エピローグ

 その日は朝からぽかぽかと暖かく、柔らかな風の中に新緑の匂いが混じって薫るような、穏やかな休日だった。

 小高い丘の上に作られた小さな公園の、一本だけ立ちすくむ桜木の元に設えられたベンチに、一人の老紳士が座っていた。

 真白い髪の上から中折れ帽を被り、背筋のいくらか曲がった体を、上品な仕立ての背広に包んでいる。傍らに杖を立てかけ、ただぼんやりと公園の景色を望み見ていた。

 葉桜の木漏れ日に混じって小鳥の囀りが降り注ぐベンチに佇み、AR端末を身に着けて遊ぶ子供たちや、介護用アンドロイドを伴って散歩をする同年代の老人たちを見送り、時折水筒からコーヒーを飲みつつ、老人はじっと、その時を待っていた。


 やがて日も傾き、空に茜色が混じりだした。

 夕暮れ時は、逢魔が時。

 人気も失せ、徐々に冷たさを増す風に老人が目を細めると、その腕に身に着けていた腕時計型の端末に着信が入った。

 慣れた手つきで一つ二つ操作をすると、その盤面に立体映像が浮き上がり、メッセージを伝える。

 それを見た老人の顔がほろりと綻んだ時、背後から声がかけられた。


「何を見てらっしゃるんですか?」


 凛と響く鈴の声。

 彼の座るベンチの端に、セーラー服を着た黒髪の少女が座り込む。

 老人はつまみを捻って映像をしまうと、愛おしそうに盤面を撫でた。


「ええ。私の孫が、昨年やっと就職しましてね。先日、仕事で成果を上げたと、その報告でした」

「あら。おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 花の咲くような笑みを浮かべて、少女が会釈をする。

 老人は、皺だらけの顔で糸のように目を細めた。


「でも、その仕事って、この前私の眷属を殺したときの話ですよね?」

「そうでしたか。それは失礼」

「いえいえ。私もこの前、先生の息子さん食べちゃいましたし。すみませんでした。まあまあ美味しかったですよ」

「いいえ。あれが未熟なだけです」

「うふふ。冷たいんですね」

「せっかく作った私の遺伝子を絶やしたくないという、ただそれだけのために作られた子でしたからな。それにしても、もう後継ぎも作ったのだから、惜しくもないでしょう」

「うふふふ」


 夕暮れは、逢魔が時。

 身震いするような冷気が流れ、桜魔おうまの女王は黒髪をはためかせた。


「こうして会うのも、何度目になりますかねぇ」

「先日、親族に米寿を祝って頂きましたよ。実はこの杖も、その時のプレゼントで」

「あら。羨ましい。私なんて、眷属からの貢物ときたらイケメンハンターの目玉だの細マッチョのイチモツだの……」

「ふふ。満更でもないのでしょう」

「まあ、美味しく頂きましたけど」


 う、とうめき声を上げて、老人が杖を支えに立ち上がった。

 ずっと座りっぱなしで凝り固まった老体が悲鳴を上げる。

 二度深呼吸を重ねて瞬きを繰り返し、すでに立ち上がっていた少女に向き合った。


「桜子さん」

「はい。秋田先生」


 互いの名を呼ぶその声は、初めて会った時から少しも変わらず、甘く響いた。


 かしゃり、と、老人が杖で地を突くと、杖に仕込まれていた機構が作動し、老人の腕を銀の籠手で包み込んだ。

 それと同時、その全てがナノマシンで出来た背広が老人の体に幾何学模様の線を走らせ、背筋を伸ばす。

 中折れ帽はバイザーとなり、すっかり視力の衰えた老人の五感を補い始める。

 右手に銀の剣。

 左手に機関銃が顕れた。


 ぞわり。

 ぞわりと、少女の足元の影が揺らめき立ち、その目が血の色に濁っていく。

 見る者の魂を凍らしめる闇の波動が胎動し、春の空気に血の香が漂い出した。



「愛しています」


「ええ。私も」



 だから――



 風が、吹いた。

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葉桜の君に lager @lager

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