5.別れ 憲司side
駅から徒歩十分のところに俺の勤める会計事務所がある。税理士になってからずっと勤め続けていてようやく責任ある案件も任せてもらえるようになった。
仕事内容は申告の代理はもちろん税務相談の業務まで多岐にわたる。確定申告の時期には目が回るほどの忙しさになり、いつもこの時期は皆体調が悪くなるのでマスク生活になる。ここまで五年だ、がむしゃらに走り続けてきた。税理士という仕事は勉強が欠かせない、次から次に変わる税法をきちんと理解しなければとんでもないことになる。
「吉田、悪いが今晩資料作りを手伝ってくれ」
先輩から声が掛かり二つ返事でサンプル資料を受け取る。最近は経営難やリスク分散の相談が多い。消費税の増税の余波を受けどの企業も対策に大忙しだ。もちろん我々が受け持つ中小企業や個人事業主も同様だ、いや、それ以上に煽りを受けている。
俺は顧客のニーズに応えるため昼夜問わず駆けつけた。次第に「吉田くんじゃないと」と言われることも多くなり多くの自信につながった。恋人の里美には申し訳なかったが断るという選択肢を俺は持ち合わせていなかった。
里美は俺の彼女だ。もう五年の付き合いになる。駅の雑貨屋に勤めているのだが、本当に笑顔の可愛い彼女だ。里美のことを考えていて、ふと我に帰る。カレンダーの日付を見て愕然とする。今日の日付には里美のSのマークが付けてある。何ヶ月か前に珍しく里美にはごねられ約束した日だったことに気がつく。
『絶対、絶対にこの日は早く帰って来て……』
しまった──うっかりしていた。里美の顔を思い出し先輩に用事がある事を伝えようとするが先輩はパソコン画面を食い入るように見つめていた。気付いた時には事務員も総出で残業するぞという空気になっている。俺は苦渋の選択をする。今晩はさすがにこの輪から抜けるのは難しいかもしれない。明日にでも会いに行こう。大丈夫だ、今までも何回もあるし里美はいつも許してくれている。
俺はメールを手早く打つと、すぐに先輩たちの待つ会議用テーブルに向かいホチキスを片手に手早く止めていく。
だから、俺は知らなかった。
里美が俺に別れのメールを送ったことも、里美がどんな思いでこの日を待っていたかも知らずに。ただ、先輩たちと仕事をしていたんだ。時に談笑し微笑みながら──。
知っていれば……なんてことは言えない。
里美をないがしろにしていたと言われればそうだとしか言えないほど俺は何も見えてなかったのだから。
しばらくして一人の先輩がカレンダーの日付を見て、何かに気付いたような顔をした。
「吉田、お前今日記念日だろ? ほら、あの飲み会の席で惚気る彼女」
この会社では俺はこういうキャラだ。いつも受け身な俺が里美の時には自分から携帯番号を聞いた。必死な思いで声を掛けたことだけ覚えている。親切に対応してくれた里美の笑顔に一目惚れしたのだ。もうすっかり社内で揶揄われるのに慣れてしまった。
「ああ、そうなんですよ」
「そうなんですよじゃないっしょ。早く帰れ!」
皆が心配そうな顔をしてこちらを見るので苦笑いでごまかすと俺に資料作りを頼んだ先輩が俺にカバンを押し付ける。
「そんなんじゃ捨てられちまうぞ、さっさと帰れ。あ、菊田さんもね! 子供ちゃんまだちっさいんだから」
菊田さんはうちの事務員で唯一の子育てママだ。二人とも半ば無理やり帰らされた。そのまま二人で歩き出し駅へと向かった。
駅に向かう間菊田さんの子供のことやご主人の失敗話を聞いていて羨ましくなった。結婚……したいが、まだ里美を養えるほどではない。自分で事務所を開けるようになるまでは頑張らなければいけない。駅の改札で菊田さんと別れるとそのまま駅の外に出た。ここから少し歩くと里美のアパートがある。このまま帰ればまだお祝い出来るかもしれない。
俺はコンビニでお詫びのお菓子を手に取りレジに並んでいた。支払いの際にようやく携帯電話の存在を思い出し連絡しようとカバンから取り出した。画面を見て思わず声が出た。
「え?」
「518円です──あ、518円です」
店員は憲司が値段を聞き返したのかと思ったようだ。慌てて札で支払うとお釣りを握りしめてそのままコンビニを出た。改めてメールを見直した。
別れよう。もういい
なんだこの文字は。一瞬意味が分からなくなる。唖然というかただ心にぽっかり穴が開くような……。
俺は慌てて里美に電話を掛けてみるが繋がらない。電源を切っているようだ。俺はアパートに向けて走り出した。こんなにも走ることなど日常生活ではありえない。階段を段飛ばしで上り切り部屋の前に着いたが部屋の明かりは真っ暗だった。里美が待っているはずの部屋は静まり返っていた。
インターフォンを鳴らしてみるが応答はない。もう一度電話をしてみても、メールを打っても反応がない。俺は思い出したようにカバンのキーケースを手に取った。
キーケースの中に一つだけきれいな色の鍵がある。付き合ってしばらくして里美から手渡されたものだ。今まで一度も使ったことはない。玄関からエプロン姿の里美が笑顔で出迎えてくれるのが好きだからいつも里美がいる時しか部屋に来なかった。里美は風邪もひくこともないので看病もしたことがない。逆に俺がいつも顧客から風邪をもらいダウンするので里美がよく俺の家でおかゆを作ってくれていた。
その鍵を握りしめて、そっと鍵穴に差し込んで回した。
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