14. 忙しくて、忙しくて
その電話は突然やってきた。
「えぇ、そうでしょうね……分かりました。とりあえず吉田と私でそちらにお伺いしますので、ええ、では──」
電話を切った先輩の顔は暗い。自分の名前が聞こえてきたが一体何があったのか……。
先輩は俺の方を振り返ると花英産業の会計ソフトを立ち上げデータをコピーするように言う。それは以前先輩が担当していた会社の名だ。一ヶ月前に引き継ぎをして現在は俺が担当している。
「吉田、悪いが今から花英さんのところへ一緒に行ってくれ、昼過ぎに税務署から連絡があった。税務調査が入るぞ」
先輩が慌ただしくブルーのリングファイルを取り出して何かを調べ出した。
税務調査とは税務署が行う抜き打ち調査だ。
ちゃんと隠さず収益を申請しているか、帳簿をきちんと管理しているかをチェックしてもし漏れていれば追加で納税をしなくてはいけない。要は、抜き打ちで来て、抜け落ちた税金を持っていかれると言うことだ。
これは突然やってくる。当然だ抜き打ちなのだから。ただ、その日に来るということではなく、日時を指定される。この電話がかかってきたら税務署が店舗に来て色々と調べられる前にきちんと顧客をサポートをしなければならない。税理士の大切な仕事だ。
普段から税理士事務所に任せていたり、自分で会計システムをパソコンに入れて管理していればそう慌てることもないが、小さな自営業は経営的に依頼していないことも多く税務調査の相談の電話がかかってくることもある。そうなるとひどい時は深夜まで帰れない。
花英産業から預かった資料一式を抱えて俺は先輩について事務所をあとにした。
時計を見るともう十五時だ……今日は里美のところへ行く予定だったが遅れてしまうかもしれない。花英産業に行ってみなければ分からない。
「吉田! 行くぞ!」
「あ、はい! すみません……」
俺はポケットの上から携帯電話に触れた。
◇
花英産業の帳簿や、過去の申告を調べていく。
さすがに過去五年分を遡って領収証を一枚一枚調べていくことはできない。そこは顧客を信じ、会計システムに打ち込まれた数字を見ていく。
俺がパソコンの確認作業を行なっている間、先輩は花英産業の社長に税務調査について詳しく説明している。経営が長いが税務調査が入るのは初めてらしくどうも社長の顔色が悪い。無理もない……皆税務署に入られて二百万円を持っていかれただの、怖くて警察の取り調べみたいだっただのと噂を耳にすることが多い。個人事業主であれば最も気になる話だ。
それは一昔前の話で今はすごくマイルドになっている。ただ、それも当たり外れの問題だろう。
社長はうちの税理士事務所に任せて良かったと言ってくれた。頼りにされ身が引き締まるが同時に嬉しい瞬間だ。
花英産業の社長がファイルを取りに行くと言い席を外すと先輩が疲れた様子で俺の元へとやってくる。向かいに置かれた黒革のソファーに深々と体を沈める。
事務所にようやく二人きりになり緊張の糸が切れた先輩の顔を見て俺は苦笑いする。
「だぁ! 疲れた……」
「お疲れっす」
ネクタイを緩めて額を手根でトントンと叩いている。難しい話ばかりをするので頭痛がでてきたのだろう。先輩は残業をすると、この仕草をよくしている。憲司が腕時計を盗み見ると里美が仕事が終わった頃だった。
電話をしたい。
きっと俺を待っているだろう。さずがに今日は行けない……いつ終わるかもわからない。
目の前で先輩が溜息をつき首を大きく回している。資料を素早く捲る音が先輩の気持ちの焦りを表しているようだ。
今すぐ電話したいなんて言ったらなんて言われるだろう。トイレに行くふりをして掛けるのはそれはもっと出来ない。俺はそんな人間にはなりたくない。
仕方がない……。
憲司は携帯電話を取り出そうとした手を、再びキーボードに戻した。だが、すぐにその手を止めた。
違うだろ。
違う……。俺はもう──違う。
憲司はパソコンの画面を見たまま動かない。その様子に先輩が憲司の目の前で手を振った。
「おい、吉田お前大丈夫か?」
「……先輩、すみません。彼女と約束しているので電話していいですか?」
憲司の目は真剣だった。
憲司の剣幕に先輩が何も言えずに頷くとそのまま携帯電話を持って会社の外へと出る。
「本当にすみません」
先輩はその背中に手を振り送り出した。
外に出ると里美に電話を掛けた。呼び出し音が鳴るとすぐに里美の声が聞こえた。
『もしもし……憲司?』
「あ、里美ごめん、ちょっと急な仕事で行けなくなった……ごめんな」
『あー……大丈夫よ。仕事、頑張ってね!』
電話の向こうの里美は少し残念そうだった。もしかしたら買い出しをしていたのかもしれない。人混みの中にいるようだ。
「……なぁ、頑張ってくるから、肉じゃがリクエストしていいか? じゃがいも多めのやつ。明日寄るよ」
『えぇ? なにそれ──オッケ、しっかり頑張ってね』
里美は電話口で吹き出して笑った。電話口から聞こえた吐息に里美が本当にそばにいるようだった。
電話を切ると急いで事務所のドアを開ける。先輩が紙コップに入ったコーヒーを二つ持ち俺の帰りを待っていた。
「おう、終わったか?」
「すみませんでした、すぐにパソコン確認します。ええと、ここから──」
椅子に座りすぐに仕事に取り掛かった。先輩はニヤニヤとこちらを見ている。先輩のこの笑顔には良いことなど無い。先輩は大の里美の惚気話のファンだ。きっと電話をした俺の話を聞きたいのだろう。酒の席では里美の話をすると嬉しそうな顔をする。「羨ましいな」「いいな、それ」「出たでた、惚気」といつも俺を煽る。
「……なんです?」
「いや? 変わったなって。吉田仕事中にちらちら時計は見てたけど、今日みたいに私用の電話で席外した事って俺、記憶にないんだけど」
先輩はコーヒーを冷ましながらゆっくり飲んでいる。猫舌なのになんでいつもホットを買ってしまうのだろう。
「すみません、どうしても連絡したくて……」
「いいよ。すれば良い」
意外な先輩のことがに思わずキーボードの手が止まる。数字から目を離しまじまじと先輩を見る。
「仕事は仕事だ。でも、お前はその辺の線引きが厳しすぎだ……ま、少し前から肩の力が抜けてるみたいだけどな。俺は今のお前がいいよ。真面目一徹なのもいいが、彼女を大事にしろ。俺は飲み会で惚気話をもっと聞きたいんだ」
先輩は置いてあった資料をかき集めると俺に手渡した。
「ほれ、頑張ろうぜ」
「……はい」
公私の区別がなっていない、そう言われるとずっと思っていた。
でも、それは先輩に言われたわけじゃない。勝手に俺が思って携帯電話を触らなかった。不真面目な奴、責任感のない奴だと思われたくなかったのだと思う。
「ちょっと、俺も電話してきちゃおっかなー」
ようやく飲み頃になったコーヒーを片手に先輩が立ち上がった。先輩らしい気遣いに思わず笑ってしまう。
「ゆっくりしてきてください」
「おう、すぐ戻る」
先輩の口元は緩んでいた。
憲司は受け取った資料を見て、税務調査でよく聞く部分や、突っ込まれやすいところにマーカーをする。これをしっかり見ておけばなんとか乗り切れるだろう。
憲司はマーカーを引きながら一人笑っていた。嬉しくてたまらなかった。
◇
「おーい、……俺だけど」
『どうしたの?』
「子供達は寝たか?」
『とっくの昔にね……電話してくるなんて、やましいことでもあるんじゃ──』
「ち、違うぞ! ただ、どうしてるかと──」
『こちらは平和ですので、ご安心を──切るよ!』
「へいへい……じゃな」
『あ……』
「牛乳か? 食パンか? コンビニしか開いてないぞ」
『お疲れ様、気をつけて。……待ってるから』
「っ……、おう。出来るだけ早く帰る」
通話を終えると俺は思わず笑ってしまった。
まいったね、こりゃ──。
少し火傷した舌をべぇっと出すと事務所へと踵を返した。
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