序 淡雪が溶ける頃
社会に順応できない“人でなし”は“処理”される。それは皮肉な事に人類平等説を謳う現代社会が存続するにあたって今現在はなくてはならない行為だった。
“処理”方法は例外を除いて担当地域の監査官に一任される事が常識だ。
一つは感情抑制薬の強制投与。領域は肥大化した感情の強度に比例して大きくなる。ならば逆をいえば感情強度を低下させて領域を彼らの内側に留めてしまえばいい。
そしてもう一つの“処分”は“人でなし”の処分.....いや平たくいえば殺害だ。
感情抑制薬では抑えきれない程の領域で、領域自体の効果が悪しきものだった場合の選択。
幽は白い扉を静かに押し開く。ひゅるりと冷風が吹き荒ぶ中“彼女”は居た。
「これは...... 」
無意識に漏らした言葉はそれだけだ。その隣で伊佐奈は静かに息を呑んだ。
其処は雨が雪に変わった、異界のような空間だ。辺り一面を白く冷たい雪が覆っている。
その中央で小柄な人影が一つ蹲っている。
ソレは此方の気配を感じたのか、ゆっくりと振り返った。
本来日本人は黒髪だ。それなのに、冷風が弄ぶ長い髪は雪のような真白。灰色に染まった肌。整った顔立ちにあるのは二つの獣じみた金眼。
それなのに肢体に纏うのは何の変哲もない高校の制服。それがあまりにも異様に見えた。
“彼女”はただただ涙を流し続けている。
悲しげに。
寂しげに。
何かを求めるように。
ただただ涙を流し続けている。
吸い込まれる様な妖しい美しさがある少女だ。だが、此処で呑まれまいと幽は唇を噛んだ。硬い声音が屋上に響く。
「伊佐奈。残念だけど 」
「ううん分かっていた事だよ。“彼女”は完全に反転してしまった。ただ、それだけだ」
「そうか」
そう言って、幽は深く息を吸い込んだ。
「朝菜 雪だね。僕と彼女は“人でなし”対策課から派遣された監査官だ 」
面談の度にはにかむように微笑んだ少女は居ない。まるで春風のように儚い少女は此処のはもういないのだ。淡々と話し出す幽の隣で伊佐奈は手を握りしめた。彼と相棒を組んでから何度か仕事をこなしたけれども何時になっても慣れない。
幽は懐から愛用の銃を取り出し構え、伊佐奈も片手に短刀を握りしめた。
照星の向こう側で“彼女”がゆるりと首を傾げる。
「あなたたちは、だあれ?」
「君に“処分”を下しに来た 」
幼子のような問いかけに幽は淡々と返答を返す。
「なぜ?ワタシはさみしくて、だれかとなかよくなりたいだけなのに?」
「では、何故校舎内の彼らはああなった 」
「なかよくしているからでしょう?さみしさをうめるにはなかよくしないと」
涙をほろほろと流したまま“彼女”は無垢な表情で己の体を抱きしめる。
「ワタシはさみしいの。さみしくてさみしくて、さむくて、かなしくて、だからみんなとなかよくするのよ。あなたたちもなかよくしましょう?」
「そうか」
幽の淡々とした声が雪に吸い込まれてゆく。
伊佐奈はその後ろで、短刀を取り出す。肥大化した感情によっては対面した途端に攻撃を仕掛ける輩もいるが、運よく彼女はそうではなかった。
本人に害はなくとも彼女の領域は余りにも広く、強く人々に影響してしまう。
「キミはその感情を抑えるができるかい」
「いいえ?ワタシはさみしいのに?」
「キミは寂しくなければいいんじゃないか?」
その問いかけに、彼女はゆるりと首を振ってほほ笑んだ。
「ワタシはさみしいの。だからさみしさはきえないの」
「そうか、キミはやさしんだな」
彼女は破綻している。
だが、彼女は此処から動かなかった。寂しさという衝動のまま辺りを彷徨っても可笑しくはないというのに。
さみしくて、さみしくて堪らないはずなのに、“彼女”は___否微かに残った人間としての彼女は人を傷つけたくなくて此処に一人とどまっている。
それをやさしさと言わず何というのだろうか。不思議そうに首を傾げたままの“彼女”と対峙したまま伊佐奈は囁く。
「彼女は…知性も理性も残っている…でも」
「ああ、でも犠牲になるものが余りにも大きい。彼女にとっては酷な事実だろうけど、それが事実だ」
「ワタシはやっぱりいらないんだ」
雪のようにはかない声がそう囁いた。それに対して、伊佐奈は言葉を止める。酷な事実だとしても幼子のような少女に率直に告げることはできなかった。
だが、幽は違った。
「ああ…朝霧 雪 、監査官としてキミに告げるよ。被害は甚大。領域危険度aランクと認定、感情抑制剤による抑制は不可能との調査結果。これに基づき…貴女を“人でなし”と認定し、殺処分とする。.......僕は君を殺すよ」
掠れた声を雪風がさらってゆく。知っていたことだ。分かっていたことだ。
沈黙がひとつ落ちる。
そして雪の少女は涙を流したまま、静かにほほ笑んだ。
「しっている?うさぎってさみしいとしんじゃうんだよ」
「いいんだな」
異形の少女はそれには答えない。ただ、哀し気に微笑んだ。
「きっと此れが最後の機会でしょうから。
幽さん 」
「キミは....... 」
「さあ、ワタシを終わらせて 」
言葉を遮るように雪の少女は囁く。選択肢は無い事など此処にいる誰も彼もがわかっていた。幽の喉がこくりと動く。
そして、唐突に引き金が引かれて。
ぱん、と自棄に軽い音を雪が呑み込んで。
白い雪に真っ赤な花が咲いた。
沈黙の中、雪の降る静けさが溶けてゆき現れたのは眩しいくらいに蒼い空、そして煩い蝉の音。
嗚呼、そうだ今は夏だったのだと思い出したかのように世界は夏を主張し始める。
「敵生命体....沈黙。事象変異停止.....。
任務終了.....だね 」
伊佐奈の言葉に幽は答えない。ただじっと死した彼女の遺骸が空に溶けてゆくのを見つめていた。
反転した人間の遺骸は残らない。
だからせめて監察官である己だけでも彼らの最期を見届ける。それが僕の仕事だと、いつか幽は言っていたのを伊佐奈は思い出す。
何時も何時もこうなのだ。奇跡は幾ら期待しようとも訪れる事はない。ただ残酷な現実だけが伊佐奈と彼を押しつぶす。
彼女には理性がまだ残っていた、彼女自身が残っていた。だというのに、助けることは決してできない。伊佐奈と幽は人道という名の規則に従って彼女を処分する。
ふと幽が肩の力を抜いて此方を振り向いて微笑んだ。
「仕事は終わりだ。伊佐奈、帰ろう。後の処理は職員に任せればいい。...彼らは助かる」
「そう.....だね。」
強張った顔で笑う伊佐奈を見て幽はふと微笑んだ。何かを思い出すかのように。だが彼は何も告げずに踵返す。
「私たちは監察官。此れが仕事だから、しょうがないんだ。」一人残った伊佐奈は確かめるようにそう呟くが、その言葉が正しいだなんて彼女自身も思えなかった。
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