忘れられた夏

こはく

忘れられた夏

 大げさに言えば、人生には、特別な夏が何度かある。

 それが僕にとっては、西暦2020年の夏で、それは多くの人にとっても、そうであったかもしれない。

 もし僕が雑誌の編集長だったら「あなたは西暦2020年の夏をどう過ごしましたか?」という企画を組んだだろう。

 もちろんその企画は、西暦2020年の何年か後のことになる。

 さらに、その雑誌は、そんなに売れなくてもやっていける会社の出版物でなければならない。

 なぜならその頃には、みんな、その夏のことを忘れているか、思い出したくないと感じていて、その雑誌は売れない。


 特別な夏は、そのうちにぎやかな夏に取って代わられ、やがて忘れられた夏になる。



 僕にとってずっと特別な夏の出来事だ。


 僕は大学を卒業して出版社に入り、ミステリー系の雑誌担当になった。

 最初の仕事が「12人の探偵」という企画で、ミステリー作家のS氏の取材をした。

 S氏の自宅は茅ヶ崎にあり、最初は敷居が高かった。が、S氏もその妻の洋子ようこさんも、新人の僕に優しかった。

 その取材をきっかけに、S氏夫妻と僕の交流は、10年経っても続いていた。

 洋子さんが言うには、僕が二人の長男、たかし君に似ていると言うのだ。隆君は、僕の一つ歳下で、ドイツのフランクフルトに留学し、ずっとそこで暮らしている。


 そのS氏が、突然、心筋梗塞で亡くなった。

 六十五歳だった。

 訃報に接した時、僕は洋子さんに電話で弔意を伝えた。S氏には持病があり半年以上会っていなかった。最後に会ったのは、妻と一緒に入籍の報告に行った時だ。

 S氏が亡くなられ、ひと月ほどたった日のことだ。僕は自宅で仕事をしていた。

 洋子さんから電話があり、今から来てほしいとのことだ。落ち着かない様子だったので、僕は伺うことにした。妻に伝えると、少し具合が悪いから、今から病院へ行くと言う。心配するほどではないと言うので、僕は一人車を走らせ、S氏宅のある茅ヶ崎に向かった。


 遺影に手を合わせた後、応接室のソファーに座り、正面を見ると、サイドボードの上に、今まではなかった絵が飾ってあった。

 フェルメールの『窓辺で手紙を読む女』のレプリカだ。僕がその絵に近づいた時、洋子さんがコーヒーを持ってきて、おのずと話題がその絵のことになった。


根尾ねおくん。主人ったら変なのよ。急にこの絵を買ったりして。

 今まで私と一緒で、絵には興味なかったはずなのに」

「いつ買われたんですか?」

「亡くなるちょうど一週間前、金曜日だったわ」

「先生は何か、おっしゃってました?」

「どうしたのって聞いたら、ニコッと笑って、まだ秘密だって言うの」

「秘密?」

「そうよ。その上、ずっと後かもしれないけど、もう一枚同じ絵を買うって言うのよ」

「窓辺で手紙を読む女をもう一枚?」

「そうよ。不思議でしょう」

「そういえば、絵の配置が左に寄ってますね。

 同じ絵を右側にも置こうとしたのかも」

「そう思うでしょ。

 急に亡くなったものだから、何かこの絵、主人のメッセージが隠れていそうな気がしてならないの」

「秘密のメッセージ・・・

 そういえば先生、サプライズが好きでしたから」

「そうなのよ。

 だからなおさら意味が分からなくて、落ち着かないのよ。

 隆たちもドイツに戻ったから、私一人で、不安でしょうがないのよ」

「ちょっと心当たりがあります。ちょっと調べてみますね」


 僕はパソコンを借り、フェルメールの『窓辺で手紙を読む女』に関する記事を読んだ。


『窓辺で手紙を読む女』は、キャンバスに油彩で、開いた窓の近くで手紙を読む女性が描かれている。

 この作品は、長い間、作者が特定されていなかった。レンブラントなどの名前が挙がったが、最終的にフェルメールの作品であると特定された。

 この絵の背景の壁に、実はキューピッドが描かれていて、フェルメールの死後、有名でなかった彼の絵を高く売るために、画商からすれば不要に見えるキューピッドを塗りつぶし、周囲と同じ壁を描いたというのだ。

 それがⅩ線による調査でキューピッドの存在が判明した。絵を所蔵するドイツのアルテ・マイスター絵画館は、上塗りを除去して修復を行っているという。


 僕はもう一つ思い出したことがあった。


 S氏と最後に会った時、妻と洋子さんが席を外し、S氏と二人きりになった時のことだ。

 S氏から結婚生活に関し、先輩として、色々とアドバイスを頂いた。

 それからS氏夫妻の一人っ子、隆君が生まれた頃の話をされた。


*      *      *


「僕がまだ作家デビューする前でね。会社勤めの頃だった。

 一応、隆は、洋子の母乳で育てていたんだが、足りなくて、ミルクも併用していた。

 それで僕も家にいるときは、時々、隆にミルクを作ったり、おむつを替えたりした。

 今で言う、イクメンってやつさ。

 夜中、隆が泣き出すと、洋子が起きだしてオッパイをあげたり、おむつを替えたり。

 でもそのうち睡魔に負けて起き上がれない。

 そこで僕の出番だ。

 眠い目をこすって起きだす。

 先ずはおむつのチェック。

 おむつの交換は、そんなに時間はかからない。

 もちろんウンチの時はたいへんだけど、ミルクに比べたら楽だ。

 おむつでなければ、次はミルク」

「そうなんですね」

「粉ミルクを哺乳瓶に入れ、ポットのお湯を注いだりして、それから冷まして適温にする。

 これが結構時間がかかる」

「そうでしょうねー」

「それに赤ちゃんは、授乳後、ゲップをさせたりして、さらに時間がかかる。

 赤ちゃんには昼も夜も関係ないからね」

「寝不足ですね」

「そう。僕も洋子も寝不足のピークの頃だった。

 僕は天使を見たんだよ」

「えっ、天使・・・」

「信じられないけど本当さ。

 その夜も、洋子が布団の上に座って、赤ちゃんの隆にオッパイをあげていた。

 洋子も寝不足で、ふらふら身体が揺れていたな。

 実はその時、隆が泣き出したのを僕は知ってたんだけど、どうしても起き上がれなかった。

 気持ちでは5センチほど起きるんだけど、身体はびくとも動かない。

 ベビーベッドで泣き続ける隆。

 僕は洋子が起き上がるのを、時々重いまぶたを持ち上げて、横目で見ながら待ってたんだよ。

 それでどれくらい時間が経ったか分からない。

 やっと洋子が起き上がる気配がして、そのうち隆も泣き止んだ。

 そこで僕は助かったと思って眠った。

 でも睡魔に負けた後ろめたさがあったんだろう。

 しばらくして僕は横目で二人を確認した。

 そしたら隆にオッパイをあげながら、ゆらゆらする洋子の周りを、天使が宙に浮きながら回ってるんだよ。

 天使は二人だ。

 隆より大きめで背中には、やはり羽がある。

 思ったより羽は小さかったな。

 しかも羽は閉じた状態。

 それでも天使は飛んでいる。

 そのうえ天使たちの軌跡を追うように、ちっちゃな星のようなものが、いくつもきらめきながら動いてるんだよ。

 もちろん僕は、これはきっと幻覚なんだと思った。

 寝不足続きだからね。

 僕は短い映画を楽しんだような感覚で、驚くと言うより、むしろ穏やかな気持ちで、再び眠りについた。

 驚いたのは次の朝だよ。

 何かの折、洋子がつぶやいた。

「私、完全に寝不足だわ。天使が見えるなんて」って。

 僕は驚いて、洋子を見たんだけど、洋子の視線は別のところにある。

 そこで僕は冷静になって考えた。

 二人とも同じタイミングで天使を見た。

 でもこれは、寝不足による幻覚がもたらした、単なる偶然だ。

 僕は、幽霊や怪奇現象といった非科学的なものは信じない。

 だから天使がいるはずもない。

 僕は結局、天使の話題を洋子にすることはなかった。

 同じ時に天使を見たなんて、30年経った今でも言ってない。

 でも最近そのことを思い出して、考えてみたんだ。

 あの時、僕が洋子に天使の話をしなかったのは、偶然とか非科学的とか、そう言った理由ではなかったのではないか。

 僕は単に、睡魔に負けて、洋子に隆のことを任せたことを隠すために話さなかったのでは、と。

 僕はあの時、素直に「ごめん」と謝って、天使の話をすればよかったんだ。

 今更かもしれないし、洋子も忘れているかもしれない。

 でも、何かきっかけがあれば、「あの時はごめん。実は…」と話そうと、今では思っているんだよ」


*      *      *


 僕は『窓辺で手紙を読む女』の記事の話と、S氏の天使にまつわる話を、洋子さんにした。

「主人たら、そんな昔のことを気にしていたのね。

 天使を見たかなんて、覚えてないわ。

 言われてみれば、見たような気がしてくる」

「恐らく先生は『窓辺で手紙を読む女』の、キューピッドが修復された後の絵を買おうとされていたんだと思います。

 買った後、それを並べて、まずキューピッドの話を奥さんにされる。

 そのあと「実はこういうことがあったんだよ」と天使を見た時の話をされて「あの時はすまなかった」と謝られる」

「大がかりな罪滅ぼしね」

「それも30年がかりの。

 いや、修復が終わるのは、あと数年かかるからもっと長い」

「大変ね。でも主人らしいわ」

「今となっては、何か予感めいたものが、先生にはあったのかもしれません。

 それに、お二人だけにしか分からない、共に過ごした時の移ろいを飾っておきたかったのかも」

「そうね。

 根尾くん。

 素敵な推理をありがとう」


 僕が家に戻ったとき、妻は寝ていた。

 一人で軽い食事をしていると、妻が起きてきた。

 妻は病院で妊娠したことがわかったと、うれしそうに話した。

 僕は、いつもより軽めに妻を抱きしめながら、S氏の、天使にまつわる話の続きを思い出した。


「そして、僕が伝えたいのは、君たちはこれから、その天使らしきものに会えるかもしれないということだ。

 その時は、隠さないことだね」


     (了)

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忘れられた夏 こはく @androidhide20200503

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