーってしてね、泣くの。寂しい、寂しいって、私を抱きしめてるのに寂しいって泣いたの。笑っちゃうわよね。きっと、初めてじゃなかったんだと思うの。あの人、きっと一人で何度も泣いたんだわ」


 菊田の耳にはその時の旦那の声が響いていた。何年経っても、この先何十年経ったとしても、この声は忘れられない。


『さ、え……紗英……うぅ……どうしたらいい? 寂しい、寂しいんだ。お前をこうして抱きとめているのに寂しいって言っていいか?……さえ、寂しい、寂しいんだ──』



 里美には旦那さんの気持ちが苦しいほど分かった。手の届くところにいるのに感じるもどかしい気持ちを。そして愛するが故に離れることを考えてしまう悲しさを……。寂しさで化学反応を起こし掛けた愛は爆発を起こしてしまえば燃焼を止めることはできない。菊田はなんとかその火を消し止める事に成功した。


「それで、その次の日に私から旦那にプロポーズしたの」


「えぇ!? 次の日!?」


 菊田はけろっとした表情で笑った。その瞳にはもう涙はなかった。


「あんなに泣かせたんだもの。すぐにでも寂しくないようにしないとね。って言っても旦那は記憶になかったみたいでめちゃくちゃ驚いてたけどねぇ」


「はぁ……」


「私の場合は、旦那は別れるとは思っていなかったけど、あれがなければきっといつか別れ話になったんだと思うのよ。里美ちゃんみたいにね」


 里美は一度涙腺が緩んでしまっていたからだろうか、菊田の言葉に涙が溢れる。


「ごめんなさいね、でもお節介だけど言わせてね。一緒にいるのに無理をしない恋人も夫婦もないと思うの。その対価を払ってでも一緒にいたいって思えれば、それはもう一緒にいるべきなんじゃないかな?……私はそう思ったよ」


 菊田さんの言葉は経験者の声そのものだ。


 憲司が好き、大好き、

 一緒にいたい。そばにいてほしい

 愛されたい、愛したい


 いつだって愛おしいと思う気持ちは本物だ。


「……ありがとうございます」


 里美の表情は晴れやかだった。菊田は肩をすくめると「帰りましょうか」といい立ち上がった。携帯電話を取りだすとまたご主人に連絡していた。その横顔も見て里美もこんな夫婦になりたいと思った。

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