それでも魔女は毒を飲む

いいの すけこ

グラスの中の毒

「ちょっとお兄さん、こんな所でくたばらないでくれるかい」

 艶のある声が耳朶を打つ。遠のきかけた意識が呼び戻されて、僕は顔を上げた。首が痛かった。

「人の店の前で、なに死にかけてんのさ」

 酔客で賑わう酒場で災難に見舞われた僕は、ともかくも降りかかった厄介ごとから逃げるべく走った。どこでもいいから逃げ込めそうな場所、と思って辺りを見回して、細い地下階段を見つける。薄暗いそこを駆け下りて行って、下りきったところで座り込んだ。

「ここは、あなたの店?」

 地下には一つだけ店があった。階段が曲線を描いているため地上からは入り口が見えないが、階段が終わった真正面に小さな店がある。

「そうだよ。階段を下りてくる足音がしたのに、だぁれも店に入ってこないから見てみれば」

 お兄さんがいたってわけさ――とやはり色気のある声が言った。店内から漏れる明かりが逆光になって顔ははっきりとわからないが、間違えようもなく女だ。

「お兄さん、お客かい。それともコソ泥か何か?」

「客、です」

 飲み屋を探しているわけでは全くなかったけれど、全力で走ったので喉が渇いていた。少し休憩もしたい。

「そう。だったらいらっしゃい」

 入り口に吊り下げられた小さな鉄製の看板には『黒揚羽』の文字。明かりに照らされてちらりと見えた女店主の顔は、声の雰囲気に違わない美しさだった。蝶のような女店主に促されて、僕は店に入った。


 狭い店内は橙の明かりに照らされていて、あちこちが鈍く輝いている。女店主が入っていった木製のカウンター、彼女の後ろにずらりと並ぶ酒瓶。彼女自身。明かりの注ぐすべてが光って綺麗だった。店内にはほかに客がいなかったので、カウンターの真ん中の席に座る。

「お兄さん、ボロボロじゃないの。喧嘩でもしてきたかい」

「そうです」

 僕は丁寧な言葉で答えた。どう見ても彼女は年上だった。このような店を営んでいるということからしても、ある程度の年齢ではあるだろう。成人になりたての僕よりは、多分ずっと年上だ。

 形の良い唇を、深紅の口紅でなおはっきりと形どっていた。美しい黒髪を綺麗にまとめ上げていて、露になったうなじには隠しようのない色気が漂っている。

「大した理由なんてないんです。ただ、むしゃくしゃしてるらしい連中に絡まれて、僕もむしゃくしゃしてたから、そのまま殴り合いになっただけです」

 本当に理由らしい理由なんてなかった。相手の事情なんて知りようもないし、僕自身、むしゃくしゃの出所なんてわからない。気に入らない事柄を思いつくだけ思い浮かべればきりがないだろうし、『どうでもいい』の一言で片づけられるかと言えば、多分、本当に些末なことばかりに腹を立てているのだろう。

 そう言ったことをぽつぽつ彼女に話せば、

「ま、若い時によくある癇癪みたいなもんだね」

 と一笑に付された。

「でも、本気になりすぎた挙句に、人の店の前で倒れ込むのはやめるんだね」

「すみません」

 小さく頭を下げると、彼女はちらりと後ろの酒瓶を見やった。

「なに飲む?」

 数えるほど、しかも人に勧められてしか酒を飲んだことのない僕は視線をさまよわせる。けれど、わかりませんと答えるにはささやかなプライドが邪魔をした。この年上の、僕よりもずっと世の中の事や人間の事を知っているであろう彼女には、僕の見栄なんて見通されている気もするけれど。

「じゃあ、あなたと同じものを」

 僕は苦し紛れに、カウンターの内側に置かれていた飲みかけのグラスを指さす。うっすらと口紅がついていた。

「これ?」

「僕が来るまで、一杯やっていたんですね。お邪魔してすみませんでした」

「嫌だねえ、商売だよ。これで良いのかい?」

「はい」

「ちょっとお待ちね」

 彼女は手際よく僕の分の酒を作り始めた。てきぱきとグラスの中身を用意する彼女の手つきは鮮やかで、魔法みたいだな、とそんなことを思う。

「はいどうぞ」

 渡されたグラスに添えられた白い指が美しかった。まだ飲んでいないのに、すでに酔ったような高揚感は、彼女の存在感にあてられたからだろうか。

 酒の知識がないだけで、飲めないわけじゃない。僕は躊躇なくグラスの中身を飲んで。

 すぐに盛大にせき込んだ。

「なんだこれ!」

 酒を嚥下した喉が熱い。口の中、腹の中。酒が通った全ての箇所が熱を持つようで、僕は慌てて水に手を伸ばした。

「毒か!」

「酒だよ、馬鹿だねえ。ちょぉっとばかし、強いけどさ」

 ちょっとどころの騒ぎかこれが。そう訴えたかったがむせて言葉にならなかった。どうやら僕は、ずいぶんと強い酒を選んでしまったらしい。

「美味しいけどねえ」

 彼女は僕の飲んだそれと同じものを、まるで水のようにすいすいと飲む。経験の差があるとしても、信じられない光景だった。

「坊やにはまだ、早かったかね」

 お兄さんから坊やに降格する。顔に熱が上った。酒のせいかはわからない。

「男をからかって遊ぶような女には引っかからないようにね、坊や」

 そうして流し目を送られて。

 この人はきっと魔性の者だ、と、僕は熱っぽい頭で思った。

 


「坊やがこんな店に、しょっちゅう出入りするもんじゃないって、何度言ったらわかるんだろうんねえ」

 呆れたように言いながら、それでも彼女はグラスに注いだ酒を僕へと差し出した。

「常連にそんなつれない口きくことないでしょう、蝶子ちょうこさん」

 僕はためらいなくグラスを口に運んだ。初めて店に訪れた時に飲んでしまった強烈な酒はあれ以来遠慮して、自分が無理なく飲めるものを注文している。それでも懐の事情もあり、体への負担もあり、何よりも長居を決め込みたいがために、ちびちび舐めるように酒を飲むのだった。

「ゆっくりとしたいんだったら、茶店さてんにでも行っておいで。もっと安上がりだろうに。一、二杯で粘られたんじゃ、こっちは商売あがったりだよ」

 この店の主――名を蝶子さんという――はため息を吐いた。

 その吐息すら甘やかだと思うありさまだったから。

 

 僕は間違いなく、蝶子さんに心奪われていた。

 

 蝶子さんに坊や呼ばわりされた翌日のうちに、僕は下宿先の先輩に彼女のことを訪ねていた。夜の町で遊び歩いていて、進級が危うくなっている先輩だった。このあたりの酒場の店情報は大体この人に聞けばわかる、という人物だ。

 ――『黒揚羽くろあげは』の店主はいい女だよなあ。

 そう、先輩は真っ先に言った。蝶子さんに魅了される酒飲みは少なくないようだった。

 見かけからしてまず麗しく、目を引かれる。客商売をしているだけあって気配りが出来て、誰にでも気さくで、そこで勘違いする客もそれは多いそうだ。そうして勘違いが過ぎた客でもうまくあしらい、あまりにしつこく絡んでくるような迷惑者には、相手がどんな無頼漢だろうと臆さず叱り飛ばす。僕が『坊や』とからかわれ、つれなくされるのも客あしらいの一つなのだろう。

――それでもなあ、あの人にまいっちまう野郎は後を絶たないんだよなあ。

 それこそ僕が彼女を魔性だと感じた、抗いがたい彼女の魅力なのだろう。

 真剣に話に聞き入っていたら、先輩はにやにやと笑いながら言った。

――お前みたいな世間知らずのお坊ちゃんは、あっというまに魔法にかかって、魔女に食われちまうぞ。

 好意を持った相手を魔女呼ばわりされて、良い気のする男はそうそういないと思うけれど。

 さもありなん、とも僕は思うのだった。


「本当に、良心的な金額で明朗会計、僕のような若造でも安心して飲めるってものです。良いお店だ。お客さんは入ってないけど」

 偶然か、僕がそれなりの回数通うようになってからも、他のお客さんと長い時間一緒になるということがなかった。行き帰りにすれ違うか、ほんの少しの間居合わせるか。蝶子さんに懸想する男が多いというなら、それも奇妙な気がする。もしかしたら、みんな魔女の魔法にかかるのが怖いのかもしれない。

 僕は魔法をかけられても呪われても、彼女と二人でいたいと思うけれど。

「お客が少なくて悪かったね」

「僕が通った方が売り上げになるでしょう」

「だったらもっといい酒入れるか、注文増やすかにしてちょうだいな」

 言いながら蝶子さんは、自分のグラスに例の酒を注いだ。毒薬みたいな酒。

「またそんな、馬鹿みたいに強い酒飲んで。危ないですよ」

「毒でもないんだから、危ないなんてことないさ」

「そんな度数の高い酒、毎日のようにがばがば飲んでたら毒もおんなじですよ。体にいいはずないんだから。体壊しますよ」

 商売柄、飲まざるを得ないのはわかっている。それでもそんな、体の毒になるような飲み方をしなくても良いだろう。僕が心配を口にすれば。

「いいんだよ、アタシは」

 と、決まって蝶子さんはそう返した。

「病もうが死のうが、気にかけてくれる家族やいい人なんて、いやしないんだからさ」

 酔ったようにしなだれて、蝶子さんはカウンターにもたれた。酒に飲まれることなどないこの人が、今、客である自分の前で本当に酔っているとは思えず。それでも酔いに身を任せてしまいたくなるような夜もあるのではないか。

「なあに、辛気臭い顔しちゃって」

 いっそこちらに身を任せてくれればいいのに。

 彼女にとっては坊やでしかないらしい僕は、微かに苛立つ。

「もう酔ってるのかい?」

 蝶子さんがぐいと顔を近づけてきた。酒の匂いよりもなお濃く、女の匂いのようなものがした、気がする。それは化粧や香水の匂いのような気もしたし、生き物が本能として嗅ぎ取ってしまう類の匂いのような気もした。

「それとももうおねむの時間かね、坊やは」

 ひどい人だ、と思う。

 あなたの言うところの、男をからかって遊ぶような女に引っかかりそうな坊やを。こうやってからかってくるんだから。

 あなたに落ちてしまわないわけが、ないでしょうに。

 

 僕は蝶子さんの唇を奪った。

 魔女に心を奪われたのは僕の方。だからせめて、体は僕の方から奪ってしまおうと思ったけれど。それすらも、彼女の魔法にかけられて起こした行動なのかもしれない。

「……何を調子に乗ってるんだろうね、この坊やは」

 驚いた様子もなく、蝶子さんは言った。

「蝶子さんやっぱり、毒飲んでるでしょう?」

 彼女が飲んでいる、喉の焼けるような強い酒。やっぱりあれは毒だろう。いつも飲んでいるから、蝶子さんの唇にも毒が回っているのだ。

 でなければ、キスだけでこんなに僕の心臓が苦しくなるなんてこと、ないでしょう。

「馬鹿言ってんじゃないよ」

 蝶子さんは空になったグラスに酒を注いで、それを一気に煽った。まるで口直しか消毒だとでも言うように。

 魔女は毒で口直しをするのか、毒で消毒……毒を以て毒を制す?それだと、僕の唇が毒だってことになるな。

 ああ駄目だ。頭に血が上って、まともに物が考えられない。

「水でも飲んで、酔いを醒ますんだね」

 とん、と音を立てて、目の前に水入りのグラスが置かれる。

「自分はそんなもの、飲んでるくせに」

 愚痴のようにこぼせば、やはり蝶子さんは余裕たっぷりに笑って。

「いいんだよ、アタシは」

 と、いつものように言った。

 蝶子さんはまたグラスの中身を継ぎ足す。

 

 ――気にかけてくれる家族やいい人なんて、いやしないんだからさ。 

 そういう彼女がいつもどんな顔をしているか、沸いた頭ではうまく思い出せなかったけれど。


「僕がいますよって、言っても?」

「それでも」

 そう答えると、蝶子さんはグラスの中の毒を。

 躊躇なく涼しい顔で飲み込んで、美しく笑った。


 

 

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