第五話

「部屋に隠し通行口がある?」

 予想外の話に、彼は口に運びかけた小分けのハンバーグを鉄板上に戻し、目を丸く見開いた。「それはちょっと、話が飛躍し過ぎじゃないかな?」

「だよね」と、私は苦笑して頷いた。

「私も絶対にそうだ、って考えてる訳じゃないよ? ただ、安心したいだけ」


 彼に昨晩から私の身に起きた異常と、それに伴い、私がこれからしたいことを伝えた。勿論、何かあったとき迷惑を掛けない為に、相談に乗ってくれた後輩の存在は伏せて、だ。


 結局、調査依頼は探偵社にお願いした。無論、盗聴・盗撮機器の発見調査を生業とする専門業者が真っ先に思い浮かんだが、隠された通行口の有無を確認させるのは酷だろう、と考え直した。費用と距離感から数社適当にピックアウトした内、明日の夜に調査可能な探偵社が一つしかなく、最終的にそれが決め手になった。


 ――電車を乗り継ぎ、徒歩と合わせて約一時間半、その探偵社は雑居ビルの三階に小規模の事務所を構えており、受付係を含め、従業員五人の少人数体制を執っていた。

 事前にアポイントメントを取り、事務所に出向いた際、調査員の対応も、過剰に親切で常に笑顔が絶えない――などと胡散臭さ感じることは無かった。加えて、断られる覚悟で「ストーカーが潜み、鉢合わせる可能性がある」と告げても、藍色のジャケットを着こなす中年の男性調査員は「成るように成るでしょう」と快く引き受けてくれた。職業柄、本来は警察の仕事であっても、署内で袖にされた被害者から相談される事も多く、本人の了解を直接得ることを条件に、他の調査名目として依頼を承諾しているのだそうだ。


「そこ……信用できるの?」

 彼は訝しげに私を見つめた。 

「面談してみて肌感も悪くなかったし、一応、口コミサイトも参考にはしたけど……何処にお願いするにしても、調査結果が出るまでは会社の良し悪しなんて判断出来ない、って思ってるから私は」

「同居人にも相談するべきだ、とも思って欲しかったけどね」

 皮肉混じりに彼が言うと、その場がしんと静まり返った。水分を含んだ綿のように、重たく沈黙が流れる。目のやり場に困り、店内に掛けられた時計に視線を移すと、20時を既に回っていた。まだ子供連れの家族もちらほらと見掛ける。大きく声を荒げたり、怒鳴り合いにはなって無いとはいえ、楽しい家族団欒の時間を害してないか、心配で、なんだか申し訳ない気持ちになった。


 ふいに、彼が「前金は?」とぶっきらぼうに訊いてきた。

「払ったよ、もう」

「それじゃ、残りは僕が持つね」

 彼の意外な反応に、私は思わず呆けた声を漏らした。

「いいよ、そんなの。私が独断で勝手にやった事だから」

 本音だった。客観的に努めて見れば、私の行動は独りよがり過ぎて、彼をとても蔑ろにしている。そんな彼に対する罪悪感と、ほんの少しの素直になれない私の意地が、口を吐いて出た言葉だった。

 彼は伏し目がちだった顔を上げ、私の瞳を真直ぐに見据えた。

「二人の事でしょ?」

 彼は眉尻を下げて微笑んだ。

 今まで我慢してきたものが、どっと崩れる音がした。

 滴々と、膝に置いた手の甲に小さな重みを感じる。

 自然と涙が流れていた。




 彼に宥められ――ハンカチを差し出してくれて嬉しかった――落ち着くと、私は彼に自分勝手な言動を謝った。始めから、こうするべきだったのだ。

 彼は「これで、悪戯の件は貸し借り無しな」と得意気に言った。


 それからは、すっかり、二人の日常通りの様子に戻り、談笑しながら冷え切った晩御飯を食べた。

 大して経っていないのに、こんなに楽しい時間を過ごすのはいつ振りだろうと思った。ずっと、心が休まるタイミングがなかったからか、当たり前だった小さな幸せが一入感じられた。今回は私がからかわれ、立場は逆転してしまったが……。

「でも、本当に大丈夫? 私が負担したのは着手金として、最低限の必要経費だけだけど。後払いの諸経費と成功報酬の方が断然、高額だよ?」

「いやいや、そんなの知れてるでしょ」

 彼は鼻を鳴らし、強気な態度を取っていたが、暫くして、次第に不安が募ったらしく、残りの費用は幾らぐらいか、と訊いてきた。

 私は彼を手招きし、お互いに机の上に身を乗り出した。片手を添え、耳元で金額を囁く。

「えっ!?」と彼は反射的に、頓狂な声を上げた。顔が近く、耳が劈かれそうになる。

 二人とも正気に戻ると、慌てて周囲の人間に頭を下げた。居た堪れなくなり、腹の底から恥ずかしさが込み上げて来た。顔を見合わせ、二人して小さく笑い合った。




 店からの帰り道、目抜き通りから離れていくと、徐々に街の喧騒が消えていった。私の我が儘で、406号室へは必要な荷物だけを取りに帰り、今夜はビジネホテルに泊まる手筈になっていた。彼は当初、そこまでする必要はないと反対していたが、最後には納得してくれた。

 街灯も減り、夜闇が満ちていく。現状の私では、一人で歩くことすら、戦慄わなないて辛かっただろう。不思議と今は平気だ。こういう時、彼が私の心を占めいている割合の大きさを、再認識させられる。

「星が綺麗だね」

「私の地元のが、綺麗だけどね」

「すぐまた、そう言う」

 足音が二人だけになった。昔は歩幅がずれていたが、今は綺麗に揃っている。自分でも馬鹿だと思うが、「すごく彼女だ」って感じだ。それだけのことが、どうしようもなく、嬉しい。彼には絶対に言わないが。

「それにしたって、昨日今日で行動力が凄すぎて、未だに僕は置いてけぼりなんだけど」

「だって、大事だから」

 私は右隣の彼に近付いて、そっと手を握った。

「……私は一緒に――貴方と一緒に居ることが大事だから。だから少しでも、二人に影響することがあれば、すごく不安になるんだよ。だから、どんなに怖くたって、何だってしたい」

 彼は静かに話を聞き、繋がった手を握り返してくれた。

 波はあれど、ずっと続いていた左足の痛みが引いて行く気がした。

 私は偶には素直になるのも悪くないな、と思った。




 マンションが見えてくるに連れて、私の脈は早くなっていった。彼が側にいても、流石に不安を強く感じる。

 遂に四階の廊下まで辿り着くと、部屋の前に、誰か立っているのが見えた。蛍光灯に照らされながら、ドアの前で部屋を覗き込むような仕草をしている。恐らくだが、シルエットから、背が低い女性のようだ。

 私は恐怖から、彼に帰るのは止そうと説得した。遠くから一時の間眺めて、危険はないと判断したのか、彼はマンションの住民かも知れないからと、その女性に近付いて行った。私も渋々、彼の背について歩いた。

 「こんばんわ。あの、何か御用ですか?」

 声を掛けられた女性はこちらに振り向き、酷く狼狽ろうばいしているようだった。年齢は50代半ばといったところか。目を泳がせながら、何か必死に話そうとしているのは伝わってくるが、如何せん、どもっていて言葉になっていない。

 近付いて初めてわかったのだが、女性の露出している肌が、蛍光灯の光を差し引いたとしても、異常に青白かった。袖や裾から覗かせた手足首は、骨が角張っている。

 服装も質素に暖色系でまとめられていて、好感が持てた。それだけに、乱れた襟足までの髪と不摂生そうな体型、顔色が一際目立つ。表情も悲しそうで――私は彼女に抱いていた怖気おぞけと打って変わって、どこか気の毒に思えてきた。

 彼が対応している間に、ふと、女性が持つ底の浅い手提げ鞄が目に入った。口は開いており、荷物が見え隠れしている。あれはなんだろう――広告チラシで適当に包まれた細長い何かだけが、大きく隙間空いた鞄の中で揺れていた。

 そうしている内に、女性が会釈したかと思うと、階段の方へ走り出した。

 女性は廊下の途中で躓き、膝から転んだ。カランと軽い音を立て、鞄の中身が飛び出た。あの、広告チラシで巻かれた物だ。

 彼は女性に駆け寄り、身体をゆっくりと助け起こしていた。私はその間に、荷物を拾って渡してあげようと行動すると、女性がそれを阻止するように急いで床から荷物を取り上げ、鞄に戻しながら走り去っていった。


 私達はその場で呆然と立ち尽くした。手摺壁から外を見下ろすと、あの中年の女性が蹌踉よろめきながら駆けてく姿が見えた。

 結局、目的や名前すら知ることが出来なかったが、あの様子だと、少なくともマンションの住民ではないだろう。勿論、私達の知り合いでもない。

 「大丈夫かな?」と、彼は遠く、女性の走った跡を見つめていた。


 私も、こんな不気味な事が起きたにもかかわらず、何故か、あの女性の事が心配だった。それはきっと、彼女がとても、泣きそうな顔で震えていたからだ。

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お引越し 陽野 静舟 @hinoseisyu-56

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