冷たい左手
鬼頭雅英
冷たい左手
昼間の豪雨が嘘のように、雲一つない夜空だった。月の光が斎場の門の前にたむろする人々を照らす。テレビカメラを担いだ人間が何人も見える。バスではなくタクシーを使って正解だった。ライトとマイクを向けられている知り合いが、車窓越しに見えた。
世間を騒がすバラバラ殺人の犯人は、まだ捕まっていない。
誰もがその行方に興味を持っていた。今日の通夜にはマスコミは入れないようだったが、警察は来ているのだろう。犯人が弔問客に混ざっている可能性があることは、素人でも想像がつく。
会場の入り口で受付をしていたのは人事部の男性だった。顔は知っているが名前を思い出せない。向こうも同じだろう。言われるままに記帳する。家族でもない人間に言うのもおかしかろうと、用意したお悔やみの言葉は飲み込んだ。黙って香典を渡す。そして足早に会場内に移動した。
柩の中に寝ていたのは、先日まで同じ部署で働いていた同僚だった。
彼女は綺麗に縫い合わされ、長袖のワンピースを着せられていた。化粧がほどこされ詰め物の綿もほとんど目立たないため、眠っているようにしか見えない。両手は腹の上で重ねられていた。
(おかしい)
遺体の姿が予想と違っていたことに、俺は動揺した。こんなに凝視していては周囲の目を引いてしまうのに、目をそらすことができない。
(彼女の左手首……うちの冷凍庫にあるはずなのに)
首と四肢を胴体から切り離し、腕と脚はさらに十六に分けた。それを個々に袋詰めして山奥に運ぶ際、ひとつを自宅に置き忘れたのが一週間前。埋めたものを動物が掘り返してしまい、予想より早く事件が発覚。処分する暇がなかった。
「見てやって下さいな」
柩を覗き込んだまま焼香もしない俺に、車椅子の女性が声をかけてきた。故人の母親だ。年齢はまだ五十代のはず。しかし祖母だと言われても不思議に思わないほどに、老けて見えた。点滴をしている。手の甲の包帯が、そこに刺さった針を押さえていた。滲んだ血。顔色はすこぶる悪い。彼女の車椅子を押すのは化粧の薄い女。30歳前後に見える。俺と目を合わそうとはしない。
「……綺麗ですね」
棺桶の中に再び目を向けて、口をついて出たのはそんな言葉だった。実際彼女は美人だ。職場でもいつもそう思っていた。でも俺にはなびかない。だから殺した。シンプルに言うとそういうことだ。
「すみません、不謹慎な……」
「いいえ有難うございます」
娘が入った棺桶の横で、母親は笑みを浮かべてそう礼を言った。
「帰ってきた時は本当にひどい姿でしたから、よくここまで……まだ見つからない部位もありまして……ごめんなさい、こんな話」
「いえ……」
「天国に行くのに躰の一部が無いだなんて、可哀想だと思いません?」
俺は一刻も早く、母親との会話を切り上げたかった。絞り出すような掠れた声だったが、来場者でざわつく通夜の場でもなぜかよく通った。打ちひしがれる家族や友人がいる一方で、ハンカチを顔に押しつけつつ聞き耳をたてる者もいる。そんなことを気にしていたため、彼女の言動の奇妙さに気づくのが遅れた。
「だからわたくしが差し上げたの」
「……あげた? 何を……」
「見せてあげて」
俺の言葉を遮るようにして、母親は背後の女に言った。女は小さくて長いため息を吐き、車椅子に座る彼女の喪服の左袖をたくし上げた。
腕は、義肢だった。
アルミニウムやセルロイドで出来た義手部分を、皮のベルトで体に固定する古いタイプのもので、出来の悪い人形の様だった。
わたくしのは事故だったの、と本人は語った。娘の死を知ったあと、泥酔して線路を歩いていたら轢かれたのだと言う。だが俺はそれが嘘だと直感した。電車に轢かれて腕を失ったのも、酒を飲んでいたのも本当なのかもしれない。だが事故ではない。
この頭のおかしい女は、死んだ娘のために自らの躰を切り落としたのだ。
明け方、路線の上に左腕を乗せて寝転がる。そして電車が来るのを待つ。場合によっては酒の力を借りる。
それなら、自分一人で腕を切断できる。
自分一人……とは言っても、止血をしたりすぐに病院に駆けこめるよう、一部始終を見守る共犯者がいた可能性は高い。そう思った時初めて、車椅子を押すこの女は、自分が殺した女の姉なのだと気付いた。印象があまりにも違っているが、化粧が違うだけで案外顔も似ているかもしれない。
氷柱で刺された気分だった。同時に、遺体にちゃんと両手がある謎が解けた。
「つ、つまり」
震える唇を、俺は抑えることができなかった。
「つまり、彼女の……ご遺体の手首は、
「……手首?」
袖を戻し、義手に手袋をはめてもらっている間も、彼女は俺から目をそらそうとしなかった。義手の薬指が曲がってしまい、手袋が半分ほどしか入らなかったが、それでも姉が力を込めるので指が手袋のレースを割いてしまった。
その事に構うことなく、母親は俺の目を見て言った。
「なぜ手首だけとお思いになるの? わたくしには左腕全部が無いのに」
何気ない様子で聞き返す彼女の、執念と狂気で黒く染まった瞳が、俺を見つめていた。
冷たい左手 鬼頭雅英 @kitomasahide
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