鳥居の先
四葉美亜
鳥居の先
京都、伏見稲荷大社。
春に、なりかけていた。昨日から降り続いていた静かな雨があがって、冷たい光が、……
――――、
(鳥居がある。稲荷山の上へと続く石段、そこに、朱の鳥居が、幾重にもなって、連なっている。幾重にも、無数の鳥居が、朱の道をなしている。)
……冷たい光が、差し込んでいた。無風だった。人は、多い。鳥居と鳥居と鳥居の中を、うねうねと、歩いて登る。朱色の山道に、人が連なる。先は、見えない。
「神頼みなんて信じてねえから」
「バカ、お前、ここ神社だぞ」
「だから来てんだよ。はー、疲れた疲れた。これ、もっと上があるんだろう」
「あの鳥居だけ竹じゃん。なー雑っぽくね。雑」
二、三の若い男たちが、そんなことを話していた。あるいは、子どもを背負った母親がいた。母親の後ろには、その腰ほどにも満たない、小さな男の子が、父親の手に引かれながら、よいしょよいしょと石段を登る。
「お茶、ありますか」
女が、山道の途中にある、古民家のような休憩所で、尋ねている。水色のスカートの裾に泥が跳ねている。紫の模様が入った着物と整えた髪で着飾った一団が、明るく笑いながら、石段を下ってすれ違う。
ゆらり、弧を描いて伸びる石段。重なった鳥居と鳥居。
朱色の道。
並んだ、人。鳥居に彫られた寄贈者の名と年月。最近のもの。石段の脇に溜まった泥のような水溜り。浮いた枯葉。
人と、鳥居と、取り巻いているものは、木。冷たい光。近い春のもの。あるいは春が来たもの。
だれも、いない、鳥居があった。
並んだひと、その脇に、山の上に続く鳥居が、分岐していた。眩暈を起こす程に重なった鳥居の朱に、道が続く。その続いた先に、分かたれた道があったのである。
だれも、いない、鳥居があった。
「もう降りようぜ」
遠く後ろから声が聞こえた。
「これどんどんきつくなっていくん、で、だんだん人が少なくなっていって」
「どこまで続くんだよ」
「まだ半分」
足は痛かった。ふくらはぎから上には、明日を不安にさせる重さが、ずう、とのしかかっていた。靴の中で、足の爪が、指と指との間、柔らかい肉を僅かに抉る鋭利な痛みが、一歩ごと、きっと見えないうちに、僅かに靴下を血で汚していた。
厭世というものがあるのならば、この一歩。
一歩、別たれた鳥居の下、石段を踏んだ。靴の端が泥水を踏んだ。並んでいた人と人から抜け出して、誰もいない、鳥居をくぐった。
知っていた。ここにあることは知らなかった。けれども何処かへ続く道があるのなら、それが今、この場所にあった、別たれた鳥居であると知っていた。
いなかった。嘘のように、静かだった。話している声も、足音も。全てが後ろへと、遠くなっていった。朱は、鮮やかだった。石段は、やがて、左へと弧を描く。両脇の木々が空を、木々の向こうを、隠す。次は右へ、再び左へ。鳥居と石段だけは、途切れず。
た、たた、た。
降りるひとがいた。顔は見えぬ。紺の着物、それはもっと地味な、着物、否、もっと地味な、ただ着ているだけの和装に、そして素足。黙して降りるそのひとは、一瞥もくれず、すれ違う。顔は見えぬ。
ふくらはぎの重みが消える。冷たかった光がそよ風となって、恐らくはそれが光だった、風が髪を濡らす。顔を上げればついに、鳥居の道は、真っ直ぐ、山の上へ上へと、伸びている。重なる朱に道の向こうを見通そうにも、先の色は朱に覆われて何も見えないし、見る必要もなかった。勾配は、明らかに急となった。石段は、一段一段が、高く、狭かった。ひび割れていた。ふと鳥居をみると、寄贈者の名前など彫られてはいない。
清らかな空気に、人の匂いは、しない。
それでも後ろ、何かがいた。悟って振り返った。下へ続いた鳥居の先、人の背丈よりも大きな、くすんだ肌色をした塊。鳥居の内側いっぱい広がって、やっとのことで通るその巨体が、柔らかく、しなやかに、石段を登ってくる。ゆちゃ、ゆちゃ。静かに響く音が、足音のそれと思う。
重みの消えた脚は、それでも尚、脚が脚であることを主張していた。これまで登った石段のぶんだけ、それよりも前、ここへ至るまでの道行きに使い続けられた脚の肉が、疎ましいほど、歩みを止めさせた。鳥居と鳥居の間、ほんの僅かな隙間に身を寄せる。息をする音が聞こえる。人の息をする音が、一人ぶん、している。脈の音が聞こえる。唾を呑む音が聞こえる。骨の軋む音、肉と肉が擦れる音、腸の蠢く音、瞼と瞼が触れあう音。
塊は、石段をゆったりと、ぬちゃ、ぬちゃ、と登る。登って、前を通る。目はあるのか、耳はあるのか、然し石段の進む先だけは知っているかのように、鳥居と鳥居の僅かな隙間に身を寄せた人間の身に、その柔らかな、しとやかな、肉のような肌のようなそれを押しつけながらも、ただひたすらに通り過ぎていく。覚えのある匂い。覚えのある匂いだが、然し正体は判らない。嫌な臭いではなかった。鼻のあたりにまとわりつくような、そんな匂いだった。後ろから見たそれは、皺だらけの表面を波打たせながら、ぬちゃ、ぬちゃ、と、鳥居の内側いっぱいに広がって登っていくのである。
呼吸の音がする。荒くなった後に落ち着いた息。
もう一歩、登り始める。休息は要らなかった。痛みは、消えていた。既に遠くを登る、先の、あれの後を追うかのように、次の、次の、石段を踏む。足取りは軽い。駆けだしたいくらいに。――駆けよう!
いつぶりか! 軽い、軽い、軽い! 視界の横を鳥居が流れる。数えることも出来ないくらい、鳥居たちが朱色が繋がって見えるくらいに! 先に追い越された肉塊を飛び越えた。鳥居の中、上すれすれを跳んだ。身を捩って、波打つ肌色を避け、その前へと降り、再び駆け登る。踏み外すことはない。赤い和傘が浮いていたから、すれ違いざまにそれを握った。赤は良く似合ってくれる。風はなく、駆けても駆けても傘はなびかず、連なる鳥居は朱の道となった!
「言葉が」
そう、声がした。
上へと続く道の先が青い夜空と見えたとき、白い、恐らく人間とすれ違ったと思う。ほんの一瞬に聞こえたそれが女の声だったか、けれども先のみを目がけ、駆ける、風、ごうと過ぎる気配一瞬のみ、しかし声だけが頭に残る。だから駆ける脚は止まった。いつまでも続く鳥居、その最後の鳥居の、丁度手前で、脚は止まった。
「言葉が通ずるのならば」
声。
女の。
すぐ、背後。
――!
叫んだ。発した。鳥居の向こう、青い夜空、星が瞬いている。求めて、一面が水。広がる波紋。手にした和傘を掴まれる。ぐいと引かれる。重い。傘を手放す。水面を求めて、前へ。いやしかし、振り返る間も与えられず、しかし、左腕を掴まれ、ぐいと引かれ、
――引くから、引いた。前に、引いた。後ろに引かれながらも、身体は、前へ。――
不意に軽くなった。支えはなかった。最後の鳥居を潜った。夜空の下、煌めていた。水面も夜空も、光の粒をばらまいたかのように、煌めいていた。こんなにも綺麗な空を、水を、初めて知った。知ったと同時に、波紋を割って、頭から水面へと突っ伏した。飛び込む音が響き渡る。水の中は、外よりも暗く、濃い群青に閉ざされている。静謐。心音だけ、群青に伝う。
底も見えぬ。
漂う。
沈む。
流される。
駆けた後だから、止まった。軽くなった身体が群青と溶け合って、包み込まれている。何の、音もしない。水面も水底も、鏡合わせのように銀の粒が煌めいて、前も、後ろも、何処までも群青。単一。委ねた身は眠るかのように漂うだけ。空(から)。伽藍。
漂っては消える。浮かんでは消える。沈んでは消える。消える。消える必要はなく、消える。消す。消すことすら、消える。
ここには、
もう
気紛れだった。
だから泳ぎたくて、腕を前に
前に、右腕。
前に、左腕が、前に出ない。どこにいったのか、肩口を見れば、そこから先に腕がない。
悲鳴を上げたつもりが、悲鳴も聞こえぬ水の中、然し、もがく。無くなった左腕は伸ばせず、右腕だけが水を掻く。前には進めぬ。もう一度、肩口を見た。暗い群青、それ以外は判然とせず、然し肩から先が無くなっていることだけは確か。前は何処だ。後ろは何処だ。上も下も、銀色の粒が散らばっていて、違う、前にも後ろにも、銀色の粒。星、泡、光。右手が掴む。掴んだ水。水の中で水を掴む。掌で水が砕ける。否、砕けたものは掌、右手。掴んだ水は右手。右手が右手を掴んでいた。そして右手が右手を砕いていた。群青の裡に、右手の残骸が融ける。あったはずの血も、骨も、肉も、総て、群青に染まって、群青になる。
振り回す、腕が振り回された。脚が宙を蹴った。手応えなどあるはずもない。動いているのか、止まっているのか、それすら、わからない。わからないこともわからない。聞こえず、見えず、果たして上も下も区別が付かず、急に頭が思考を始める。何かが来ることがわかる。振動している。迫ってくる。泳がねばならない。何処に、群青の中、それでも見えた銀色の粒。水面か、水底か。壊れた右手、失った左腕、軽く、軽くなった両脚、首、胸、腹、腰、あらゆる身体を波打たせる。しゃにむに目指す先に銀色が輝いている。巨大な波。群青を割る巨大な波動に打たれ、弾かれる。
慣れた群青の先、視界の端に、崩れた黒色があることに気が付いた。
重苦しい響きが、群青を支配する。黒色が蠢く。それは、恐らくは、人で、人だったもので、動いていて、
それは、よく目を凝らせば、群青に紛れた黒色は無数にあって、
銀色の粒が遠ざかる。反対に、もう片方へともがき、泳ぐ。残された全身を使って泳ぐ。
視界に横切る確かな形。遥かに大きな灰色の筒。鯨を連想させる。それが、大きな口を開けて、群青の中ですらはっきりと見える白い牙、崩れもがく黒色たちを、ひとつずつ、ひとつずつ、呑み込んでゆく。筒の先端が揺れる。きっと、咀嚼だった。その筒が大きく動くたび、波動に群青が揺れ動く。
ただただ、波動に飛ばされながら、銀色へ向かう。失くした手を伸ばす。爪先にぬるりとしたものが掠める。掠めたまま、蹴った。赤い傘。握ろうとして、手が失かった。だから縋りつく。残った腕を絡めて、その先へ、その先へ。
腕の先が当たる。水面を割った。青い夜空!
浮かび上がった顔、土くれ、そして鳥居。
腕を絡めていた傘を引っ張られる。群青の水面から脱した。地に転がった。起き上がろうと脚の先を見れば――見る前から薄々気が付いていたことだったが――笑っていた――脚の付け根から先が失われていた。残った身体は、大きな岩の欠片のような様となって重く重く、右腕だけを、やっとのことで傘から離した。青い夜空を仰ぎ見れば、白い女がこちらを、ただただ、表情無く、見詰めていた。
白無垢の女だった。あのときの女だと、一瞬遅れて、理解した。
美しい女だった。この世のものとは思えぬ美しい女。端正な顔立ち。黒く光る瞳。汚れを知らぬ白い肌。見える黒髪には一糸の乱れすら、ない。
その白い女の細い手で握っているものが、腕と、脚だった。その腕と脚は、余りにも見覚えのあるものだった。握られたその腕は、手を握っていた。左腕と、右手と、両足が、あった。
そのすぐ横を、あの、くすんだ肌色をした塊が、ぬちゃ、ぬちゃ、と這いずっている。鳥居を抜け、その塊は、静かに、群青の水面を割った。塊がゆったりと沈んでいく様を眺めていることしか出来なかった。
女は、転がったままのこの身体の脇に、左腕と、右手と、両足を置いた。綺麗に切断されたかのような断面をしていた。崩れたはずの右手も、元に戻っていた。先を失った右手首をその断面に擦りつけると、一瞬に縫い付けられるような痛みと共に、右手が戻った。右手の指たちが動いた。それから、どうにか、暗く閉ざされる視界をこじ開けながら、左腕を掴み、肩口へもってきた。やはり、痛みと共に左腕が戻る。そうすると、次は右脚を、最後は左脚を。
四肢を取り戻す間も、ちらほらと、鳥居を抜けたものが、水面へと身を沈めていた。地に転げ伏し、何度も暗転しかけた意識からは、はっきりとは確認出来なかったが、それらは、少なくとも、人ではなかった。生きている、人ではなかった。
青い夜空、静謐の水面を見渡して立ち上がると、それを見ていた女は口を開いた。
「言葉が通ずる人であるならば、どうか、この道をゆきなさい」
人形のような声だった。女は、手を横へ腕を伸ばした。
示された先には、灰色の、竹で出来た鳥居がある。その鳥居が、石段を下る先の先まで、ずうっと、続いている。
促されるままに、一歩、その鳥居を、潜った。
誰も、何もいない、下り道だった。と、とと、と、脈の音が耳の奥で小さく響く。両脚は重く、爪先は出血の痛みを訴えていた。鳥居の石段には、木と泥の匂いが漂っていた。
鳥居を下り続けると、間もなく、前方に、人の背中が二つ、目に見えた。話し声が耳に入る。
「神も仏もありゃしねって」
「じゃあどうして手を合わせてたんですか」
「そりゃあお前、もしいるんだったら願い事のひとつやふたつ、叶えてくれるかもしれないだろ。第一志望合格、って」
「願い事、なあ。あ、こっちは足腰の神様か。どうです、明日、筋肉痛にならないように、お願いしてみたら」
男二人は、そう、言い合いながら、脇の鳥居へ逸れていく。そちらからも、観光客の女の一団が、こちらの鳥居の道行きに混じる。一度、足を止めた。鳥居を振り返る。静かに、一列、弧を描きながら鳥居の並んだ先に、連れだって歩く男女が見えた。鳥居と木々の隙間から差し込んで来た光が暖かかった。長く吐き出される息が聞こえた。それが、私の息だった。帰るための駅の所在を、鳥居を降りた先で尋ねようと決めて、私が吐いた息だった。
鳥居の先 四葉美亜 @miah_blacklily
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