高山紗夜の休日

 あれも日曜日のことだっただろうか。

 小学校のころだ。私たちの住んでいる町内会には月に一度清掃活動というものがあり、それに参加した子供たちには飲み物が一本渡されることになっていた。

家族で参加した私たちが公園へ拾ったゴミを持っていくと近所のおじいちゃんが私にはコーラを兄にはオレンジジュースを渡してくれた。

 当時炭酸飲料が飲めなかった私は兄に交換をお願いしようとしたが口に出す前に兄が無言でペットボトルを差し出してきた。私はありがたく思いながらも自分のことをすべて見透かされているような気がして釈然とせず、その日は口をきかなかった。



 目覚まし時計の電子音で目が覚めた。

 寝ぼけた頭で日付とスケジュール帳を思い出す。日曜日。今日はアルバイトもなく宿題もない自由な日だ。

「もうお昼かぁ……。」

 ぐぐっと伸びをして体を起こした。朝食を食べていないので当然お腹から抗議の声が上がる。足の赴くまま部屋を出てリビングへ向かいご飯をねだる。

「お母さん朝ごはんある?」

「もう昼だよ」

と言いつつちゃんと私のためのご飯を用意してくれている。

 父は二階の寝室で録画したドラマを見ているところをちらりと見かけたが、兄の姿が見えない。

「あれ、お兄ちゃんどこか行ったの?」

「彼方は病院よ」

 病院─傷病者を収容して診断,治療する施設。 たしか辞書にはそう書いてあった。母は病院と言ったが正確には兄が通っているのはメンタルクリニックだ。兄は中学三年生からひと月に一度、薬を処方してもらったりカウンセリングを受けたりしている。この話については家族の中でもあまり触れられない。それは腫れ物に触りたくないという理由ではなく、そうすることが現在の兄にとっていい環境であろうという本人含む家族の総意だ。

 食べ終わった食器を洗い、自分の部屋へ戻りベッドへ腰かける。

「いや、やることないな」

 本棚を見渡しても何度か読み返しあらすじを諳んじることのできる本ばかりだった。兄の部屋の本も同様である。先ほどまで寝ていたので眠ることもできず、仕方なく外出することを決めた。

 服に袖を通し、ポーチを持って洗面所に向かうところで玄関の鍵が開く音がした。兄だ。

「あ、おかえり」

「ただいま。紗夜はいまから出かけるところ?ああ、ちょっと待って」

「なに?」

 兄は靴を脱ぎちゃんと端に揃えてからこちらへやってくるといきなり手で私の頭を撫で始めた。

「えっ!?」

 いいいいきなりなにを始めたんだこの兄は!?こんなことするのは小学生ぶりでは?

「髪ぼさぼさだよ。あっほら後ろ側こんなに跳ねてる」

「えぅ、あっ、こっ、こ……」

「こ?」

「子供扱いすんなっ!」

 私は兄の脳天に全力でチョップをいれた。



「ってことがあったんだけどさー」

「え、なんですかそれ。俺はどういうスタンスで話を聞いてればよかったんですか?これもしかしてのろけ話ですか?」

 私はそれから家を出て結局喫茶店に来てアルバイトの後輩に愚痴をこぼしていたのだった。この店は適度に人が少なく居心地がよく、話相手にも事欠かないのでアルバイト先ではあるが暇なときにはよく通っている。

 話を聞いてくれているのは成海くんというひとつ下の後輩だ。まだ中学三年生だが家庭環境が複雑らしくそういう話に弱い店長がこっそりと雇っている。

「いや昔からなんだけどね、うちの兄は歳がひとつしか違わないのに私のことをいつまでも子供だと思ってる節があって、例えば」

「まさかそのままお兄さんの話を続けてくるとは思いませんでしたよ」

 呆れられてしまったので仕方なくレモネードを啜ることにした。

「そういえばさっきの、今日の話ですか?」

「そうだけど、どうかした?」

「多分ですけどね、お兄さんここに来ますよ。」

 突拍子もない話を出してきたので私は鼻で笑う。

「はは、そんなわけないでしょ、なにを根拠に。」

「お兄さんもなにかあったらここに来るんですよ。へこんだときとかね。」

 成海くんが言い終わるかどうかというところで入り口のベルが鳴った。

「げ」

「えっ」

 現れたのは当然私と血のつながった男で。

「いらっしゃいませお客様、こちらの席へどうぞ」

 成海くんが兄を私の対面の席に誘導する。待て、なにをする。そして兄よ、言われた通りに席に着くんじゃない。

 お互い気まずいまま沈黙を保っていたが、兄はひとつ深いため息をつくとメニューに目を通し始めた。

「成海くん、コーヒーふたつお願い」

 ふたつ。私のぶんも奢ってこの話は水に流そうということだろうか。

まるで準備されていたかのようにすぐに私と兄の前にコーヒーが運ばれてきた。湯気とともにこの店に沁み込んでいる匂いがする。

「そのコーヒーを飲めたら大人だって認めよう」

「は?」

「紗夜はコーヒーも飲めないような子供だったかな?」

 こんなことで決着をつけるなど馬鹿らしいと撥ね付けようかと思ったが、昨日の意趣返しかのようににやにやと笑う兄の顔を見るとさらに腹が立ってきた。

 覚悟を決めてカップを手に持つ。すこし舌の先をつけてみた。苦い。こんなものを好き好んで飲む人間の気が知れないがここまで来て退くことは私のプライドが許さない。一気にカップをあおった。できるだけ表情に出ないようにしながら喉を通過させる。

 コップを置き、おしぼりで口を拭いてから目の前の憎たらしい顔を睨み付ける。勝利宣言にはまだ早い。

「私も飲んだんだからもちろんあんたも飲めるのよね?」

 兄もブラックコーヒーを飲めないことは知っている。少なくとも昨日はミルクと砂糖両方を入れていた。これで兄が飲めないことが証明されてこそ本当の勝利だ。

 しかし兄は肩をすくめてこう言った。

「僕は猫舌だからね、まだ飲めないんだ。こうしないとね。」

 その言葉の意味に私が気づいて止めるより先に兄はミルクをコーヒーに投入した。そしてこともなさげにカップを空にした。

「ごちそうさま」

「な、あ、ズルい!そんなの反則じゃない!」

「僕はブラックじゃないといけないなんて言った覚えはないよ?」

「は?そういうこと言う方が子供でしょ!」

 醜い争いを続ける私たちを横目に成海くんがなにか呟いたように聞こえたが。

「いや、両方子供じゃないですかね」

 聞かなかったことにしよう。

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