豹変

コヒナタ メイ

第1話


 「何やってんだ!馬鹿野郎。」

 上野の怒号が響き渡り、室内は静まり返った。上野の机の前で三田が神妙な顔つきで立っている。

 東京都内にあるクローバーコーポレーションはオフィス家具や文具を取り扱う中堅商社だった。営業2課の責任者は課長の上野だった。上野は年齢が45才、身長165㎝、体重80㎏、酒とタバコ、肉が大好きで下っ腹が突き出たメタボリックシンドロームのサンプルのような体形をしていた。上野は生来の熱血漢で、しばしば部下を強い口調で叱責することがあった。叱責された部下は上野に対して快い感情を持っていなかったが、かと言って上野に歯向かう者はいなかった。三田は入社2年目、25歳の社員で身長は180㎝、体重70㎏、やせ型だが、大学時代ボクシング部に所属しており、スーツの中には引きしまった筋肉が隠されていた。甘いマスクも手伝って女子社員から人気があった。おとなしい性格だったが、強い正義感を持っていた。

 朝9時に、取引先から見積書に不備があるとの苦情の電話が入ったため、上野は見積書を作成した三田を呼んだのだった。

「課長の許可は頂きましたが。」

三田は反論した。

「何?お前俺に口答えする気か?」

上野は三田の弁解を聞かなかった。

「見積書はこっちで直しておくから、今度から俺に書類を持ってくるときは完璧なものを持ってこい。戻っていいぞ。」

上野は三田を睨みながら吐き捨てるように言うと、机のPCを操作し始めた。三田は上野の頬に右フックを食らわせたい衝動を抑え、目を閉じて深呼吸して踵を返して、自分の机に戻った。今回の見積書は上野に何度も確認したのに、上野は女子社員との世間話に夢中で、見積内容も見ずに承認印を押したのだ。三田の怒りは静まることはなかったが、ここで暴れたりしたら自分の人生が終わってしまう。辞表を叩きつけることもできるのだが、せっかく苦労して入社したのに、こんな理由で退社したくはなかった。就職が決まったときに喜んだ両親の顔が頭に浮かび、やるせない気持ちになった。(いつまで俺は我慢しなきゃいけないんだろうか?)三田は深いため息をついて、机の上の書類を見た。書類の上にピンク色の付箋が貼ってあった。付箋には「ファイト!(^^)!」と書いてあった。三田は付箋を手に取って、室内を見回すと三田と二つ離れた机の前に座った神田愛美と目が合った。愛美は三田を見てにっこりと微笑み両手でファイトのポーズをした。三田は付箋は愛美が書いたものだと確信した。三田も愛美に向かって微笑むと、机の横に置いてある通勤バッグを手に取り、10時半にアポイントメントを取っている営業先に向かって部屋を出て行った。 


 昼過ぎ、三田が営業先から戻ると、

「おーい三田、ちょっと来いよ。」

と低い声で上野の呼ぶ声がした。三田は机の横に通勤バッグをしまうと上野の前に行った。

「お前の兄貴って確かナリダイの社員だったよな。」

上野が訊いた。

「はい、そうですが。」

三田が答えた。三田の兄は家具メーカーのナリダイ株式会社の社員でオフィス家具の開発部に所属していた。クローバーコーポレーションはナリダイの製品を販売している。

「今度大塚にある南門病院の新築移転でうちがオフィス家具やら待合用の椅子入れる予定じゃんか?」

上野が訊いた。

「はい。」

三田が答えた。

「それで南門病院に納品する予定の待合用の椅子20脚の納期が遅れるってナリダイから連絡あったんだけど。」

上野はムッとしながら言った。

「そうなんですか、兄はナリダイの開発部に所属しているので納期遅れとは関係ないと思いますが…。」

三田は言った。

「はぁ?お前の兄貴がナリダイのどこの部に所属しているのかなんて関係ねえんだよ。ナリダイが納期遅れると俺が病院に謝って納品のスケジュール組みなおしてもらわなきゃならないの。病院の移転新築って、新築した病院にいろいろな医療機器やら機械が搬入されるだろ。あらゆる物品の搬入スケジュールは分刻みで組まれているから、スケジュールいじるの大変なんだよ。うちに割り当てられた時間内にうちが取り扱う商品全部納入しようと思ったのに、納期遅れる待合椅子だけ別日のスケジュール取ってもらわなきゃならなくなっちゃったじゃねえかよ。南門病院の新築事業の担当部長すげえ嫌な奴でさー。俺、電話したくないんだけど。」

上野は早口でまくし立てた。

「はあ。」

三田はうつむいて言った。

「はあじゃないよ、三田。お前の兄貴のせいで俺はあの嫌な部長に頭下げなきゃいけないの!超憂鬱なんだけど。」

上野は三田に噛みつくように言った。

「私は兄のせいで納期が遅れたとは思いませんが。」

三田は反論した。

「はぁ?お前の兄貴はナリダイの社員だろ?そのナリダイが俺様に迷惑かけたんだから、お前の兄貴のせいだろ?」

上野は言った。三田は(こいつ無茶苦茶なこと言うな、よっぽど南門病院に謝るのがいやなんだな)と思った。

「はいそうかも知れません。」

と三田は言った。

「じゃ、謝れよ。無能な兄貴に成り代わって、ナリダイ社員の兄貴に成り代わって。」

上野は口角を上げてにやけながら言った。兄への侮辱が許せなかった三田の頭に熱い血液が流れ込んでくるのを感じた。上野のあごに全体重を乗せたアッパーカットを食らわせてやりたい衝動を抑えながら、

「この度は待合椅子の納期が遅れてしまい申し訳ありませんでした。」

と言った。上野はため息をつきながら

「しょうがねえな、弟が弟なら兄も兄だ。ま、いいや許してやるよ。戻っていいぞ。」

と言って右手で三田を追い払うしぐさをした。三田は踵を返して自分のデスクに向かって歩きながら、何度か深呼吸をした。まわりの営業部の同僚が気の毒そうな目で自分を見ているのを感じた。三田は自分の机の椅子に座って二分ほど深呼吸を続けてようやく怒りが収まった気がした。


 その日は金曜日で、夜に愛美の送別会が行われた。送別会は会社の近くにある居酒屋で行われた。座敷の大部屋を借りて十数名の社員が集まった。入社4年目の愛美はルックスもスタイルも性格も良く、男子社員のマドンナ的存在だった。退社後は東北の老舗旅館に嫁ぎ、若女将になるとのことだった。送別会の参加者は彼女の退社を残念がったが、新たな世界にチャレンジする愛美を心から励ました。だが、上野だけは違った。上野は会の始まりから急ピッチで酒をあおり、早々と酩酊状態になるや、フラフラしながら愛美の横に座っている社員を強引にどけて、愛美の左横に座り、

「いーよなー、美人は何の能力も無いのに、玉の輿に乗れちゃうんだからよ。俺も玉の輿に乗りてーなー。」

と酒臭い息を愛美に浴びせながら言った。愛美は上野に向かって引きつった愛想笑いを浮かべていた。

「旅館の女将さんになるんだってな。俺、旅館に行くからよ、行ったらたっぷりサービスしてくれよ。」

上野はそう言って、右手で愛美の左手を掴んで自分の股間に導こうとした。愛美は右手で上野の右手を掴み、

「やめてください。」

と抵抗した。

「やめてください。課長、神田さん嫌がっているじゃないですか。」

三田は上野の左横にしゃがみ、上野の右手を掴んで言った。上野は愛美の手を放して、

「何だきさまー、上司に向かってー。」

と言って立ち上がった。三田も立ち上がったが、二人の身長差は15㎝あるので、上野が三田を見上げるようになった。

「やめてください、課長。」

係長の船井が上野の体を掴んだ。主任の川村は三田を掴んで上野から離した。上野は焦点の合わない目で

「おまえ覚えれろよー。たらじゃすまないからなー。」

フラフラと揺れながらと叫んだ。三田は冷たい目で上野を見返した。上野はおぼつかない足取りで最初に自分が座っていた席に戻り、グラスに残っていた酒を飲んだが、すぐに横になって眠ってしまった。送別会終了後、川村と三田は上野をタクシーで家まで送り届けた。送り届けた後、三田は川村とお互いの家までタクシーで帰ることにした。37歳の川村は小柄で、気弱な性格だった。丸顔にかけた丸メガネの奥には、いつもおどおどした目が泳いでいた。

「上野課長、とんでもない嫌な奴だから気を付けた方がいいよ。自分に歯向かった奴はただじゃおかないんだから。俺が入社する以前の話で、俺も人から聞いたんだけど、上野課長に反論した人がいて、勿論反論した人が正しいんだけど、上野課長すっげー怒って、その人に半年間ありとあらゆるパワハラし続けたんだって。」

「その人どうなったんですか?」

三田が訊いた。

「精神病院送りになっちゃって、現場復帰できずに退職したらしいよ。」

川村が答えた。

「あとね、上野課長に歯向かった人で、北海道の根室支店に飛ばされた人もいるって言ってた。」

川村が続けた。

「上野課長って何でそんなに力があるんですか?」

三田が訊いた。

「なんか、上野課長の奥さんのお父さんが、うちの親会社のアポロン商事の重役らしくって、会社は上野課長の悪事について把握してるけど、大目に見てるっていう噂だよ。」

川村が答えた。そして、

「とにかく、上野課長は気に入らない奴は徹底的に追い込むから気を付けな。」

と続けた。

「はい、気をつけます。」

と三田は言った。三田は自分の立場を利用して悪行三昧している上野にさらなる不快感を持った。そして、今回の送別会のことを根に持たれて、上野の嫌がらせがエスカレートしたら嫌だなと思った。


 翌週の月曜日の朝、朝礼が終わるとすぐに三田は上野に呼ばれた。

「金曜日の夜、送別会で川村と一緒に俺を家まで送ってくれたんだってな。ありがとうな。」

と上野は言った。

「はい。」

三田は返事をした。

「飲みすぎちゃって、ほとんど覚えていないんだよ、あの夜のこと。俺、暴れたりしなかった。」

上野は三田に訊いた。

(なんだ、あの夜課長は記憶飛んだんだ。じゃ、嫌がらせとかしないな。心配して損した。)三田は思った。

「いえ、大丈夫でした。課長飲んですぐ寝ちゃいましたよ。」

三田は答えた。

「あ、そー。めちゃめちゃ痛いんだけど、ここ。君に強く握られたからかな?」

上野は右手をさすりながら、蛇のような目で三田を見た。

「ま、彼女は辞めてしまう社員とはいえ、三田君は俺のセクハラを未然に防いでくれたので感謝しなければいけないのかな。」

ニヤニヤしながら上野は言った。(記憶飛んでないじゃん。覚えてるじゃん。)三田は思った。これからどんな嫌がらせを受けることになるのか三田には想像がつかなかったが、想像したくもなかった。

「今度の土日、大島行かないか?」

上野は言った。

「大島ですか?」

三田は訊いた。

「かみさんの親父が大島に別荘持っていて、たまにそこを借りて釣りするんだ。お義父さんクルーザーも持っているから、クルーザーも借りて大島行くんだよ。今度の土日、一緒に行こうと思っていた奴が行けなくなっちゃって、一人で行くのもなんだから君に一緒に行ってくれないかなと思ってね。もし、行ってくれたら、こないだのこと無かったことにしてやるよ。」

上野は言った。(忘れてやるって、神田さんに対してセクハラしようとしていたところを止めたのに、なんか俺が悪いみたいじゃん。だけど、課長は俺が歯向かったことを根に持ってるんだ。大島に一緒に行けば、歯向かったことを忘れてくれるのなら行くしかないな。)

「わかりました。ご一緒させていただきます。」

三田は言った。

「そう、じゃ土曜の朝、三田君の家に迎えに行くから待ってて。」

上野は笑顔で言った。

「失礼します。」

三田は踵を返して、自分の机に戻った。本当は上野と一緒に出掛けるのは嫌だったが、川村の話を聞いてからは、できるだけ上野に歯向かわない方がいいと思うようになった。


 台風が接近している9月の海は荒れていた。上野が操縦する小型クルーザーの後部甲板の上で三田はうずくまっていた。内容物を吐ききった胃の中は空っぽになり胃液の苦い味が口の中を満たしていた。上野は荒波と格闘しながら時おり振り返って苦しんでいる三田を見て微笑んでいた。「ザマアミロ」上野は呟いた。台風が接近中にもかかわらず、上野は土曜日の早朝、自分の車で三田をアパートまで迎えにいき、上野の義理の父が所有する小型クルーザーが停泊してあるマリーナに行った。マリーナで小型クルーザーに乗りこみ、大島を目指した。上野は三級の船舶免許を持っていて、義父の小型クルーザーは何度も乗船しているので、操縦には自信があった。上野は、三田が慣れない船に乗って船酔いするだろうと思っていたが、案の定三田は激しく船酔いした。船酔いする三田を見て喜んでいた上野だったが海の荒れかたは予想以上だった。必死に舵を握っていた上野の前に見たこともない高さの波が現れ、遂に船は転覆してしまった。上野も三田もライフジャケットを着用していたが荒波の中では余り役にたたなかった。上野は漂っていた浮き輪につかまった。三田は漂っていたクーラーボックスにつかまった。荒波はその力を緩めることはなく、やがて上野も三田も意識を失ってしまった。



 目を覚ました三田は起き上がって辺りを見回した。周りは小さな砂浜で三田の足の先には青い海が広がっていた。どうやら自分はどこかの島に打ち上げられたようだ。砂浜の先には急な傾斜の崖がそびえ立っていた。強い日差しが三田の肌をジリジリと焼いていた。砂浜には様々なものが打ち上げられていて三田はその中から自分のデイバックを見つけて中を見た。デイバックは防水のものだったため内部に水は浸入していなかった。中には財布、スマートフォン、500ml入りペットボトルのミネラルウォーター、板チョコレートなどが入っていた。三田はスマートフォンを取り出して消防署に電話を掛けようとしたが、この場所は通話圏外となっていたため通話することはできなかった。次に、未開封のミネラルウォーターを取り出して、ミネラルウォーターを口に含んだ。喉が渇いていたが、後のことを考え一口だけ飲むことにした。デイバックを背負った三田は砂浜から崖づたいに歩いていくと島をぐるりと一周し、自分が打ち上げられたと別の場所に横たわった人の姿を見つけた。横たわった人に近づいてみると、上野が横たわっていた。

「課長、課長」

三田は上野に声をかけた。上野は

「うーん」

と言って目を覚まし、

「おお、三田か?」

上野は言った。

「ここはどこだ?」

上野は訊いた。

「わかりません、どこかの無人島のようです。」

三田は答えた。

「そうか。喉が渇いた、何か飲み物はないか?」

上野が訊いた。三田はデイバックの中からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出すと、上野はそれを奪い取り、残りのミネラルウォーターを半分ほど飲んだ。三田は、横で歯をくいしばって見ていたが、上野は

「腹が減った、食い物は無いか?」

と訊いてきた。三田がバッグの中から板チョコレートを出すと上野はこれも奪い取り、ムシャムシャと一気に食べ、残りのミネラルウォーターを飲み干した。三田は無神経に自分の食糧を食べる上野に対し、心の底から怒りが湧いてきたが、上野が

「とにかく救援を呼ぼう。お前、船に積んであった救難信号を探してこい。」

言ったため、三田は

「わかりました。救援信号探してきます。」

と言って、砂浜にうちあげられている物がある場所へ向かった。三田が様々なゴミを掻き分け、救難信号を探しながら上野を見ると、上野は砂浜から少し離れた崖の近くの日陰に座り休憩していた。

「あの野郎。」

三田の心の中で、今までの上野に対して溜めていた怒りが爆発した。三田は両手を勢いよくついて立ち上がると、上野の方へ突進していった。上野は鬼の形相で向かってくる三田を見て、後ろに退いた。

三田は上野を両手で捕まえると、左手で上野の服を掴み、右手で容赦なく殴り始めた。上野は襲い掛かってくる三田に対し、

「なんなんだ三田!なんで俺を殴るんだ?帰ったらただじゃ済まさんぞ!」

と叫んだ。三田はひたすら黙って殴り続けた。上野の顔は原型をとどめていないぐらい変形した。上野は蚊の鳴くような声で三田に訊いた。

「なんで、こんなに殴るんだ?」

「もうお前は俺の上司じゃないし、俺はお前の部下でもない。」

上野の髪の毛を掴んで頭を地面にある岩に叩きつけて冷たく三田は言い放った。

しばらくすると、上野が動かなくなった。三田は上野を担ぎ上げると、波打ち際まで行き、上野を海に放り投げた。上野の死体はうつ伏せになって波に漂い、頭部の近くの水面は赤く染まっていった。三田はしばらく砂浜に腰かけて上野の死体を見ていたが、すぐに立ち上がり救難信号を探した。三田は救難信号を見つけたが、すぐに救助は呼ばず、上野の死体が魚に食われるのを待った。

                                                        了

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