第92話 変身するんだ、ありすちゃん

『展望台に到着いたしました』


 擦れたワイヤーが火花を散らす異音の中に、アナウンスが無機質に混じる。

 僕は掠れていた意識を取り戻し、目を開けた。エレベーターは最上階に到着している。

 扉は開いていた。聖母様とチョコはもういなかった。僕達はよろめく足に力を入れ、展望台へと足を踏み出す。


「っ…………」


 空の青さが目にしみた。

 空の星はすっかりと薄くなり、地平線の向こうから昇ってくる日差しの気配を感じる、そんな空の色。

 誰もいない展望デッキに吹き付ける風は、朝のさみしい香りがした。


「ケホ」


 故障したエレベーターのエラー音はない。営業時間外の侵入者に対する警報も鳴らない。様子を見に来るはずだろう警備員も、今夜は避難していて、誰もいない。

 エレベーター傍の警備室を見る。展望台の管理と警備を兼ねているその部屋を見つめ、僕はポケットに手を突っ込んで鼻を啜った。


 そのピンク色はよく目立った。

 展望台の立ち入り禁止の柵を乗り越えたその向こうに聖母様とチョコが立っていた。

 だが僕達が近付いても彼女は振り返らず、じっと楽土町を見下ろしている。

 彼女の向こうに広がる街並みが僕達にもよく見える。

 立ち並ぶビルの群れ。交差点に向かってビル壁にかけられた大型ビジョン。

 いくつものビジョンの画面に流れているのは全て同じ映像だった。

 僕は無意識に、隣に立つありすちゃんの手を強く握りしめた。


『私は、魔法の女の子……』


 僕達が望む映像ではない。


『魔法少女ピンクちゃん!』


 それは、ピンク色の女の子。

 魔法が使える素敵な子。アイドルのように華やかに振りまく笑顔。

 魔法少女ピンクが、眩しい光で世界を輝かせているそんな映像が、街中に向けて発信されていた。


 綺麗な衣装を広げて彼女は怪物を倒している。その映像は聖母様が最初に変身したときからずっと繰り返し流れているものだった。彼女が澤田さんを殺す瞬間の映像は、どの画面にも映っていない。

 僕達が必死になって暴こうとした聖母様の本性は、まだ世間には知られていなかった。

 街の人々はいまだ、魔法少女ピンクが正義の味方だと、心の底から信じ切っているのだ。


「ほら、ご覧なさい。私はまだ魔法少女でいられるの!」


 風に乱れたぼさぼさのピンク髪が、聖母様の腐敗した笑顔を隠していた。

 破れたスカートが風にひらめいている。片翼だけになったみすぼらしい翼は、羽ばたくたびハラハラと汚れた羽を落としている。

 すっかり汚れた今の聖母様の姿は、背後のビジョンに映る美しい魔法少女の姿とは、程遠い。


「……そうやって、都合が悪いことを全部握り潰してきたんだな、あなたは」


 僕は思わず言った。ふつふつと込み上げる怒りが、低い呻き声となって喉を震わせる。

 ずっとありすちゃんの手を痛いほど強く握りしめている。だがありすちゃんは痛がることもなく、むしろ僕以上に力を入れて手を握り返してくる。

 彼女は苦しそうな顔で母親を見つめていた。泣いてはいない。だが湿ったまつ毛が束になって肌に張り付いている様が、見ていて辛かった。


 自分に都合が悪いものは消す。自分自身を守るためなら、いくらでも他人を犠牲にする。聖母様はそうやって生きてきた。

 一途に魔法少女を追った数十年もの人生だ。ボロが出そうになったことは何度もあっただろう。

 その度に相手を殺してきたのだ。無理矢理証拠を隠滅させて自分の地位を守ってきたのだ。

 彼女の人生は偽りと虚言でできている。

 その人生に自分の夫とありすちゃんを巻き込んだことが……僕には、どうしても許せなかった。


「上手くやっているでしょう? 私は結構、運がいいのよ」

「これからもそんな生き方が通用すると思うな。いつか必ず破綻が来る。今日みたいに!」

「ふふ」


 聖母様は呆れたように笑った。息を呑むほど大人びた笑みだった。まるで僕のことを、赤子のように幼い子だと馬鹿にした笑い方だった。


「破綻する前に壊せばいいじゃない」


 聖母様がゆるりと体を回す。ヒールの踵がリズミカルに床を叩き、乱れたピンクの髪が風に踊る。

 ふわりと広がる髪の中。彼女の腕に抱かれたチョコが、ぶつぶつと何かを呟いていることに、僕は気が付いた。

 嫌な予感がした。

 聖母様が、ステッキを振り上げる。


「さあ、殺しましょう!」


 空が光った。

 眩い閃光に目をつむる。眼球が溶けてしまいそうなほどの強烈なきらめきが、瞼ごしに眼球を焼いた。

 しばらくがたって、僕達はおそるおそる目を開ける。何が起こったのか理解できぬままぼんやりと顔を上げて、そして、息を呑む。

 心臓が止まりそうなほど。どこまでも美しい星空が輝いていた。


「…………」


 満天の星空。

 神様の涙を凍らせたような。世界で一番眩しいダイヤモンドを散りばめたような。心を震わせるほど素晴らしい星空が、楽土町を覆いつくすように、空に輝いていた。

 僕は一瞬、呼吸さえも忘れて星空に見惚れた。

 あまりに幻想的な光景に何も考えられなかった。

 隣のありすちゃんも同じだ。いっぱいに見開かれた大きな瞳に、星の輝きがキラキラと反射していた。


 ほとんど無意識に僕はカメラを持ち上げていた。星明りに美しく輝くありすちゃんの顔を、レンズが捉える。

 この瞬間を撮らなければ後悔する、と心が言っていた。

 興奮に汗ばむ指でシャッターを押そうとして。

 その瞬間。


 この光景は。まるでありすちゃんと初めて会ったときみたいだなぁ、と。そう思いだしたのだ。


「あ」


 弾かれたようにまた空を見上げる。

 早朝の空に輝く不自然な星空。無数の星空を見つめるうちに、それが、次第に大きくなっていることに気が付く。

 星が大きくなっている。いや、違う。星が近付いている。

 これはただの星空じゃない。

 流星群だ。


 僕とありすちゃんが初めて出会ったときに見た空。

 北高校を破壊した、あの悪夢の夜空。

 父さんの故郷、星尾村に降ってきた、流星群。


「――――ッ!」


 ゾッと心臓が凍り付いた。

 記憶にある夜空よりも。もっと……ずっとずっとたくさんの星が、楽土町に降ってこようとしているのだ。


「リセットだ!」


 チョコが唾を飛ばして叫んだ。


「リセットしよう、リセットしよう! 宇宙のゴミを楽土町に振りまいて、全部なかったことにしてしまおう。さあ、祈ろう。花子ちゃんに、聖母様に、魔法少女に。そうすれば、幸福な死が訪れるさ!」


 聖母様の腕の中でチョコが笑う。ピカピカと艶めく人工物の眼球が、宝石のように一等強く輝いていた。

 チョコが流星群を呼び寄せたのだと理解する。彼が一言唱えれば、瞬く間に流星群が降ってくるのだろう。

 弾丸の雨のようにザアザアと、楽土町に落ちてくるのだ。


 僕達は思わずゾーッと青ざめた顔を見合わせた。絶望した体から力が抜けて、今にも倒れてしまいそうだった。

 一年前、北高校に降ってきた流星群とは比べ物にならない。

 あれだけの星が降ってきたら楽土町なんてあっという間になくなってしまう。


 ああ、駄目だ、死ぬ。

 どこに逃げたって意味がない。

 死んでしまうんだ。学校の友達も、父さんと母さんも、皆……。

 僕達も…………。


『――――展望台に到着いたしました』


 無機質なアナウンスが絶望を切った。

 僕達は振り向いた。聖母様も笑みを止め、怪訝そうにそちらを見る。


「?」


 乗ってきたエレベーターのボタンが光っていた。いつの間にか地上に降りていたそれが、誰かを乗せて、最上階へとやってきたことを知った。

 一体誰が。

 この場にいる誰もがそう思った数秒後。静かに開いた扉の向こうから、コツリと地面を叩くステッキが顔を覗かせる。

 撫でつけたロマンスグレーの髪。

 口元を隠す黒いマスクと、風にひらめくフォーマルな黒い服。

 その先にいる人の姿を見た途端。僕とありすちゃんは、同時に声をあげた。


「父さん?」

「パパ!」


 エレベーターから降りてきたのは、ロマンスと優雅をまとったマスター。

 その後ろには僕の父さんと、その腕に支えられて立つ、ありすちゃんのお父さんがいた。


「やあ、花子ちゃん」

「……伊瀬くん」


 僕の父さんが一歩前に出て聖母様に言った。

 パサついた前髪が目元を隠している。粉っぽい肌は疲労のせいで、白く血色がない。

 だが父さんはいつもと変わらぬ優しい表情で聖母様を見つめていた。その背後に見える空に顔を向け、今にも降ってきそうな流星群に目を細める。


「綺麗な空だ。写真を撮りたくなるよ。俺が君を連れ出したあの晩のように」

「…………」

「懐かしいね」


 幼馴染の少年だった男の言葉に、聖母様は答えなかった。

 彼女は怪訝に彼らを見つめる。彼女も理解できていないのだろう。幼馴染の男と、自分の旦那が、どうしてこの場所にいるのかを。

 頼まれたんだ、と父さんは言った。


「自分を妻と娘の所に連れて行ってくれって、彼に頼まれたんだよ」


 ありすちゃんのお父さんが、よろめくように一歩前に出た。彼は病院にいたはずだった。魔法で撃たれた肩はまだ治っていない。血が滲んだシャツも、やつれた顔も、痛々しい。

 僕の父さんは、それを黙って見守っていた。それ以上手を貸そうとはしなかった。

 僕はありすちゃんのお父さんが父さんに何を言ったのか、それに父さんが何を思ったのか、ほんの少しだけ分かったような気がした。

 父さんは、彼の思いを無碍にはできなかったのだろう。

 同じ父親として。


「……やっと会えた」


 ありすちゃんと、聖母様。二人を見た彼は、心からの安堵を笑みにして浮かべた。

 その表情はあまりにも純粋だった。彼の目に映っているのは怪物でも聖母様でもない。自分の娘と自分の妻。それだけだ。

 聞いているはずだ。知っているはずだ。

 ありすちゃんのことも、妻のことも。魔法少女と怪物の全ての話を、彼は。


「どうしてあなたが、ここに来るのよ」

「当然じゃないか。妻と娘が喧嘩をしていたら、止めなくちゃ」


 ただの親子喧嘩とでも思っているのか。

 呑気に聞こえる夫の言葉に、聖母様は苛立ったように眉根を寄せる。


「いつまで夢を見ているの? 家族ごっこは、もうおしまいなの」


 突き放すように聖母様は言った。よれた目尻に化粧が寄って、不健康な顔つきに見えた。

 彼女はもう本性を隠さない。妻の顔も、母の顔も脱ぎ捨てた。ただ一人の幼い少女の顔が、まっすぐに毒を吐く。


「ありすのことも、あなたのことも、家族だなんて思ったことは一度もない」


 ズクリと胸が軋んだ。隣に立つありすちゃんが小さく鼻を啜った。涙を浮かべる彼女の横で、僕も奥歯を強く噛み締める。

 それ以上言わないでくれ。頼むから、娘の前で父親を否定しないでくれ。

 いくら願ったところで聖母様が止まることはない。醜く歪んだ彼女の口は、ざらついた言葉を滑らせる。


「ねえ、教えてあげる。私があなたと結婚した理由。……いいえ、最初に話しかけた理由」

「話しかけた、理由?」

「私は、あなたの苗字と精子だけが欲しかった」


 トン、と聖母様はヒールを鳴らしてお父さんに近付いた。彼の腕を自分の元に引き寄せて、膨らんだ喉をいやらしくなぞる。


「姫乃という可愛い苗字、怪物ありすを産むための精子。それだけが欲しかった。醜いあなたはもういらない。私は、あなた自身を愛したことなんて一度もないの」


 上手く息を吸うことができなかった。喉の奥が熱く震えて、僕は湿った息を吐く。

 話を聞いているだけで辛かった。長い時間愛していた人に拒絶される悲しみは、一体、どれほどのものなのか。

 愛していた。ずっと、ずっと。君も同じ気持ちなのだと、何の疑いもしなかった。

 心から愛していた……。


「それで?」

「は?」


 ありすちゃんのお父さんは笑った。

 あまりにも清々しく。突き刺す妻の拒絶に、驚くほど優しく笑っていた。


「君が僕を愛していないから何だっていうの」

「なに、言って」

「ぼくは子供の頃から何度もいじめられてきたんだ。とろくさい、ブサイク、とか色々さ」


 ありすちゃんのお父さんは一歩聖母様に近付いた。怪我でふらついていた足取りは、今はただ、しっかりと力強く床を踏みしめていた。


「暗い人生に光をくれたのは君だったんだ。君が僕に話しかけてくれたあの瞬間から、名札を拾ってくれた、あのときから」

「…………」

「ぼくの人生はずっと幸せだった」


 数十年の幸福な生活は偽物だった。

 それでも彼は前に進む。

 聖母様はゆっくりと近付いてくる夫に目を見開いた。激しい拒絶の表情を浮かべ、その肌に鳥肌を立てる。


「わ、私は。あなたのことを愛していないのよ」

「知ってるよ。君がぼくを愛していないことは、もう分かってる」

「だったら!」

「それでも。僕は、君を愛しているんだ」


 彼は聖母様を抱きしめた。

 力強い指先が、魔法少女のドレスにしわを寄せる。愛する妻の存在を確かめようとするかのように、強く、強くその体を抱きしめる。

 固まる聖母様の肌に頬をすり寄せて。重く湿った声で、彼は言った。


「だから君を止めに来た」


 聖母様の顔がどす黒い赤色に染まった。

 生理的な嫌悪感に歯軋りをした聖母様は、奇声じみた悲鳴をあげて夫の胸を突き飛ばす。


「馬鹿なことを言わないで!」


 よろけた彼に、彼女は汚く唾を吐いて怒鳴った。


「あ、あなたが来たところでどうにもならないのよ。魔法も使えない、怪物にもなれない人間に何ができるっていうの。私の夢を、邪魔しないで!」

「……馬鹿なことを言っているのは君だろう!」


 鋭い叫びが聖母様を打った。華奢な肩をビクリと跳ね、彼女は困惑に目を見開く。

 ありすちゃんのお父さんは真っ赤な顔で震えていた。充血した目に涙を滲ませて、胸の内を妻へとぶちまける。


「ぼくは君を愛している。だからこそ……君との間に生まれたありすのことを、心の底から愛している」


 ありすちゃんが息を呑む気配が伝わってきた。

 艶めいたピンク色の瞳が、父親を見つめて、涙を滲ませた。

 ありすちゃんのお父さんはそんな娘を見つめていた。燃える眼差しが、ボロボロに傷ついた娘を見て、より一層熱い光を灯す。

 彼は知っている。自分の妻の目的を、自分の娘が怪物であることを。

 だからこそ、それを知ったからこそ、彼はこの場所にやってきたのだ。


「自分の子供が戦っているのを呑気に眺めていたい親はいないだろう。自分の子供の夢を応援してやりたくない親はいないだろう。自分の夢のために子供を犠牲にする親なんて、あっていいはずがないだろう!」


 十六年。長い年月だ。

 ありすちゃんのお父さんは、それだけの年数、ずっとありすちゃんのことを見守ってきた。腕に収まるほど小さかった娘が、こんなに大きく育つ姿を、一番近くで見つめてきたのだ。

 愛しているのだ、娘のことを。

 怪物だとか、魔法少女だとか、そんなものは関係なく。

 彼はただありすちゃんを心の底から愛しているのだ。


「娘を傷付ける人を止めに来た。それだけだよ。親ならば誰だって、その気持ちがわかるはずだ」

「…………」

「君は、ありすの母親だろう?」

「……馬鹿な男」


 聖母様は冷たく言った。

 冷え切った眼差しには、夫の熱がこもった言葉など、ただ一つも届いてはいなかった。

 親が子供を愛するのが当然というならば。聖母様は最初から、ありすちゃんのことを怪物に育てようとはしなかった。

 ありすちゃんのお父さんとお母さんは。最初からあまりにも、相容れない人間同士だったのだ。


「あなた以外の男を選べばよかった」


 聖母様は突き放すように言った。同時に、彼女の手の中で魔法のステッキが光った。

 ありすちゃんのお父さんがハッとしたように顔を上げる。だが彼は逃げなかった。自身の心臓を貫こうとする魔法に、目を逸らさず立ち向かっていた。


「魔法少女ピンク!」


 突然横から飛んできた言葉に聖母様は反応した。

 パッと顔をあげた彼女の目に、パシャリと瞬くフラッシュが突き刺さる。


「ッ」


 鷹さんのカメラが聖母様をレンズに収めていた。怯む彼女に構わず、鷹さんはもう一度シャッターを押す。パシャパシャと続くシャッター音に、聖母様の顔が歪む。

 聖母様の目はまっすぐにカメラを見つめていた。鷹さんのカメラ。そして父さんと、僕とありすちゃんが持つカメラ。

 攻撃には使えない。ただ写真を撮るだけの、映像を撮るだけの道具が。魔法少女ピンクの心を荒く逆立てる。


「撮るな!」


 魔法は鷹さんめがけて放たれた。それを追いかけるようにチョコが飛び跳ねて、ギラついた歯を剥き出しにして鷹さんに襲いかかる。

 ぶわっと顔に汗を浮かべた鷹さんの真正面。飛んできた魔法が貫いたのは、僕の父さんだった。


「っぐぅ!」


 鷹さんを庇って飛び出した父さんの腕を魔法が貫く。

 父さんの顔が険しく歪み、食いしばった歯の隙間から苦悶が零れた。

 だけど父さんは倒れなかった。

 険しい顔のまま、追い打ちに飛びかかってきたチョコの体を鷲掴み、布でできた体を力任せに引き裂いた。


「あ」


 ありすちゃんが小さく声をあげた。

 チョコの断末魔は聞こえなかった。古びた布でできていた体は、ぶちぶちと縫い目が破れ、中に詰まる黄ばんだ綿を空中に撒き散らす。

 目を丸くした聖母様の足元にチョコの片腕が飛んでくる。動揺した聖母様の足がよろめき、踏んだ布から綿がまた零れる。


「終わりにしようよ、花子ちゃん」


 父さんが言った。


「……どうして?」


 聖母様は声を震わせた。舌足らずな幼い声を不安気に揺らして、スカートの裾をキツク握る。

 父さんはまっすぐに幼馴染の少女を見つめていた。腕からだらだらと流れる血が足元に小さな水たまりを作っていく。

 だが静かに凪いだその顔は、腕の痛みなど何も気にしちゃいなかった。


「伊瀬くんまで、邪魔しないでよ。昔は私の夢を応援してくれたじゃない……」


 全ては数十年前の流星群からはじまった。

 聖母様との過去を、僕は父さんから簡単に聞いていた。

 キラキラと光る星が叶えてくれた願い事。不思議な姿をした宇宙人。仲良しだった幼馴染の女の子が、心の底から願っていた夢。

 幼い少年は少女の夢を本当に叶えてあげたいと思っていただろう。

 だが大きく育った少年は今、少女の夢を壊すためにここにいた。


「人を悲しませる夢はただの悪夢でしかない。そんなものを、夢と呼んではいけない」

「伊瀬くん……」

「どれだけ心から望んでいても、諦めなきゃいけない夢もあるんだ」

「…………」


 叶えてあげたかっただろう。

 大好きな友達の夢を、応援してあげたかっただろう。

 だけど昔、一緒に星空を見上げたあの女の子の夢は、叶えてはいけないものだった。


「君は魔法少女にはなれない」

「、ふ」


 聖母様は笑った。

 今夜、何度同じ言葉を言われただろう。

 ピンク色の唇が引きつったように震えて。彼女は最早、可笑しそうな顔をして体を震わせた。長いまつ毛が瞬いて、その目尻から透明な涙が一つ、頬を伝う。

 彼女は一つ、溜息を吐いた。


「……もういい」


 彼女が呟いたその瞬間。凄まじい恐怖が全身を貫いた。

 全員が弾かれたように空を見上げる。膨れ上がる警戒心が、脳味噌をガンガンと叩いている。誰かが空を指差して何かを叫んだ。

 空に浮かんでいた流星群の一つが、ガクンと唐突に速度をあげ、楽土町に落下した。


「――――!」


 地面が揺れた。

 巨大な轟音が鼓膜を殴って、爆風が僕達の体を吹き飛ばす。

 展望台の床がめくれて、拳大の瓦礫がいくつも頭の横を掠めていった。

 僕とありすちゃんは壁に叩きつけられた。意識が飛びかけるほどの豪風の中、僕達はお互いの体を抱きしめ合って、衝撃に耐える。

 ビリビリとした振動が段々に治まっていった。口に入った土埃を吐き出して、僕達は同時に顔を上げる。

 楽土町が、燃えていた。


「、あ」


 流星群が直撃したビルが黒煙を噴き上げていた。その近くの道路は抉れ、瓦礫が辺りに散らばっている。

 茫然とする間もなく二つ目、三つ目の流星群が降ってくる。

 あっと叫ぶより早く流星群は地面にぶつかり、巨大な爆発が起こった。あちこちに地面に流星群が衝突する。ビルというビルが揺れていた。

 何本もの眩い光が尾を引いて落ちてくる。

 それは悲しいくらいに美しくて、そして、絶望するほど恐ろしい光景だった。

 死ぬ間際に見る悪夢みたいだった。


「湊先輩!」


 ありすちゃんが僕を突き飛ばした。

 直後、空から降ってきた流星群の一つが、展望台に直撃した。


 辺りの窓ガラスというガラスが割れる。大量の破片が、倒れ込む僕達のすぐ傍に飛び散った。

 衝撃はさっきよりも強烈だった。後頭部をガツンと殴られたような痛みに一瞬意識が飛ぶ。

 顎を打った衝撃にハッと目を開けた僕は、すぐ傍の地面にぽっかりと穴が開いていることに気が付く。


「う、わ」


 床が半分なくなっていた。流星群の直撃を受けた展望台は、ボロボロと瓦礫を遥か下の地上に落としながら崩れていく。

 香ばしい黒煙が肺を焦がす。ゲホ、と咳をすれば傷付いた喉から少量の血が飛んだ。


 降ってきているのはまだ小さな流星群だった。それがたった一つか二つで、この有様だ。

 まだ空に輝いている大量の星が全て降ってくれば……この街がどうなるかなど、考えるまでもない。


「皆死んでしまえばいいのよ」


 聖母様は絶叫するように笑い声を響かせた。ピンク色の眼差しをギョロギョロと回し、顔中を汗みずくにして魔法のステッキを振り回す。

 彼女がステッキを振るたびに流星群が降ってきた。おもちゃを振り回すかのように簡単に魔法を振り回して、聖母様は楽土町を破壊する。


「あなた達も全員死んでしまえばいい。ありすも、伊瀬くんも、私の邪魔をする人は皆いなくなっちゃえ!」


 醜く歪んだ顔でステッキを振り回す聖母様は、どこまでも幼い子供のようにも、しわがれた老婆のようにも見えた。

 背筋に鳥肌を立てる。純粋な狂気を剥き出しにする彼女の姿は、信じられないほどに怖かった。


「あなた達にできることは、もう何一つないんだから!」


 だが彼女がもう一度ステッキを振り上げたそのとき。後ろから飛びついたありすちゃんのお父さんが、彼女の体を羽交い絞めにした。

 ギク、と聖母様の体が強張る。彼女が無理矢理夫を引き剥がそうとした瞬間、今度は僕の父さんが聖母様に掴みかかって、その腕を押さえ込んだ。


「湊!」


 鋭い声が僕の背中を叩く。

 弾かれたように顔を上げた僕は、聖母様の腕を掴む父さんの姿を見た。

 まだだ、と父さんは力強い声で言った。


「まだ、できることは、あるんだろ?」


 父さんは切るように言った。腕にかいた汗が、血と混じってぽたりと地面に落ちる。ぶるぶると震える腕には太い血管が浮き出していた。

 聖母様が僕達の方を見る。その瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。

 それは、僕とありすちゃんの目がちっとも絶望せず、いまだギラギラと燃えていたからだろうか。


「することが、あるんだろ!?」


 僕は息を呑んで父さんの顔を見つめた。無意識にポケットに突っ込んだ手が、そこに入れていたUSBを握りしめる。

 雫ちゃんが教団のパソコンに差したものと同じものだ。涼に渡して、彼が建物のパソコンに差してきたのと同じものだ。

 聖母様を倒す。

 僕達は今夜それを誓って戦っていた。魔法少女ピンクを倒すために立てた作戦があった。

 戦いながら少しずつ進めていた僕達の作戦は、あと一つのUSBを差すだけで終わる。


 聖母様の顔色が変わった。狂気に飲まれていた顔が理性を取り戻し、じわりとした不安をその瞳に滲ませる。

 父さんが僕達に向かって怒鳴った。


「行け!」


 僕はありすちゃんの手を引いて走り出した。

 弾けるように飛び出した僕達を見て、聖母様の顔にぶわりと恐怖が浮かぶ。


「チョコッ!」


 裏返った絶叫が、地面に散らばるぬいぐるみの残骸を叩いた。

 デロリと黒い粘液が汚れた綿の隙間から流れだす。

 驚愕に顔を白くする僕達の前で、粘液はボコボコと膨れ上がり、濃いピンク色の触手を形作っていく。

 僕達の前に立ち塞がったのは、ピンク色の宇宙人だった。


『何をしようって言うんだい?』


 ありすちゃんがくぐもった呻き声を上げた。目の前のチョコを睨みつけるその目には、隠しきれない怯えが滲んでいる。

 粘ついた触手が地面を揺れている。ぶくぶくと泡立った粘液の中に八つの目玉が蠢いて、僕達を凝視する。

 口がどこかは分からない。彼が喋るたび、気が遠くなるほど甘ったるい体臭が、肺を焼くようだった。

 本来の宇宙人姿のチョコを、僕達は初めて見た。


『どうするつもりなの。ネットに繋がっていないそのカメラで、また何かをしようっていうの?』

「きゃっ」


 チョコの触手がありすちゃんの足に絡みついた。ガクンと崩れたありすちゃんの体を、チョコは容赦なく引きずった。


『動画をアップする時間も与えないよ。そうしたところで、またすぐに削除してやる!』


 ありすちゃんは慌てて触手を外そうとする。だがぶよついた肉に指が触れた瞬間、しみだした粘液がありすちゃんの手を滑らせる。 

 嫌悪感に皮膚を粟立てて、ありすちゃんは思わず動きを止めてしまう。

 チョコはその足に噛みつこうとした。大きく開いた口の中にびっしりと生えた鋭い歯が見える。


「ありすちゃん!」


 僕は咄嗟にありすちゃんの腕を引っ張った。チョコの口は空気を齧る。

 八つの目玉がギョロリと僕を見つめて、伸びてきた触手が今度は僕の腕に絡みついた。両腕を絡めとられ、身動きができなくなる。

 チョコの体がぐいっと僕に近付いた。

 ぶわりと鼻先に甘ったるい臭いが香る。

 僕の見開いた眼球に、チョコががぱりと開いた大口が映り込む。


『ギャア!』


 だが悲鳴をあげたのはチョコだった。

 彼に齧られるより先に、僕が、チョコに噛みついたのだ。


「ぅぶ、ぐ」


 生ぬるい粘液がごぷりと溢れ出す。千切れかけの触手が口の中で痙攣する。

 吐き気がするほど甘ったるい肉片をぼたぼたと口端に垂らして、僕は間近に見えるチョコの目を見つめた。

 ふ、と僕は思わず微笑む。

 八つの眼球が驚愕に見開かれた。


『あッ』


 ブチンと触手を噛みちぎる音が響く。チョコの泡立った絶叫の中で、僕はゴクリと粘液ごと触手を飲み込み、胃の中に広がる甘ったるさに目を細めた。

 宇宙人の不気味な触手だって、僕は何度でも飲み混める。

 ぬいぐるみの姿より。今の宇宙人姿のチョコの方が、僕は好きだった。


「どいてろよっ」


 僕はチョコを蹴り飛ばす。ぶちゅりと潰れる触手の気持ち悪さなど、何も感じなかった。

 ありすちゃんの手を引いてまた走り出す。僕達の足が向く先は警備室だった。

 さきほどの爆風で扉は鍵ごとぶっ壊れ、穴だらけになった壁の向こうに、バチバチと火花を散らす機械達が見える。


『縺上◎縲√¥縺昴?√¥縺昴▲!』


 だがチョコもまだ諦めていなかった。苛立ちの声と共に、その体がぶくぶくと膨れていく。

 千切れた触手が復活する。巨大な肉塊のように膨らんだチョコは、触手を鞭のようにしならせて、僕達の後を追ってくる。

 僕達が警備室に飛び込もうとする直前、チョコの放った触手が、壁ごと警備室を半壊させた。

 もはや部屋とは呼べなくなった空間にはたくさんの機械類が置かれていた。温度管理用やら何やらと書かれたそれらの中に、当然何台かのパソコンも並んでいる。

 外からまる見えになった警備室に、僕達は瓦礫を飛び越えて転がり込んだ。


『させないよ!』


 分厚い触手が降り落ちる。僕とありすちゃんは咄嗟に左右に飛びのいて、直撃を避けた。

 直撃を受けた機械がバチバチと火花を散らす。チョコは触手に絡みついたコードを無理矢理引き千切って、壊れた機械を振り回して僕達に投げつけた。

 ひゅ、とどちらともなく息を呑んだ音が聞こえる。


「っうあ!」


 それは僕達には当たらなかった。

 滑り込んできた誰かの靴が僕の足にぶつかる。

 飛んできた血が、パタタッと僕の頬に散った。


「た、鷹さん」


 目の前に鷹さんの背中が見えた。

 彼女の白いシャツの肩が、落ちてきた血で赤く染まっていく。


「……無事?」


 ゆっくりと振り返った鷹さんの顔から、ドロリと血が流れた。

 僕を庇って機械の直撃を受けた彼女は、茫然とする僕に大した怪我がないことを悟ると、穏やかに笑う。

 だがチョコの攻撃はそれで終わらなかった。

 チョコの全身が激しい怒りに包まれる。

 ぶわりと膨れ上がった濃厚な怒りが、僕達の背筋をゾッと粟立たせた。


『邪魔をするなよ』


 チョコの体がまた膨れた。それは、一本一本が丸太のように膨らんだ触手の塊のせいだった。

 天井いっぱいに触手が伸びる。血管を浮かせたピンク色の触手が、僕達めがけてまっすぐに振り落とされようとしていた。


「避けろ、湊!」


 外からこちらを見ていた父さん達が青ざめる。だがその言葉には従えなかった。避けようったって、どうすることもできなかった。

 鷹さんが咄嗟に僕達を抱きしめる。ありすちゃんと僕は悲鳴をあげて、降ってくる触手に目を見開いた。


「まったく。素晴らしい野蛮さだ」


 誰かの声がした。


 パンッ、と。

 僕達の目の前でチョコの触手が霧散した。

 一拍遅れて吹いた衝撃波がチョコの粘液を四方の壁に散らす。

 茫然とする僕達の目の前で、ロマンスグレーが風に揺れた。


「無事かね?」


 いつの間にかそこにはマスターがいた。

 こちらに振り返った彼は返り血の一つも浴びず、ステッキを軽やかに回して、さっきの鷹さんと同じ言葉を吐いた。

 一瞬のうちに目の前に現れたマスターが杖で触手を切ったのだと、そのときになって、ようやく気が付く。


『魑・縺ョ縺ャ縺?$繧九∩!』


 チョコが吠える。おびただしい触手の雨は止まず、続く第二陣の攻撃がまたこちらに襲いかかる。

 マスターが強く床を踏みしめた。砂塵を踏みにじる、ザリッという音が耳に響く。

 風を切るように振られた杖が真一文字に触手を切った。

 バターのように滑らかな切断面を残し、触手と粘液が天井や床に散る。

 続く三陣、四陣の攻撃をマスターの杖が防ぐ。

 それを見ていた鷹さんがぐっと喉を引き締め、床に転がっていたパイプ椅子を持ってマスターの隣に加勢した。


「走れッ」


 鷹さんが鋭く言った。

 その瞬間。僕とありすちゃんは弾かれたように駆け出した。

 目的はたった三歩先にあるテーブルの上のパソコンだ。ポケットから取り出したUSBを握り、そこへ突き立てようと手を伸ばす。


「やめろ!」


 しかし、その瞬間、聖母様が凄まじい絶叫を上げた。

 彼女は力任せに父さん達の拘束を振りほどいた。父さんの額を全力で殴りつけ、動揺するありすちゃんのお父さんを無理矢理引き剥がす。

 ビリビリと魔法少女の服が破ける。夢焦がれていた衣装を破るほどの怒りに全身を燃やして、聖母様は鋭く魔法のステッキを振り下ろした。

 ピンク色の閃光が放たれる。

 それは、ありすちゃんのお父さんの体を貫き、マスターの杖を弾き飛ばし、軌道をずらした。

 マスターと鷹さんの間を抜けて、チョコの触手が一本、僕とありすちゃんの腕に絡みついた。


「!」


 宇宙人の全力が僕達の腕を握り潰す。

 脳味噌に閃光が弾けて、視界が真っ赤に染まる。

 肉が捻じれ、骨が折れて砕ける音が、体の内側から聞こえた。


「っ、あ」


 だけど。

 だけど僕達は、USBを離さなかった。

 噴き出した血で両手を濡らして、チョコの触手を振りほどくように、二人でまっすぐ腕を突き出す。


「――――あああぁっ!」


 聖母様は僕達に向けて魔法の光を放とうとしたが、間に合わなかった。

 僕とありすちゃんが握りしめたUSBがパソコンに差し込まれた瞬間。

 真っ暗だったスクリーンに、白く文字が浮かび上がった。



"ダウンロードが完了しました"



『…………はぁ?』


 チョコの呆けた声が、静まり返った部屋に響く。

 皆が動きを止めて僕達を見つめていた。

 マスターと鷹さんは防衛をやめてその場に立ち尽くしている。僕の父さんは額を押さえてぐったりと蹲っている。ありすちゃんのお父さんはお腹をびっしょりと血で濡らして崩れ落ちている。聖母様は全身を強張らせた無表情でこちらを見つめている。

 静かな空間に、僕とありすちゃんの呻き声だけが聞こえていた。


『なんだい……』

「…………」

『何も、起こらないじゃないか』


 緊張に肩を張りつめていたチョコの顔に、じわじわと安堵の色が滲み出る。

 何も起こらなかった。

 何もだ。


『何も起こらないじゃないか!』


 チョコはもう一度繰り返して笑い声を爆発させた。澤田と同じこけおどしかよ、とチョコは言う。ぶくぶくと粘液が泡立って甘い臭いが鼻を突いた。

 少し離れた先で、聖母様もみるみる表情を安堵させて溜息を吐いた。足元に崩れ落ちる父さん達を馬鹿らしそうに見下して、その体を爪先で小突く。

 僕達はそれを見てふらふらと歩き出した。

 聖母様に近付いても、彼女はもう呆れた顔をして、こちらを見るばかりだ。


「これが、最後の、攻撃だ」


 僕はカメラを持ち上げて、聖母様を撮った。傷と血で汚れた顔の聖母様が一枚の写真に切り取られる。

 聖母様は嫌そうな顔でレンズを睨む。だがもう避けようとはしなかった。

 僕達の発言が全て虚言だと馬鹿にしているのだ。


「カメラなんかじゃ何もできないと言ったでしょう」


 聖母様が僕の肩をステッキで小突く。たったそれだけで全身に激痛が走り、僕は呻き声をあげて俯いた。

 ボタボタと汗が落ちる。頭の奥が茹で上がりそうなほど熱くて、滲んだ涙が視界をぼやけさせた。

 聖母様の背後には楽土町の街並みが広がっている。いくつもの流星群が爆発音をとどろかせていた。ビルが揺れ、大型ビジョンに映る魔法少女の笑顔に、ノイズが走る。


「……カメラは魔法よりも強いんだ」

「はぁ?」


 聖母様の額に血管が浮かぶ。濃いピンク色の眼差しが、ドロリとした怒りを僕に向けた。

 この期に及んで何を言っているのかと、そう思っている彼女の表情を、僕は真正面から見据えた。


「魔法が使えなくても。怪物の力がなくても。僕は、あなたに勝てる」


 呼吸をするたび腕に激痛が走る。額からぽたぽたと垂れる汗が、目にしみて痛かった。

 だからこそ、僕は大きく息を吸い込んだ。

 瞬きもせずに聖母様を見つめて、まっすぐに言葉を突きつける。


「僕達にとって、カメラは最強の武器だ」

「私に傷を付けることもできないじゃない」

「あなたを魔法少女から引きずり落せる」


 僕は魔法少女ピンクにまっすぐ指を突きつける。

 ノイズだらけの大型ビジョン。歪んだ魔法少女の笑顔の前で、魔法少女ピンクは高らかに笑う。


「へえ、どうやって!」

「こうするんだ」


 大型ビジョンの画面がブツンと消えた。

 彼女が振り返る。

 ピンク色の瞳に、また流れだした映像がパッと映り込む。

 それは。僕が今撮ったばかりの、汚れた魔法少女ピンクの姿だった。


「え?」


 画面がまた、切り替わる。

 ピンク色の目が大きく見開かれる。


 全ての大型ビジョンに映るのは。澤田さんを魔法少女が撃ち殺す、その瞬間の映像だった。


「――――は?」


 僕の携帯がチカチカ光っている。操作もしていないのに、勝手に動画が再生されていた。同じ映像が何度も何度も繰り返し再生されている。

 澤田さんが魔法の光に撃たれるその一瞬を。

 魔法少女ピンクが人間を殺す、その瞬間を。


『私が最強なの。誰にも負けない。私こそ本物なの! 本物の魔法少女!』


 邪悪に笑う聖母様の姿がそこに映っている。

 人を殺し、魔法少女に酔いしれる少女の姿がクッキリと流れている。

 夜明けの街の中。展望台から見下ろせる範囲中の電化製品全てが光を発していた。

 リサイクルショップのテレビ画面が、携帯ショップの全ての携帯が、高層マンションの全階層のテレビが、強い光を発して同じ映像を流している。

 楽土町中から同じ音声が聞こえていた。降り続ける流星群の中、耳を澄まさなくても聞こえるほどハッキリと。

 更に集中すれば、きっと同じ音声が、街の外からも聞こえてくるはずだった。

 この映像が流れているのは楽土町内だけではない。

 魔法少女ピンクの正体は今、日本中に流れているのだ。


「よくやった、伊瀬湊!」


 崩壊した警備室。僕が差したUSBに手を添えて、パイプ椅子に座るマスターが大声で笑った。

 彼の大声を、僕は初めて聞いた気がした。


『な』


 先に青ざめたのはチョコだった。同じ宇宙人同士分かるのだろう。

 チョコが宇宙の力を使って映像を削除していたのと同じように、宇宙の力を使って、マスターがこの現象を起こしているのだということを。

 マスターがくれたUSBは普通のUSBじゃない。街のいたる場所に差すことで、マスターの力を広範囲に発信するサポートをしてくれる、魔法の道具だ。

 僕達が考えた作戦。

 それは、聖母様の正体を、日本中に伝えるということ。


「……は。……。…………、?」


 聖母様の足が震える。その顔がみるみるうちに白く染まって、笑みが引きつる。


「え?」


 聖母様は笑った。

 現実を受け止めきれていない笑みだった。


「……百人なんて規模じゃない」


 ありすちゃんが僕の隣に立った。ピンク色の髪が風にそよめいて眩しい光をちらりと散らす。

 聖母様は唇をわななかせて娘を見つめた。輝いていた瞳は、絶望に暗く染まっている。

 真っ白な顔をした母親を見据え、彼女は静かに口を開く。


「日本の人口一億人以上がママの正体を知っているわ」

「…………」

「全員を殺すなんてできないでしょう」


 娘は母親に引導を渡す。まっすぐな声が、聖母様の心を粉々に打ち砕く。

 楽土町だけではない。全国の人間が、魔法少女ピンクの正体を知った。

 もはや、何を言っても無駄だ。もう二度と、過去の栄光は戻らない。


「終わりよ、ママ」


 魔法少女ピンクが偽物なのだと誰もが知ったのだ。


「……――――!」


 聖母様の絶叫が、鋭く天をつんざいた。

 彼女の顔は真っ白な絶望に染まっていた。これまでの絶望とは比べ物にならないほどの、本物の絶望だった。

 その絶望は僕には分からない。途方もないほどの年月と努力を重ねてきた努力が、全て泡となって消えた瞬間の人間とは、これほどまでに壮絶なものなのだと僕は知った。

 全て終わった。

 彼女の夢は終わったのだ。


「…………し」

「っ」

「……しね。……しっ、死ねっ。しね! 死ね!」


 聖母様は唾を吐いて僕達を罵倒した。僕のカメラがその様を捉えているというのに、そんなもの、目にも入っていないようだった。

 ガクガクと震えながら吐く言葉は酷く幼稚だった。これまで装っていた聖母様の姿が、全て剥がれ落ちている。

 かんしゃくを起こす子供のように幼稚で、幼くて、あどけない。


 きっと、と僕は思う。

 彼女は子供だったのだ。

 ずっとずっと、長い間。いくら年を重ねても、誰かと結婚しても、娘を産んで育てても、それでも今もまだ。

 彼女は純粋な子供のままだった。

 それはむしろ、素敵だと思うほどに。


「みんな死ねぇッ!」


 バチバチとステッキが光る。

 魔法の光が空にきらめく。

 僕達の頭上。町全体を覆いつくす流星群全てが、キラキラと輝いて、楽土町めがけて近付いていた。

 涙が出そうなほど美しい悪夢が、楽土町に襲いかかる。


「…………っ」


 カメラは魔法少女に勝てても、流星群には敵わない。

 僕の力だけでは街を救えない。

 僕にできるのは、ここまでだ。

 美しい流星群。魔法少女ピンク。壮大な力を持つ二つに立ち向かえるのは僕じゃない。

 彼女達に立ち向かえる人は、ただ一人。


「湊先輩」


 横から伸びた手が、僕の手に触れた。

 僕は顔を上げて、隣の彼女を見た。

 ありすちゃんが僕に微笑んでいた。


「私、魔法少女なの」

「…………」

「この世界を守るヒーローなのよ」


 ピンク色の瞳が優しく僕を見つめている。

 僕はその眼差しを見つめながら、ふと、彼女の言葉に既視感を抱いた。

 …………ああ、そうだ。思い出した。

 君は同じことを言っていた。

 初めて会ったとき。学校に流星群が降ってきたときに。

 笑顔で僕に言ってくれたのだ。


「ありすちゃん」


 僕の涙がカメラに落ちる。

 何度まばたきをしたって、涙は止まってくれなかった。


 心が理解してしまっていた。

 終わりなのは聖母様だけじゃないと、もうとっくに気が付いていた。

 次の変身が最後だ。

 次の変身で、僕は、ありすちゃんのことを忘れてしまう。


「…………っ」


 嫌だ。行かないで。


「あ」


 まだ君といたいんだ。


「あり、」


 君を忘れたくないんだ。


「…………」


 僕は、君の名前も、顔も、思い出も。全部全部覚えていたいんだ。

 だからさ。

 だから、もう。

 変身、しないで……。


「…………本物の魔法少女を、世界に見せてやろう」


 だけど、僕は言った。

 何度も辛い涙を飲み込んで、顔をぐしゃぐしゃにして、笑って言った。


「頑張れ、ありすちゃん」


 ありすちゃんはそんな僕の顔を見つめて、一瞬だけ息を震わせて、両の目に光る涙を滲ませて笑った。


「うん」


 彼女は立ち上がる。

 ステッキをバチバチと光らせる魔法少女ピンクを見つめ、流星群がきらめく空を見つめて笑う。

 その顔には、恐怖も絶望も、これっぽっちも浮かんでいなかった。

 ただ光り輝く勇気がそこに浮かんでいた。


「――――……」


 僕は大きく息を吸い込む。

 カメラを構えて、ありすちゃんの姿をレンズに写す。

 きっとこれが。彼女の姿を見る、最後になる。

 僕は叫んだ。


 変身しないでとは、もう言わない。


「変身するんだ、ありすちゃん!」


 ありすちゃんは笑う。

 ピンク色の髪をなびかせて、ピンク色の瞳を輝かせて。

 ヒーローの言葉を叫ぶのだ。



「――――変身!」



 怪物の雄叫びが、空にとどろいた。

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