最終話 魔法少女、ありすちゃん

『……………………』


 世界が沈黙していた。

 ヒビが入った大型ビジョンにノイズが走り、各避難所に繋がった映像が流れだす。

 人々が持つ携帯やリポーターの持つカメラを通した映像が、巨大な画面に映し出されていた。

 誰もが絶句していた。身を寄せ合っていた家族も、痛みに呻いていた怪我人も、楽土町の現状を伝えていたリポーターも、誰もが白い顔で、画面を見つめていた。

 私達を、皆の怯えた瞳が見る。

 崩壊した展望台に立ち尽くす恐ろしい姿の怪物を。瓦礫の上に転がる魔法少女だった女の姿を。


 魔法少女の正体を知って。世界を守ってくれる救世主はいないと、皆が悟った。

 ヒーローはどこにもいなかった。


「…………」


 画面にまたノイズが走る。

 映像が切り替わり、そこに映った光景に、私は僅かに眉根を寄せた。


 街中の道路を映したものだった。街角監視カメラに繋がったそれは、流星群の嵐から、必死に逃げ惑う人々の姿を撮影していた。

 空から落ちてくる流星群は空中で散らばって、眩い光となり街に降り注ぐ。

 燃える花壇やボロボロに抉れた道路を走り抜ける人々は、体のあちこちに傷を作って、必死の形相で逃げていた。


『だれか。お願い、だれか……』


 若い女性の腕に幼い子供が抱かれている。

 母の手から流れる血に頬を濡らした子供は、丸い目を大きく見開いて、燃える街の惨状に泣いていた。

 涙に濡れたその子の声が、画面の向こうから聞こえた。


『たすけて!』


 私にはまだやることがあった。

 ママのように称賛されなくても。皆から最後まで嫌われる存在であったとしても。

 まだ、すべきことがあるのだ。



「――――ありす」


 ザラリ、と砕けたガラスのようなざらついた声が、私の背後から聞こえた。

 震える手が私の腕にしがみ付いた。白魚のようだった手はぬるい血にまみれていて、ピンク色の爪の先端が私の分厚い皮膚を引っ掻く。

 振り向けば、そこにはママの顔があった。鼻血で顔中を真っ赤にして、目尻を大きく腫らした顔は、歪んだ表情で私を見つめていた。

 足は小鹿のように震えているのに。ママは私に縋りつくように立っていた。


「何をするつもり」

「荳也阜繧貞ョ医k縺ョ」


 世界を守るの、と私は言った。言葉は通じない。けれど私の表情で、ママはその意図を読み取ったようだった。

 は、とママは湿った声で笑った。ごぷっと溢れた血が口周りを真っ赤に汚す。


「最後までママの邪魔をして。本当に酷い娘……」

「ッ」


 ぬるい血が私の皮膚を滑る。緩慢に伸びたママの手が、私の首に触れ、ぎゅうっと力を込めてきた。

 怪物の太い首に、魔法少女の細い指は回らない。力だってほとんど入っていない。呼吸が苦しくなることはない。

 それなのに。喉がどうにも詰まって、胸の奥が熱かった。


「あなたは世界を守れない。だって、ただの怪物なんだから」

「…………」

「醜いだけの。誰からも拒絶される、恐ろしい怪物なんだから……」


 ぐ、とママの指先に再び力がこもる。

 その手を。横から伸びてきた誰かの手が力強く払いのけた。


「怪物を悪く言うな」


 湊先輩が私達の前に立っていた。

 ボロボロになった片手にカメラが握られている。風に揺らぐ前髪の隙間から、鋭い眼光が光って、ママを見つめていた。

 ママは一瞬虚を突かれたように彼を見つめた。そして一転、じわりと不快感に顔を歪め、血が絡みついたしゃがれ声で毒を吐く。


「本当のことでしょう? 私は、そのために怪物ありすを作ったのよ」


 魔法少女の引き立て役。『世界から嫌われる敵』にするために、ママは私を産んだ。

 だから私の見た目はこんなにも恐ろしい。真っ黒な体は恐ろしい、うねる触手は気味が悪い、放たれる攻撃は全てが狂暴だ。

 百人が見れば九十九人は、悲鳴をあげて逃げ出すだろう。

 だが、ここには残る一人がいた。


「――――僕は怪物が好きだ!」


 湊先輩の張り上げた大声がビリビリと空気を震わせた。

 ママがぎょっと目を丸くする。私までもが思わず体を竦めるほどの大声だった。

 構わず、湊先輩は叫んだ。滾る感情をぶつけるように、熱い声を裏返らせて、空に大声を叩きつける。

 湊先輩は鋭い目でママを睨みつけていた。怪物を馬鹿にされて、黙ってはいられなかったのだろう。

 彼は怪物が大好きだから。


「力強い鞭のような触手が好きだ。したたり落ちる粘液の美しさが好きだ。コンクリートを簡単に砕く怪力が好きだ。獣よりも獰猛に駆け抜けるスピードが好きだ!」

「…………な」

「血のように赤くて長いその舌に繧ュ繧ケがしたい! 僕の拳よりも巨大な瞳を闊舌a縺溘>! その体を抱きしめて、粘液に貅コ繧後※しまいたいし、逑カ縺ォ縺、繧√※鬟イ縺ソ蟷イ縺励◆い! 更に言えば■■■したい!」

「…………きっ」


 気持ち悪い、とママが透明な声を出す。

 ママのヒールが怯えたように一歩下がる。折れかけのヒールが、カコン、と瓦礫にぶつかった。

 突然暴露される湊先輩の欲望にママは動揺していた。顔を真っ赤にして叫ぶ湊先輩を前に、視線を泳がせる。滲んだ汗が一つ頬を流れて、こびりついていた血を落とした。

 私も理解しきれないところはあるけれど、湊先輩の怪物に対する熱意は、誰よりも深く強い。

 湊先輩は、心の底から怪物を愛してくれていた。


「あなたが魔法少女を思うのと同じくらい……いいや。それ以上に! 僕は怪物を愛しているんだ!」


 湊先輩は怪物が好きだ。それは初めて会ったときから、そうだった。

 彼のカメラを見せてもらったときのことを覚えている。怪物のフィギュアを撮った写真が何枚もあったこと。それを尋ねたとき、彼が顔を真っ赤にしていたこと。あまり理解されない趣味なのだと恥ずかしそうに笑っていた顔も。

 素敵な写真だと伝えたとき。彼が本当に、嬉しそうに笑っていたことも。


「だ、だから何よ。あなたが怪物を好きだからって、それが何だって言うのよ」


 ピンク色の眼差しが僅かに潤んでいた。目の前の少年に対する僅かな怯えからだろうか。湊先輩の凄まじい熱意は、確実にママを圧倒していた。

 彼はすぅっと熱く息を吸う。だから、と吐き出した彼の声は少し震えていた。


「僕は皆とは違う怪物の写真を撮ることができる」

「皆とは、違う写真?」

「恐ろしい怪物の写真じゃない」


 す、と彼が持ち上げたカメラが私を見つめた。レンズに反射する淡い光の色に、私は一度だけ瞬きをする。

 大勢の人にカメラを向けられてきた。街で戦う私の姿を、たくさんのカメラや携帯が何度も撮ってきた。世間に出回る怪物の写真はどれも残酷なほど恐ろしかった。私自身も顔を背けたくなるような、酷い写真ばかりだった。

 レンズの向こうに見えていた彼らの目は、全て恐怖に歪んでいた。

 けれど今。カメラの向こうに見える湊先輩の瞳には。ただ、ただ、深い愛情だけが輝いていた。


「僕は怪物を愛している。だから――」


 湊先輩はもう一度言った。

 彼の指が、シャッターを押した。


「愛される怪物の写真を撮ることができるんだ」


 その瞬間。

 空中にぶわっと広がった何枚もの写真が、強風に吹かれて、空へと散らばった。


「…………は?」


 ママがきょとんとした声をあげる。見開かれた大きな目に、街へ散らばっていく何百枚もの写真が映し出されていた。

 湊先輩の周囲に、どこからともなく写真が現れては空中に散っていた。

 魔法の光と共に発生したそれは、まるで雪のように白く舞って、街中に降り注いでいく。

 幻想的な光景だった。あまりに現実味がない光景の中、ぽかんとそれを見つめていた私は、ふと遠くにいるマスターを見やる。

 彼の手がパチパチと光っているのが見えた。白い光をまとうその手を見て、彼の力だ、と理解する。

 私達が繋いだUSBの力を借りて、マスターがこの現象を引き起こしているのだと知った。


 次から次へと現れる写真は、風に乗って街中へ運ばれていく。ひら、とそのうちの一枚がママの足元に落ちた。

 その写真を見て、ママの目が僅かに見開かれる。


「あ」


 怪物が笑っていた。

 写真の中で、千紗ちゃんと雫ちゃんに挟まれて、怪物が嬉しそうに笑っていた。


 それは、これまで私達が皆で撮った怪物の写真だった。

 『恐ろしい怪物』というイメージを払拭させるため、イメージアップのために、皆で撮った怪物の写真。

 木漏れ日の下で寝転ぶ怪物。晴ちゃんを背に乗せて遊んでいる怪物。生クリームで口中をべたべたにしてケーキを頬張る怪物。祥子さんにメイクをされて笑われている怪物。澤田さんと黒沼さんとトランプをして遊んでいる怪物。……、…………。

 優しい写真ばかりが空を飛んでいた。恐ろしい写真なんて一枚もなかった。見ているだけで頬が緩む、幸せな写真だけがここにあった。

 愛されている怪物の写真だった。

 それを撮ることができたのは。湊先輩が、怪物を好きだから。


「皆に怪物を好きにさせてやる」


 ズ、と湊先輩は鼻を啜って言った。写真を見つめて茫然としているママを鋭い目が貫く。

 写真は散らばっていく。それは過去のものばかりではなく、現在の、聖母様と戦っているときの瞬間を写したものもたくさんあった。

 市民達を守ろうとする怪物の様子がハッキリと写っていた。千紗ちゃんが変身した魔法少女イエローが、雫ちゃんが変身した魔法少女ブルーが、街を、世界を守ろうと必死に戦っている瞬間がそこに切り取られていた。

 戦いの最中も湊先輩は写真を撮っていたのだ。私達の雄姿を皆に伝えるために、誤解を解くために、カメラという武器を手に彼なりの戦いをしていたのだ。

 どの写真も、いい写真だった。


「僕の写真で、世界を変えてやる!」


 バチッ! と音がして大型ビジョンから火花が散った。

 画面が真っ暗になって、とうとう壊れたのかと思った次の瞬間、瞬きをするように明るくなった画面からまた映像が流れだす。

 

『――――ありすちゃん』


 あ、と私は小さな声を出した。

 ビジョンに。私の顔が映っている。

 怪物の姿じゃない。それは制服を着た、人間姿の姫乃ありすだった。


『ねえねえ、帰りにお菓子買って帰りましょ』


 スキップをして弾む私の髪が、夕日のオレンジ色に照らされていた。柔らかそうな頬を緩ませる私の腕の中で、チョコがふわふわピンク色の毛を膨らませて笑っていた。

 この日のことは覚えている。千紗ちゃんのカメラで、怪物の映画を撮った日のことだ。撮影後もおまけで撮っていた映像が今、ここに再生されているのだ。


『だめだよありすちゃん。お腹いっぱいになったら、夕ご飯が入らなくなっちゃうよ』

『は! 今日はママのカレーなの。お腹を空かせておかなきゃ……!』

『ふふ。うん、そうだよ。早くお家に帰ろう』


 映像の中で、湊先輩が笑っている声がする。千紗ちゃんと雫ちゃんも笑って、ピンク色のチョコの毛が風にそよそよと揺らいでいた。

 皆が笑っていた。その中で私も笑っていた。


 たった数ヵ月前の映像だ。それでも、随分と懐かしい気がした。あの頃に戻りたいような気がして、不意に目の奥が熱くなる。

 ビル壁のビジョンや携帯の画面がパチパチと光って、全ての画面に私の顔が流れていた。

 ただただ、まっさらに幸福だったときの私の姿が、全国民の目に映っている。


『千紗ちゃん。今日、映画見に行かない? 今、魔法少女の映画やってるんですって』

『いいけど、それ見るならあたしが見たいのにも付き合えよ』

『二作品連続! 素敵。何が見たいの?』

『最恐ホラー映画』

『おやおやおや……』


 千紗ちゃんと何度か映画を見に行ったことがある。

 ホラー映画で怖くて泣いて、恋愛映画で感動して泣いて、魔法少女の映画で興奮して泣いていた私を彼女はいつも笑っていた。

 いつも二人で買っていた、甘く香ばしいキャラメルポップコーンの香りを、私は今も覚えている。


『雫ちゃん、雫ちゃん。次はこの子を描いてほしいわ!』

『えっと……魔法少女リボンちゃん? 可愛い子だね。勿論いいよ』

『わぁい。私ね、雫ちゃんの描いてくれる魔法少女のイラスト、大好きなの』

『ふふ、嬉しい。頑張って描くよ』


 雫ちゃんに魔法少女のイラストをねだって描いてもらったことがある。

 パパもママも私も、あまりお絵描きは得意じゃなくて。魔法のように可愛いイラストをぽんぽんと生み出せる雫ちゃんはとてもかっこよかった。

 彼女からもらったイラストはまだ大事にとってある。引き出しのノートを開ければ、そこには可愛い魔法少女のイラストが何枚も描かれているのだ。


『新しい雑誌を出したんだけど、また怪物特集を組んでもらっちゃったの! ね、ね、ありすちゃん。読んでみて。感想を聞かせてちょうだい!』

『ありすちゃん、口にクリームついてるよ。ううん、そっちじゃなくて。ほら取れた。まったくヤクザに口を拭かせるなんて、いい女だな、君は』

『なぁにありすちゃん。俺の吸ってる煙草が気になるの? 一本吸ってみる? ……はは、冗談。君がもう少し大人になったらな』


 鷹さんが喫茶店のテーブルに身を乗り出して話しかけてくれる。澤田さんが苦笑しながら私の頬をハンカチで拭ってくれる。紫煙の香りをまとわせる黒沼さんが私に顔を近付けて微笑んでくれる。

 映像を見るうちに思い出が鮮明によみがえってきた。

 苦いコーヒーの香りやココアのとろりと濃厚な匂い、古びた紙の甘い香りまでもを鼻孔に感じる。窓から差し込む日差しに照る、鷹さんの飾り気のない丸く綺麗な爪の形。煙草の煙に白く隠れる、ツンと尖った澤田さんの鼻筋。私の頬を優しくなぞる黒沼さんの指先の体温。

 そういった小さな記憶がよみがえって、私の心をくすぐっていく。


 雫ちゃんが作った絵本の一ページが流れていく。千紗ちゃんの撮った怪物映画のワンシーンが流れていく。

 夜更けまで手伝いをして眠ってしまった晴ちゃんに上着をかける祥子さんが、コーヒーを差し入れしてくれたマスターの姿が、お菓子をお腹いっぱい食べてふくふく笑うチョコが、次々と画面いっぱいに流れていく。


『ありすちゃん』

『はぁい』


 私の名前を誰かが呼んでいた。そのたびに私はキラキラと目を輝かせて、元気いっぱいに返事をしていた。

 画面の中で。皆に話しかけられる私はいつも笑っていた。

 ピンク色の髪を揺らして、頬を明るい薔薇色に染めて、ピカピカと幸せそうに笑っているのだ。


 ありすちゃん、とまた誰かが私の名前を呼んだ。

 画面が揺れる。誰かが持ち上げたカメラの前に、魔法少女のような衣装を着た私がちょこんと立っていた。魔法少女をテーマにした作品を作ったときのものだった。

 私はピンク色の衣装を着ていた。演劇部の人からいらなくなった衣装をもらって、切って簡単に縫い合わせただけの、魔法少女もどきの衣装だ。手にもったステッキも、百均で買ったおもちゃに色を塗っただけのもの。

 そんな稚拙な魔法少女の格好をして、それでも私は楽しそうに笑っていた。

 本物の魔法少女になれたみたいに、幸せそうに笑っていた。


『私、姫乃ありす。十五歳の可愛い女の子』


 魔法のステッキなんてもらえなかった。

 可愛いドレスなんて着れなかった。

 素敵な魔法も、仲良しの妖精さんも、皆から愛されるカリスマも。私はなぁんにも持っていなかった。


 それでも。

 ああ、それでも。


『魔法少女を夢見る女の子なのよ!』


 画面の中でそう言って笑う私は。確かに、魔法少女だったのだ。



 パチン、とまた画面が切り替わる。映像から私が消え、再度映し出されたのは街の人々の顔だった。

 避難所で、街角で、家の中で、さきほどの映像を見ていた人々の顔がそこに映っていた。

 沈黙はまだ続いていた。皆が息を詰めて映像を見つめていたのが分かるほど、張りつめた静寂だった。

 彼らは私の映像を見たのだ。私達で撮った、怪物の映像を。私達が撮った怪物の映像を、姫乃ありすの写真を。

 大きく目を見開いて固まる彼らの中。あまりに重たい静寂の中で。

 その幼い声は、よく通った。


『――――がんばれ』


 女の子が一人、画面の向こうで声を上げた。

 がんばえ、とも聞こえる舌足らずな声だった。まだずっと幼い子供だ。母親の携帯で私を見ていたその女の子が、一生懸命に声を張り上げていた。


『がんばれ、まほうしょうじょお』


 女の子は。その手に、空から舞い落ちてきた一枚の写真をぎゅっと握りしめていた。

 彼女の言葉を皮切りにしたように。一つ、また一つと、声が画面を通して聞こえてくる。


『…………頑張れ』

『お願い、勝って』

『負けないで……!』

『がんばれぇ!』


 声が、大きくなっていく。

 彼らが持ち上げる携帯には、私達が撮った怪物の映像が流れていた。街を守ろうと奮闘する怪物の写真が握られていた。彼らは大きくそれを掲げて、私を応援するように振り回す。

 ピカピカと多くの画面が輝いていた。たくさんの光が揺れて、私を応援していた。


「頑張れ」


 声が聞こえた。

 大型ビジョンの画面越しじゃない。街中から。あちこちの建物から、道路の方向から、たくさんの人々の声が重なって私の耳に届いてきた。

 同じ声は湊先輩とママにも聞こえたようだった。ハッと息を呑んで顔を上げる二人の姿はよく似ていた。だが一方の目は光にキラキラと輝いて、もう一方の目は絶望に青ざめていた。

 たくさんの人の声が、星降る楽土町に響き渡る。

 ひらひらと街に降り注ぐ写真を手に取った人々が、動画を見た人達が、私のことを応援していた。

 私が恐ろしい怪物だけでないことに気が付いてくれた。

 私が魔法少女を夢見ていたことを知ってくれた。


 最初に名乗っていたのは『魔法少女ピンク』という名前だった。

 私の大好きな思い出の魔法少女。でも、どうやらそれは私の名前ではなかったようで。大好きな名前はママに奪われて。私はただこの世界の敵であるべきだったようで。

 魔法少女ピンクとはもう名乗れない。

 だけど、この世界の敵だと名乗るつもりもない。


 私は、恐ろしい怪物じゃない。

 私は、世界の敵じゃない。


 私は。



「頑張れ、魔法少女ありすちゃん!」



 私は魔法少女。

 魔法少女ありすだ。



「――――遘√′縲√%縺ョ荳也阜繧貞ョ医k!」


 私の雄叫びが空にこだまする。ドッと膨れ上がった感情が、私の胸に熱く込み上げてきた。

 体の奥底から沸き上がる熱が、私の体を淡く光らせる。目が焼けそうになるほどの眩い光はあまりにも強烈で、そして、幻想的だった。

 私は空に顔を向ける。静かに瞬いて、降り注ぐ流星群に狙いを定める。

 全てを消し飛ばす必殺技を撃とうとした。

 あと一度放てば、『私』が終わる、魔法の必殺技を。


「ありす!」


 ママが叫ぶ。あまりの眩さに後ずさっていたママは、顔中をびっしょりと汗で濡らして、必死の形相で私を見つめていた。


「やめて、やめてっ! それ以上、ヒーローにならないで! 私の栄光を盗らないで! 応援されるのは、世界の救世主になるのは、私のはずなのに。私のはずだったのに!」


 涙でぐちゃぐちゃの顔が私を見つめている。子供のように泣きじゃくりながら、ママは喉が裂けんばかりの大声で怒鳴る。


「み、皆から忘れられてもいいの? 皆から称賛された、この瞬間の感動を、ずっと覚えていなくていいのっ!? 栄光も。希望も、未来も!何もかもを失って、忘れられてもいいの? ねえ、ありす!」

「…………繧、繧、繝ッ繝ィ」

「っ、あり……」

「鬲疲ウ募ー大・ウ縺ッ荳也阜繧貞ョ医k繧薙□縺九i」


 栄光も、希望も、未来も。何もいらないわ。

 今だけこの必殺技を撃てれば、それでいいの。あとは何を失うことになったっていいの。

 魔法少女は世界を守るためにあるのだから。

 だからいいの。


「やめて……」


 私の言葉がママに通じたかは分からない。だが、ママはふらりとよろめいて手すりに背をくっつけ……ふと、足元に視線を移す。

 さきほどの言い合いを最後に。チョコの姿が、どこにも見えなかった。

 バッと弾かれたようにママが顔を上げる。揺らぐ視線が空を彷徨い、一点を見つめて大きく見開かれる。


「あ」


 巨大なUFO。ふよふよと宙を泳ぐチョコが、その足元に辿り着こうとしていた。

 皆が映像に夢中になっている隙に。チョコだけはただ一人、地球の事情に目を向けることもせず、まっすぐ宇宙に逃げようとしていたのだ。


「…………っ」


 ぶわっとママの髪が動揺に膨らむ。

 見開かれた目が激しく泳ぐ。世界を救おうとしている私と、宇宙へ旅立とうとしているチョコを交互に見つめて、

 迷って、そして、


「待って!」


 ママが選んだのはチョコだった。

 黒い片翼が大きく広がる。屋上を蹴って飛び上がったママは、残る力の全てを振り絞って空を飛んだ。私の触手も追いつけない。ママは目にも止まらぬ速度で空を駆け抜け、チョコの足へとしがみ付く。


「待って。チョコ、行かないで!」

『っ、いい加減、諦めろよ!』


 チョコは苛立ったようにママの顔を蹴り付けた。嫌な音がして、ママの鼻からどろっとまた大量の血が溢れる。

 それでも。ママは子供のように全身でチョコにしがみ付いて離れなかった。


『見苦しいよ! 最後に足掻くラスボスほど、みっともないものはないよ! 宇宙にまで縋ろうとするな。……大体君は、元々地球人からの称賛を求めていたんじゃないのかい? 宇宙人だって構わないのか? 見境のない!』

「っ。ゲホッ」

『四十年以上! カリスマ性に頼ってここまで来た悪役なら! 最後まで、余裕ぶった悪役を貫けよ!』

「…………チョコ」


 ママはゾッと冷たい声を出した。

 一瞬だけ動きを止めたチョコに、ママが顔を上げる。破れた口端からドロリと流れた血が、濃くチョコの体を濡らす。

 ママは半分笑っているような、泣いているような声で、言った。


「私は一度も、悪役であろうとしたことなんてないわ」

『は、』


 正義の味方のつもりだったのだ。

 ママは、最初から最後まで、そのつもりだった。

 世界を守って皆から祝福される、素敵な魔法少女でいると思っていたのだ。


『…………馬鹿な女だ』


 チョコの触手がママの片翼を切り裂いた。

 あ、と小さな声を一つだけ零して。ママの翼が根本から剥がれ落ちていく。大量の黒い羽がボロボロと舞い落ちて、空中で溶けるように消えた。

 翼を失ったママの体をチョコが突き飛ばす。だが落ちる寸前、ママは咄嗟にもう片方の手でチョコの足を掴んだ。ガクンと大きく揺れた体は、しかし地面に落ちはしない。

 苛立ったように体を膨らませたチョコが、その触手でもう一度ママの体を貫こうとする、その寸前だった。

 剛速球で飛んできた小石のようなものが、UFOの船底を叩き割ったのは。


『あ?』


 チョコがきょとんと目を丸くした。船底にぶつかった小石……ピンク色に光る魔法石の欠片が激しく光って、そして、次の瞬間爆発した。

 猛烈な爆発音だった。一気にオレンジ色の炎が膨らみ、ジリジリと体毛を焦がすような熱波に呻く。顔を覆ってしばらく耐えていれば、じょじょに落ち着いていく黒煙の隙間から、UFOの様子が見えた。

 UFOは大破していた。強烈な爆発に半分以上がボロボロと崩れ、大半の部品が地上に落ちていく。

 どんな人間でも、もうこれは二度と乗れないだろうと理解できるほどの、崩壊具合だ。


「ふむ。欠片を爆発させただけでこの威力とは」

『な、お、お前』

「魔法少女のステッキには、相当パワーを溜めていたのだな」


 淡々とした声でそんなことを言うのはマスターだった。彼は地面に散らばっていたママのステッキをいつの間にか拾い、大きな欠片を一つ、UFOめがけて投てきしたのだ。

 チョコがわなわなと肩を震わせる。口端の泡を飛ばし、彼はマスターを罵倒した。


『お前。自分が何をしたのか、分かってるのかよ』

「ああ」

『お前も星に帰れなくなるんだぞ!』

「知っているさ」


 宇宙に旅立つためのUFOは、チョコ達の母星に帰るための唯一の移動手段にもなる。

 それを破壊したとあれば。チョコは勿論、マスターだって母星に帰れなくなるのだ。

 だが彼は飄々とした態度で微笑んでいた。細長い足を投げ出すように立ち、ステッキに肘をつく、ほんのりだらしないポーズを取ってチョコを鼻で笑った。


『地球もなかなか気に入った。この星に飽きたら、そのときにまたUFOを作ればいい』

『…………な』

『なに。せいぜい、五百年もあれば可能だろう?』


 マスターはチョコとお揃いの粘ついた声で言った。

 黒マスクの下の口がいやらしく笑う。ゴポ、と水っぽい音がして、笑んだ彼のマスクの隙間から、一本の青い触手がにゅるにゅると蠢いていた。


「……どうして」


 UFOは壊され宇宙には行けなくなった。

 信じていた宇宙人には裏切られた。

 人々は自分を魔法少女と称えてはくれなかった。

 流れ星は願いを叶えてくれなかった。


 夢の全てを破壊されたママの瞳から、涙があふれて落ちていく。


「どうして、あなたが魔法少女と呼ばれるの」

「…………」

「私の方が、ふさわしい見た目をしているのに。何で、あなたがヒーローだと言われるのよ」

「…………」

「私とあなたの、何が違ったのよ!」

「……何のために戦うかだ」


 ママの疑問に答えたのは湊先輩だった。ママがハッとしたように彼を見つめる。

 怪物姿の私の前で。カメラを構えてまっすぐに立つ湊先輩が、ママの疑問に答えを告げる。


「魔法少女は自分のために戦うんじゃない」


 彼の黒い横髪が湿った頬に張り付いていた。その隙間に覗くゾッとするほど鋭い眼差しは、けれど同じくらい、切なく美しい色をしていた。

 彼は知っている。恐ろしい見た目の私が魔法少女と呼ばれた理由を、よく知っている。

 彼は誰よりもずっと。私達の傍でこの戦いを見守ってくれていたのだから。


「誰かのために、戦うんだよ……!」


 湊先輩は力強く言い切った。

 ママが僅かに目を見開き、じっと息を詰める。その喉が震えて、熱い溜息のような吐息が、何か言葉を吐き出そうと逡巡する。

 その動揺の隙間。青い空の端が、眩くきらめいた。その瞬間。

 雲を突き抜けて降ってきた一つの流星群が、ママとチョコの体に直撃した。


「あ」


 大きな流星群だった。人間の頭と同じくらいの大きさのそれが、眩く燃えながら二人にぶつかった。

 余裕があれば避けられたかもしれない。万全の状態ならばたいしたダメージにはならなかったかもしれない。

 だが既にボロボロだった二人の体には、決定的な一撃となった。

 チョコの体が半分と、ママの体が半分。空中に飛び散った。


『ギャアアァッ!』


 ドロ、とチョコの体が溶ける。ボタボタとピンク色の粘液がとろけて、凄まじい断末魔が空を引き裂いた。

 ママは何が起こったのか分からないように、ぽかんと口を開けていた。そのドレスの裾にぽっと火が移って、それは一気に燃え上がる。


 魔法少女の衣装が燃えていく。ママの人生をかけた夢が全て燃えていく。

 衣装を燃やす炎をママはぼんやりと見つめていた。熱さも痛みも感じていないかのような、ただ微睡むような、そんな眼差しで。


 ママが幼い頃、夢を叶えてくれた流星群。

 それが今。ママの全てを終わらせる、最後の一撃に変わった。


「私は」


 ふ、と炎の中でママが笑った。

 天国みたいな優しい顔だった。

 無邪気に弾む明るい声で笑いながら、ママは空に手を伸ばす。

 キラキラ輝き落ちていく流星群は遠くて、その指先では掴めない。

 それでもママは。まるで夢を掴んだかのように、拳を握って微笑んだ。


「私は、それでも」


 幸福に満ちたその言葉が。私が最後に聞いた、ママの声だった。


「――――魔法少女なの」


 ぶわっと炎が広がって、二人の体が滑るように落ちてくる。流星群よりはゆっくりと、舞い落ちる雪のように、きらめく炎となって降ってくる。

 ふとママの目が一瞬だけ私を見た。炎の中で、それでも美しい色だと分かるピンク色の瞳が。優しい夢を見る眼差しで私を見つめていた。

 ママは最後まで、魔法少女の夢を見ることができたのだろうか。


「縺セ縺セ」


 私は瓦礫の山を踏みつけた。

 立ち込める土煙を胸いっぱいに吸い込めば、大量の血の臭いが肺に絡みついた。

 夜が終わって、朝が来て。いつの間にか昇っていた眩い朝日が、私の巨大な体を照らす。

 崩壊していくUFO。燃えていくママとチョコ。落下している流星群。

 全ての災厄から楽土町を守るために、魔法少女ありすが放つ最後の魔法。


 準備は既に整っていた。

 あとはただ一つ。咆哮をあげればいいだけだった。

 ドクドクと心臓が脈動している。体の奥から沸き上がる思いに指先が痺れた。頭の奥が熱くなって、何故だか無性に、泣きたくなった。


「ありすちゃん」


 聞こえた声に視線を向ける。湊先輩が私の前に立って、真正面から私の姿をカメラに収めようとしていた。

 遠くにはマスター達がいた。湊先輩のお父さんも鷹さんも、息を呑むような真剣な眼差しで私を見つめていた。

 湊先輩は。

 湊先輩は、私をまっすぐに見つめて、微笑もうとしていた。

 だけど、それは失敗して。ぐっと歪んだ彼の片目からぽろっと一粒の涙が零れ落ちた。

 彼は涙を誤魔化すように唾を飲んだ。けれど次に吐き出した吐息は熱く震えていて。それだけでもう、堪えきれなくなったように、彼は顔をくしゃくしゃにして苦しそうに泣きだした。


「ありすちゃ」

「……蜈郁シゥ」

「ご、ごめ」

「…………」


 頭の奥が痺れていく。脳味噌が端からじわじわと白く染まっていくのを感じていた。

 この光線を撃てば最後、きっと私の記憶はこの世から消えるのだと、体が理解している。

 さよならだ。

 姫乃ありすは皆に忘れられる。

 きっと、魔法少女という存在ごと、忘れられる。


 それでもいい。構わない。

 この世から私が消えたとしても。魔法少女じゃなくなっても。

 私はただ、世界を救いたいだけなんだ。


「忘れないよ」


 湊先輩が言った。

 流星群の衝突音にも、怪物の唸り声にも掻き消されぬ大声で、彼は泣きながら声を張った。

 涙の合間に言う言葉は苦しそうに震えていた。何度も浅く息を吸っては、燃えるように熱い感情を、何度も吐き出す。


「大丈夫、大丈夫だよ」


 優しく言い聞かせるように彼は言った。私に言っているのか、自分に言っているのかは、分からなかった。

 大粒の涙がいくつもカメラに落ちていく。キラキラと光る雫は綺麗だった。その雫を拭うこともほとんどせず、湊先輩は何度も同じ言葉を吐き出した。

 忘れない。絶対に忘れない。

 君のことをいつまでも覚えている。


「僕は君を忘れないよ」


 確証なんてない。

 約束なんてできない。

 何を決意したところで。彼は、きっと私のことを忘れるだろう。


「貉雁霈ゥ」


 それでも、嬉しかった。

 私は笑って湊先輩の名前を呼んだ。その拍子に両目から溢れた数滴の涙が、地面に落ちてシミになる。

 そっと伸ばした私の触手が、湊先輩の頬に流れる涙を、一度だけ拭った。


 大丈夫。きっと大丈夫よ。

 私達、絶対にまた、仲良しのお友達になれるわ。


「ありすちゃん」


 私は息を吸って空を見上げる。大きく開いた口に光が凝縮されていく。

 眼球が焼け焦げそうになるほどの熱く眩しい光を、私は瞬きもせず見つめていた。

 空に美しく輝く流星群。悪夢のようなその星の美しさに、巨大な瞳をキラキラと光らせる。

 最後に一度だけ、私は笑った。


 ――――どうか、



「縺ゥ縺?°縲∫ァ√r蠢倥l縺ェ縺?〒縺ュ」



 ――――私を忘れないでね。



 湊先輩。

 もしも次に会えたらそのときは。

 また、私の写真を撮ってちょうだいね。



 口から放たれた閃光が空を突き抜いた。

 ママとチョコの体が。壊れていくUFOが。降り注ぐ流星群が。全てが光の中に飲み込まれた。

 私の放つ魔法が、楽土町の空を鮮やかに覆いつくす。

 世界が眩い光に包まれて、何も見えなくなった。

 真っ白になっていく頭の中。



 最後に、シャッターを押す小さな音が一つ、聞こえた気がした。











 夜が明けていた。


「…………」


 眩しい太陽に目を焼かれて瞼を開く。

 妙にズキズキと痛む頭を押さえながら起き上がれば、体の上に乗っていた瓦礫が、ガラガラと音を立てて崩れていった。

 ゲホ、と咳をする。口の中に入っていた砂利を吐き出す。

 僕は何故か首にカメラをぶらさげていた。レンズを汚す土埃を指で払う。


 ここはどこだろう。僕の部屋じゃない。

 僕はどうしてこんな所にいるのだろう。

 カメラまで持って…………。


 辺りを見れば、まるで戦争でもあったのかと言わんばかりに瓦礫が散乱していて、ギョッとする。

 僕は建物の展望台に倒れているようだった。だがこんな所まで来る理由も思いつかなければ、ここまで来た道のりさえも思い出せなかった。

 周囲に目を向けてみれば、近くのビル壁にかかった大型ビジョンが目に留まった。

 数台はあるビジョンの画面は何故かどれもボロボロに壊れていて、ザーザーと激しいノイズが流れていた。


「?」


 ふと、床をさぐった指先に何かが触れる。

 それは一枚の写真だった。よく見れば、周囲の地面にも大量に写真が散らばっている。

 まるで誰かがばらまいたかのように、何百枚もの写真が、瓦礫が散乱する展望台に落ちていたのだ。

 僕はその一枚を拾い上げた。


 そこには何も映っていなかった。

 他の写真を調べても同じことだった。

 何故か真っ白な写真が、一面に広がっているのだ。


「…………僕、何してたんだっけ」


 ぽつりと呟いた声が展望台に落ちる。

 同時に何故だか目の奥がツンとして、僕は鼻を啜って目を擦った。


 何かを忘れている気がした。

 大切なことを忘れている気がした。

 だけど、それが何であったかを、いくら思い出そうとしても思い出せなかった。


 ふと、見上げた空の青さに目を丸くした。

 今日は随分といい天気のようだった。雲一つない青空に明るい太陽が浮かんでいる。

 昨日は分厚い雲が空を覆っていたというのに。まるで、ロケットでも飛ばして雲をふっ飛ばしたかのような、清々しい空だった。


 僕はカメラを持ち上げて青空の写真を撮った。

 何故か他に何も映っていないカメラのデータに、一枚の青空が写された。


 ここがどこかとか、僕は何をしていたのだとか、何があったんだとか。そういうものを。何も覚えていないし、何も思い出せやしていないのに。

 今はただ、この空の青さだけが僕の心を満たしていた。


「いい天気だな」


 カメラから目を離して僕は笑った。

 今日は何だか、いい一日になりそうだ。

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