雲の多い空の下で

@aquaharuka

遭遇と境遇

 人の脳みそというのはまだまだ分かっていない領域が多いというが、どうやら何度も繰り返した行動は神経が繋がりやすくなりだんだんと無意識でその行動ができるようになるらしい。

 だからスポーツ選手は基礎の練習を何度も何度も行い反応を早くするし、僕は毎朝寝ぼけたままあくびを噛み殺しながら駅へ向かい電車に乗ることができるというわけだ。

 僕がその人と出会ったのはうららかな日差しが射し込んでいるわけでも雨が降っているわけでもないそんななんでもない金曜日のことだった。

 朝、脳みそを使うことなくいつも通り駅の改札を抜け、ホームへの階段を下りるとぼうっとベンチに座る灰色のスーツ姿の女性が脚を組んで座っていた。傍らには通勤用の鞄と隣の自動販売機で買ったのであろうペットボトルが置いてあり、右手で手すりに頬杖をつき左手でひたすらにショートカットの前髪をもてあそんでいた。

彼女には電車を待つ素振りはなく、怒っているような、それでいて退屈しているような顔でただひたすらに電車に飲み込まれ、そして吐き出される群衆を見ていた。

しかし寝ぼけまなこでの通学に適応した僕はそんな彼女を視界の端に入れつつも気にすることはなかったのだった。

 学校から解放され英語のノートを見返しつつ電車に揺られ朝と向かい側のホームに降り立つと、彼女は八時間前と殆ど変わらない体勢でそこにいた。

 傍らの飲み物がお茶からミルクティーに変わっていることから体調が悪くて動けないわけではないらしい。

 このとき、心配する気持ちだけで声をかけただとか、好奇心が抑えられなかっただけだとか言い訳するつもりはない。ただ、いつの間にか僕の足は反対側のホームへ向かっており、自然と彼女に声をかけていた。

「あの、大丈夫ですか?」

「えっ?」

 話しかけてすぐ後悔の念が頭をよぎった。顔も知らない人間にいきなり話しかけられても不審に思うに決まっている。

「あの、朝からずっとこのベンチに座っていたから気になって」

 とりあえず取り繕ったのだが彼女の顔に浮かんだのは不信感ではなく疑問の色だった。

「ごめんなさい。きみの顔に見覚えがある気がするんだけどどこで見たのか思い出せなくて」

 予想とは違う反応に少し驚いたが後ろめたいことはないと思いそのまま口に出す。

「僕も毎朝この駅を使っているから見憶えがあるんじゃないかと」

「ああ、確かに言われてみればそんな気も」

 不審がられなかったことと、どうやら体調が悪いわけではないらしいということがわかりほっとする。

 僕だけ立っているのも都合が悪いと思ったのか彼女がベンチのスペースをあけてくれた。脇に挟んでいたノートを鞄に入れ、詰めすぎないように気を付けて座る。

「で、どうして朝からホームに座りっぱなしだったんです?」

「よくある話だとは思うんだけどさ、働くのがいやになっちゃったっていうのかな」

 僕はどう相槌を打てばよいのかわからなかった。なにかあったんですか、と訊ねるのは失礼な気もしたが訊いてほしいという合図のようにも感じた。考えた結果、そうなんですか、と当たり障りのない言葉が口から転げ出た。

「急に虚無感?っていうか、むなしくなっちゃってさー。いや、言ってること同じか。」

 このままではこの人がずっと落ち込んでいってしまいそうなので少し話題を変えよう。

「今日一日ここで駅の様子を見ていてどうでした?」

 彼女は一瞬考えると、退屈そうな人が多かったかな、そう答えた。それからしばらく上を向いて言葉を探している様子だったが、ペットボトルを飲み干してこう続けた。

「もうちょっと頑張って言うと自分のことに埋もれてて周りに目を配る余裕がない人が多い気がしたかな。だってこんな非日常な女がいても日常を続けようとするんだよ。何人か目があった人はいたけどみんなさっと目を逸らして足早に去っていくんだ。一人くらい話しかけてくれる人がいてもいいんじゃない?君みたいに」

「まあでも危ない人にも見えますし」

 怒りが込められた冷ややかな視線が飛んできた気がするがこれは事実なので目を逸らさずそのまま頂戴した。

話してみて初めて表情が豊かでころころ変わる賑やかな人だということを知った。足をパタパタと振りながら話すさまはまるで子供のようだ。ジェスチャーも大きい。

「でもみんなあんなに死んだ目をしているんだよ?」

 そう言われて見てみると、確かに目を輝かせてウキウキと帰っている人はいなかった。少し考えてみる。

「案外みんなが感じているのは退屈じゃなくて安定なのかもしれませんよ?」

彼女もまた考える。なるほどなあ、だとかうーん、だとかの言葉が聞こえてきたが結局いい言葉は見つからなかったらしい。

「でも私が働いてて感じたのは退屈だったよ」

 そう言って彼女は急にふらりと立ち上がった。

 なんということもない台詞だと思ったが、なにかが引っ掛かった。働いていると退屈だった。……だった?なんで過去形なんだ?悪い予感がして手を伸ばした。

「ちょっと待った!」

 急いで立ち上がる彼女の袖を掴んだ。

「えっ?」

 またもぽかんとした顔をした。その表情を見るのは今日二度目だ。時間が凍った。

「ああそっか、私が線路に飛び込むと思ったのか」

「え、ああはい……」

 どうやら深読みしすぎて勘違いをしていたとわかり顔が熱くなった。時間の進みが遅い。二本ほど電車が通過した気がした。むしろ僕が線路に飛び込みたい。

「ペットボトルを捨てにいこうとしただけだって」

 気を遣ってくれたのか笑いながら空のペットボトルを振って無事ゴミ箱へ向かった。僕も愛想笑いを返す。僕がため息をついて落ち込んでいる間に彼女はなにか思い付いたようだった。ペットボトルを投げ入れると先ほどまでより速足で戻ってきた。

「うーん、いいか。そうだよね、丁度いいし」

 自分自身を納得させるようにひとり言を言うとよし、と小さく息を吐いて口を開いた。 

「君は悪い人じゃなさそうだし特別に教えてあげよう」

 誰かに言いたくてたまらなかったし、と前置きして彼女は始めた。悩んでいた先ほどまでと違い、いたずらっぽい子供のような笑顔だ。

「私ね、夏休みの宿題を一度も始業式までに終わらせたことがないんだよね。始業式始まっても放課後に居残りさせられてるタイプ。計画性がないっていうよりかはなんだろうね、目の前の一瞬一瞬を楽しく生きたいっていうか」

「計画性がないっていうよりそもそも計画をしたくないってことですか?」

「そうそう。高校生のころ先生にこう言われたかな、君は刹那的に生きすぎているって」

 刹那的。例えるならば動画ではなくカメラのフィルムのように一コマ一コマだけを見ているということだろうか。

「ただ私もやろうと思えばちゃんと準備とかはできるんだよ?受験勉強だってしたしなんとかいまの会社にも就職できたしね。そんな私はある日勤務中に気付いてしまったわけだよ」

「なににです?」

「定年が六十歳だとしてまああと三十……と、何年か働くわけじゃない?」

 ふむふむと話を聞きながらいまこの人年齢ぼかしたぞと頭の片隅がささやいてきた。

「調べてみたんだけど日本人の平均年収が平均三百五十万円らしいんだよね。だからかける三十五で一億二千万円ちょっと手に入るわけ」

 お姉さん二十五歳なんですね、と口には出さないが脳みその先ほどと同じ場所が勝手に計算していた。黙ってなさい。

「で、計算した瞬間に虚しくなっちゃったんだよね。先が見えちゃったというか、そうだ、一週間の天気予報にずっと傘のマークが並んでるのを見たときに似てるかな」

 先ほどまで組んでいた脚を戻して続ける。

「そこで私は考えたわけだよ。なにかこの日々を変える方法はないかなって」

「そんなこと言ったって急に人生が変わるなんてそれこそ宝くじでも当てないと」

 そこまで言った瞬間彼女は指をパチンと鳴らし口角をつりあげた。

 ふふふ、十秒だけだよ、と前置きして彼女の鞄から取り出されたそれは、銀行通帳だった。

 日付は一週間前。アルファベットの羅列からお金が振り込まれている。振り込まれた金額は。

「はい、もうおしまい!」

 僕は開いた口が塞がらなかった。

「あ、そうだせっかくだしおすそ分けに」

「いやいやそんな」

「そこの自動販売機でジュースを一本買っていいよ」

 強欲だと思われることを恐れず正直に言うと拍子抜けした。大金をぽんと渡されるのではないかと思ったからだ。

 僕は彼女から小銭をもらい、自販機で一番高い飲めもしないアップルティーを買った。先ほどまで大金をもらうことを恐れていたというのにこういうところでにじみ出る貧乏性が悔やまれる。

「そうだ、連絡先交換しようよ。また君と話してみたくなってきちゃった」

 唐突な提案に僕は心底驚く。

 ダメです、不用心すぎます。僕が変な気を起こしたらどうする気なんですか。いま見た金額は人の心を揺らすのに十分な重さがあるんですよ。そう言おうとしたのに僕の左手はいつもと変わらないスピードでポケットから携帯電話を取り出していた。

 そのとき急に手の平の中の携帯電話が鳴った。あわてて通話ボタンを押す。

「お兄ちゃんどこ行ってるの?おかあさんもうカンカンだよ!今日食事に行くって言ってたのに忘れちゃったの?」

 時計を見るともう19時に近かった。

 約束を思い出し青ざめる。朝いつものように眠気と戦いながら朝食を食べていたときにそんな話を聞いたような気がする。

「すみません、また今度!」

 名残惜しかったが我が家の妹様の機嫌を損ねるとあとが大変だ。携帯電話をポケットに突っ込み、連絡先を聞きたかった未練を振り払うようにホーム階をあとにした。


****


「いやあ若いなあ」

 エスカレーターを一段飛ばしで駆け上がっていった彼を見てふと口からこぼれていた。いや私もまだ若いのだけれど。

 ぼーっと彼がいた空間を眺めているとエスカレーターの前に一冊のノートが落ちていた。おそらくさっきの彼が落としたのだろう。改札階を見上げるが、もう彼の姿はなかった。

 駅に届けようと思ったが少し思い直す。

「……。」

 じっとノートを見つめる。パラパラとページをめくってみたが最後のページまで使いこまれており、その日付は一か月前だった。すぐに使うということはないのではないだろうか。月曜日になったらまた彼はこの駅を利用するのだろうし、私が持っていてもいいのではないだろうか。

 彼はまた今度、と言った。また会う気でいるということだ。彼もこの駅を利用しているらしい。それならば毎朝この駅を訪れればまた会えるのだろうか。

 それなら、とりあえず彼にまた会うまで、頑張ろう。

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