画面の向こう側の世界
吉野奈津希(えのき)
画面の向こう側の世界
『今をポジティブに捉えた方がいいんだよ。これで会わない人ってのは元々人生に余分なものだったんだって思うくらいでさ』
毎年恒例だった夏に叔父さんの家に遊びに行ってやるバーベキューが新型コロナウィルスで中止になって母さんが代わりに提案したオンライン飲み会で叔父さんが言う。
叔父さんも叔母さんも父さんも母さんも慣れない中でオンライン飲み会をなんとかやって、ワイワイ盛り上がって、大学3年なのにお酒を飲めない僕は家族と同じ空気を一緒に味わえない疎外感を覚えながら何気なく叔父さんが言った言葉が胸の中に残ってズンとした気持ちになる。でもお酒で気分が良くなっていて誰もそんな言葉で落ち込まないし「本当にそうね〜」なんて話になるし、僕も「そうかも」と言いながら笑顔を作る。姉は飲み会に出ていない。
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ガタン、と音がして自販機から冷たい缶コーヒーが出る。夏の始まり特有の生温い空気がまとわりつく不快感から逃れるように、アイスコーヒーを飲む。
冷たさと苦味が口に広がって、飲み会後のぼうっとした気持ちが切り替わる感じがする。
外は住宅街で、まだ夜の9時頃だというのに誰もいない。
新型のウィルスでパンデミックになって、デマが乱舞して、でも緊急事態であるということだけは真実で、僕たちは外出を控え気味になる。
僕は夜に家族には健康のためと言って散歩に出て、こうしてアイスコーヒーを買う。
あっという間にアイスコーヒーは温くなっていって、缶の表面の水滴が僕の手を湿らせる。
就職活動のためのエントリーシートを書かないといけない。大学で出ているレポートを仕上げないといけない。趣味の創作活動はもう数ヶ月もやっていない。
余分なものってなんだろう。
僕の就職活動はさっぱりだ。企業は説明会を中止している。説明会をやっているところもあるけど、正直そこに行きたくない。でも、エントリーシートぐらいは書いてないと落ち着かない。レポートも次回の講義出席時に出せと言われているけど緊急事態宣言は延長につぐ延長でもう数ヶ月大学へ行っていないから講義の日が、予定通りかなんてわからない。
今の僕は余分なことでしか構成されていない気がする。僕が作るもの全て、今必要なことじゃない気がする。何処にも届かない何かをただ作っている。
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『まだ新型ウィルスとか言ってるの? あるわけねーじゃん、そんなの』
「あー、そうだった、そうだった」
『俺はそろそろ選手村入りだよ。当日にここから東京に行くのはきついしさ」
そうPCのアプリで通話をしている
康幸とは高校の時からの繋がりで、僕は文芸部で康幸は水泳部だというのに何故か馬があって、でも学校ではグループが違うものだからこうして夜に通話するのが習慣でそれは今でも続いている。
でも、今話している康幸は僕と同じ世界の康幸ではないのだろうなと僕は思っている。
高校を卒業してからもたまに通話をしていた。なんでもないことを話して、適当に互いにレポートを書いたりする。
初めは些細なズレだった。全国的に晴れである日なのに「今日土砂降りで困っちゃったよ」と康幸が言っていたり、延期になったゲームソフトを康幸が購入したと話していたり――水泳をやめたはずの康幸が水泳を続けていたり。
今では康幸の世界にパンデミックなんて存在していないらしい。
僕は高校を卒業してから康幸と現実で会っていない。
もしかしたらからかっているのかもしれない。でも康幸はそういう悪趣味な冗談を言うタイプではない。
だから、僕は信じることにした。向こう側は僕と違う別の世界で、そこでは康幸はスポーツを続けてオリンピック選手に選ばれていて、パンデミックも起きていないということを。そういう、嘘みたいな物語を。
▲▲▲
高校三年生の時、康幸はオーバーワークで故障した。腰椎分離症、と聞いた。
珍しく普段のグループではなくて僕に一緒に帰ろうと康幸が言った。
「やっちゃったよ」
僕はただ「うん」とだけ言って一緒に歩く。
夕陽が差し込んで僕らを照らしていて、オレンジに染まる康幸の顔は逆光で見えない。
だって何が言える? 僕は康幸みたいに何も必死になっていない。何も賭けていない。ただ漫然と日々を過ごしていただけの高校生に、夢のために全ての時間と力を賭けてきた僕に言えることなんて何かあるのか? 空虚なポーズの言葉しか出てこないんじゃないか?
何かを伝えよう、なんてひどい上っ面なんじゃないか?
そう思って、何も言えない。伝えない。
それからも康幸と夜にたまに通話をしたけれど、ここのところ通話している別の世界の康幸と通話していたということならあの時以来、僕とこっちの世界の康幸は話していないことになるんだろうか? 僕はもっと何かを伝えるべきだったんだろうか?
今、僕のいるこの世界の康幸は何をしているんだろう。
僕の少ない友達たちも、今の状況を楽しんでいる奴なんて一人もいない。
大学の友人の木村はインディーズバンドで活動していたのだけど拠点にしていたライブハウスが休業が続いて店じまいになってしまってこれからの活動指針が消えてしまって家で酒浸りらしい。
高校の同級生の橋本は卒業後に劇団に入ったけど、演劇をやる機会が潰れて日々のバイトも休業で国への不満をSNSで嘆いてる。
姉は就活鬱になりながらようやく決まった企業の内定を取り消しにあって部屋から全然出てこない。
僕は何ができるんだろう。何を伝えていたら良かったんだろう。
▲▲▲
『でも、正直不安だわ』
向こう側の康幸が不意にそう呟く。
「なんでさ、高校の頃からいつだって自信満々だったじゃん。世界を取るぜって」
『ポーズだよ。ポーズ。正直試合の前はしょちゅう眠れないし夢で全然スタートうまく出来なくて、泣いて飛び起きる。手が震える。今も本当は明日の支度をしないといけないし早く寝ないといけないのにこうして通話をしているし、眠れる気がしない。スタートは上手く切れない、記録は残せない、自己ベストも出せない、メダルだって当然取れない、そんな気しかしないんだよ。でもコーチにも家族にも言えない。夕食はとんかつでさ、
康幸の声はどんどん小さくなっていく。いつも快活な康幸からは想像出来ない声で、その声の響きを僕は知っている。
あの時のオレンジ色に染まる康幸と同じ声。
僕は言わなくちゃいけない。「うん」でも「ああ」でも無い。康幸が理屈での寝たほうが良いとかそういう言葉じゃない。
ただ背中を押してほしいと言っているんだ。その康幸の不安を聞き、受け入れた上で言ってほしいと言っているんだ。
「違うよ康幸」
だから言う。
「康幸はスタートをうまく切れるし自己ベストだって出る。絶対に金メダルを取れる。世界にずっと残る新記録を樹立する。これから熟睡出来るしそれで明日はバッチリ目が覚める。とんかつだって明日にはくだらなすぎて思い出して爆笑してる。康幸、康幸は今奇跡の上に立っているんだ。康幸の世界は絶対に大丈夫。康幸は怪我をしなくて、今でも練習を重ねている、夢の道をちゃんと歩いている、オリンピックだって開催される。木村はバンドでメージャーデビューする、橋本は舞台でヒットして引っ張りだこだ、俺の姉なんて就活で大企業に入社して毎日ゲラゲラ笑ってる、飲み歩いてる。だから、絶対に大丈夫だ」
こんな言葉に意味なんてない。木村は食べていけるほどの収入がなくて実家に戻った、橋本は酒浸りで暴力沙汰を起こして逮捕された、姉はこんな時期だってのにメンタルクリニックに通うようになった。
僕の紡ぐ言葉に意味はない。価値はない。
それでも僕がこうして康幸と繋がれているということに意味がある。康幸の未来を願えることに価値がある。
あの日も僕は同じように伝えるべきだったのだ。康幸は大丈夫だと。僕たちは何があっても大丈夫だと。
僕が話す言葉は何もかもがありがちで、余分なものでしかなくて、だけどそれでも僕は言葉を紡ぐ。
康幸がどこまでも泳いで行けますように。皆がどこまでも遠く羽ばたいていけますように。
この世界がどうか良くなっていきますように。
そうやって僕がガムシャラに言葉を伝えて、伝え続ける。
『びっくりだわ……急にそんな励まされるとは……』
「冗談じゃない。真剣だよ」
そう言って、少しの間があって康幸が言う。
『なんだろう、すげー嬉しいわ。お前がなんかキャラじゃないこと言ってくれたってことが嬉しい』
「キャラじゃないは余計だわ。いいから、さっさと寝ろよ。早いんでしょ明日」
『おう。サンキュー、がんばってみるわ』
「金メダルとってまたかけてこいよ」
『ニュースみろよ……いや、通話で報告の方が臨場感あっていいのか』
「そうそう」
『わかった。必ずまた連絡するわ。お疲れ。落ちるわ』
「お疲れ」
そう言って、通話が終わる。僕は机に向かう。
エントリーシートを書かないと、レポートを仕上げないと、趣味の創作を再開しないと。
明日も朝ご飯を食べて姉に声をかけて、未来を見つめていく。きっと全部が良くなって今やっている全てのことが必要な時がやってくる。
いつかこの外出自粛が終わったら康幸に会いに行かないと。あの時伝えられなかったことを伝えないと。遅くても、意味がなくても、そういう気持ちが未来への希望を作る。
何かを伝える、伝えようとする。何処かの誰かがきっと希望に満ちた日々を送ることを信じて言葉を紡ぐ。
何一つ、余分なことなんて無い。
金メダルの報告が来るまで僕は僕のことをやらなくちゃ。
きっと全部良くなると、そう信じて、出来ることをやらなくちゃ。
画面の向こう側の世界 吉野奈津希(えのき) @enokiki003
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