生贄ではなく嫁だった。

エノコモモ

生贄ではなく嫁だった。


星花せいか暦980年。桜獅子さくらじしの月、最初の等星の日。


この日、ひとりの人間の少女が魔族の土地へと足を踏み入れた。単なる旅行でも、興味本位でもない。この地で自身の一生を終わらせる為。捧げられる生贄としてである。




贄の名前はロゼッタ。ロゼッタ・カプア。


「私が生贄に捧げられて3ヵ月…」


爽やかな風が、目の前の花壇の花々を揺らし、頬を優しく撫でて行く。その瞳は憂慮に翳る。ロゼッタは今、悩んでいた。


「何故、食べてくれないの…」


晴れやかな春の日差しの中、生贄の儀式は執り行われた。参列したのは魔族のみ。彼女の持ち主となる魔人の大きさに驚き、人ならざる角や鱗を見て絶望すらした。


(恐ろしい儀式だったわ…)


「けど、今の状況の方が余程恐ろしい…!」


1年前。魔族の元へ行けと政院から打診があった。それが生贄だと分かりながらも、彼女はこの話を受けた。見返りは家の安泰。両親が急逝し、弟妹と抱える領民を守る為だ。他に選択肢は無かった。非道な仕打ちをされる覚悟も、命を落とす可能性も理解した上で、ロゼッタはこの地までやって来た。


「なのにどうして、食べないのよ!」


だがしかしどうして、魔人が彼女を食べようとする様子は一向になかった。そのことに安堵したのはこの国へ来てほんの数日間のみ。今は一体いつ食べられるのか、この期間は何なのか。彼女は先の見えない恐怖に怯えていた。


ロゼッタは自分で選んでここへ来た。どれだけ耐えようとも逃げ場も無ければ助けも来ない。このままでは生殺しである。


「私…必ず、必ずなってみせる!」


いつ来るのかも分からぬ死刑宣告に怯え続ける生活はもう御免だった。だからロゼッタは決意した。


「立派な食材に!!」






その魔人の名前はグレゴリオ・ヴェルガーニ。

魔族の中でも特に強い権力を持つ竜族十三席の上席に座る男。ヴェルガーニ家第五代目当主。生粋の魔族である。


「……」


まるで蛇のように鋭い赤い瞳が、屋敷の窓より中庭を見下ろす。そこには頭を抱えるロゼッタの姿。その姿を視界に捉え、息を吐く。彼には悩みがあった。


(どうにかして、甘えてくれないものか…)


彼の悩みとは、彼女がほんの少しも心を許してくれていないことにある。グレゴリオは硬派で厳格な男だ。自ら異性に甘えるような男ではない。だがしかし、触れ合う欲求は人並みにある。


(ロゼッタが嫁に来て3ヵ月が経つと言うのに…)


そう。彼はロゼッタのことを嫁だと思っていた。


彼女に一目惚れをしたのが3年前。それから彼は婚姻に向けて着々と準備を進めてきた。グレゴリオとしてはもちろん彼女の自由意志を尊重するよう、最大限配慮をしたつもりだ。だがしかし彼が思っている以上に、人間は魔族を怖がっていた。


その為に人間側との協議の際に多少の齟齬があったことは否めない。さらに言えばロゼッタが生贄の儀式だと思っていたものは、まったく別のものだった。


(厳粛で格式高い、良い結婚式だったな)


種族が違えば文化も違う。グレゴリオ側のしきたりに則り、共通語ではなく古い魔族語で進行された結婚式は、人間側のものと少々勝手が違った。ロゼッタが理解できずとも致し方ない。


(ロゼッタ…。色々と努力はしているのだが、何故か警戒し心を開いてくれはしない…)


グレゴリオも手を打たなかった訳ではない。毎日必ず1回は接触を図り、それとなく触れるようにしている。ちなみにその度にロゼッタは真っ青になっていた。


(甘えて欲しい…)


もう一度ため息をつく。彼が手を掛ける窓枠が、めきりと音を立てて折れた。


自分を生贄だと思っているロゼッタと、嫁だと思っているグレゴリオ。あまりにも壮大な思い違いで、3ヶ月もあれば誤解も解けそうなものである。しかしながら何故未だに盛大な勘違いを繰り広げたままなのかと問われれば、理由はただひとつ。


グレゴリオは顔がめちゃくちゃ怖かった。






「…おい」


静かな室内に、一言重厚な声が響く。それを受けてロゼッタの肩はびくりと震える。こわごわと顔を上げると、恐ろしい顔がそこにはあった。


「膝に、来い」

「……」


この部屋には今、ロゼッタとグレゴリオのふたりきり。目的は分かっている。腹を括り、彼女は息を吐いた。


(いよいよ、私。食べられるのね…)


膝に乗ったら最後、ぺろりと頭から平らげられるのであろう。たとえどれほど覚悟を決めようとも、生命を脅かされる恐怖にはいつだって慣れるものではない。口から覗く鋭い牙に全身を覆う鱗。人ならざる姿を近くにして、彼女の体は震える。


(怖い…)


ロゼッタが恐怖を覚えていた頃、グレゴリオは癒しを覚えていた。


(可愛い…)


小さな彼女はまるで小動物のようだ。先程は緊張していた為に少し乱暴な物言いになってしまったが、グレゴリオの思いは本物である。傷つけないよう、優しく膝の上に乗せる。


彼女がずっと震えているのは分かっている。だがしかしグレゴリオは人間を知らぬ。彼を前にすれば大抵の人間はいつも震えている為に、そういう生き物だと思っている。チワワぐらいに思っている。


「……」

「……」


無言の時が経過した。グレゴリオにとっては1日に1度のほっこりタイム、ロゼッタにとっては地獄のような時間であった。


「もう良い。寝ろ」


あっという間の時が経ち、我に返ったグレゴリオは終了を告げる。


(今日も甘えてくれなかった…)


しょんぼりと肩を落とす。彼女を膝に乗せることで、甘えても良いんだぞと精一杯伝えたつもりであった。あと布越しでも触れ合うことで、少しでも心理的な距離を縮めたかった。そんな彼は、現在ロゼッタの心が宇宙より遠い彼方に行っていることに気付いてはいない。


「待って!」


けれどその瞬間、彼の肩をロゼッタが掴んだ。彼女が普通の人間と違ったのは、少しばかり強いチワワだったと言うことだ。ロゼッタは膝に乗ったまま、少し迷った後に、強い口調で続ける。


「今日という今日は言わせてもらうわ…」


肩に置かれた手に、グレゴリオは甘えてくれるのかと期待する。けれどロゼッタから放たれた言葉は、彼のどんな予想とも違った。


「どうして食べてくれないの!?」


(今日は食べてくれるかと思ったのに!)


いつものことだ。グレゴリオは毎夜ロゼッタの寝室に来て、結局は喰わずに帰る。怯えさせるだけ怯えさせて今日も解散しようとしている。


「いい加減にして!こっちはもう、覚悟してるの!」


彼女はもう、耐えられなかった。


「食べる、だと…!?」


そしてそれを伝えられたグレゴリオは、衝撃を受けていた。勘違いされがちなのだが、彼らに食人の習慣はない。戦争中に誇張されて伝えられたものを、真に受けた人間が広めただけの話だ。


だから、グレゴリオがたどり着いた結論は彼女の真意とは違った。


(初夜のことを、言っているのか…)


新婚夫婦と言えば初夜である。けれどふたりの間には未だにそのような行為はない。彼としてもいずれはそのように深い関係になることを望んではいる。


だがしかし早すぎる。グレゴリオとロゼッタはまだ明らかに打ち解けていない。肌を重ねるのは心を通わせた後にゆっくりと。それが彼の理想だった。


そして最大の理由が、もうひとつあった。


「…お前が、人間だからだ」


いくら意志疎通が可能であろうとも、婚姻しようとも、ふたりは異種族である。互いの知らぬ文化や習慣があるやもしれぬ。ともすれば何がとは言わないが仕様が違うかもしれない。慎重に事を進めなければならない。グレゴリオの配慮であった。


「だから何!私、必死で努力してるのよ!」


だがしかしロゼッタはそんな思いやりなど知らない。一向に物理的に食べてくれない主人に向かって捲し立てる。


「毎日体の隅々まで洗ったり!油を塗ったり!」

「油だと…?」

「ええ!とっても美味しくて健康に良い植物油をね!」


立派な食材になる――ロゼッタの決意は本物だった。グレゴリオに食べてもらえるよう努力をしてきた。たまに自分は何をしているのだろうと我に返って思うこともあったが、雑音を振り切り努力を続けてきた。


「たくさん食べて、肉付きを良くしたりだとか!」

「何…?」


(肉付きを…?)


グレゴリオは思わず彼女の体の一部を見てしまう。


「……」


そのまま黙り込む。何か考え始めた彼を前に、ロゼッタもぱたんと口を閉じた。その顔を見ながら、彼は悩む。


(ロゼッタがまさか、そんな不満を抱えていたとは…)


彼女によれば、美容油を塗り熱心に自分磨きをしてきたわけだ。全ては彼に食べてもらう為。ロゼッタはそのままの意味で言ったのだが、現在グレゴリオの考える「食べる」は性的な意味である。


「そうか…」


ここで手を出してしまうのは、確かに彼の本意ではない。


(しかしうら若き新妻にここまで言わせてしまうとは、完全に私の落ち度だ…)


ずっと、避けられているのだと思っていた。屋敷内でたまたま出くわしてしまった時など悲鳴を上げて逃げられることもあった。そんな妻が、まさかそれほど自分を求めてくれていたとは――。感動にうち震えるグレゴリオの中で、男気が輝いた。


「ロゼッタ」

「!」


グレゴリオが彼女の手を掴む。色も形も全く違う手同士が合わさって、ロゼッタの心臓がどきりと鳴る。


「痛みが少なく済むよう、善処する」


グレゴリオの口から出たのは、彼女の願望を叶える言葉。これで解放されるのだ。ロゼッタは力なく笑った。


「お気遣い…感謝するわ…」


(父さん、母さん。私、今日、あなたたちの元へ行くね…)


天国の両親をそっと思う。寝台に横たわりながら、彼女はこの世に別れを告げた。





それから数時間後。彼女はまだこの世に居た。


「ど、どうして…」


服を脱いだまではいい。余計な物が付いていない方が食べやすいだろう。グレゴリオも脱ぎ出したのは予想外だったが、服に血や汚れが付くのが嫌なのだろうと納得した。


だがしかし途中で様子は変わった。あれよあれよと事は進み、これ違くね?と思った時にはそれどころではなくなった。そして無事に終了し時間が経った今、ロゼッタは思う。


「なんで食べないのよ…!」


いやグレゴリオからすれば確かに「食べた」のだが、ロゼッタからしてみれば違う。大いに違う。


(痛いどころかちょっと気持ち良かったし!!)


「はっ!」


ロゼッタは気付いた。猫など一部の動物は、獲物を前にしても直ぐには殺さない。いたぶることがあると。それと同じだと気付き、震える。


(このまま、玩具として弄び続けるんだわ…!)


「ロゼッタ…」

「!」


突然、背後から声がして大きな手に引き寄せられた。思わずびくりと身を震わせるが、ベッドの中のグレゴリオはおとなしく寝息を立てている。いつもよりほんの少しばかり優しげな顔つき。


「っ…!」


咄嗟に心に湧いた感情を、慌てて振り払う。


(ダ…ダメよ!ロゼッタ!)


そう、気持ちよかったのだ。彼女の肌に触れるとても優しい指先、名前を呼ぶ熱の篭った声。絆されてはいけないと、強制的にその思い出を追い出す。


(これはこの男の策略!私を搾取し続け最後には喰らい尽くすに違いないのよ!)


何故なら彼女は生贄である。魔人の腹を満たすために宛がわれた存在なのだ。


(私は食材なんだから!)


残念ながら、ロゼッタの思う未来は存在しない。それを知らない彼女は引き続き警戒し食材になる為の努力を欠かさないのだが、それらは全て裏目に出る。


更に非常におめでたいことに、彼女は近くに妊娠する。グレゴリオは愛する妻の懐妊を、大いに喜んだ。


そして母によく似た赤子の面倒を熱心に見る、鱗に覆われた背中を前にして初めて。そこで初めてロゼッタは自分の立場が生贄ではなく嫁であることに気付くのだが、それはもう少し先の話である。

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