幕間 雪涙
しろいゆきにわたしの紅い血潮が広がってゆく。皮肉な話だ、人でなしなどと社会から非人間的扱いをされているわたしでも血は赤い。体温が雪に解けてゆく、冷たい痛いという認識自体がゆっくりと溶解していくのを感じる。幾ら人でなしが頑丈だからとは言え、きっと私は死ぬのだろう。
きっと屋上にはもう誰もいない。
いや、だれもこれない。
さむい。
こわい。
さみしい。
ひとりはいやだ。
ひとりはこわい
もう後にもさきにもゆけないのだとしっていても。
ひとりだれにも気づかれず嘆かれずこの酷く寂しい社会から淡雪のように消え去るのは
やはり、どうしようもなく寂しかった。
「はじめまして、朝菜 雪君だね。僕はこの対策室に所属するカウンセラーだ。よろしくね。」そう言って、目の前の青年はそう言って笑みを作った。
クリームベージュの壁紙の清潔な部屋。
そこは精神的に不安定な人たちが来る、カウンセラーの部屋なのだそうだ。定期診断でその異常を診断された私は定期的に此処に通うよう指示されている。中にはこういうカウンセリングとやらを嫌がる同類さんもいるらしいけれど、私はこの時間が嫌いではない。
眼前にいる私より少しだけ年上の男の人はいつも通り柔らかく微笑んでいる。
「やあ、先週ぶりだね。朝菜 雪さん。今日の調子はどうだい?」
「いつも通りです。こんにちはユウさん」
「それは何よりだよ」
ユウといっても僕の字は幽霊の幽だからだいぶ珍しいんだなどと変な自己紹介が印象的だった彼は、この地区の監査官なのだという。監察官と云えば、最前線で“人でなし”と戦うエリート様なイメージがあるが、彼の場合、対策課で不人気な職種であるはずのカウンセラーを兼任しているらしい。
いつだか、彼に聞いたことがある。
「監査官は、“人でなし”の管理が任務だと聞きます。其れなのになぜあなたは私と話しているんでしょうか?」と。
「僕がそうしたかったから」
ただそれだけさ。
そう言ってその時、不思議な監察官はいつも通り微笑んだ。
「うんうん、今回、感情値を計測させてもらったけれど、これは少し危ないね 」
幽さんは柔らかい声でそう言いながら手元のタブレットを指し示す。簡易測定で申し訳ないんだけどね、と彼は言って感情値の説明を始める。
「人間には大まかに【喜び 信頼 恐れ 驚き 悲しみ 嫌悪 怒り 期待】と呼ばれる8つの基本感情と其れが混合してできた応用感情で成り立っているのは前にも説明したよね。」
「はい、そしてその中の一つが他の感情を塗りつぶしてします迄肥大すると人間は反転して災厄を招いてしまうという事も。」
大昔は、感情が強くなるだけならば最悪でも犯罪がおこる「だけ」だったらしいけれど、現代では犯罪なんて生易しいものが起こるのではない、人間が人間ではない何かになって災厄を巻き起こすようになっている。
「それは上々。ならば、このタブレットを見てくれないか?君の感情値の測定結果だ」そう言って、差し出された端末を手に取る。描かれていたのは花の文様。
見慣れた八つの花弁と色を持つその花は酷く偏った色に染まっていた。
「知っているとは思うけれど、一つ一つの花弁の色が各感情を象徴しているんだ。そしてその花弁の色で感情の強さを測定している。例えば一般的な君の年代は多少のガタツキはあるとはいっても、そのぐらいなら大した事では無いはずなんだ 」
そう言って指し示したのは表示されていたもう一つの花。
確かに、私のよりも明るい色が多い。私の花は相も変わらず一部を除いてそれよりも色が薄くて、一か所だけ
「私のはすごく緑色だ」
あと、蒼色も濃い。
「そう、これは君が無意識に何かの感情にとらわれていることを表しているんだよ」そう言って、彼は居住まいを正す。
「緑は恐れを示しているんだ。其れで、きみは何をそんなに【恐れ】ているんだい?」
目を見開いた。
今までこんなに直球で私もぼんやりとしか分かっていなかったことを聞いてくる人はいなかった。でも彼の言葉を聞いて私はすとんと何かに納得した。自身の心の中に空いていた洞のような何かの正体が彼の言う【何かに対する恐怖】なのだと。
多分、薄々わかっていたのかもしれない。
朝菜 雪 高校1年生 女子。小柄で平凡、どちらかというとクラスの隅っこで安穏と過ごしているタイプの苦学生。要はどこにでもいるような極々普通の女子高生。
多分、客観的事実はそんな感じ。
でも、私自身は違う。何時も、何時も、たとえそれが寝ている時でも漠然とした何かを感じるのだ。ただ一人、一歩間違えれば暗闇に呑まれて掻き消えてしまいそうなそんな一本道を歩いている。そんな感覚が付き纏って離れない。
そして、なにより、暗い道に他者を引きずり落そうとして、同類が増えることにほの暗い愉悦を感じていた私自身が恐ろしい。
だから怖い。
「.....一人になるのが怖いんです」
あいまいな笑顔をつくる。
「一人になると、私が私であることがわからないくらい取り乱してしまうんです。」
一人になると人寂しくなった“わたし”がささやく。みんな私と同じ気持ちになれば寂しくならないじゃないかと。それはただの嘘八百の甘言だってわかっているのに。落ちていきそうになる。
「そうか。」
「だから、こわい、でも誰かがそばにいてくれさえすれば迫ってくる何かから遠ざかることができる。そんな気がするんです」
本能的にわかってしまう。多分飲まれてしまったら私という存在は戻ってこれないのだろうと。でもそれを私は望まないし、この社会も望まない。
だって、私の中に何があろうとも、私は友人も先生も家族もとても好きだから。
幽さんはそれを黙って聴いていた。何も言わずに私が吐露する支離滅裂な説明を私の目をまっすぐ見てただ聞いていた。
「つまり、君はその【怖さ】いや【寂しさ】というべきか、に飲み込まれたくはないんだね」
「はい、私には友人も、先生も、家族もいるんですから」
「君は優しいね。ならば安心だ。君は確かに人とは違うのかもしれない。社会に不必要とされる類の存在を秘めているかもしれない。」
「それでも」と彼はつづけて柔らかく微笑んだ。
「きみは選んだんだよ。この社会で生きることをさ 」
近くて遠い昔のこと。
でも確かに私はその言葉に救われた。
誰かが私を認めて、そばにいてほほ笑んだ。
そんな他愛もない一場面だった。
でも、それはただの夢でしかなかったけれども。
理想は理想でしかなく、現実は余りに残酷で諸行無常だ。
結局私は全て失って最期まで人間として生きることはなく、反転して社会に拒絶された。
だからわたしは。
たったひとりでここでしぬのだから。
しぬべきなのだから。
しろい。しろいせかいだけがくらくなる視界にうつる。
その中でふたつかげがおちた。
ああ、おにいさん。さようなら。
しろいゆきにあめがふたつつぶだけあめが混じった。
ああ。
きっと。もう、さみしくない。
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