展望と羨望

 僕の枕元には小学校の卒業祝いでもらった目覚まし時計が鎮座している。けれども僕はそれを見て時間を確認することはあれどアラーム機能というものをほとんど使ったことがない。

 父は毎朝七時に起きるし母はさらに早く六時に起床して朝食を作り始める。両親の朝の支度の音で僕も自然と目が覚める。

 この日は土曜日だったが僕はいつも通り平日と同じ時間に目が覚めた。特別に急ぐ用事はなかったが再度布団に潜り込み怠惰な時間を過ごすのも気が引けたので義務感から体を起こした。テレビを見ながら母が用意してくれた朝食を食べ、洗面所で鏡に映った自分の身だしなみを整える。

 家を出るために玄関に来る段になって朝から妹の姿を見ていないことに気が付いた。アルバイトをいくつも掛け持ちしている妹は僕らの身支度の音で目覚めることはなくアルバイトの時間に応じて起床時間を変えており、朝からいないこともあれば夕方まで寝ていることもある。ふと気になって靴箱の中を覗いてみると妹の靴はなかった。どうやらもうすでに家を出たようだ。器用で勤勉な妹である。

 玄関の扉を開けると朝日がまぶしい。妹には敵わないなと思いながら財布と携帯電話だけをポケットにねじ込んで駅へと歩きだした。



「ノートの落とし物ですか、届いてないですねえ」

「そうですか……。」

 狙ったわけでもなくいつもと同じ時間に駅についた僕は駅員さんの返答にガクリと肩を落とした。昨日ホームであの人に話しかける前までは持っていたはずだ。そのあとにノートを触った記憶がないため、ここにないとしたらもうないだろうと考えていた。

「彼方くん?」

 急に名前を呼ばれ反射的に振り返る。立っていたのは昨日たわいもない話をしたあの女性だった。今日はいつものスーツではなく紺色のスカートと白いシャツにベージュのカーディガンで、肩からポシェットを提げており片手には僕のノートがあった。

「合っててよかった。やっぱり君のノートだったんだね」

「どうしてここに?」

「いつもと同じ時間に来れば会えるかなって思ってさ。はいこれ」

 ノートが手渡される。ノートを入れる鞄を持ってくるべきだったな、と反省する。

「中、見ました?」

「さっとしか見てないけど、どうかした?」

「いえ、字が汚いのが恥ずかしくて」

「そんなことなかったと思うけど」

 僕がほっと胸をなでおろしたとき、彼女はところでさ、と前置きして続けた。

「すぐそこにカフェがあるんだけどさ、このあと時間ある?」

 今日はこのノートを探すだけだったので特に予定はない。

「ええ、まあ。でもあまりお金がなくてですね」

 ここですっぱりと断れないのが僕の心の弱いところである

「それくらい出してあげるって、じゃあ行こう」

 がしっと手を掴まれる。

 智に働けば角が立つ。情に竿刺せば流される。とはいえもう少し智が働く人間になりたいと思いながら僕は彼女に引きずられていくのだった。



 喫茶モデレート。駅の裏手にあるこの店は休日でも満席になることはなく、店内のしゃれたBGMが心地よい雑音を生み出しておりつねにゆったりとした雰囲気の店である。喫煙席と禁煙席は区別されておらず、コーヒーの香りにまじって煙草の匂いが鼻孔をくすぐる。

「彼方くんはこのお店に来たことある?」

「ええ、友人とたまに」

 一番奥の席に座り、しばらくウェイトレスに手渡されたメニューを睨んだすえ、彼女はパフェを、僕はコーヒーとパンケーキを注文した。コーヒーとパンケーキはこの店で一番安いセットだ。いくら彼女の口座残高を知っているとはいえ僕だって弁えるところは弁える。

「そうそう、私の名前は大谷湊ね」

 注文を終えて唐突に彼女は口を開いた。

「一方的に名前を知っているのはフェアじゃないから私の名前も教えておくべきかなって」

 なるほど、一理ある。

「高山、彼方です」

 思った以上に気恥ずかしくなってしまい会話が途切れてしまったが少しして注文していたメニューがやってきてなんとか間がもち胸をなで下ろす。

「いただきます、うん、やっぱりここのパフェは美味しいね」

 パフェの掘削作業を始めた彼女を横目に僕もパンケーキにバターを塗る。コーヒーに飛び込んだミルクはカップの中を白く染めた。

「なにか話したいことがあったんですか?」

 彼女は上にのったパインを口に入れたあとそうだったそうだったと手を止めて話し始めた。

「休日なんだけどなにして過ごそうかなって」

「なにをして、というと?」

 ヤな奴だと思わないでね、と彼女は前置きをした。

「もしお金があったらなにをしよう、って考えたことはない?私も考えたことはあるんだけど、でもいざお金が入ってくるとなにをすればいいのかわからなくなっちゃって。たとえば高級車を乗り回すとか世界一周するとかはあんまり趣味じゃなくてさ」

「欲しいものを自由に買っていいんじゃないですか?そう簡単に消えるような額でもないわけですし」

「いやいや、使い果たそうと思えばけっこう手段はあるよ?例えば株とか土地とか」

ふむ、コーヒーを口に含む。甘味が足りなかったので砂糖を足した。

「お金ができたからさ、やれることの幅は増えたんだよね。でもさ」

 選択肢は増えたが答えがないので何をするのか決めるのが難しいということか。僕が彼女のお金の使い道に口を出すのはおこがましいと思いつつも、相談を受けているのだからなにかアドバイスはした方がいいだろう。少し考える。たとえばですけど、と前置きをする。

「日常生活で使うものを新しいものに買い替えるのはどうです?家電を最新のものにすればきっと今より時間ができますよ」

「それいいね。じゃあ食洗機と洗濯機と、そうだあと自転車も買おうかな。満員電車に揺られる必要もなくなるし」

「いや、自転車は買わないほうがいいですよ。駐輪場の代金もかかりますし泥棒に盗まれるしでいいことないですって」

「そ、そう?君がそこまで言うならやめとくよ」

 そう言って彼女はメモ帳をしまってパフェとの格闘を再開した。

 僕はいま不自然ではなかっただろうか。平静を装うことができているだろうか。つめたいものが背筋を走るのを感じた。気を紛らわせるためにパンケーキとコーヒーを口に含んだ。

 しばらくお互い黙々と自分の目の前に置かれた食べ物を口にいれていたが、長いスプーンを弄びながら彼女は口を尖らせて聞いてきた。

「それじゃあさ、君は私にどうなって欲しい?」

 予想外の質問に面食らう。頭の中が空っぽになったかのような錯覚に陥った。ちょっと待ってください、と断りをいれて机に肘をつき目を覆って考える。僕は何を、僕は彼女になにをしてほしいのだろうか?僕とは違う彼女に、どのような生き方をしてほしい?

「でも、そうですね」

 脳が言葉をまとめる前にまるで腹話術のように僕の口は勝手に動き出した。

「あえてお金をそんなに使わないでみてほしいです。」

 彼女はへぇ、と相槌を打ち、身を乗り出して聞いてきた。

「それはどうして?私がすぐ散財しちゃいそうだから?」

「宝くじを当ててお金を使いすぎて破産したみたいな話をテレビで聞いたことがあるからというのもありますけど─」

「お金を持って心に余裕を持って普通の生活をして、」

 同じ生活をしていても精神的に余裕があるのとそうでないのとではきっと見えてくるものが違うはずだ。僕は僕とは違った視点をもつ彼女に彼女の目から見える世界をもっと観察してほしい。

「自由な視点で見てほしいなって」

 なるほどと呟いて彼女は再度メモ帳を開き、先ほどまで書かれていた文字を二本線で消したあと数文字書き足した。

「ありがとう。すごくためになったよ。早速家計簿と日記を買ってくることにする。」

 素早く水を飲み干し荷物を片付け、お代はここに置いとくからね、と言って彼女は駆け出していき後にはひとりぽかんと口を開けた僕だけが残された。

 善は急げが彼女の座右の銘なのだろうか。やはり彼女と僕とでは視点が違う。収入を計算してすぐに宝くじを買ったり駅を行きかう人々を一日中観察したりなんてことは僕には思いつかない。

 僕はそういうところに──

 僕は皿の上に残っていたパンケーキの最後の一欠片を口に放り込んだ。



 ひとり残された僕がちびちびとお冷を飲んでいるとウェイトレスが食器を片付けにやってきた。

「お食事が済んだのでしたらお会計をいたしましょうか?」

「まだお冷飲んでるんでもう少し待ってもらえます?」

「ところでお客様、女性にお会計を全部お任せになるのはいかがなものかと」

「客の話を横聞きするのもマナーがなってないと思いますけど」

 僕の向かいに腰を下ろしたのは早朝からこのカフェに出勤なさった勤勉な妹様だ。ここに来たくなかった理由である。

「まあ、いい人なんじゃない?私の作ったパフェをおいしいって言ってくれたし」

 ここのパフェは既製品をのせただけではないかという疑問は残ったコーヒーと一緒に飲み込んだ。

「あの人、ガールフレンド?」

「そういうのじゃないから」

 その質問はこのカフェに来るとわかったときから聞かれることが予測できていたので今度は平静を装えたはずだ。しかし紗夜(さや)は興味なさげにふーん、と適当に聞き流した。

「で、そのノートだけど」

「なんだよ」

「朝早くに起きて駅に探しに行ったみたいだけどそんなに大事だったの?」

「そりゃあテストもあるしノートはないと困るだろ」

「なんだっけ?Your eyes are starry night…」

「紗夜、なんで知ってるんだ……!」

 僕は机の上に崩れ落ちる。このことだけは誰にも知られたくなかったというのに……。

「そのノートだけ後生大事に持ってるんだもん。そりゃあなんかあるって気づくよ。授業中にラブレターを書いちゃうなんてお兄ちゃんも思ったよりロマンチストだね」

 羞恥心で伏せた顔を上げられない。これを書いたときの自分を殺してしまいたい。

「お兄ちゃんが私に勝つなんて百年早いんだよ」

 妹はそう言って歯を見せながらニタリと笑うのだった。やはり妹には敵わない。

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