第60話
12月24日。クリスマスイブ。
『シェアハウス深森』の玄関前に、運転手付き高級リムジン車が止まった。
「司君。これから一体、どこへ行くの…?」
生まれて初めて乗ったリムジン車のフカフカシートにおさまりながら、私は隣に座る司君に、今まで内緒にされていた件を質問した。
カラフルなフルーツが中央の大理石テーブル上に並ぶ車内で、司君は明るく答えた。
「僕が、元住んでいた家」
「え?あの豪邸?!!」
オレンジをひと切れ、細いゴールドのフォークに挿していた彼は、にっこり笑って頷いた。
「安心して、沙織さん。彩月は海外にいるし、誰も僕達の邪魔したりしないから」
彼は、手元のオレンジをこちらに近づけ、私の口の中にそっと入れた。
「…………!」
…………みずみずしくて、甘い。
『司に伝えておいてくれる?私、明後日から一週間取材で海外に行くから、その間ならいいわよって』
…………あれは、あの家に来てもいい、っていう意味だったんだ!
リムジンが神原邸に到着すると、私は司君に広々としたダイニングルームへと案内された。彼は王子様のように優しくエスコートしてくれて、優雅な仕草で椅子を引き、私をそこに座らせた。
「…………司君。すごいね、このお料理…!」
「お好きなだけ、召し上がってください。姫」
私の耳元で囁く声は、ぞくっとするほど艶っぽい。
「………………ありがとう……」
テーブル上にはローストチキン、7種類の本物のフルーツの形に似せた可愛いケーキと7種類のチョコレート。カラフルなフルーツ、卵料理にワッフルなどが所狭しと並んでいた。
「クリスマスだからね。シェフが張り切って、僕達のために作ってくれたみたい」
絶句してしまうほどの、超豪華ランチ……!
少し緊張しながら私がご馳走を食べている間中、向かいの席に座る司君は、嬉しそうにこちらの様子を眺めながら、
「…………幸せだね、沙織さん」
と、
最高級の麗しい微笑みを、見せてくれた。
「!……う、うん」
彼があまりにも眩し過ぎて、見つめられ続けると、段々恥ずかしくなってくる。
ランチの後、10万冊は蔵書があるのでは無いかと思われる『神原邸ライブラリールーム』へと、彼は案内してくれた。
「広いね。図書館みたい…!」
感動のあまり、私はため息を漏らしてしまった。
「『霽月の輝く庭』の内容は、ここでいつも考えてたんだ」
天井まで続く本棚。広々とした室内には、膨大な数の蔵書が収まっている。
「この中には、幻の秘宝が沢山眠ってるんだ。それを自分で発掘して、心の中で膨らませて、育てていく…」
彼は懐かしそうに、ぐるっと室内を見回しながら、
「楽しくてたまらなかったな……。すごく懐かしい」
と、彼はしみじみと気持ちを言葉にした。
「…………そうだったの」
司君は、小さな子供の頃からずっと、この場所で素敵な物語を生み出していたんだ。
「今は、あの時とは違うよ。この場所が無くても、僕はもう大丈夫」
彼は続けた。
「宝物って本の中だけじゃなくて、目の前や、外の世界にもあるんだって、気づかせてもらったから」
「…………」
「沙織さんのおかげだよ」
「…………私?」
「うん。空っぽになってた僕の心に今は、沙織さんとの思い出や、たくさんの想いが、溢れてる」
彼の眼差しに一瞬捕らえられただけで、心臓が大きな音を立てた。
「…今は色々な物語が、僕の中からどんどん、沸き上がってくるんだ。…沙織さんと一緒にいるだけで」
「本当?」
「…嘘は二度と、つかないよ」
彼の透き通る様な笑顔は美しく、輝いている。
「…良かった」
私は頷き、笑顔を返した。
気に入った本を何冊か借りてライブラリルームを出ると、司君は廊下の突き当りにある部屋へと、私を案内してくれた。
「ここが、小さい頃からずっと僕が使っていた部屋」
ドアを開け、二人で中に入る。がらんとした室内には、中央に小さな四角いガラステーブル、壁際には白くて少し大きめなカウチソファ、反対側には一人用のベッドがある以外、物が何も無い。モノトーン調で落ち着いているこの部屋は、北欧のホテルの一室みたい。
「…………本棚は、無いんだね」
意外。
「この部屋に本が沢山あると、読みたくなって眠れなくなっちゃうから」
少し大きめな天窓があり、そこから明るい太陽の光が柔らかく差し込んでいる。しばらくの間、私は彼の部屋のフカフカした白いカウチソファに座らせてもらい、借りてきた何冊かの本を夢中で読んだ。
司君は私の隣に座りながら、広げた本に集中していた。
どのくらい、時間が経っただろう。
「…………」
私はふと視線だけを、隣に座る司君に向けた。
気づかれない様に息を殺しながら、静かに文字をたどる彼の整った横顔をじっと見つめているうちに、急にある事に気が付いた。
「…………」
今までずっと、一緒にいる間中、一生懸命私を振り向かせようとして、こちらの様子を気にしてばかりいた、司君が。
今は私のすぐ隣に座って、自然な表情を浮かべて、くつろぎながら完全に、本だけに集中してる。
一緒にいるのがいつの間にか、こんなにも当たり前になっていたんだね。
最初に感じたどきどきとはまた違う、深くて満ち足りた自分の、心臓の音が聞こえて来る。
本の世界に感じる嫉妬は、
この不思議な、独占欲は、
以前に感じた事のある、激しくて嫌な嫉妬心とは、全然違った顔で踊っている。
少しだけくすぐったい様な、
嬉しいときめきが、ダンスしてる。
この、完全に仮面を外した司君の素顔はたった今、私だけに見せてくれているんだ、って思えるから。
「…………」
彼はふと顔を上げて、視線をこちらに向けた。
「…………沙織さん?」
彼と目が合うと、私の心臓はどきっと音を立てて跳ねた。
「…すごく集中してたね、司君」
彼は少し驚いた様にこちらを見ている。見られていた事に、本当に気づいていなかったようだ。
「いつから見てたの……?」
彼は静かに本を閉じて下に置き、ゆっくりと私に微笑みかけた。
「…………少し前から」
自分の顔が、少しずつ赤くなってくるのがわかる。
「…………」
私はおどけて、彼に笑いかけた。
「司君、全然こっちに気づかないから」
見つめ返されてますます恥ずかしくなり、咄嗟に照れ隠しを言いたかっただけだけれど。
「…本に、嫉妬してた」
出て来た言葉に、自分でも驚いてしまう。
「…………え?」
司君は、不意を突かれた様な表情を見せ、大きく目を見開いた。
「…司君を、本に取られちゃったみたいに思えて」
気づいたら、思った事をそのまま私は、言葉にしていた。
彼は、みるみるうちに照れた様子で、顔を赤くした。
「沙織さん……」
彼はそっと私を引き寄せ、両腕の中に、ぎゅっときつく閉じ込めた。
そのまま私の背中は壁にぴったりとくっつき、身動きが取れなくなる。
「…………」
彼は、私の耳の後ろに指を滑らせ、
「…………僕を、独占したい?」
私の唇にそっと、
とろける様に甘い、キスをした。
「…………したい」
これしか答えられない。私の頬に彼の温かい手が滑り、沸騰するみたいにその部分が、熱くなる。
「…………僕の事、今、どう思ってるの?沙織さん」
緊張した雰囲気に耐えられ無くなって、私から咄嗟に目を逸らした後も、彼が熱を帯びた真剣な視線をこちらに向けているのが、空気だけで伝わって来た。
私は考えた。
司君を、どう思っている…?
『好き』
…?
『大好き』
……?
『愛してる』
……………?
「……全部、愛してる。司君」
「…………」
まるで、ご褒美をくれるみたいに。
もう一度、彼は私の唇に、
さっきよりも深い、キスをした。
「僕と結婚して。沙織さん」
彼の本気のキスは、どんどん数が増えていく。
「………まだ今は、約束だけになっちゃうけど。僕が全身全霊で、沙織さんの笑顔を、守るから」
涙が、溢れて来る。
「…………待ってたんだ。今の沙織さんを、ずっと」
キスは私の首筋にも落ちてきて、切なさを含む彼の吐息と共に、何度も何度も甘く、優しく、繰り返される。
「誰にも、沙織さんを渡したく無いし…」
少しだけ甘えた声で彼は、はっきりと囁いた。
「僕は、沙織さん以外の人のものには、絶対にならないから」
ずるいよ、司君。
そんな言い方されたらもう、
私、逃げられないじゃない。
「…………はい」
司君の熱を全身で受け止めながら、
私は固い、約束を交わした。
目が覚めると、私は司君のベッドの中にいた。
何気なく目の前にあった自分の左手を見つめると、薬指に綺麗な指輪がはめられていた。
「……!」
真ん中には小さくて透き通ったブルーの石が、輝いている。
「…………司君…」
ベッドの中で起き上がり、部屋の中を見回すと、司君がワゴンで運んで来た夕食を、中央のテーブルに並べている所だった。
「…………起きた?沙織さん。…もう夜になっちゃったから、夕食をここに運んでもらってたんだ」
ほかほかと湯気が立つ、いい香りがする蒸したチキンや野菜、彩り鮮やかなフルーツなどが目に飛び込む。ランチの時よりもさっぱりとしていて、食べやすそうなクリスマスディナーは、とても美味しそうで食欲をそそる。
「すごいね。夕食まで…?」
「驚いた?」
「…うん。豪華すぎてびっくりしちゃった」
でも、…いいのかな。
「あの、…これは…?」
左手の薬指を彼に見せると、彼は悪戯っぽく微笑んだ。
「真ん中の石は、アクアマリン。…まだ、仮の婚約指輪だけどね。本物はまた、その時が来たら別なのをあげる」
部屋の中はいつの間にか薄暗い夜の静寂に包まれており、テーブル上の両サイドにふたつある大きなキャンドルの光だけが、赤々と灯っている。
なんだか、夢みたい。
夢じゃないといいな。
「ありがとう、司君。すごく嬉しい」
司君はこちらに歩み寄り、すぐ側のベッドの端に腰を下ろした。
「今、何時かな?…燈子さんに電話しておかないと…」
その言葉を聞いた司君はきょとんとした表情で、至近距離まで近づいて私を見つめた。
「何言ってるの?沙織さん。今日はここに、お泊りだって言わなかったっけ…?燈子さんにはもう、許可をもらってるんだ」
…………?!
「…………聞いてませんけど」
「あれ?…今朝、言ったはずだけど。変だなあ…」
…確信犯。
司君のペースに乗せられながら、私は苦笑いした。司君はやはり、司君だ。
私の髪を優しく撫でながら彼は、微笑んでこう言った。
「沙織さんが高校を卒業したら僕、この家に戻るよ」
「え?…どうして?」
「彩月が10年間くらい新しい恋人と、海外で暮らす予定らしいんだ。だからその間は、僕がこの家に住もうと思って」
「…………そうなの…」
寂しいな。
「その時が来たら、司君はシェアハウス深森から、いなくなっちゃうんだね…」
彼はそれを聞くと、こちらを見ながら呆れた様子で、やれやれとため息をついた。
「……分かってないな、沙織さんは」
私はその言い方に少しムッとして、司君を見た。
「…………何が?」
「…………もう限界なんだ」
「…………?」
「あのシェアハウスに住んでたら、燈子さんの掟に縛られ続けて、いつまでも沙織さんと、さっきみたいな事が出来ない。…………生殺しすぎるよ」
……………………!
彼はいきなり、私の体を自分の腕の中に引き寄せた。
「今夜はずっと、僕と一緒だからね。沙織さん」
脳内が、完全にフリーズする。
「…………う、うん…………?」
彼は私の耳元に唇を寄せ、
「さっきの続き、していい?……夕食の前に」
と、囁きながら耳にキスをした。
…………!!
…いつもの冗談?
…それとも…本気?
…………………。
どっちにしてももう、私はどこにも、逃げられない。
「…………うん」
私は、柑橘系のあの香りがする司君の腕に捕らえられ、
恥ずかしさで死にそうになりながら、
彼の背中をぎゅっと、抱きしめ返した。
いきなり図書館王子の彼女になりました とさまじふ @mcat4832
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