第91話 ラストステージ

 僕は写真を撮るのが好きだ。


 綺麗な空を撮るのが好きだ。人の笑顔を撮ることが好きだ。街の明かりを撮ることが好きだ。

 僕はカメラが好きで、人よりちょっぴり怪物に憧れていただけの、普通の高校生だった。

 それだけ。

 ただそれだけだった。


 魔法少女なんて興味もなかった。おかしな宗教団体なんて関わったこともなかった。薬物の知識なんて少しもなかった。人生で死体を見る経験がこんなに多くなるなんて思わなかった。

 ずっと怖かった。

 カメラを、怪物を、好きじゃなければよかった。

 そうしたら僕はきっとこんなに苦しまずに済んだ。

 めちゃくちゃな魔法少女の物語に巻き込まれずに、普通の生活を送ることができていたのだ。

 君に言わないだけで。僕は何度も、そう思っていたんだ。


 だけど違う。

 今はもう違うんだ。

 僕は今嬉しいんだ。

 魔法少女の物語に関わることができたことが、心の底から嬉しいんだ。


 写真が好きでよかった。

 怪物が好きでよかった。

 だから君と出会えたんだ。

 この世界を守ることができるんだ。


 ねえ、ありすちゃん。

 一緒に世界を守ろう。

 君が笑える未来を守るために。一緒に戦おう。



「本物の魔法少女を見せつけてやろうよ、ありすちゃん」



 これはきっと。僕が語る、彼女の最後の物語だ。





 カメラのレンズに聖母様の顔が写っている。

 消沈した彼女の顔は随分と老けて見えて。それはなんだか、星尾村の地下室にいたおばあさんとよく似ていた。

 青ざめた顔に見開いた目。絶望の表情が、鷹さんのカメラを通してネットの海に流れていく。

 僕が片手に握った携帯。そこに映る動画サイト。そこに鷹さんの撮った映像がリアルタイムで放送されている。再生数はまだ少ない。だがそれはじわりと数を増やしていく。十回、三十回、百回…………。


「チョコ!」


 聖母様が突き飛ばされたように叫んだ。

 その直後。ガパリと口を開けたチョコが鷹さんに飛びかかり、彼女の手に噛みついた。


「いっ……!」


 鷹さんの手から鮮血が噴き出した。チョコは眼球に飛んだ返り血に瞬きもせず、鷹さんの持つカメラレンズを覗き込み、ごぷりと虹色の唾液を吐く。

 僕が見ていた動画がカラフルに染まる。だが異変はそれだけに留まらない。

 急に激しいノイズが走ったかと思えば、画面がバチンと切り替わり。そこに、まったく違う映像が流れだしたのだ。


『オ――――、オ――――、オハヨウゴザイマス! コンニチワ! サヨウナラ! 貴方も幸せにナりませんか!? 黎明ノ乙女は貴方の夢をカナえます! 聖母様の元でアナタもしあわせになろう! お電話番号はコチラ! 000-0000-0000マデ!』


 宗教団体のCMだ。稚拙な映像が、再生途中で差し込まれる広告のように、僕達の映像をジャックする。

 奇妙なCMだった。ピンク髪の魔法少女のイラストがぐちゃぐちゃと体を歪めて、電話番号を叫び続けている。気味が悪い。胃がムカムカしてくるような不快なCMだ。黒板を引っ掻くようなキンキンとした音声が、鼓膜を削る。

 つんざく不快音に思わず耳を塞いだ。手から滑り落ちた携帯がガシャンと地面に落ちる。すぐに拾いあげたその画面には、真っ暗な背景にたった一文、『削除済み』の文字が浮かんでいた。


「規約違反の動画はすぐに消さなくちゃ!」


 チョコが笑った。笑顔の口端からあふれる唾液が、カメラレンズをべちゃべちゃに汚す。

 鷹さんはチョコを払いのけ、血まみれの手でカメラをいじくって悔しそうに呻いた。投稿していた動画が削除されたのだ。おそらく元のデータまでも。

 たった一分だ、とチョコが叫んだ。


「短すぎる! 一分間しか公開されなかった動画を、いったい何人が見てくれた? どんなにセンセーショナルなものだって、再生されなければ意味はないのに!」


 一分間。僕達が映像を公開することができたのは、たったそれだけの短い時間だった。

 僕は無言で唇を噛んだ。皮膚が裂け、じわりと熱い血が滲む。

 チョコの言う通りだ。たった一分。聖母様の正体を皆に示すには、その時間はあまりに短すぎた。

 聖母様が人間を殺す映像。見てくれた人の何人が、その映像のおぞましさを理解してくれた?

 楽土町の事件を何も知らない人間が見ればきっと「なんだよこの映像は」と首を傾げて視聴を止めてしまうだろう。魔法少女の存在を知らなければ、「単なる殺人の映像だ」と真相を理解するには至らない。この映像の恐ろしさを理解した人間がいたとしても、拡散する前に動画が削除されてしまっただろうか。

 見られなければ意味はない。広まらなければ意味はないのだ。


「残念だったね」


 チョコは引き攣った声で笑った。

 彼の目が澤田さんを見つめる。血溜まりに倒れる彼の姿を、馬鹿にしたように鼻で笑うのだ。


「せっかく命を賭してまで戦ったっていうのに、あの男……。やっぱり全て、無駄だったじゃないか!」

「無駄じゃない!」


 僕が怒るよりも、鷹さんが怒鳴る方が先だった。

 彼女の瞳は真っ赤だった。燃える宝石のように、ギラギラとした光が弾けている。

 彼女の手に握られたカメラは、まるでその怒りを代弁するかのように、彼を捉えるレンズをギリギリまで引き寄せていた。


「一度ネットに上げた情報は簡単に消えないの」


 鷹さんの手からドクドクと血が流れ、カメラを汚していく。チョコの歯は相当深く食い込んだのだろう。

 けれど彼女はカメラを手離すことはなかった。レンズの汚れを乱暴に拭って、聖母様とチョコを捉え続ける。


「少なくとも百人はあの映像を見ていた」

「それがなんだ。たった百人だろう?」

「拡散はあっという間に広がる。削除される前に、データをダウンロードしていた人だってきっといる」

「そんなのせいぜい、一人か、二人さ」

「一人でもいれば十分だ」


 鷹さんは言った。


「最初はたった一人。だけどその人が友人や家族に、誰かに共有をはじめれば、それは広まっていく。あなたが何度データを削除したって同じこと。いたちごっこだ」

「…………」


 チョコは鷹さんの言葉に耳を傾け始めた。高圧的な態度の裏で、ピンク色の体毛が動揺したようにぶるりと震えている。

 鷹さんが撮影した映像は、人々の心に深く刻まれるセンセーショナルな映像だ。思わず録画をした人だっているかもしれない。そうして保存されたデータを削除することは、チョコにだって手間取る作業だろう。


「私達は何も無駄にしていない。皆が戦ったことが、小さな希望となって積み重なっていく。そして、私達がカメラで撮ったものが、その希望を伝える手段になるんだ」


 鷹さんはカメラを握りしめて言った。

 鋭い瞳が覗き込むレンズ、そこに映っているのはきっと聖母様とチョコの姿だけじゃない。レンズの向こうには、いつかこの写真を見る人達がいる。

 彼らが希望を見つけるために。前に進む勇気を持つために。僕達は今、戦ってるのだ。


「なんだいそれ……ギャッ」


 チョコが反論しようとする前に。後ろからズカズカと歩いてきた聖母様が、チョコの体を踏みつけた。

 あっと僕が反応するよりも早く彼女は鷹さんの前に立ち、その胸倉を掴み上げる。


「カメラが魔法に叶うわけないわ」

「っ」


 身長は鷹さんの方が高い。だが魔法少女の腕力で、鷹さんの体は簡単に宙に浮き、その顔が苦しそうに歪む。

 魔法のステッキが鷹さんのあごに向けられる。鷹さんは一瞬ビクッと恐怖に体を竦め、けれどすぐ、強気に笑ってカメラを覗き込んだ。


「ネットに上がった作品が、どれだけのスピードで広まるか知らないの? ……ああ、それとも。そんなことも分からないのかな。あなた、案外いい年いってるものね。ネットには疎そう」

「……カメラを止めなさい」

「あれ、魔法少女は皆に見てもらいたいものじゃなかったの?」


 鷹さんは笑って聖母様を撮る。ボロボロの聖母様は、あれだけ喜んでいたカメラを、酷く不快そうに睨んだ。

 通信はチョコによって遮断された。インターネットに繋がらないカメラで、それでも鷹さんは新しい情報を撮り続けている。

 聖母様は怒りに燃える眼差しで鷹さんを睨んだ。


「さっきの映像は嘘だと流しなさい」

「嫌だよ」

「それ以上撮るなら、殺してやる」

「殺せばいい」


 その一瞬、鷹さんの目が澤田さんに向けられた。彼女の顔が痛切に歪む。

 しかし彼女はもう一度聖母様を睨んだ。彼女の瞳には強い意思が宿っていた。


「私は絶対カメラを止めない」


 彼のように殺されるという脅しは、魂を燃やす彼女には、何の効果も与えないのだ。


「何度消されたって新しい映像を撮り続けてやる。殺されたって、最後までカメラを構え続けてやる」

「…………」

「真実を伝えろって託されたんだ」

「……どうしてそんなに、一生懸命になれるの?」


 ひゅ、と鷹さんは苦しそうに息を吸った。

 真っ赤になった顔の中で。彼女の瞳はギラギラと燃えていた。


「私は記者だ!」


 彼女の熱い叫びが、空気を震わせた。


「ああ、そう」


 聖母様は冷めた声で言った。

 ステッキが、ピンク色の光と共に振り上げられようとした。

 甲高い発砲音と共に銃弾が聖母様の足元を掠めた。


「!」


 スカートの端が切り裂かれ、聖母様はパチッと大きくなった目で振り返った。僕は、血まみれの銃を構えて聖母様を睨みつけていた。

 澤田さんの血でぬるつく銃をしっかりと握りしめ、大きく肩で息をする。ドクドクと熱い心臓の音が、脳味噌の中で激しく脈打っていた。

 黒沼さんの銃だ。澤田さんが握っていた銃だ。それを咄嗟に拾い上げて、僕が撃ったのだ。

 二人の想いを無駄にしてやるものか。


「ママ!」


 そのとき。ありすちゃんが震える声で母親の名前を呼んだ。

 ハッと僕は振り返る。涼と部長に抱きかかえられながら、彼女は涙と汗に濡れたくしゃくしゃの顔で母親を見つめていたのだ。

 けれど、聖母様は一度もありすちゃんを見ようとはしなかった。破れたスカートを握りしめ、僕と鷹さんの姿を交互に見つめては、どこかぼんやりとしたように遠くへと目を向ける。


「……………………」


 くるくると眼球が動いていた。それは彼女が必死に考えを巡らせている姿なのだと、戦闘のうちに気が付いていた。

 彼女は脳味噌を目まぐるしく回転させる。絶体絶命の状況を脱する方法を考える。ネットに上げられた映像を消す方法を……、魔法少女ピンクが復活する方法を…………。

 そして。聖母様の顔がピカッと輝いて、満面の笑みが浮かぶ。


「そうよ、殺せばいいのよ!」


 導き出されたのは最悪な結果だった。


「拡散する前に、その人達を殺しましょう。拡散された人達が映像を見る前に、その人達も殺しましょう。皆殺せばいいの! そうすれば、全部解決するじゃない!」


 聖母様は恍惚と頬を染めて笑う。名案を思い付いた子供のように無邪気な様子で、くるくるとスカートをひるがえして笑う。

 僕達はぽかんと口を開けて彼女を見つめていた。聖母様が何を言っているのか、分からなかったのだ。


「うんうんっ。いいじゃない! だって今『魔法少女の動画』に注目しているのは、まだ楽土町の住民がほとんどのはず。ネット上の膨大な動画の中で、たった一分間限定公開の魔法少女動画を見ることができたのは、避難所で必死に情報を得ようとしていた、この街の住民達よ。きっとまだ街の外まで拡散は広がっていないはず……。でも、もしこのまま放っておけば、それも時間の問題……」


 僕の腕には鳥肌が立っていた。ありすちゃん達もまた、聖母様の顔を見てゾッと青ざめて黙り込んでいる。

 何を。何を、言っているんだ。

 この女は、一体何を考えているんだ。


「楽土町は諦めましょう」

「は?」

「別に舞台はどこだっていいの。この街を捨てて、別の街で最初からやり直しましょう。ええ、そうよ。それが一番」


 聖母様はどこまでも無邪気に笑う。それは、艶めかしいほど色っぽい声とはちぐはぐで。吐き気を催すほど邪悪だった。

 軽やかに。あっけなく。滑稽なほど楽しげに。聖母様は、最悪を告げる。


「楽土町を殺しましょう!」


 ぶわっと汚れた羽が広がった。ヒールが軽やかに地面を蹴り付け、彼女の体が数センチの空に浮く。

 彼女は倒れるチョコを片手で拾い上げる。ピンク色の毛を乱暴に掴み、布でできた顔に鼻先を近付ける。


「さあチョコ、手伝って!」

「な、何をするつもりなんだい、花子ちゃん?」

「私の故郷と同じにするの。全部ぶっ壊してやるのよ」

「つまり?」

「失敗したゲームは、リセットさせなくちゃ!」


 突然吹き荒れた風が僕達の体を揺さぶった。

 あっと声をあげる間もなかった。聖母様は羽を広げ、僕達の前から飛び立った。咄嗟に構えた銃口は、風に揺れて、狙いが定まらない。

 嫌な汗が全身から噴き出した。

 聖母様が何をしようとしているのか分からない。だがそれが、とてつもなく最悪な出来事になるであろうことは、この場の誰もが理解していた。

 追いかけなければ。彼女を止めなければ。

 まっさきに鷹さんがカメラを持って聖母様を追いかける。僕もそれを見て、慌てて追いかけようと足に力を込めた。


「湊先輩」


 その声に、僕は振り返った。

 ありすちゃんがいた。心配そうな涼と部長に支えられて、よろめく彼女がそこに立って僕を見つめていた。改めてその姿を見て、僕は思わず喉に力を込めた。

 彼女の体はボロボロだった。聖母様との戦いでどれだけ傷つけられたのだろう。涙が出そうなほどに、哀れで、痛々しい……。


「私を連れて行って」


 ありすちゃんの手が僕の腕に縋る。

 彼女の手は思っていたよりも力強かった。


「ママを、止めなきゃいけないの」


 ピンク色の目が輝いていた。ボロボロの体の中で、彼女の眼差しだけが力強くきらめいていた。

 彼女はどこまでも強い子だった。愛していた母親にどれだけ傷つけられても、苦しんでも、それでも……それでも前を向ける子なのだ。


「湊!」


 バチンと激しい音と共に背中を叩かれる。涼が僕の肩に手を回して、顔を覗き込んできた。熱い興奮に潤んだ目で、彼は僕を鼓舞する。


「行けよ。この作戦のトドメを刺すのは、お前達なんだろっ?」

「追いかけるんだ。あの女性の目的を果たさせてはいけない!」


 部長がありすちゃんの体を抱えて僕の背に乗せる。途端に背中が熱い血で濡れた。彼女の血だ。僕は一瞬だけ目を伏せて、それからしっかりと顔を上げて、聖母様が飛んでいく方向へと顔を向ける。

 行こう、と言って僕は走り出した。ぐんっと体を前に伸ばして地面を蹴る。ありすちゃんの体を強く抱えて、まっすぐ前を向いて走る。

 この街を殺させるものか。

 大切な人達が住むこの街を殺させてなるものか。

 僕達の世界を、救うんだ。


「頑張れ!」


 背後に聞こえる部長と涼の声がどんどん遠くなる。

 二人は何度も僕達へと応援の言葉をかけていた。

 何度も何度も、聞こえなくなるまで、僕達のことを応援してくれるのだ。

 頑張れ魔法少女、と。



 先を飛んでいた聖母様は、僕と鷹さんが追いかけてきていることに気が付いて、その場に立ち止まった。

 不愉快そうに細められた目がチリリと僕達を睨んだ瞬間、僕達の背筋にゾッと怖気が走る。


「しつこい!」


 パンッと飛んできた魔法が地面を抉る。寸前で飛びのいていなければ鷹さんの頭部に直撃していたことだろう。弾け飛ぶ瓦礫の大きさに青ざめる。たった一撃でも当たれば、僕達の命はない。

 何度も飛んでくる魔法を僕と鷹さんは必死に避け続けた。そうしながら建物の陰に隠れ、カメラで聖母様を写そうとする。僕達のカメラがトラウマになったのであろう聖母様は、レンズを向けられるたびしかめっ面で攻撃を止め、また目的地へ向かって飛んでいく。その繰り返しだった。

 攻撃する術はない。僕達にできるのはただ、カメラを回し続けることだけだ。


「っ!」


 瓦礫に足が引っかかった。ガクンと足がもつれ、体勢が大きく崩れる。

 しまった、と思考するよりも先に、視界に地面が猛スピードで飛び込んでくる。僕は咄嗟にありすちゃんを庇って倒れた。強かに体を打ち付け、激しい痛みが全身を襲う。


「湊くん!」

「鷹さっ……」


 大丈夫だと言うために顔を上げた。だが僕は、目の前に迫る魔法の光に目を見開く。聖母様の撃った魔法が眼前に迫っていた。

 どう考えても、今から避けるのは間に合わない。まっすぐに迫る軌道が僕達の体を貫こうというのだ。

 最後の一瞬で、僕はありすちゃんの体を抱きしめた。

 彼女だけでもと思ったのだ。僕が盾になって、せめて彼女だけは守ろうと、それだけを。

 ありすちゃんが、音のない悲鳴を飲み込んだ。


「縺ゥ縺代?√∩縺ェ縺ィ!」

「貉翫¥繧ッ」


 ドカンという轟音と衝撃は僕達の体にはぶつからなかった。代わりに飛び込んできた二体の怪物が、僕達の代わりに魔法にぶつかったからだ。

 ぶわりと広がった獣毛と、ぬるついた軟体生物の触手が、魔法の光に弾け飛ぶ。

 魔法少女イエローと魔法少女ブルーの体に大きな穴が開く。


「っ」


 ぽっかりと開いたその穴からビチャリと血が飛んで、地面に奇怪な模様を作った。

 二体の怪物が地面に倒れる。茫然とする僕達の前で、その巨躯がドロリととろけだした。

 大きなダメージを受け変身を保てなくなった少女達が、その本来の姿を怪物の隙間から覗かせていた。

 僕達を助けに来てくれた友人達の、悲痛な姿に息を呑む。僕は思わず青ざめた顔で二人に手を伸ばした。

 だが指先が触れる寸前。雫ちゃんが、まだ残る触手でドンッと僕を突き飛ばす。


「いイか繧ォら、繝上Ζ繧ッ、行って!」


 泡立った声が僕を怒鳴った。

 雫ちゃんはぶわっと触手を膨らませ、聖母様へと魔法で反撃する。飛んでくる魔法にたまらず聖母様は飛びのき、攻撃の手を止めて後退る。


「こっヂにかまッテる、場合ジャ、ねえだろぉ。縺ソ縺ェ縺ィ!」


 千紗ちゃんが吠える。彼女は震える足で無理矢理立ち上がり、解けかけていた変身をもう一度繰り返す。ゴウゴウと膨らむ獣の毛が彼女の体を包み、眼光を鋭く唸らせる。


「繧上◆縺励◆縺。ハ。わたジたチは、いィ縺?>がら!」

「縺ゅj縺が、いるだろう? お前は、■■■を。縺ゅj縺を、守れよ!」

「縺ゅj縺ちゃんの縺薙→を、助け蜉ゥ縺代※て、あゲて。陦後▲縺ヲ縲√∩縺ェ縺ィ縺上s」

「陦後¢繧医?√∩縺ェ縺ィ」


 わたし達のことはいいから。

 そいつを守ってやれよ。

 その子のことを助けてあげて。

 行って、湊くん。

 行けよ、湊。


 怪物に変身した二人の声が僕の背中を突き飛ばした。僕はつんのめるように前に出て、そしてまた、ありすちゃんを背負って駆け出した。

 歯を食いしばる。髪をなびかせて走る。二体の怪物の巨大な声が、聖母様を敬遠するように、僕達を鼓舞するように、空高く響く。


「鬆大シオ縺」縺ヲ鬲疲ウ募ー大・ウ!」


 僕は一度も足を止めなかった。

 一人を背負って、攻撃を避けながらカメラを撮って。それはかなりの重労働であるはずなのに、不思議と限界を感じることはなかった。

 このままどこまでも走っていけそうだとさえ思った。

 疲れよりも苦しみよりも、ドクドクと胸に湧きあがる勇気の方が強かった。


「…………っ」

「……湊先輩?」

「っ。ぐ、……っ」

「先輩」


 だけど僕は泣いていた。

 走りながら、堪えきれない涙が何度も頬を流れて、ありすちゃんの腕へと落ちていた。


 僕は今、ありすちゃんのことを忘れかけている。


 今夜彼女が変身を繰り返すたびにそうだった。

 気を抜けば自分が今、何をしているのかもふと忘れてしまいそうだった。魔法少女と怪物という存在が、ふっと記憶の中から消えていきそうになる感覚を、何度も感じていた。

 背中に背負っている子の顔も、ありすちゃんという名前もおぼろげで、気を抜けばすぐに忘れてしまいそうだった。


 ありすちゃんが魔法少女に変身する副作用。皆の記憶から『姫乃ありす』が消えていくという認識障害。

 彼女のことを忘れかけているのは僕だけじゃない。皆が陰で、しきりにありすちゃんの名前を呼んで必死に記憶しようとしている様を、僕は何度か目にしたことがある。

 今夜のたった数回の変身で、ボロボロとありすちゃんの記憶が剥がれ落ちていくことに気が付いていた。


 彼女との別れが近付いている。

 夜が明けるとき。僕はまだ、君を覚えていられるだろうか。


「ありすちゃん」

「うん」


 僕は涙声で彼女に語りかけた。彼女の返事もまた、少し掠れて、切なく震えていた。

 きっと彼女自身も気が付いている。

 自分の頭の中から自分の存在が少しずつ消えていることを。

 ありすちゃん、と僕は彼女の名前を何度も呼んだ。


「大好きだよ」

「……うん」


 私もよ、と彼女は静かに笑った。

 切なくなるほど温かくて、優しい声だった。




 楽土町を殺す。

 そんな宣言と共に聖母様が向かおうとしていた場所がどこか。近付くにつれ、僕達はなんとなく察していた。

 白みゆく空の下で、巨大なタワーが地面に冷たい影を落として立っていた。昼間は人気の観光スポットであるその場所も、まだ暗い夜の下ではどことなく恐ろしかった。

 見上げれば首が痛くなるほど高いタワー。この街で最も高い建物である、楽土タワーだ。

 ここが彼女の目的地だと理解して、なるほどな、と納得する。

 大勢を殺すには、高層はなにかと都合がいい。


 結局僕達がタワーに着いたのは聖母様とほぼ同時だった。

 閉鎖された自動ドアの前で息を整えていた聖母様が、足音に気が付いてハッと顔を上げ、苦々しく唇を噛む。

 疲労でドロドロと顔を歪ませた彼女は、酷く老けた顔で僕達を睨みつける。


「本当に、うざったい……!」


 聖母様が羽を広げて飛びかかってくる。本気の突進は避けきれるものじゃなかった。

 まともな体当たりを食らった僕はそのまま背負っているありすちゃんごと吹っ飛び、ガラスを突き破ってシースルーエレベーターの中に倒れ込む。


「ぐっ……」


 砕け散ったガラスが皮膚を切る。聖母様の体当たりと、分厚いガラスを突き破った衝撃は素晴らしい痛みとなって僕達の体に襲いかかる。

 だが聖母様は容赦しない。バリバリとガラスを踏んでエレベーターの中に入ってきた聖母様は、間髪入れずに僕へステッキを振り下ろそうとした。


「駄目!」


 ありすちゃんが聖母様に飛びかかる。変な方向に振られたステッキは床にガツンとぶつかって、そのままエレベーターの隅へと転がった。聖母様が伸ばした腕にありすちゃんはしがみつき、歯で噛み付いてまで邪魔をする。

 親子の攻防が何度か繰り返される。しかし最終的に、チョコがありすちゃんの足を引っ張って彼女を転ばせた。

 悲鳴をあげて彼女が倒れる。すかさず聖母様が娘の腕を掴み、その細い喉を魔法少女の全力で押し潰そうと、肩に力を込めた。


「やめろ!」

「やめなさい!」


 僕と鷹さんの声が同時に飛んだ。振り上げた足が交差して、聖母様とチョコを蹴り飛ばす。


「ギャッ」


 僕の足は聖母様の肩を蹴り上げた。勢いづいた蹴りは、彼女の体を大きく仰け反らせ、エレベーターの壁に後頭部を強打させる。

 鷹さんの蹴りはありすちゃんを押さえていたチョコの体をふっ飛ばし、階層ボタンに叩きつけて全階層のボタンを点灯させた。

 チョコのピンク色の毛がぼわりと膨らんだ。叩きつけられた衝撃で鼻血を出したチョコは、憤りの声を上げ、唾を吐く。


「何するんだよ!」


 チョコがボタンを殴る。

 その瞬間、激しい衝撃と共にエレベーターが揺れた。


「うわっ」


 故障かと思った。暴れたせいでロープが切れて、地下に落下するのかと。

 だが次の瞬間、エレベーターは猛スピードで上に向かって駆け上がり始めた。開けっ放しになったエレベーターの扉から、各階層が目にも止まらぬ速さで過ぎ去っていく。ゴウゴウと凄まじい風の音に僕達の悲鳴が混じった。


「皆様どうぞ衝撃にお備えください! 猛スピード急上昇アトラクション。最終ゴールへ一直線です!」


 チョコのケタケタと笑う声が悲鳴の中で浮いていた。どこかに捕まってと鷹さんが叫び、僕とありすちゃんの体を抱きしめる。

 階数表示は、まるで気が狂ったように猛スピードで変わっていく。一、二、七、十五、三十――――、


「さあ、ラストステージだ!」


 チョコがけたたましく笑う。

 その言葉と同時。轟音を鳴らしてエレベーターが止まり、最上階の光が僕達の目に飛び込んできた。

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