エピローグ 忘れないよ

「ほら、笑って」


 カメラの向こうで子供達が笑っている。

 二人の子供と、その間にしゃがむ魔法少女。ステージの屋根から零れる白い日差しが、三人の笑顔を柔らかく照らしていた。

 日曜日の朝に放送されている魔法少女アニメ。その姿を模したきぐるみと、その服にしがみついて笑う幼い姉弟。

 僕は彼らの真正面に座ってカメラを構えていた。

 キラキラと輝く笑顔が一枚の写真に切り取られる。


「いい写真」


 撮った写真を覗き込んで僕は笑う。

 春の香りがするそよ風が、僕の髪をそよそよと撫でていった。


 大学四年生、三月のことである。





「――――調子はどう、湊くん?」


 コトンと横に置かれた缶コーヒーに顔を上げる。カメラを確認する僕の横に、バイト先の先輩が座っていた。

 足を放り投げるように座る彼女は僕のカメラを覗き込む。ポニーテールがさらりと揺れて、僕の肩をくすぐった。

 いい写真、と彼女はさっきの僕と同じ言葉を言って微笑んだ。


「やっぱり君頼んで正解だった。うちの社員達よりも、カメラ上手いんじゃない?」

「本当ですか? それは、光栄だな」

「四月からも期待してるからね、湊くん」

「頑張ります」


 大学生になってからバイトをはじめた。

 将来はカメラの道を目指そうと決めていた。色々なバイトを探す中でカメラマンとして採用されたのが、このホークス編集プロダクションだった。

 仕事は激務で大変だったけれど、カメラを手に駆け回るのは本当に楽しかった。編集の手伝いもなかなか性に合っていたらしい。

 その職場は僕と相性がよかった。卒業後もぜひ働いてほしいと内定をもらい、春からそこで正式な社員として勤める予定だった。


 今日、僕が先輩と撮影に来たのは、駅前で開催される魔法少女ショーだ。

 子供向け大人気アニメの『魔法少女シリーズ』。屋外ステージで行われるショーや握手会のために遠方から来た子供達も多く、駅前は幼い声で賑わっていた。

 僕達以外にもカメラを下げた人の姿がいくつかあった。地元のローカルテレビ局のカメラマンや、近所の写真屋さんの人なども訪れているのだ。彼らははしゃぐ子供達と魔法少女の姿に、微笑ましそうにカメラを向けている。


「わぁ、すごい。お兄さんのしゃしん、ぜんぶきれい」

「ねー、ほかのしゃしんも見せてよ。ねぇねぇ」


 さっき写真を撮った子供達が背中に飛びついてくる。撮影時に少しおしゃべりをしたからか、懐かれたようだ。

 カメラを見せれば二人はお揃いの目を丸くさせて、楽しそうに写真をめくっていく。僕の横にぴとりとくっつく子供達を見て、仲良しだねと先輩が笑った。

 小さい子のお世話は不思議と得意だった。年下の子に懐かれることが多いのだ。何故かは分からない。僕には、妹も弟もいないのに。


「このお兄ちゃんは写真上手なんだよぉ。いつか、すっごい写真を撮って有名になるんだから。世間の注目を集めるようなやつ。あの流星群事件を超えるくらいの、すっごい写真」


 先輩が大きく手を広げて大袈裟に言った。子供達があんまりキラキラした目でこちらを見るものだから、僕は苦笑して肩を竦める。

 風が吹いた。温かい春の匂いに、ふと思い出す。

 あの事件が起こったのも。確か、三月の頃だった。



 楽土町流星群事件。

 それは今から数年前。僕が高校二年生の、三月の話だ。楽土町に流星群が降り注ぐという大災害が発生した。

 平和な街はたった一晩で半壊した。ボロボロになった建物や抉れた地面、高温に炙られた窓ガラスが散乱した道路……。犠牲者は多数。復興には時間がかかったし、今でも街のあちこちに流星群の爪跡が残っている。

 当時のテレビは連日流星群の話題でもちきりだった。華白というとある政治家が、崩壊した街を見て言っていた言葉を思い出す。

 まるで怪物が暴れたようだと。


 不思議と、僕はその日の出来事をほとんど覚えていない。

 あまりのショックなのか。流星群が降る前後の記憶が、何も残っていないのだ。

 奇妙なことに、市民全員が同じようにあの晩の記憶を失っていた。多くの犠牲者を出した災害だったはずなのに、多数の人が、その日何が起こったのかをよく覚えていないのだ。

 心因性の集団パニックのようなものだとテレビが何日も報道していたっけ。酷いショックが僕達皆の記憶を消したのだ。ここまで大規模なものは、なかなかそうあるわけじゃないけれど。

 気が付いたとき、僕は体中傷だらけで外に倒れていた。何故か近くにいた父さんも頭を怪我していて、母さんに包帯を巻かれながら不思議そうに首を傾げていた。


「流星群が頭にぶつかって、記憶がふっとんじゃったのかもなぁ」


 何も覚えてないや、と父さんはへらへら笑っていた。

 流れ星が頭にぶつかったことがある、と父さんは昔からよく冗談を言っていた。昔幼馴染とUFOを見たときも、同じように流れ星が頭に落っこちたことがあるらしい。

 だけどその日以来父さんはその冗談を言わなくなった。後日ちょっとした流れでそれを問えば、父さんは少し笑って、不思議なことを言った。

 その記憶が本物だったのかそれとも夢だったのか、今ではもう分からない、と。



「期待してください」


 僕はカラッとした声で言った。カメラを握り、遠くステージの上で子供と握手をしている魔法少女を見る。

 話題性抜群の流星群事件。あのとき以上の話題を撮れる写真なんてそうそうないだろうけれど、撮ってみたいとは思うのだ。

 今後の長い人生。奇跡みたいな写真が撮れることもあるかもしれないんだから。

 例えば、いつか本物の魔法少女が現れたりとか。

 例えば、いつか本物の怪物が現れたり、とか。

 なんてね。


「いつか、世界を変えるような写真を撮ってやるんだ」


 僕は強気に笑って豪語した。青々とした若者の、根拠のない言葉だと思われたかもしれなかった。

 だけどどうしてだか。僕はいつか、本当にそんな写真が撮れるだろうと、心の中で思っていた。

 僕はきっといつか、最高の写真を撮ることができる。

 世界を変える写真を撮ることができるんだ。


「そっか」


 先輩はそんな僕に微笑んだ。馬鹿にした声じゃない、強い信頼感のこもった声だった。

 穏やかな日差しが僕達の足元を照らしている。放り投げた足の先、隣の先輩がぶらぶらと揺らす靴の白色が、太陽光にキラキラと反射していた。

 先輩は楽しそうに目を細めて、僕のカメラに触れた。


「頼りにしてるよ湊くん」

「頑張ります。鷹さん」


 大学時代のバイト先、ホークス出版プロダクション。初出勤の日に『初めて』出会って仲良くなった鷹先輩は、ポニーテールを揺らして笑っていた。




「『魔法少女』に関する記憶は、彼女と共に消えた」


 喫茶店のコーヒーの香りを思い出した。

 高校の近くには喫茶店があった。香ばしいコーヒーの香りと、テーブルの木目にしみついた仄かな煙草の煙たさが、妙な懐かしさを抱かせる不思議な店。そこは僕の思い出の喫茶店だった。

 路地裏の静かな喫茶店。立地のせいか、いつ行ってもほとんどお客のいない店に入ったのは、高校三年生の秋。

 なんとなく立ち寄ったときに飲んだコーヒーが驚くほど絶品で、以来足繁くそこに寄ってコーヒーを飲むのが、放課後の小さな楽しみだった。


 マスターは寡黙な老人だった。だが時折ふと、思い出したように言葉を紡ぐ、不思議な人だった。

 その日も彼はカウンターでコーヒーに舌鼓を打つ前で、僕に聞かせるつもりなのか、自分自身に語りかけているのか、よく分からない雰囲気で言葉を吐き出していた。


「?」

「魔法少女、という存在に関わっていた人々の記憶は失われた。記憶はつじつまが合うように改ざんされ、人々は魔法少女と怪物という存在を世界から消した」

「…………」

「彼女の副作用は思いのほか広範囲に及んだようだ。これが最初から設定されていたものなのか、それともチョコの悪あがきなのかは分からない。君達の出会いも、最初からなかったことになった。なるほど、強制的な隠蔽だ」

「はぁ」


 僕は曖昧に頷いてコーヒーを啜った。

 マスターの黒マスクの下でくぐもったように発される小声に重なるように、しっとりとしたジャズが店内に流れていた。

 マスターはたまによく分からないことを言う。「実は私は宇宙人なのだ」とか「君とは以前に何度も出会ったことがある」とか。

 寡黙なのか、ひょうきんなのか分からない、ミステリアスな人だった。


「君達の物語は失われた」

「…………」

「だが、そこで終わりではない」


 コトリ、とマスターはグラスを置く。

 磨き抜かれたグラスの輝きに、ロマンスグレーのロマンチックな横顔が反射した。


「また縁ができることもある」


 カランと入店ベルの音が軽やかに響いた。

 振り向けば、二人の少女が入口に立って、不思議そうに店内を見回しているところだった。

 お互いの素振りから、友人同士のようには見えない。たまたまこの店が気になって、偶然来店のタイミングが重なった、他人同士だろう。

 喫茶店の穏やかな照明が、明るい金色の髪と、深い青みがかった黒髪を、明るく照らした。

 いらっしゃいませ、と言うマスターが。マスクの下で少しだけ微笑んでいるような気がした。




「よし、そろそろ休憩おしまい。頑張ろっか!」


 鷹さんの声に我に返る。僕の手の中で、ほとんどなくなっていた缶コーヒーが揺れた。香ばしい香りが古い記憶を呼び起こしていたらしい。

 激甘、と書かれたコーヒーを飲み干して僕は渋く笑った。しみるような甘さは疲労回復にはいいけれど、流石にちょっと甘すぎた。

 帰りは久しぶりにあの喫茶店に寄ってみようと思う。あそこのコーヒーは本当においしいのだ。危ない薬でも入れているのかと思うほど、中毒になる。

 まああの子は、喫茶店の苦いコーヒーよりも、こっちの甘いコーヒーの方が好きそうだけど。


「…………?」


 あの子って、誰だっけ。


「うーん、渋いなぁ……」


 撮影を再開した鷹さんが、カメラを覗きながらしわの寄った声を出す。どうも、納得のいく写真が撮れず苦戦しているようだった。

 彼女は情熱を注いでカメラを構える人だった。写真、映像、どれをとっても彼女の作品からは熱い思いが溢れ出してくる。そんな彼女の撮影を僕は心から尊敬していた。

 だが撮影時間には限りがある。しかめっ面で腕時計を見つめた鷹さんは、困ったように肩を竦めた。


「今日はもうちょっと粘ろうかな。湊くん、シフト少し伸ばせたりしない?」

「すみません。今日は友達と用事があって……」

「おっ、いいねぇ大学生!」


 残念ながら今日はこの後用事があった。友達と居酒屋で飲み会をするのだ。

 高校三年生のときに喫茶店で出会った子。千紗ちゃんと雫ちゃんという二人の女の子は、大学生になった今でも、仲良しの友達だった。

 プロのカメラマンを目指して写真を撮り続ける僕。大学に通いながら絵本作家を目指す雫ちゃん。フリーターとして働きつつ何本も映画を撮ってミニシアターで上映している千紗ちゃん。

 創作活動という共通の趣味を通して仲良くなった僕達は、定期的に会ってはお互いの夢を語り合う、仲間のような関係だった。


 大学生活も残り僅か。そう思うと、少し寂しくなる。勉学にサークルにバイトに励んだ四年間は、楽しい思い出ばかりが記憶に残っていた。

 毎週のように、大学の友人である涼とだらだらふざけた話をして笑っていた。失恋の話にサークルの話に失恋の話に失恋の話。卒業間近まで就職先が決まらず泣いていた彼が、この間ようやく内定をもらい、朝まで缶ビールを手にお祝いをして盛り上がったことを思い出す。

 高校時代の部長と写真の展覧会を開いたりもした。社会人になった今でも写真を続けている部長は昔より更に活動的になって、国内から海外まであちこちカメラを手に飛び回っている。この間会ったときも、今度は個展を開くのだと息巻いて楽しそうに話していた。

 大学生のときに再会した元恋人の祥子さんとは今もよく会う仲だ。高校卒業と同時にモデルとして働きはじめた彼女を雑誌やポスターで見かける機会は多い。……まあ恋愛禁止の事務所じゃないとは言え、一人暮らしをはじめたマンションに僕を誘ったり、たまに家に遊びに来たりするのはどうなのだろと思うけど。

 長期休み中に父さんと海外に行って写真の技術を学んだこともあった。僕にカメラの面白さを教えてくれた父さん。海外の美術館やら街並みやら絶景スポットやらを巡ってたくさんの写真を撮ったことは、今でも大切な思い出だ。父さんがカメラを構えるときの横顔を見て、いつかは僕もこんな風に写真を撮れるのだろうかと、わくわくした。

 忙しくも充実した四年間だった。目を閉じれば今も、溢れんばかりの思い出が色鮮やかに浮かんでくる。


「…………」


 ただ。

 ただ一つだけ。心の隅に残っている空洞がある。

 何か、やり残したことがあるような。そんな焦燥感が常に僕の心に渦巻いていた。それが何か。結局この四年間のうちに掴むことはできなかったのだけれども。

 僕は何かを忘れている。


「どうせなら、ヒーロー! って感じの写真が撮りたいよねぇ。かっこいいやつ」

「ヒーローですか?」

「うん。だって魔法少女って、ヒーローでしょ」


 鷹さんはカメラをいじくりながら唇を尖らせた。

 遠く、ステージの上ではショーを終えた魔法少女達が子供達と握手会を行っていた。親に付き添われた子供達が、興奮に頬を真っ赤にして、魔法少女と握手をして笑っている。


 ふと、シャッターチャンスを探してあちこちにレンズを向けていた鷹さんの動きが止まる。

 カメラから顔を離した彼女はぱちりと瞬いて、僕の服を引っ張った。


「ねえ湊くん」

「ん?」


 ショーステージの隅。はしゃぐ子供に手を引かれ、荷物を持つ暇もなく慌てて立ち上がったお母さんの椅子。置かれっぱなしのカバンに手を伸ばす男がいた。

 家族の人だろうかと思った。だが彼はサッとカバンから財布を抜き取ると、何事もなかったかのように立ち上がり、足早にその場を去ろうとする。


「あれってさ」

「ですよね」


 ぽかんと目を丸くした僕達は顔を見合わせ沈黙した。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、また揃って男の方に顔を向ける。


「どろぼう!」


 叫んだのは子供達だった。僕達と同じ光景を見ていた彼らの声が、甲高く周囲に響き渡った。

 会場がハッと静まり返る。声につられた人々が、バチッと目を丸くして男の方を見た。

 男は一瞬体を硬直させた。ギクリと青ざめた目が周囲と、声をあげた僕達へと向けられる。

 そして直後。男は全力で逃げ出した。


「あっ! に、逃げちゃう」

「こらぁ、まてぇーっ」

「あっ、ちょっと……」


 幼い姉弟がわっと駆け出した。一瞬虚を突かれた僕と鷹さんも、慌てて子供達を追いかける。

 勇敢に泥棒を追う二人の目はキラキラと輝いていた。危険も恐怖もその目には浮かんでいない。ステージの魔法少女に感化されたのかもしれない。悪をやっつける彼女達の姿に、勇気を動かされたのかもしれない。

 ステージの上で他の子供達も飛び跳ねていた。姉弟を見て、わくわくと目を輝かせている。精一杯の幼い応援が、会場中に響き渡っていた。


「いけーっ!」

「魔法少女、敵だよ。逃げちゃう」

「魔法でやっつけてよ!」


 幼い声援に、魔法少女達は困惑したように顔を見合わせていた。おろおろと狼狽える彼女達に、子供達の無邪気な声が飛んでいく。

 無理もない。ただの一スタッフである彼女達が窃盗犯を捕まえるのは、あまりに危険すぎる。無理に飛び出して子供に危険が及んだら、最悪だ。


「このっ」


 ぐんっと僕は足を前に投げ出すように走った。全力で駆け抜ける。鷹さんよりも、子供達よりも前に出た。

 だが、それ以上男に追いつけない。ガチャガチャと機材を揺らす鞄が重たく背中を引っ張っていた。頬にじわりと汗を滲ませて、僕は眉根を寄せる。

 くそ、追いつけない。このままじゃあ逃げられる――――、


「っ」


 咄嗟に、カメラを構えた。額から流れた汗が目にしみたが、唇を噛んで瞬きを堪える。

 せめて姿だけでも写してやる。鮮明な証拠写真を警察に渡すのだ。そうすればきっと後で捕まえられるだろう。僕の写真の腕をなめるなよ。

 逃げていく泥棒の姿をレンズに収める。呼吸を止めて、シャッターボタンに指をかける。

 子供達の声援がぶわっと膨れ上がった。


「まけるな」


 大勢の子供達の声が重なった。その瞬間だった。

 ピンク色の髪が空になびいた。


 ステージの上。魔法少女を撮るカメラマンの集団から飛び出した、一人の女性。

 彼女の首にはカメラが揺れていた。その右手には、咄嗟に魔法少女から借りた魔法のステッキが握られていた。

 彼女はステージを駆け抜ける。ぽかんとする大人達の目の前で、笑顔をきらめかせる子供達の目の前で。

 高いステージの上から。彼女は、思いっきり飛んだ。



「がんばれ、魔法少女――っ!」



 子供達の大きな声援の中。僕が構えるカメラの前で。

 彼女が握った魔法のステッキが、泥棒の頭に、まっすぐ振り下ろされた。



「わあぁっ」


 飛び降りた彼女はそのまま泥棒と一緒に地面に転がった。

 並んでいた椅子がバタバタと崩れていくものだから、僕は慌てて彼女の元に駆け寄った。


「だ、大丈夫ですかっ!」

「うぅ……。す、すみません」


 手を掴んで引っ張り上げる。ふらふらと目を回す彼女を支える拍子、ふと目に入った彼女のシャツの胸元に、見知った写真屋さんのマークが入っていることに気が付いた。高校付近にある馴染みの写真屋さんだ。

 しばしふらふらしていた彼女は突然ハッとしたように目を見開く。足元を見れば、彼女が飛びかかった男は目を回して伸びていた。

 ワッと沸いた拍手に僕と彼女は肩を跳ねた。気が付けば、周囲の人々がこちらに拍手を向けているのだった。勇敢に泥棒に飛びかかる彼女があまりにもかっこよかったのだ。

 湧き上がる称賛に、けれど彼女はみるみるうちに顔を真っ赤に染めていく。弾かれたように僕を見上げた彼女は、握っていたステッキを僕の手に押し付ける。


「ご、ごめんなさいっ! 失礼します!」

「えっ。あの…………」


 魔法のステッキと財布を僕に渡した彼女は、逃げるようにその場を走り去った。声をかける間もなく一瞬で。

 ぽかんと彼女の背を見送る僕の元に、追いついた鷹さんと子供達がふうふう息を切らしながら寄ってきた。と、姉弟のお姉ちゃんの方が僕の手を強く握る。


「ねえ」

「ん、どうしたの?」


 僕はしゃがんでその子の顔を覗き込んだ。汗ばんだ額に髪を張り付かせ、ふうふうとまだ熱い呼吸を繰り返して、頬をピンク色に染めたその子。

 顔の赤らみが、ただ走っただけじゃないことは、大きく輝く瞳を見れば分かった。


「お姉ちゃん、かっこよかったねぇ!」


 その瞳はまるで。星空を吸い込んだかのように、キラキラと感動の光をたたえているのだ。

 まるで、本物のヒーローを間近で見たかのように。


「魔法少女みたい!」


 少女は輝く笑顔を浮かべて言った。

 僕はそんな幼い笑顔を見て、ふっと静かに微笑んだ。


「……そうだねぇ」


 きっと本当に、この子の言う通りだなと、そう思った。



 ばいばーい、と子供達は迎えに来たお父さんとお母さんに手を引かれて帰っていった。

 スタッフや警察から軽い事情聴取を受けた後、僕達はベンチに座って揃いの溜息を吐いた。背骨が疲労に軋む。まさかのハプニングに胸がドキドキして、妙な高揚感が残っていた。


「そういえば湊くん。さっき写真撮ってなかった?」

「あ、そうでした」


 背もたれに預けていた背中をぐっと前に屈めて、僕はカメラを覗き込む。さっき撮ろうとしていた泥棒の写真がどうなっているか、確認しようと思ったのだ。

 もう必要はなくなったけれど。上手く撮れていたら、警察の人の手助けになるかもしれないし。

 ボタンを押して操作する。画面が切り替わり、撮影した写真のデータの中から、探していたその写真がパッと表示される。

 僕は、息を呑んだ。


「わ」


 横からカメラを覗き込んでいた鷹さんが目を丸くした。

 彼女は一度息を吸い込んだ後、わあっと子供っぽい歓声をあげて手を打った。


「そうだよ、これだよ! 私が撮りたかった、ヒーローって感じの写真!」


 鷹さんがバシバシと僕の背中を叩く。だけど僕は、返事もせずにただ茫然と写真を見つめていた。

 言葉が出てこなかった。

 喉が詰まって、呼吸さえもできなかった。


 そこに映っていたのは。泥棒に飛びかかる瞬間の、あの女性の写真だった。

 ピンク色の髪が空になびいている。シャツの裾を膨らませて、魔法少女のステッキを手に、全力でステージから飛んだあの子の写真。

 それは子供達や鷹さんが言うように、本当にヒーローのような写真で。

 まるで……。まるで、本物の魔法少女みたいだった。


「いいね。この写真、バッチリ話題になりそうだよ! 早速持ち帰って……あ、でも本人に許可もらわないと」

「……………………」

「あの子どこに行ったのかなぁ。ねえ湊く、」


 鷹さんの言葉が途中で途切れる。こちらに顔を向ける鷹さんの目が、驚愕に見開かれていた。

 僕が、泣いていたからだ。

 無言でカメラを見つめる両目から。大粒の涙があふれていたからだ。


「ど、どうし」

「……鷹さん」

「うんっ?」

「僕、あの子に許可を取りに行ってきます」

「えっ。あ、うん? ……行ってらっしゃい?」


 僕は鷹さんに荷物を預けて立ち上がった。ふらりとおぼつかない足取りで歩き出して、少しずつ早歩きになって、すぐに僕は、地面を蹴るように走り出した。

 体は燃えるように熱くなって、心臓がドクドクと脈打って、呼吸はあっという間に苦しくなって。それでも足を止めることはしなかった。そうしている間にも涙は溢れて。僕は何度も袖で乱暴に目元を拭った。

 首から下げたカメラを一つ、それだけを持って僕は走る。


 ああ、そうだ。写真だ。

 僕は昔からいつもカメラで写真を撮り続けていた。その瞬間の思い出を、一枚の紙に切り取ることが何よりも大好きで。

 色んなものを撮った。

 家族を、友人を、大切な人達を、大好きなものを。

 君を。


 僕は、ずっと忘れていた。




 ――――忘れないでね。



 ――――ずっと、ずっと、私を覚えていてね。



 ――――約束よ、湊先輩。




「忘れないよ」



 いつだって、写真だった。

 僕と君の物語は、写真からはじまった。



 何枚も、何十枚も、何百枚も写真を撮った。君の写真を、君が変身した写真を。

 何度も何度もシャッターを押した。そうして山のように積み重なった思い出は、すべて消えてしまって、もうこの世には残っていないけれど。


 たった一枚を見れば思い出すのだ。その写真を撮った瞬間の、温かな温度も、優しい匂いも、明るい光も、繋いだ手の感触も、そのときに感じていた感情だって、全てを。

 忘れたって、何度でも思い出す。

 そしてもう二度と忘れないように、僕はこれからまた、何度も君にカメラを向けるんだ。


 写真っていうのは。きっと、そういうものだろう。



「あ」


 そよ風に、僕は足を止めた。

 息を切らして顔を上げた先。風になびく黒髪の中で、僕は目を大きく見開いた。

 建物の間を縫って出た先は広場だった。柔らかな草が敷かれた緑の上に、見渡す限りの青空が広がっている。どこまでも鮮やかな色だった。息を呑むほど透き通った青い、青い空。


 彼女はそこにいた。

 草むらの上に座って。カメラを覗き込んで、広い空を撮っていた。


「…………」


 緊張に痺れる指先を握った。心臓が激しく脈を打つ。

 声をかけようと思ったのに、喉が詰まって言葉が出てこない。

 そうしているうちに、写真を撮り終わった彼女が立ち上がる。ズボンに付いた草を払って彼女はそのまま振り向かずに歩いていこうとする。


「ぁ」


 無防備に出した声は掠れていた。そんな小声じゃ彼女には届かない。

 僕は無理矢理息を吸った。ドクドクと込み上げる感情が頭を熱くして、涙が滲んだ。


「あ……、」


 ボロッと一粒の涙が足元に落ちる。その瞬間、僕は勢いよく駆け出した。

 草の上を駆け抜け、一気に息を吸い込んで、涙に濡れた声を張りあげる。


 思い出したよ。

 覚えているよ。

 忘れないよ。


 僕は、君のことを忘れない。




「――――ありすちゃん!」




 ピンク色の髪が風になびいた。

 僕の声に、彼女が振り向いた。

 明るいブラウンの瞳が日差しを浴びて、一瞬だけ、ピンク色に輝いたような気がした。


「っ」


 突然駆け寄ってきた僕に、彼女は硬直していた。ゲホッと咳き込む僕に真ん丸の茶色い目を向け、パチパチと瞬く。


「え、あ」

「……ゲホッ」

「大丈夫ですか、あの」

「…………」

「……えっと」


 彼女の戸惑うような指先が僕の肩に触れた。何とか息を整えて、僕はゆるゆると顔を上げる。彼女の顔を真正面に見つめる。

 そして、彼女の瞳に浮かぶ困惑の色に、心臓が張り裂けそうなほどの悲しみが沸き上がった。


「誰、ですか?」


 彼女は何も覚えていなかった。

 その瞳は、どう見ても僕のことなど覚えてはいなかった。

 僕が呼んだ彼女の名前にさえ反応してくれなかった。

 何一つ、彼女の中には、僕のことなど残ってはいなかった。


 どこかで会いましたっけ、と彼女は困ったように笑う。それはどこまでも他人行儀な笑顔で……。優しい表情であるのに、僕の心は、突き飛ばされたような冷たいショックに沈む。

 脳味噌の奥が痺れるように震えて、僕は片眉を顰めるように笑った。


「は、」


 僕の片目から小さな涙が一つ零れ落ちた。

 咄嗟に押さえようとしたものの意味はなく、ボロボロと大粒の涙が両目から零れ落ちていく。拭っても拭っても涙はちっとも止まる気配がなかった。


「あ、あの?」

「……っ。…………ぅ」

「えっと……」


 唇を噛んで押し殺しても、押さえきれない感情が小さな嗚咽となって零れていく。胸の奥が熱くて熱くてたまらなかった。

 彼女が困惑したように目を丸くした。僕の肩に手を置こうか、背中をさすろうか、迷うように空中に手を泳がせる。

 僕は涙の中でそんな彼女を見た。

 そして、泣きながら笑って、彼女に問いかける。


「…………何を、撮ってるの?」


 尋ねたのはただそれだけだった。

 彼女はぱちりと目を丸くして。戸惑いの残る小さな声で、ぽそりと答える。


「……空を撮ってるの」


 僕はそれを聞いて思わず笑った。

 だって、同じだったから。

 僕達。はじめて会ったときも、同じような会話をしたっけ。


 ズッと鼻を啜る。涙が零れないように空を見上げて、鮮やかな青さに目を細める。

 涙が出ないように片目に力を込めて、僕はさっぱりとした声で彼女に語る。


「僕もカメラマンなんだ。君と同じ。今日も、写真を撮りに来たんだよ」


 僕が差し出したカメラをおずおずと覗き込んだ彼女は、途端にパッと顔を輝かせた。

 写真を愛する者同士、一枚の写真を見れば通ずるものがある。僕が撮った風景写真や人物写真を見て、彼女の表情はとろけるように緩んでいった。

 写真を眺めていたその眼差しが、ふと一枚の写真に止まる。

 彼女の瞳がキラキラと輝いて、頬が薔薇色に染まっていくのを見て、僕は胸の奥がジンと痺れるように熱くなるのを感じた。

 魔法のステッキを持った彼女が飛んだ瞬間の写真。それは誰が見たって笑顔になれる、最高の写真だった。


「君はまるで、ヒーローみたいだった」


 全部、教えてあげたかった。

 名前も、家族も、友達も。過去を全て、教えてあげたかった。

 思い出してよ。忘れないでよ。

 君が言ったんじゃないか。僕達に、そう願ってくれたんじゃないか。


「それに…………」


 言いたいことがたくさんあった。

 君に教えたいことが山ほどあった。


「……本物の魔法少女みたいだった」


 だけど、僕は君に何も言わなかった。


 たった一枚の写真に焼き付いている。

 キラキラと輝く魔法のステッキ。それを大きく振りかぶって、空に飛びあがる君の姿。

 あのとき響いた子供達の声がいまだに耳に残っている。


 頑張れ、魔法少女。


「僕は今日。魔法少女を撮りに来たんだ」


 僕の言葉に彼女はパチリと一つ瞬きをして。それから、少し照れたように笑った。

 明るい日差しの下で。彼女の優しいピンク色の髪が、甘やかな香りと共に風に揺れた。

 その笑顔がなんだかあんまりにも綺麗で。僕はつられて、彼女と一緒の顔をして笑った。



 無理に思い出さなくたっていい。

 いつか不意に、自分の名前を思い出してくれでもしたら、それでいい。

 だからそれまでは。

 僕は君の隣で、写真を撮り続けるんだ。


 世界が二度と君を思い出さなくても。

 僕だけは最後まで、君のことを忘れないよ。



「あの」

「うん?」

「……よかったら、一緒に写真を撮りませんか」


 透き通るように晴れ渡った青空の下。

 カメラを持った僕と彼女は、互いの顔を見つめて微笑んだ。



 世界が君を忘れてしまっても。君が全てを忘れてしまっても。

 これから先の未来を写真に残していけばいい。


 僕達もう一度、友達になろう。

 一緒にたくさんの夢を撮っていこう。


 ねえ、ありすちゃん。


「笑って」


 僕が向けるカメラの中で、彼女は優しく微笑んだ。

 それは、涙が出るほど幸せな笑顔だった。





 僕は、シャッターを押した。

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変身しないで縺ゅj縺ちゃん 夜明 @blue_sky_77

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