三分の二の伽藍堂

青島もうじき

三分の二の伽藍堂


 三分の二の私は、ゾンビになるのだという。

 テレビや親から何度も聞かされた説明を改めて繰り返す先生の言葉を、隅っこの席で聞き流しながら手元の紙に視線を落とす。


 進路希望調査票。


 実物は、表面がつるつるしているだけの、ただの一枚の紙きれだった。選挙の時に使うのと同じ種類の紙だって、どこかで聞いた。


 三つ横に並んだチェックボックスの下にはそれぞれ『カコ』『イマ』『ミライ』と書かれている。

「その言葉選びには語弊がある」とか「間違ってチェックつける人がいそう」とか「絶妙にダサい」とかいろんな意見があったみたいだけど、結局そのままの形で実用に踏み切ったらしい。


 今から三か月後、2020年の8月に世界は滅びる。国立研究機関の所長が突然会見を開いてそんなことを言い始めたときには、当然ながら世間は騒然とした。

 具体的な滅亡の原因みたいなものはついぞ明かされることはなかったけれど、なんでも『イマ』を続けていれば滅亡は確実なのだという。


 これだけ聞けば与太話のように思われる。私もはじめはそうだったし、世間も権威が変なことを言い出したと、むしろ面白がっていた節があった。しかし、政府が何もコメント出さなかったことで、だんだんと楽観は悲観へと変わりつつあった。


 それから三日。総理がやっと重い口を開いた。

 それが「進路希望調査」。『イマ』を続けることが困難になったので、世界線を三つに分けることにしたのだという。


 国民には選ぶ権利が与えられた。技術的発展の速度が上がった世界である『ミライ』、反対に技術を放棄して小さな世界を目指す『カコ』、それから私たちがいま生きている、滅びる予定である現実の『イマ』。


 突然飛び出した現実感のない言葉に戸惑ったのは私だけではなかったと思う。正直、私に関してはまだよく理解していないし。


 理解できているのは、パラレルワールドみたいな感じで世界が三つに分かれるということ、どの世界に行くかをこの「進路希望調査票」で選べるということ、そして、選ばなかった世界の私は自我のない「哲学的ゾンビ」になるのだということ。


 顔を上げると、教室には30余りの背中がずらりと並んでいる。滅びる予定の『イマ』に残る人はそういないだろうけど、『カコ』と『ミライ』は人によって進む道が分かれそうだ。


 その顔の見えない背中たちの中の一つ、凛と背筋の伸びた窓際の背中に目が吸い寄せられる。高い位置できゅっと括られたポニーテールが、このごろ強くなりつつある外の日差しを受けて、首元にくっきりとした影を落としている。


 瀬利せりさんは、どれを選ぶのかな。

 バスケ部のエースなのに、部長や副部長なんかの役職についていなくって。クラスの人気者なのに、ときどき授業中にふっと淋しそうな横顔を見せて。勉強ができるのに、大学には行かないと言っていて。


 そんな、自分の世界を持っているように見える瀬利さんと友達になりたいと思い始めたのはつい最近のことなのに。


 あまり自分に自信の持てない自我の弱い私なんかが、自分の世界を持っている瀬利さんと友達になれるわけがない。そんなふうに考えてうじうじしているうちに、世界が終ろうとしていた。

 こんなことならば、勇気を出して声をかけてみればよかった。


「投票は金曜日です。今日が月曜日だから、あと四日ですね。くれぐれも、友達と相談したりしないように」


 先生はそう言い残して、ホームルームを終えた。教室には、普段よりもずっと固いけれど、それでも普段通りに振る舞おうとする無言の圧力のようなものが、どこからかじっとりと充満していた。


 そんな中、スクールバッグを片手にふらりと教室を出ていく姿が目に入った。瀬利さんだ。

 普段通りの彼女だった。それも皆とは違う、普段通りに普段通りをやっている姿。その気取ることのない様子に、目を奪われた。


 ガラス越しに見えたその瞳。そこに宿っていた芯の強さを表すような光。その眩さに目を灼かれて、私もたまらず教室を飛び出していた。


 足を踏み出す度に左右に揺れるポニーテールに、階段の途中で追いついた。二階と三階のちょうど真ん中の踊り場。そこでくるりと振り返った瀬利さんは「あ、挟谷はざやさんだ。どうしたの?」と制服のスカートの裾を膨らませた。


「え、えっと……その……」


 思わず追いかけてしまっただけで、なにか言いたいことがあったわけではない。返事に困っていると、瀬利さんはいたずらっぽく笑って、ちょいちょいと手招きをしてくれた。


「おいでよ。いいところ教えてあげる」


 きょとんとして促されるままに後に続くと、瀬利さんはこの校舎の最上階である三階の、さらにその上へ続く階段をのぼり始めた。


「えっ、でも屋上は落下防止でカギが閉まってて……」

「うん。だから、誰も来ないんだ」


 南京錠のかかった扉の前で、瀬利さんはまたくるりと回ってみせた。埃っぽくて、電気も灯っていないすすけた場所。そんな中にあっても、彼女は彼女のままだった。


 ここを「誰もいない秘密の場所」にできるのは、彼女がどこにいても彼女だからだ。揺らぎのない自分を持っているから、そこを自分の世界にできる。

 そう感じた瞬間、言葉が口をついて出た。


「瀬利さんは、どれを選ぶの?」


 瀬利さんは一瞬目を丸くして、それからゆっくりと細めた。


「言ったらだめらしいよ。ほら、誰が自我のないゾンビか分かっちゃったら、人権とかややこしいらしいし」


 選ばなかった世界の自分は、意識を持たない「哲学的ゾンビ」になる。他の人と同じように笑って、泣いて、共感するけれど、それは自我や感情があるからではなく、自動的に入力に対して反応を返しているだけの肉塊に過ぎない。


 見た目も、行動も、言葉も、自我を持つ人間と決して区別のつかない人間が、実はがらんどう。そんな存在である「哲学的ゾンビ」に、三分の二の私が至ることが決まったのだ。


 私が友達になりたいのは、いつも自分を持って生きている瀬利さんだった。だからこんなことを聞いてしまったのかもしれない。

「ごめん、忘れて」と言いかけて、言葉がぶつかった。瀬利さんに先に促すと、瀬利さんは一つ頷いて、くしゃっと笑った。


「でも、嬉しいな。それって、本当の私に興味があって聞いてくれたんだよね。どうして?」


 澄んだ目で見つめられると、嘘がつけなかった。本当の瀬利さんに興味がある、それは事実で、それだけが事実だったから。

 すうっと息を吸い込むと、埃っぽいにおいがした。でも、それすら自分の世界の一部にしてしまうような瀬利さんと、私は――


「友達に、なりたかったから」


 言ってしまってから、かあっと全身が熱くなった。だけど、どこか胸の内がすっとしたのも事実だった。


「いいね。なろうよ、友達」


 いつの間にか地面に投げ出していた視線を、思わず上げた。瀬利さんの目は、私の姿をまっすぐに捉えていた。

 うぬぼれかもしれないけど、瀬利さんの言った「友達」という言葉は、普段彼女を囲んでいる無数の顔たちとは違うものを指す言葉のように聞こえた。


「私、けっこう狭谷さんのこと好きだな」


 そう言って差し出された手を、どぎまぎしながらもぎゅっと握り返した。

 瀬利さんは本当にうれしい時にはくしゃっと顔をゆがめて笑う。今日、初めて知ったことだった。


「大丈夫だよ。きっと、自分の信じるようにやれば、ずっと友達でいられるから」


 そんな言葉を残して、瀬利さんは一人、階段を降りていった。




 投票は、体育館で行われることになった。テープでラインが引かれて左右に二分された体育館。

 すぐ横に並べられた二つの小さな機械。そこに用紙を入れれば、その瞬間に各世界線に振り分けられるらしい。


 創り出された和気藹々とした雰囲気の中、二人ずつ生徒が投票を行う。線の向こうにいるのは、すでに振り分けられた人たち。『イマ』に残っている人以外は、もう『ゾンビ』になってしまった人たち。


「じゃ、行こっか」


 瀬利さんが、あの日ふらりと教室を出て行ったのと同じ足取りで、私にささやきかける。

 私の友達の、瀬利さん。


 あれからずっと考えていた。

 ずっと隣にいるためにはどうすればいいのか。瀬利さんが、三つのうちどの世界を選ぶのか。


 だけど、それじゃいけないんだって気付いた。


 瀬利さんが友達になってくれたのは、きっと私が本音を言ったから。自分を見せたから。

 それを歪めて、瀬利さんの選びそうな世界を選ぶのは、彼女への侮辱であり、絶交宣言だった。


 だから私は、自分が行きたい世界を選んだ。


 機械へと歩み寄るその歩行が、瀬利さんの友達にふさわしい、自分だけのものであってくれたら。そう願った。


 ポケットに突っ込んだ「進路希望調査票」と名付けられたつるつるの紙の感触。少しだけ怖かったけれど、機械の口にそれを放り込むと、機械は「ぴ」とそっけない電子音を奏でた。


「そっか。狭谷さんはそうしたんだ」


 私の眼を見て言った瀬利さんに、こくりと頷く。その手の中には、まだ紙が握られていた。

 私が選んだのは『ミライ』。まだ見たことのない自分を見てみたかったから。


「私は」


 瀬利さんが、機械に紙を通す。


「『ミライ』を選んだよ。よかった、これからも友達だね」


 そう言って、私にくしゃっと笑いかけた。


 差し出された手を笑って握り返しながら、私は別のことを考えていた。

 瀬利さんは『私』と言った。きっと、その先に続くはずだった言葉は、別の世界のゾンビの私が聞いている。


 わかっていた。瀬利さんはきっと『イマ』を選ぶんだって。


 埃っぽい、決して立ち入ることのできない屋上の扉の前でくるくると舞った瀬利さん。ぶれない自分を持って、世界を生きていた瀬利さん。


 そんな瀬利さんの友達にふさわしいのは、自分で選ぶことのできる、『ゾンビ』じゃない人間だ。


 目の前で、本物そっくりに顔をくしゃくしゃにしている瀬利さんの手を、そっと握って、胸に抱え込んだ。


「うん。これからもずっと、友達だよ」


 そう言って、私たちはそっと、体育館のラインを跨いだ。

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