美容室にて

「あら、なんと一番乗り」

 いつも通りの時間に出勤してみると店の中には私─瀬戸川茉莉以外に誰もいなかった。いつもは店長が先に来て開店の準備をしてくれているのだが。店内を見渡していると鞄の中の電話が鳴った。店長からだ。

『すみません。子供が熱を出してしまったので病院に行って午後から出勤します。午前は瀬戸川さん一人ですがそんなにお客さん来ないと思うのでよろしくお願いします』

「ふーん、まあいっか」

『了解しました、お子さんをお大事にしてください』と返信して電話を鞄に戻す。

どうせ平日の午前だ。店長の言う通りそんなに人は来ない。店長から客が来ないと言われる店は大丈夫なのだろうかと疑問を持ったがそれはまた別の話だ。

しばらくタオルやハサミ、カミソリなどの手入れの確認をして時間を潰したがそれでも誰も来なかったので待合室の漫画に手をのばそうかと思ったそのとき、店頭のドアについている鈴が鳴った。

 いらっしゃいませ、と声をかける。月に一度だけ髪を切りにくる茶髪のOLのお客さんだ。平日に来るとは珍しい。席に案内し、荷物棚に鞄を置いてもらったあとタオルとカットクロスを首に巻く。

「長さはいつも通りで大丈夫ですか?」

「いいえ、ちょっとパーマをかけてもらおうかなって」

「わかりました。ところで今日お休みなんですか?」

「いえ、有給休暇を取ったんです」

「ということはこれからどこかお出かけに?」

「いえ、なんとなく、です。」

 なんとなくときたか。

「朝起きてカーテンを開けたらいい天気だったのでこんな日に会社にいくなんてもったいないなと思っちゃって」

 面白い人だ。今までも何度かお話をさせてもらったことはあったがこんな人だとは思っていなかった。なにか心境の変化があったのだろうか。

話してばかりではいけないので少し集中して手を動かしていく。左右の長さが同じになるよう鏡を覗き込みながら櫛で梳きながらハサミで細かく調整していく。

 突然お客さんがあのー、と申し訳なさそうに口を開いた。

「失礼かもしれませんけどひとつお訊ねしていいですか?」

「ええどうぞ。なんでしょう?」

「店員さんはどうして美容師になろうと思ったんですか?」

 心臓の音がやけに煩(うるさ)くなった気がした。ハサミを動かしていた手を止める。

「どうしてそれを私に?」

「最近色んな人に聞いてみてるんですよ。私はなんとなくで会社に入っちゃったので。」

「そ、うですね……。私には弟が一人とあとまあ、妹みたいな子が二人いて昔から髪の毛を梳いてあげるのが好きだったんです」

ここまでは誰に対しても言っていることだ。そして嘘ではない。

「なるほど」

 私は会話に困った時相手の顔をじっと見つめることにしている。弟がときどき私のことを「カリスマ性がある」と吹聴していることがあるが、それは嘘だ。私は相手の顔を窺って相手の欲しそうな言葉を投げかけているにすぎない。私はそうやって会話を乗り切ってきた。表情から相手の内面を探るのだ。いまの機嫌は?性格は?体調は?

 今がその時だ。私がこの職業を選んだ本当の理由を答えるべきか迷った。さりげなく鏡の中の彼女の顔を見る。口角が下がってはいない。目元が力んでいない。人生を楽しんでいる、いや、楽しんでやろうという心意気が見えた気がした。少なくともからかってやろうなどと悪意の見えるような顔ではなかった。続いて鏡の奥のもう一人の私の顔を見る。私はここから先を吐き出したいのかそうでないのか。しかしいつだって自分の顔を見た時の答えはいつも同じだ。

 わからない。正確に自分の心の中が分かる人間などいない。自分の心より他人の心を推し量る方が段違いに楽だ。情報というノイズが少ないからだ。

 ため息をつく。しばらくは自分の口に任せてみることにした。自分の気持ちは分からなかったがこの人は信用できそうな気がした。

「でも本当に進路を決めた理由はそれじゃないんです」

「というと?」

「美容師になるには専門学校で美容師資格が必要で、普通美容師になりたい人は高校を卒業したら専門学校に行くんです。でも私は高校を卒業するときはまったくそんな気はなくて、そのまま近くの大学に入学しました。」

 うん、うんと丁寧に相槌を打ってくれる。

「大学生活は楽しかったですし、いまでも友人たちとは連絡をとっています。でも一年目に気付いちゃったんです。このまま四年生になって就職して、私はどうなるんだろうって。レールの上の人生がいやになったわけじゃないんですけど、なんか飽きちゃって」

「わかります」

 呆れられるだろうと思っていたがお客さんは微笑んでいた。鏡越しではなく直接こちらを向いたその眼には慈愛に満ちた優しさが含まれていた。まるでテープを巻き取られているかのように私の中にあった薄暗いわだかまりが勝手にスルスルと口から出ていく。

「そのとき思い出したのがモモでした」

「モモ?」

「ミヒャエル・エンデの児童文学です。黄色い縁に白黒の絵が描いてあるやつですね。図書館とかで見かけたことがあると思います。」

「えーと、時間どろぼうでしたっけ」

「ええ、その中でフージーって床屋が嘆くんですよ。『おれの人生はこうしてすぎていくのか』『はさみとおしゃべりとせっけん泡の人生。』って。私は初めて読んだとき思ったんです。十分じゃないか、なにが不満があるんだ、って」

 その本から学ぶべきことは絶対にそこではないのだが、そのシーンだけ印象深く、大人になっても忘れることはなかった。

「やることがわからないならとりあえずお客さんと話をしながら働ける美容師になりたいなって。当然両親からは反対されましたが弟が応援してくれてなんとか押し切りました。」

「不安はなかったんですか?」

「最初のころは自分でも不安でしたけどね。やってるうちに慣れてきていまは天職かも知れないと思えてきました。」

「いまはもう悩んでないんですか?」

「ええ。美容師って実は他のどの職業よりも安定しているんですよ?」

「そうなんですか?そんなにお金持ちな職業だってイメージはなかったです」 

「人間から髪の毛がなくならない限り美容師は滅びませんからね」

お客さんはふっと息をこぼして笑った。

「あはは、なんですか、それ」

「人間が滅びない限り医者と美容師は滅びないんですよ」

 これは店長の言葉なのだが、私はこれを聞いたとき呆れかえって自分の悩みなどどうでもよくなってしまった。午前中誰も来ないような店を続けられるわけだ。

それからもパーマをかけながらたわいもない話をつづけた。とても表情やリアクションが豊かでこの人と話していると話のタネが尽きなかった。

「午後はなにをするか決めましたか?」

「お話を聞きながら考えてみたんですが、駅で服を買って電車に乗ってみようと思います」

「どこへ?」

「いつも会社と家の往復しかしていないので、行けるところまで。明日の朝、出勤時間までに戻って来られるところまで行きます。新しい服で、新しい髪型で、知らない駅に行く、それって素敵じゃないですか?」

素敵だと思いますと返した。心からそう思ったからだ。

「ありがとうございます。えっと、今日は貴重なお話ありがとうございました。よかったらまた聞かせてください」

「ええ。髪が伸びたら、また会いましょう」

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