第93話 愛してる

 私、姫乃ありす。十六歳の高校一年生。

 とっても可愛い女の子。

 魔法少女に憧れていた女の子。


 可愛い見た目ではないけれど。

 思っていたような魔法は打てないけれど。


 それでも、私は魔法少女。


 夢を叶えた、女の子よ。





 流星群が輝く空に、怪物の咆哮がとどろいた。

 展望台の地面が揺れている。空気は激しく振動し、この場にいる全員の肌がビリビリと産毛を逆立てた。


 街中の大型ビジョンいっぱいに、黒い触手をうならせる怪物の姿が映っていた。

 湊先輩の持つカメラが、鷹さんの持つカメラが、その丸いレンズで私を撮っている。


 三メートルを超える巨体は暗闇よりも黒い。

 全身を黒い触手がざわめき、濃厚に粘つく液体をダラリと垂らしている。

 大きく裂けた赤黒い口の中に、ノコギリみたいに鋭い牙がびっしりと生えていた。

 口端からもうもうと湯気のような呼気が揺れている。

 可愛い魔法少女にはほど遠い。心臓を圧迫されるような恐怖を抱く、あまりにもおぞましい怪物。


 これが私だ。

 姫乃ありすだ。


「ッ!」


 ダンッ! とママが反射的に振るったステッキの音が弾ける。

 飛んできたピンク色の魔法を触手で弾き飛ばしながら、私は勢いよく床を蹴ってママに飛びかかった。

 触手がうなる。魔法が飛ぶ。私達がぶつかるたび、強烈な光が弾けて、パチパチと残滓を残して火花が散った。

 流星群が街に降る。輝く欠片は展望台にも落ちてきて、凄まじい爆発を起こして瓦礫を吹き飛ばす。次々降ってくる流星群の雨からマスターが皆を守っていた。

 キラキラ星屑が瞬く展望台で、私とママだけが戦っていた。


「…………は」


 険しく睨み合う私達の横で、大型ビジョンの光が眩くきらめいている。

 巨大な画面には、楽土町タワーの展望台で向かい合う、魔法少女と怪物の姿が流れていた。

 荒げた息もボロボロの体も。リアルタイムでお互いが見つめている相手の姿そのままである。

 鷹さんのカメラに映る光景が、湊先輩のカメラに切り取られた写真が。マスターの力によって全国に運ばれて、今この瞬間にも、全国のテレビや携帯の画面を光らせているのだ。


「まだ日本だけよ」


 唐突にママは言った。

 ロマンチックなピンク色の瞳をきらめかせて、ピクピクと眉間を痙攣させるママを、チョコが怪訝そうに見上げる。


「そうよ……。そう! 私の正体がバレたのは日本だけだもの。大丈夫。まだ、世界中には知られていない!」

『……花子ちゃん』

「海外に拠点を移せばいいんだわ! 私のことを誰も知らない土地で、もう一度、最初からやり直すの!」

『花子ちゃん、それは』


 そうだわ、きっと、とママは繰り返し呟いてぐずぐずと笑った。

 夢遊病患者のようにとろけた眼差しが虚無を見つめている。大型ビジョンには、そうやってふわりと踊るように揺れるママの姿が映っていた。


 無理よ。それはできないわ、ママ。


 私は心の中で思う。他の皆も、きっと同じことを考えているのだろう目でママを見ていた。チョコでさえも。

 簡単なことすら今もママには理解できない。もしくは、理解するのを脳味噌が拒絶しているのかもしれない。

 日本中に魔法少女ピンクの正体が暴露された。

 一億人以上に知られた情報が、世界に拡散されないわけがない。


「…………」


 クリック一つで情報はあっという間に海を越える時代だ。魔法少女と怪物。ショッキングな映像は、もうとっくにあちこちの国に知られているはずだ。

 可愛い魔法少女に変身したって、宗教を作り上げたって、無駄だ。

 地球上どこに行ったってママの正体を誰もが知っている。


「チョコ。ねえ、何とかしてよ」


 ママはやつれた笑みをチョコに向けた。ぶくぶくと泡立つピンク色の触手に指を立て、深く爪を食い込ませる。


「ねえ、チョコッ」


 無言で俯くチョコをママは何度も揺さぶった。彼女の鳥肌のたった腕に酷い汗が浮かんでいた。真っ白な顔は悪夢に見そうなほど恐ろしく、痛切な声はあんまりにも哀れだった。

 ママは何度もチョコに縋った。だらだらと涙と鼻水を垂らして、諦めきれない思いを宇宙人に訴える。


 だってずっとこの日のために努力してきた。

 小さな村に生まれてから数十年。母親を地下室に閉じ込めて、数多の人間に股を開いて、巨大な宗教団体を育て上げて。

 たくさん、たくさん、頑張ってきたのに。

 魔法少女の栄光を得るために、私は生まれたというのに!


「あなたは私の夢を叶えるために地球に来たんでしょう!?」


 ママは、ほとんど絶叫するようにチョコに言った。

 チョコはそんなママを見つめて……そして、ふっと優しい目をして、笑った。

 そのとき。マスターがふと空を見上げた。


「おや」


 吹き付けた強風がマスターの服をなびかせる。

 ゴウッと嵐のような強風の中、私達はつられたように空を見上げて、ぽかんと口を開けていた。


「な」


 流星群が輝く空の中、巨大なUFOがそこに浮かんでいた。

 巨大な円盤型がカチカチと眩しく光っている。ギイィ、と定期的に聞こえる唸り声のような機械音。

 一軒家よりも大きな物体がふわふわと空に浮かんでいる。それはなんだか現実味がなくて、私達は、茫然とそれを見つめた。


「地球を出ていくつもりか……?」


 湊先輩のお父さんがぼうっと呟いた。額からドロッと流れた血が、彼の足元を汚す。

 彼は眼鏡の奥の目を苦しそうに細めて、空のUFOと、ママを、交互に見つめた。


「そうよ……宇宙だわ」


 ママの目がきらりと輝く。絶望の中に光を見出したような顔で、その声を弾ませる。

 ママはぐちゃぐちゃの顔で笑った。口角を上げるたび、目尻に浮かんでいた涙がボロボロと零れ落ちる。


「宇宙なら、誰も私の正体を知らないわ。魔法少女に変身できる……!」


 そうだ、宇宙ならば。

 魔法少女の映像は宇宙までには届かない。魔法少女ピンクの正体を知っている人は誰もいない。

 広大な宇宙だ。人間に似た生き物が住んでいる星も、きっとどこかにあるだろう。チョコの宇宙船に乗って長い旅をすればいい。そしていつかどこかの星でまた、魔法少女に変身すればいい。

 数十年頑張ってきた。ならばきっと、他の星でも頑張れる。

 また、魔法少女として皆に称賛されることができる。


 滑稽な話だ。上手くいく保証なんてない、あまりに現実味がない夢物語。

 だけどママならばきっと。他の星でも魔法少女として生きていけるだろう。


「チョコ!」


 ママは白い手でチョコの触手を握り、頬をすり寄せた。したたり落ちる粘液に頬が粘ついても気にしない。甘ったるい香りを全身にまとわせて、媚びるようにチョコに笑いかける。


「私を宇宙に連れて行って。私を、宇宙で輝く魔法少女にしてちょうだい!」


 チョコならきっと何とかしてくれるだろう。

 だって彼はこれまで何度も、不思議な力で助けてくれたのだから。

 どんな困難だって、宇宙のパワーを使って、何とかしてくれたのだから……。


 だが、チョコの触手はママの手を冷たく払いのけた。


『さよならだ、花子ちゃん』


 ママはきょとんと目を丸くする。粘液に濡れた手を擦り合わせ、茫然と、迷子の子供に似た目でチョコを見つめた。

 何をされたのか理解できなかったのだ。


『どうやらゲームは失敗してしまったみたい』

「チョコ?」

『せっかく、宇宙人に匹敵するだけの魔法の力を授けたっていうのに、こうも上手くいかないとはね。これだけ崖っぷちに追い込まれたんだ。ここから勝とうというのは、難しい話だ』

「チョコ、何言ってるの」

『ぼくは地球を出ていくよ。また違う惑星に旅をしようと思うんだ。地球はもう飽きちゃった。そろそろ新しいゲームがしたいんだ』


 チョコがママに向ける眼差しはゾッとするほど冷たかった。

 黒いまつ毛をぱしぱしとうごめかす八つの眼球。沈黙した氷よりももっとずっと冷たい温度に込められた感情は、残酷なまでの無邪気さと、心の底から対象への興味を失った飽きた色。

 ママはぼんやりとした幼い顔でチョコを見つめていた。

 真っ白に震える手がスカートを強く握りしめて、手汗を滲ませる。


『ぼくはゲームが好きだと言っただろう。これは、ランダムな惑星で、ランダムな主人公を選択して、その子にとってのハッピーエンドを目指すだけのシミュレーションゲーム』

「あ、う」

『……だけど君はどうやら失敗だ。ハッピーエンドはもう目指せない。失敗したゲームは、もう続けられないよ』

「…………私を、置いていくの?」


 ぽつんと小さな声でママは言った。

 ギィ、ィ。と巨大な鉄が軋むような音が空に響いた。女の悲鳴にも似た音だった。

 宇宙船が左右に揺れるたび、その音は空に咆哮をとどろかせるのだ。

 ママは真っ赤に膨れた顔でチョコを見つめる。込み上げる涙を必死で堪えた顔で、必死にチョコに縋った。


「ち、違うわ。そんなの嘘よ。チョコが、私をお友達に選んでくれたんじゃない。そうでしょう?」


 じわじわと込み上げる焦燥がママの目を潤わせる。

 毛穴から噴き出す絶望をだらだらと頬に垂らして、ママは悲痛なほど裏返った声でチョコに笑いかけていた。


「だって……だって、私は宇宙人に選ばれたのよ。何十億もの人間がいるこの地球上で、たった一人選ばれた、特別な女の子なのよ! この世界の主人公であるはずでしょうっ? 私ごとゲームをリセットするなんて、そんなのおかしいわ!」

『……花子ちゃん』

「私は特別なの。そんな私の人生が、失敗なんてするはずが――」


 バチン、とチョコの触手がママの頬をぶった。

 相当な威力だった。ママの体は簡単によろめいて、チョコの柔い体に額をぶつける。

 あえ、とママは呆けた声をあげた。真っ赤に潤んでいた目から衝撃でぽろっと数滴、涙の粒が零れた。 


『いつまで夢を見てるんだよ』


 夢を叶えてあげる。

 君を、魔法少女にしてあげる。

 幼い子供の頃。ママにそう約束してくれた宇宙人は、大人になったママにそう冷たく吐き捨てた。


『ゲームリセット? やり直し? いいや、違うよ』


 チョコはゲームが大好きな宇宙人だ。

 クレーンゲームやシューティングゲームと同じ感覚で、本物の人間を使ったシミュレーションゲームを数十年間楽しんでいただけにすぎない。

 ママにとっては人生をかけた大きな計画でも。チョコにとってこれは、ただのゲームでしかなかった。

 山田花子という一人の女の人生は。宇宙人のゲームに使われた、ただの駒だった。


『ゲームオーバーだ』

「、あ」


 ママの体からふっと力が抜けた。

 冷たい地面に膝をついて俯くママの手から、チョコは触手をずるりと引き抜いて歩き出す。


 展望台の端に立ったチョコは無数の触手を空に伸ばした。応答するように宇宙船がチカチカッと光る。

 宇宙船の下部にぽかりと穴が開く。そこから、まるで差し込む日差しのように一筋の光が降りてきて、チョコの体を明るく照らした。


『さようなら、地球! さようなら! ここはまあまあ居心地がよかったよ』


 地球に飽きた宇宙人はもう誰の顔も見なかった。

 ママのことも私のことも一瞥することさえなく、故郷に帰る宇宙船へ乗り込もうとする。

 チョコの体が空に引っ張られていく。粘液を垂らしながら宙に浮かんだチョコは、そのまま宇宙船へとゆっくり近づいていこうとして。


 背後から放たれた魔法の光が、チョコの腹を貫いた。


『……え?』


 彼が振り向いた先にはママが立っていた。

 虚ろなピンク色の目はチョコを見下ろし、とろとろと微睡むように笑っていた。

 ぽかんと薄く開いたチョコの口端から、小さな血が一筋流れて。彼は次の瞬間、ゴプリと大きな血の塊を吐き出した。


「……馬鹿ね、チョコ」


 ママがチョコから体を離す。ぬるりとしたピンク色の粘液にかぶせるように、ゴプゴプと溢れる黒い血がママの体を汚していた。

 チョコの体を魔法のステッキが貫いていた。

 魔法の光を放った直後のピンク色の光に、チョコの黒い血がドロドロと重なって、嫌らしいほど気味の悪い色に変色していた。


『ッ、ゴ』

「あなたがくれた魔法の力よ? 宇宙人に匹敵するだけの、素敵な魔法の力」

『ごぽ』

「協力してくれないマスコットキャラクターなんていらないわ。それに、宇宙人姿のあなたは、ちっとも可愛くないもの」


 愕然と見開かれる八つの目にママは微笑む。


「ゲームオーバーはあなたの方よ」

『ごプッ』


 ママはチョコの体を突き飛ばした。床に倒れ込むチョコの全身から、びしゃりと血が飛び散って、ママの白い靴を汚す。

 チョコは真っ黒な目で血に染まった体を見下ろした。ガクガクと触手が震え、悲痛に掠れた悲鳴が喉から絞り出される。


『……? ……タ。たスけ。――ゴボッ。……死ッ。豁サ縺ォ縺溘¥縺ェ繧、……』


 チョコはママを見つめて、ゴボゴボと血色の泡を吐いた。怒鳴ろうとしたのか懇願しようとしたのかは聞こえなかった。

 けれどママの冷たい微笑みに体を震わせ、必死に逃げようと触手が床を掻く。


『ありすちゃん』


 彼の目が私を捉えた。

 チョコは泣いていた。ぐずぐずと八つの目玉に透明な涙を浮かべて、甘ったるい声で私の名前を呼んでいた。

 それはいつものチョコの声だった。可愛いぬいぐるみの、私の親友のチョコの声。

 少し毛がゴワついていて、よく沈んでいるせいで少しトイレの臭いがして、ピンク色がくすんでいて、とってもとっても大好きな、可愛い、私の、


『ぼく、死んじゃうよ! 助けて。あり――』

「うるさい」

『ぼギュッ』


 ママがチョコを思い切り踏みつけた。

 ぶちゅっと黒い液体が飛び散って、それだけで呆気なく私の親友は死んだ。

 私がチョコに手を伸ばすよりもずっと早かった。ママはさっぱりとした晴れやかな顔で、宇宙人の死骸を何度も踏みつけて笑っていた。

 ママの顔にも羽にも血が飛んでいた。白い羽は真っ黒に汚れて、到底天使の羽のようには見えなかった。

 まるで悪魔の羽だ。


「……繧ゅ≧繝、繝。縺ヲ縲√∪縺セっ」


 思わず伸ばした触手がママの足を掴んだ。カツンと、ヒールが硬質に床を蹴る。

 ぐちゃぐちゃになったチョコの死骸を横目にママはふぅふぅと肩で息をして、それでもなおその体を蹴り付けようと足に力を込める。

 私は必死に力を込めた。これ以上チョコの体が崩れていくのを見たくなかったのだ。

 ママはそんな私をぼうっと見つめて、しばしの間沈黙してから。


「あはっ」


 無邪気な子供の声で笑って魔法のステッキを振り上げる。

 その先端がカクンと私に向けられて、魔法が飛び出すその寸前。

 背後から撃たれた弾丸が、魔法のステッキにぶつかって、ステッキが弾け飛んだ。


「……え?」


 度重なる戦闘でボロボロだったステッキは、とどめの弾丸一発で簡単に砕け散った。

 蓄えられていた魔法の光が四方に弾けて、キラキラと光る破片が宝石のように散っていく。

 ママの手には折れたステッキの柄だけが残った。光の輝きを失ったステッキをぽかんと見つめたママは、ゆるりと顔を、私の背後に向ける。


「させるか……!」


 湊先輩が目を真っ赤に充血させて、そこにいた。マスターの防壁から飛び出した彼が銃で魔法のステッキを撃ったのだ。

 冷たい風が吹き荒れて。彼の目尻にかかっていた前髪を、軽やかに吹き飛ばした。


 ママは無言で湊先輩を見つめた。

 だがそれは一瞬だった。

 次の瞬間。ヒールでガツンッと床を蹴ったママの体が、轟音をあげて湊先輩に飛びかかった。

 魔法のステッキはもうない。手元に残ったのは折れた柄の部分だけ。

 だが尖った先端は、魔法が使えなくとも、十分に刃物と同等の凶器になった。


「ッ」


 湊先輩が咄嗟に引き金を引いた。だが弾は出ない。さきほどが、最後の一発だった。

 彼の顔がザッと一気に青ざめる。汗を滲ませたその顔面に、鋭いステッキの先端が振り下ろされる。

 ザクン、とステッキの柄が顔を切り裂いた。

 飛び散る血液に、湊先輩が大きく目を見開く。

 ママの攻撃は。後ろから飛び込んで、息子の身代わりになった、湊先輩のお父さんの顔を切り裂いた。


「父さん!」


 湊先輩の悲痛な叫びが響き渡った。彼は一気に顔を青くし、父親の額からだらだら流れる出血を止めようと、必死で傷口を手で押さえようとする。

 動揺する湊先輩の姿はママにとって格好の餌食だった。

 血にぬるつくステッキを、ママの手がもう一度振り上げる。


「息子に手を出すな!」


 だが、ママの手は途中で止まった。

 尖ったステッキの先端ごと、ママの両手を、湊先輩のお父さんが力任せに握りこんでいたのだ。

 先輩のお父さんの手はあっという間に真っ赤に染まった。手の平から溢れる血がボタボタと落ちて、半泣きの湊先輩の頬へと落ちていく。

 お父さんの顔は既に蒼白だった。顔、手、肩……。ママの攻撃を何度も受けたせいで、相当量の出血をしているはずだった。気力だけでやっと立っているという状態だろう。

 それでも彼はぶるぶると震えながら、ママの攻撃を受け止め続けていた。


「……伊瀬くんは、いつも他人のことばかりね」


 ママはふっと微笑むように言った。不可思議な声音に、湊先輩の肩がぴくりと跳ねる。

 ピンク色の眼差しはそんな彼を見つめず……その父親である男だけを見つめていた。

 昔を懐かしむように、憐れむように、細められた眼差しは、どこまでも柔らかかった。


「だったら今は私の仲間になってくれたっていいじゃない。世界を壊す手伝いをしてよ。ねえ、私達、仲のいい幼馴染だったじゃない」


 ママは幼馴染に訴える。甘えた子供のような声音で彼に顔を近付けて、青ざめた耳に息を吹きかける。


「魔法少女になることが私の人生の全てだった」

「…………」

「その夢が終わった今。もうこんな世界なんて、どうでもいいの」

「…………」

「伊瀬くんだって私の立場だったら、同じことを思うはずでしょう?」

「思わないよ、俺は」


 パキリと硬質な声で彼は言った。あまりにまっすぐな声だった。ママは一瞬目を丸くして、すぐに不愉快そうに眉根を寄せる。

 苦痛の汗を垂らして彼は言う。喋るのも本当は大変だる状態で。それでも、疲労を感じさせない声音で言葉を吐く。


「俺は自分の人生が終わったとしても、自分の夢や希望がなくなったとしても、世界を壊そうとは思わない」

「どうして?」

「子供達がいる」


 彼は言った。

 ふっと優しく細められた眼差しが。息子である湊先輩と、怪物姿の私を見つめていた。

 彼の返答をママは理解できていなかった。子供、という単語に怪訝に顔をしかめるママに、彼はゆっくりと言葉を吐く。


「……夢ってさ、増えるんだ」


 彼は不意に、優しい声で語り出す。幼い子をさとすような、小さな声だった。

 寝る前の子守歌みたいに。とろとろと微睡むような、静かな声だった。


「人生の夢ってのは一つじゃない……。カメラマンになる夢以外にも、進学や就職、恋愛や結婚、色んな節目で新しい夢はいくつも生まれた。叶えたものも、叶えられなかったものもある」

「…………」

「でもその中でも、一番大きい夢が生まれた瞬間があるんだよ」

「…………?」

「湊が、生まれたときだ」


 湊先輩がハッと肩を震わせた。

 血まみれの父親の手に頭を撫でられながら。彼は、静かに目を見開いていた。


「生まれた湊を見たとき、ああ、この子には希望に満ちた未来を進んでほしいなって。夢を追いかけ続けてほしいなって。そう思った」


 ゲホ、と湊先輩のお父さんは咳き込む。血と汗に濡れた口元が震えていた。

 弱々しい姿に見えるはずなのに。静かに話す彼の姿には、鋭いほどの力強さがあった。


「どんな、人生でもいい。この子の行く道が、この子にとって希望に溢れていて、どこまでも走り抜けていけるといいな、って……」

「…………」

「子供の夢が叶うこと。子供が未来に希望を抱いて生きていくこと。それが、俺の新しい夢になった」

「…………」

「俺は、他人のことなんて、考えちゃいない。自分のために、動いているだけだよ。世界を壊させたくないのは、俺のエゴだ」

「……つまり、何が言いたいの?」


 焦れたように語調を強めるママに、彼は、ふっと小さな息を吐くように言う。


「君に、世界は終わらせない。この子達の夢がある未来を、壊したくないんだ」


 お父さんは笑った。


「親だからね」


 ママはじっと黙って彼の話を聞いていた。斜め下に視線を落として、冷たい地面を見下ろすようにじーっと身動ぎもしなかった。

 深い溜息がその喉を通り過ぎていく。乾燥した唇をやわく噛んで、ママは不意に、切ないほど大人びた顔をした。


「親、ね」


 乾燥したその声は。悲しんでいるようにも、呆れているようにも、両方に感じ取れた。


「私はきっと、いい『親』にはなれなかったわ」


 ママの手が力任せにステッキを引き抜いた。

 血が飛び散り、呻き声をあげた湊先輩のお父さんは、痛みに耐えかね後ろによろめいた。

 彼の手は激しく震えていた。もはや、ママに立ち向かうだけの力など残っていなかった。

 凶器の矛先が二人へと向けられる。湊先輩は透明な息を呑み、お父さんはそんな息子を庇おうと咄嗟に腕を突き出す。

 振り下ろされる血まみれのステッキ。

 突き飛ばされたように伸びた私の触手が、凶器を握るママの手を弾いた。


「縺輔○縺ェ繧、」


 巨大な咆哮をあげて私はママの元に飛び込んだ。

 触手が瓦礫を吹き飛ばし、遠吠えがビリビリと空気を震わせる。呆気に取られる湊先輩とお父さんを背中に庇い、私は無数の触手をママに叩きつけた。

 魔法少女のヒールが地面を蹴る。大きく飛び上がったママが柵の上に着地すれば、直後に私の振るった触手が柵を根本からぶっ壊す。

 ゴウゴウと吹き荒れる風が私達の体を震わせていた。戦意と高揚に皮膚の表面を汗ばませ、私達は大口を開けて声を張り上げる。


「邪魔をしないで、ありす。私はここを出ていくの。他の星で、私は魔法少女になるの!」

「縺薙l莉・荳翫?√∪縺セ縺ョ繧ョ繧サ繧、繧キ繝」縺ッ蜃コ縺輔○縺ェ繧、ッ」


 これ以上、ママに好き勝手させるわけにはいかなかった。

 あの恐ろしいほどの執着があれば、他の星でもママはきっと魔法少女になれるだろう。そうなればまた楽土町と同じような悲劇が起こる。新たな犠牲者が現れる。

 ここでママを止めなければいけない。

 私がママをここで倒さなければいけないのだ。


 白い足が展望台の地面を蹴る。まっすぐに伸びた手が空へ向かって伸ばされる。黒く染まった片翼が広がり、ママの爪先が宙に浮いた。

 怪物の爪がママのヒールを引っ掻いた。だがママは力任せに靴を破き、素足になって私の拘束から抜け出す。

 追いかける私の触手は、あとたった数センチ、ママの足に届かない。


「あの宇宙船は私のものよ!」


 ママの絶叫が鋭く空をつんざいた。

 空に浮かぶ宇宙船が、それに呼応するようにチカチカと瞬いた。

 その瞬間。ぶわっと横から膨らんだ何かが、私とママの頭上に影を作った。


『あれはぼくの船だッ!』


 私達の目が同時に横を向く。

 ドロドロと膨らんだ、奇妙なピンクと黒色のスライムがそこにいた。真っ黒な洞窟のようにパカリと開いた大口が、私達の方を向いていた。

 千切れた触手がその表面を這っているのを見て、それが半壊したチョコなのだと気が付いた。

 まだ生きていた。

 チョコが、私達に向かって鋭い牙を剥いていた。


 あ、と脳味噌の奥で小さな声を出した。それは奇しくも目の前にいるママの声と重なった。

 目の前に広がるどこまでも深い暗闇に、息を呑む。びっしりと生えた鋭い牙は、怪物の体さえも簡単に噛み砕けそうだった。

 間に合わなかった。

 逃げる時間はない。


「――――ママ、ありす!」


 力強い腕が、私とママの体を突き飛ばした。

 魔法少女の体も怪物の体もよろめくくらいに凄まじい力だった。


「、」


 柔らかな手の平だった。短い腕と、ふっくらした手の形と、丸っこい爪をした手だった。

 よく知っている。

 大好きなパパの手なのだから。


「繝代ヱ」


 見開いた目に、私達を突き飛ばしたパパの顔が映る。

 パパは笑っていた。いつも通りの優しい顔で、私とママに微笑んでいた。

 その体に、チョコの牙が深く突き刺さる。


「――――!」


 私の悲鳴は、近くに落下した流星群の音に掻き消された。

 轟音が展望台を揺らす。振動する地面に転がった私は、弾かれたように立ち上がって、チョコの元へと駆け出した。

 勢いよく伸ばした触手が地面でうごめくチョコを吹き飛ばす。その下に広がるおびただしい赤色を見た瞬間。私の心臓は凍り付いた。


「…………」


 パパの体は欠けていた。腰から下が少なくなっていた。

 誰だって、一目見た瞬間に分かる。

 これは、もう、無理だ。


「あ、りす」


 近付いた私の顔を見て、パパはぼんやりと笑った。白い顔に苦痛の色は浮かんでいなかった。

 それはいいことでもあったし、悪いことでもあった。


「…………縺ゅ=」


 ボタ、と大粒の涙が一つパパの顔を濡らす。パパはそれにくすぐったそうに笑って、私の頬をそっと撫でた。

 あまりに突然すぎた。前触れもなにもない、あまりに残酷な絶望だった。


『馬鹿な男だ』


 静かにチョコが立ち上がる。うごうごと蠢く触手が、パパを嗤うように二本打ち鳴らされた。


『どちらかだけ助ければ、ギリギリ避けられたかもしれないものを。意味もないのにさ。どうせこの戦いで、片方は死ぬのに!』

「…………いいんだ」


 パパはゆるやかに息を吐いて笑った。チョコの言葉などちっとも気にした様子なく、ただ私とママを交互に見つめてほっと安堵の表情を浮かべる。

 離れた場所に立ち尽くすママは、死にかけている夫を、無表情に見下ろしていた。


「守りたかったから、守ったんだ。……だから、これで、よかった」

「…………」

「意味はあったさ」


 いや、と私は小さな声で呻いた。

 いや、やだよ。いや。

 口から零れるのは怪物の言葉ばかりで。嫌だという言葉をパパに伝えられない。伝えたってどうにかなることじゃないと、分かっては、いたけれど。

 じわじわと込み上げる涙が止まらなかった。次々涙を零して項垂れる私の頭を、パパは、いつものようにそっと撫でてくれていた。

 巨大な怪物の頭を。柔らかなピンクの髪を撫でるように。

 やだ……。いや……。パパ、パパ。

 行かないで。


「ぼくは……花子の、夫で。…………ありすの、父親、だから、ね」


 パパの瞬きがゆっくりになっていく。

 呼吸の音が薄くなっていく。

 薄くなっていくパパの命に縋りつく。私は顔をぐしゃぐしゃにして、白くなっていくパパの手に頬をすり寄せた。


「繝代ヱ」


 パパ、と私は呼びかけた。大好きな名前を何度も呼んだ。

 パパはそんな私の言葉が通じたように、優しく笑って。

 最後に一度。私の頬にキスをした。

 怪物の頬に、優しいキスを。


「愛してるよ」


 白い息が喉を通り抜けて。

 そして、パパの喉はもう動かなかった。

 握っていたパパの手から、眠りにつくときのように力が抜けていった。


「、」


 私の喉がか細く震えて。音にならぬ嗚咽が一つ、零れて消えた。


「繝代ヱ。繝代ヱ。繝代ヱ」


 愛してるよ。

 パパが最後に言った言葉が、何度も頭の中を反芻していた。


 きっと、どちらか片方を選べば助かると分かっていたって。

 パパはそれでも私達を二人共助けただろう。


 その子の夢を応援してやりたいと思うこと。未来を願ってやりたいと思うこと。

 その理由はきっと、親だから、夫婦だから、恋人だから、友達だから、家族だから。どれでもあって、どれでもない。

 愛しているから。

 それ以上の理由はないのだ。


「――――……」


 私は立ち上がって顔をあげた。ママは、夫の死体に目を向けることなく、キラキラと輝く宇宙船を見上げていた。


『行かせないよ。あれはぼくのだ。君のじゃない。ぼくのものだ!』

「死にかけの宇宙人に、一体何ができるっていうの?」


 ずるずると床を這うチョコを足蹴にしてママは笑う。怒りに体を泡立たせていたチョコは、その瞬間ハッとしたように顔を上げる。つられて顔を上げたママも振り返り、私を見てその目を僅かに見開いた。

 今、自分がどんな顔をしているのかは分からなかった。

 ただ体中から沸き上がる感情が、ドロドロとした触手に変わって、唸りをあげているのは分かった。

 ママとチョコの顔が恐怖に歪む。二人はバッと息を合わせたように駆け出した。私は吠声をあげてそれを追いかけた。

 胸が激しく脈打っている。全身が熱くて、目に涙が浮かんだ。


「縺セ縺セ」


 だけど、分かっていた。

 この感情は、怒りの感情ではない。


「どきなさいっ!」


 屋上の端から飛び上がろうとしたチョコをママが踏みつけた。素足がぐちゃりと黒い肉を踏み付け、チョコはギイィと奇妙な悲鳴をあげる。

 どちらが先に宇宙船に辿り着けるか。僅かな時間の競争の末、勝利に傾いていたのはママだった。ママはさきほどと同じように屋上の縁を蹴って、空に飛びあがろうとした。

 黒い翼が広がって、その体が宙に浮く。

 だがまたしても。ガクンとママの体が傾き、その指先が空を切る。

 ママは凄まじい形相で足元を見つめ、そして愕然と目を見開いた。


『行かせないよ!』


 ボロボロのチョコがその足に縋りついていた。

 ママをそれ以上空へは飛ばせないと、全身をドロドロに溶かして邪魔をしていたのだ。


「あ」


 ママの目が大きく見開かれる。ピンク色のきらめく瞳に、私の振りかぶった巨大な拳が反射した。

 全身の筋肉を膨らませる。息を吸って、今出せる力の全てを、拳に込める。


 ――――私はきっと、いい『親』にはなれなかったわ。

 ママはさっきそう言った。

 私は、そんなこと思っていない。



 ――――ありす。



 だって、知っている。

 白い日差しの下で。赤ちゃんだった私を撫でてくれた、ママの手の平を。

 ふっくらとした頬にキスをしてくれたときの、ママの優しい微笑みを。



 ――――おいで、こっちよ、ありす。……わぁ。もうこんなに歩けるようになったのね。


 小さかった私がすくすく成長するたびに、嬉しそうに笑ってくれていた。

 何をしても喜んでくれた。いっぱい写真を撮って、思い出を残してくれた。


 ――――大丈夫、泣かないで。風邪なんてすぐに治るわ。ママがずっと傍にいてあげますからね。


 熱を出してしまった夜も、ママは一晩中隣にいて、私を看病してくれた。

 ママが歌ってくれた子守歌を私は今でも覚えている。優しくてあったかい、幸せな歌をよく覚えている。


 ――――ほら起きて。学校、遅刻しちゃうわよ。


 お寝坊な私をいつも起こしに来てくれた。ピンク色のエプロンについた、甘い卵焼きの匂いが大好きだった。

  優しい声の中うとうと微睡む時間は幸せで。ついつい狸寝入りをして、ママが起こしに来てくれるのを待っていたこともあったっけ。


 ――――ありす、誕生日おめでとう。もうすっかりお姉さんになったわね。


 毎年誕生日がくるのが幸せだった。たくさんのプレゼントより甘いケーキより、ママの笑顔を見るのがなにより嬉しかった。

 ずっと祝ってほしかった。

 これから先も、大人になっても、ずっと。


 覚えている。ピカピカのランドセルを背負って、ママと歩いたピンク色の桜並木を。

 覚えている。ママが作ってくれた、私の大好きなおいしいカレーライスの味を。

 覚えている。手作りのドレスを作ってくれて、一緒に魔法少女ごっこをした夜を。


 いつも私の傍にいてくれた。ずっとずっと傍にいて、優しく笑っていてくれた。

 たとえママが私を怪物にするため産んだのだとしても。

 ママが私に薬を与え続けていたのだとしても。

 私を愛していたことが全部嘘だとしても。

 あなたは十六年間も私を優しく育ててくれた。

 偽りでも。あなたはずっと私を愛してくれていた。

 それがいい親じゃなかったのだとは、私にはどうしても思えない。


 私の大好きな可愛い名前。ママが付けてくれた私の名前。

 あなたは、何度も名前を呼んでくれた。


 ――――ありす。


 好きよ。


 ――――ありす。


 大好きよ。


 ――――ありす。


 世界で一番、大好きなママ。




 ――――愛しているわ、ありす。




 嫌いになんてなれないわ。

 だって、愛しているんだもの。



「諢帙@縺ヲ繝ォ」



 愛しているわ、ママ。

 だからあなたを止めたいの。



 降り抜いた怪物の拳が、魔法少女の体を吹き飛ばした。

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