白黒感情領域論
放浪する猫
序 淡雪が溶ける頃
寂しい。
寂しくて、寂しくて、たまらないんだ。
誰も、誰も、ワタシを見てくれない。
誰も、ワタシの側に居てくれないの。
心の中にポッカリと空いた虚が何もかもを吸い込んでしまうような気がするんだ。
嗚呼、寂しい、寂しい、
誰かそばにしてほしい。
寒い。哀しい。寂しい。
嗚呼、誰か、誰か。
誰でも善い。誰でも良いの。
誰かこの虚を埋めて________
人気のない学校のエントランスでふと声が聞こえた気がした。
啜り泣きに似た囁くような泣き言。
けれど振り返っていても、やはり人影など何処にも見当たらない。夏だと云うのに此処は少し寒い。少年は白い息を吐いて思った。とても寂しい場所だ、と。
しとしとと霧雨が体に纏わり付くように降っている、涙雨とでも云うべきだろうか。そんな、寒くて、哀しい雨が薄闇を纏った平日だというのに人の気配のしない校舎を包んでいた。
隣に居た少女が校舎を見据えて口を開く。
「幽、あの子はもう手遅れだよ。此処まで“感情”領域が出来てしまったら.....彼女は.... 」
この“仕事”での相棒の口を片手で物理的に塞いで幽は苦笑した。言霊には魂が宿ると云うが若し万が一、否、億が一に奇跡が起こって、少年と少女が予測する最悪の事態が起こらなかったとしたら良いと思う。だからこそ、結論は最期に言うべきものだ。
「伊佐奈、まだ決まった訳じゃない。“処理”が決定する迄は結論はお預けだよ 」
少年はそう言って、口を塞いで居た手をひらりと離すと少女はほうと息を吐き出した。
彼女だってわかってる。こんな
「.....そうだね。私も焦り過ぎたかもしれない、さあ、急ごうか...手遅れにならないうちに」
ひょいと幽の手を退けて、伊佐奈は微笑んだ。そして身を翻すと真っすぐに校舎を目指して歩いてゆく。
その少女の姿を幽は目を細めて見つめる。
凛とした後ろ姿からは先ほどの張り詰めた気配は感じられない。
この“仕事”は彼女にはあまりにも酷なものであるのは重々承知の上だ。それでも、彼女の心の安寧を願ってしまうのは間違いなのだろうか。
相変わらず、夏だといのに此処は寒いし雨は降る。そして“彼女”がすすり鳴いている。どう見ても伊佐奈の言っていた通り“領域”は完成されている。きっと此度も報われない結末で終わるのだろう。
「辛いな、社会の害だと分かっていても。
ヒトを処分するのは 」
幽はそう呟いて、相棒の背を追った。
人間は反転する。
善から悪へ、悪から善へ。それは感情を持つ人間という生き物にとって逃れられない事実である。
だが、それだけではない。
肥大した感情は人間そのものを反転させてしまう。其れが良き感情であろうと悪しき感情であろうと全て等しく反転する。
ヒトに反転してしまうのだ。
強大な“領域”と呼ばれる能力を持った理外の存在に。人間社会から認められないヒトに。
それを現代社会の人間は、「ヒトであって人でないモノ」を“人でなし”と呼んだ。
人間社会から認められない存在だからと言って彼らが排斥されていた訳ではない。
ただ、肥大化した感情を持つ彼らの思考回路を人間は理解しにくかった。少数の共存できる“人でなし”は存在したが、それでも大多数が“処分”となった。
学校内。
其処は、普段であれば少年少女たちが青春を過ごす筈の平和の象徴。聞こえるのは話し声やら笑い声、偶には諍いもあるかもしれないが、そういった類のものだろう。
だが此処は、この校舎のは違った。
ただ、静かだ。
話し声も、笑い声も、いや、足音さえ無い。
ただ、異様な静けさの中に異音が混じる。
年若い学徒たちが、睦あい、混じり合い、果てには嚙り合い、彼方此方で交わっていた。悲鳴も嬌声もない。ただ彼らが動く度にくちゃりぬちゃりと血液体液等が生々しく音を立てている。
憤怒も快楽も無い。ただ、切望いや熱望か、酷く何かを求めるような渇いた表情でただただひたすら相手を求めるように混じり合う。
無意識に幽の顔が歪む。
真っ当な人間には理解できない光景だ。
「........領域の感情に呑まれたのね 」
伊佐奈は目を伏せる。
「今回の肥大化感情は“寂しい”だったっけ」
幽はうなづいた。
「ああ、“寂しい”いや、何かが欠落していてそれを求める感情か。だからこそ、領域に飽和した“寂しい”に共感した彼らは他者を求めるか....」
“人でなし”の“領域”、それは肥大化した感情が伝播する範囲の事。そして伝播した感情は人間と、そして世界と共鳴する。共鳴した感情は人間の心を押し潰し塗り替えてしまう。完膚なきまでに。
そして。
「感情を塗り替えられた人間は完全には元には戻らない。分かっているね、伊佐奈 」
幽は囁いた。
領域の影響下に入った人間が其処から脱するのは至難の技だ。唯一助ける確実な方法は現状を斃すことのみ。
それに“感情”によって塗り潰された人間は完全には元には戻らない。感情は魔法ではないのだから。彼らはその欠落を、その行為を己の物だと認識する。まるで“人でなし”のように。いかに後遺症を治す手立てがあるとは云え、完治することは無い。
伊佐奈は青白い顔色のままコクリと頷いた。
「ならいいんだ。急ごう、きっと“彼女”は屋上にいるはずだから」
朝菜 雪
其れが、“彼女”の名前だった。
この学校の2年生。昨年度から虐めの被害を受けていて、家庭環境にも問題があった。そのため早くから“人でなし”対策課にマークされていたのだという。
「そういえば幽、なんでマークされていたのに、此処まで被害が拡大したの?」薄暗い螺旋階段の途中で伊佐奈はふと呟いた。
「ああ、彼女__朝菜 雪さんは理性的な子だったからね。対策課の推奨した週一回のメンタルケアも、倫理試験もきちんと受けていた 」
「良い子だったんだ」
「僕も数回担当したけれど。環境以外は極普通の寂しがり屋な少女だったよ」
ごく最近の事だ。一人なのが恐ろしいとはにかみながら答えていた優しい少女を思い出す。だが、彼女は居ない。ある日突然彼女はこの校舎の屋上から飛び降りようとして失敗したのだという。
そして、彼女は“寂しさ”に塗り潰され、“彼女”は生まれ堕ちた。二度と朝菜 雪という少女が帰ってくる事はない。
沈黙が落ちる。何処からか響く啜り泣きだけが階段を反響する。
「なら、早めに“処理”しないとね....彼女がこれ以上泣かないように 」
「ああ」
白い無機質な屋上へと続く扉の向こうで啜り泣きが一際大きくなった気がした。
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