忙しい男

菅井群青

1.別れ

 昨日、田中里美は長年付き合っていた彼氏と別れた。

 別れたというか、半分既に捨てられていたのかもしれない。


 昨日、付き合って五年目の記念日だった。彼氏の吉田憲司は税理士をしていて普段の平日は忙しくて会うことができない人だった。日曜は日曜で事務所を閉めている分顧客が来ないので出来る仕事もあると休み返上で出勤することもしばしばだ。


 付き合う前から忙しい人だと思っていたし、納得して付き合った。イベントの時期になると一人寂しく部屋で過ごすこともあった。メールで送られてきた【メリークリスマス】や【ハッピーニューイヤー】の言葉に涙を流したこともある。


 分かっている。分かっていた。


 だけれど、五年だ。五年目の記念日はどうしても一緒に祝いたかった。


──悪い、行けなくなった。また埋め合わせする


 携帯電話に映し出されたこの一文、私の壊れそうな気持ちを破壊するのには十分だった。何ヶ月も前からずっと言っていた。一緒にいてほしい、この日だけは、会いたいと……。


 記念日に会いたいと思うのはワガママすぎたのか? それともこんなにも放っていても大丈夫だと思わせてしまうほど我慢してきたからか? 今となってはもう何も分からない。


──別れよう、もういい


 しばらくして返信した。それから携帯電話の電源を切りベッドへと放り投げた。どうせ憲司以外に特別重要な連絡など来ない。


 用意していたワイン、ケーキ、大皿に盛られた全てのご馳走をゴミ箱に捨てて里美は家を出た。


 最寄りの駅は数年前劇的に変わった。味わい深い商店街が消え、キラキラ光るおしゃれなインテリアが売りのバーやレストランなど商業施設が入ったビルができた。今の里美には眩しい光だ。その中のずっと気になっていたパン屋へと入る。そこで明日以降食べるパンを選んでいるとガラス張りの店内から駅の改札へと向かう会社員の群れの中に知った顔を見つけてしまった。


「憲司……?」


 よりによってなぜ顔を上げてしまったのだろう。なぜ気づいてしまったのだろう。パンだけを見ていれば笑顔のままでいられたのに……こんな、運命のいたずらがあるのか。


 憲司は駅へと向かっていた。グレーのスーツを着た黒髪の女性と肩を並べて楽しそうに談笑していた。ああやって笑いながら歩いた最後の記憶を呼び覚ます。いつだった? 一ヶ月前? 三ヶ月前? デートもろくにできないのに、仕事だったんじゃないの?


 憲司は私に気付くことなく人混みへと消えていった。

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