たとえ、この魂が燃え尽きたとしても
潮風凛
これは、絶対に独りにならないための約束
それは、私にとって初めてのキスだった。
互いの胸の刻印に右手を重ね、額を合わせて微笑んで、瞳を閉じて唇を押し当てる。待ちきれないというようにどちらからともなく舌が伸びて、相手の舌に吸い付くように不器用に絡み合う。
その蕩けるような甘さを、私は未だに忘れられない。溶かし、溶かされ。互いの境界がなくなって、まるでひとつの生き物になっていくような錯覚に溺れながら、私達は三つの約束を交わした。
――貴女のために生きること。
――貴女のために殺すこと。
――最期は、必ず一緒に死ぬこと。
これは、永遠に違えることのない約束の物語。
その約束を契約の証に、この日私達は己の魂を贄として相手に捧げた。
*
その日は朝から雨が降っていた。春の終わり、夏に差し掛かる前の空気全体がじっとりと湿り気を帯びるような雨。
窓の硝子を滴り落ちる雫を見るともなしに眺めていたリディアは、小さな溜息をついて目の前にある扉を見た。「氷の魔女」と噂される彼女のいつも涼やかで理知的な瑠璃の双眸が、ほんの一瞬僅かに曇る。身にまとうのは、軍属であることを証す黒を基調とした軍服。一糸の乱れもなく肩下へ流れ落ちる濃藍の髪を受け止め、彼女が身じろぐたびに揺らめく金の縁取りがなされた
リディア・エルシーは国軍魔法部隊に所属する魔法兵士だ。元々は孤児であったが、並外れた魔法の才能を買われて軍に属することになり、数えきれないほどの敵の屍と華々しい戦果を積み上げて、遂には弱冠十八にしてエリート集団である魔法部隊の小隊長を務めるまでになった。
この国では魔法を扱える者が国民であり、その中でも力ある者が上にいくことが習わしだ。その中でもリディアは特に群を抜いている。魔法部隊隊長になり、国政を話し合う議会に席を置くのも時間の問題だろうと噂されていた。
そんな着々と出世の道を歩くリディアには、彼女とは全く正反対の同居人がいる。その人物こそ目の前の扉の向こうにいて、現在リディアに溜息を吐かせている張本人だった。
何故リディアがこんなに呆れた様子を見せるのか。それは一重に、このドアノブについた血痕にあった。付着して一晩は経過しているだろうか。ドアノブと、そこから滴り落ちるように一筋、最早紅というより黒に近い液体がこびり付いている。今までの状況から鑑みるに、多分これは同居人の血ではない。それでも、毎回これを見せられる方の身にもなってほしいというものだ。
しかし、いくらここでぶつくさ文句を垂れていても仕方ない。一応同居人の様子も確認するべきだろう。リディアはもう一度深い溜息を吐くと、ドアノブを拭わないまま桐の扉を押し開けた。
扉の先に広がるのは、雨音に包まれた薄暗い部屋。ゆらゆらと揺れる生成りのカーテンは、滅多に開かれることがない。書き物用の机、衣装箪笥、あまり物が置かれていない本棚と小ぶりな家具が並ぶ中、天蓋付きの大きなベッドが部屋の大半を占めている。
そのベッドにもたれ掛かるように、ひとりの少女がすやすやと寝息を立てている
「サフィ」
リディアが声をかけるが、サフィと呼ばれた少女は目覚める気配がない。彼女に近づき、その手元に血がついたままの小さなナイフが落ちていることに顔を顰めた。が、少女の身体には傷一つないことを確かめたリディアは、やはりと思いつつも静かに安堵の息を零した。
血みどろながら苦しむような様子も見せず、安らかな寝顔を見せるその少女の名は、ソフィア・エルシー。リディアの同居人であり、たったひとりの家族だった。
対外的には姉妹と言っているが、二人とも孤児であり血の繋がりはない。だが物心がついた時から親がおらず、名前すら互いが相手に贈りあったものなのだから、最早いたかもしれない家族よりも家族らしい。何より二人は、文字通り魂を捧げあった関係があるのだから。
呼吸に合わせてゆっくりと上下する、控えめな胸元にそっと触れる。その時、寝入っていたソフィアがにわかに身じろいだ。薄らと開いた蜂蜜色の瞳が、リディアを見つけて柔らかく蕩ける。
「おはよ、リディ」
甘く、耳にくすぐったい彼女の声。無垢な眼差しを見ていられず思わず目を背けたリディアは、そのままふわふわと揺れる薄紅の頭を小さく小突いた。
「おはよじゃないでしょ。また床で寝たりして」
怒った顔を作ってみせると、ソフィアは瞳を伏せて項垂れた。
「ごめんなさい。頑張ったんだけど、限界がきちゃって」
「限界がくるまで無理するなって言ってるの。どうせ、また魔法を使わなかったんでしょう?」
ソフィアの手元にあるナイフを指で示しながら言う。魔法は万能の力。彼女が何をしているのか詳しくは知らないが、魔法さえ使えばこんなちっぽけな刃がなくても、血みどろになって限界まで身体を酷使しなくても何でもできるはずだ。
リディアの指摘に、ソフィアははにかむように小さく微笑んで言った。
「私は、魔法が苦手だから」
いつも彼女はそう言って、魔法を使うことを拒絶する。魔法が一種のステータスになっているこの国で、ソフィアはいつも落ちこぼれ扱いだった。手の刻印があるから、本当は魔法が使えるということは認知されている。それでも毎日のようにぼろぼろの姿で徘徊する彼女が、屋敷の
ソフィアが確固たる理由を持って魔法を使わないと言うのなら、リディアにそれを止める術はない。ただ少し悲しく、とても腹立たしい。魔法を使うということがどういうことか、リディアは誰よりも知っているからこそ。
「あっそ。それじゃあ、あたしはもう行くわ」
「うん。頑張って」
床に座り込んだままのソフィアを助け起こすことなく、リディアは早々に立ち上がった。わざと冷たい口調で言い放っても、律儀に返事をしてくれる彼女が余計に癇に障る。よろよろと立ち上がった小さな身体が以前よりずっと痩せて見えて、リディアは慌てて駆け出した。廊下を走りながら忘れようと何度も首を振ったが、それに何の意味もないことも理解していた。
目を背けても意味がない。ずっと前から分かっていた真実。
(サフィは、多分もうすぐ死んでしまう)
リディアが、彼女の魂を使い切ることで。
*
「魔法は万能の力」、これほど皮肉に溢れた言葉は他にないだろう。
確かに魔法は何でもできる。壊すことも作ることも、直すことも増やすことも。魔法を応用することができる分野は未だ増え続け、発見されてから今に至るまでこの国の発展を支え続けている。
だが、魔法はただ万能なだけではない。使う時、必ず必要とする代償があるのだ。――それが、人間の魂だった。
魔法は人間の、他人の魂を削ることで発動する。術者のものではいけない。他人を殺すことで万能の力を得る、そんな世にもおぞましい技術なのである。
おぞましいと分かっていても、この国は魔法を捨て去ることができなかった。だから良心の呵責に耐えるために、魔法を使うことができる者だけを人間として認めることにした。
大半の人は、幼いうちに親に贄と引き会わされ、契約を交わしその証である刻印を得る。だが貧民や孤児は贄を用意することができず、生涯的に魔法を使うことができない。そのような者を集め、或いは育てることで贄を作り出すことを、この国は決めた。魔法を使えない人は同じ人間ではないから、何をしても構わないのだという考えのもとに。
リディアとソフィアも、いつか誰かの贄として出荷される孤児を育てる施設にいた。だが、そんな見知らぬ誰かに消費される人生は御免だった。だから逃げた。こっそり覗き見た契約の儀式を行って、互いの魂を捧げることで魔法を得て。
それからずっと、リディアはソフィアの魂を消費して出世してきた。全ては議会の席を得て、歪んでいるこの国を変えるために。魔法を中心とする世界から、魔法が使えなくても人間と認められる世界へ。それが、リディアがずっと抱いている夢だった。
――何故、そんな夢を抱いたのか。それは少しも思い出せないけれど。
一日の職務を終えて帰宅したリディアは、取り留めのない思考を追い払うように首を振った。屋敷の扉をゆっくりと開け、出迎えてくれる女給と軽く会話をしてホールから廊下に入る。その時、背筋を這い上がるような嫌な予感がした。
「なに……?」
びくりと肩を震わせ、リディアは急き立てられるように廊下を駆けた。心臓の音が煩い。走っているから以上に汗が湧き出てくる。まだ、何が起きているのかはっきりと分かったわけではない。それでも、この嫌な感じは気のせいではないと感じていた。
外は、朝から止まぬ雨。降り続ける雨は次第に激しさを増し、現在は落雷を伴ってリディアとソフィアの小さな世界を暗い嵐の中に堕とす。
ただひたすら駆け続けたリディアがたどり着いたのは、やはりと言うべきかソフィアの部屋の前だった。まとわりつく嫌な予感を振り払いながら、努めて冷静にノブを回す。
ソフィアの部屋は、朝の薄暗さを通り越して最早真っ暗だった。部屋のどこにもソフィアがいないことを確認したリディアは、最後に恐る恐るベッドの中を覗きこんだ。
その時、カーテンの隙間から突如入り込んできた雷光が、闇の中にあった部屋を真っ白に染め上げた。もちろん、ベッドの中も。
眩い光の中に浮かび上がったのは、口から血を吐き、顔色も真っ青に横たわる愛しい少女の姿。
「サフィ……!」
ほとんど涙声でリディアはソフィアの名を呼び、その頬に触れる。まだ、辛うじて息があった。だが、それも時間の問題だろう。既に彼女の魂が完全になくなろうとしていることは明白だった。リディアが、全て使い切ったことによって。
「嫌……嫌だよサフィ。どうして、あたしの魂を使ってくれなかったの? あたし、あなたがいないと生きている意味なんてないのに」
ソフィアに縋り付いて、リディアは子供のようにいやいやと首を振りながら言った。
ずっと、ソフィアが自分の全てだった。こんな不公平で理不尽な世界でも、彼女がいるから生きることができた。時に姉のように傍にいると安心できて、時に妹のように愛おしい、誰にも代え難いたった独りの家族。ソフィアがいるから、軍でどんなに辛いことがあっても頑張ることができた。
そこで、唐突に思い出した。リディアが魔法がなくとも平等に生きられる世界を作りたかった理由。
(それは、あたしがサフィと生きたかったからだ)
リディアはソフィアと生きたかった。だが、この世界は相手の魂を削ることでしか生きることを赦してくれない。そんなの間違っていると思った。だからこそ、何もかも変えたかったのだ。
そんなに魔法を使うのが嫌なら、ソフィアのように使わないという選択肢もあったのかもしれない。しかしリディアは、他人の視線を気にする質だった。魔法を使わないことで白い目で見られることは耐え難かった。それ以外のできるだけ現実的な案が、あの夢だった。
――それが、結果的にソフィアの魂を削ることになったとしても。
「サフィ、お願い目を覚まして。あたしを置いて逝かないで」
独りでは何もできない。ソフィアがいないと、リディアは息をすることすらできない。ぽとりと一雫、涙が零れ落ちる。その時、ソフィアが目を開いた。いつもより弱々しい瞳が、それでも優しく揺れて笑みの形を作る。
「大丈夫、置いていかないよ。……約束、忘れちゃった?」
約束? ほんの少し考えて、リディアはこぼれ落ちそうなほど大きく目を見開いた。
そうだ、二人は約束をしたのだ。決して、違えることのできない約束を
――貴女のために生きること。
――貴女のために殺すこと。
そして、最後のひとつが。
「最期は、必ず一緒に死ぬこと……」
「そう」
ソフィアが微笑む。彼女が両腕を大きく広げてくれたので、躊躇うことなくその中に飛び込んだ。感極まってえぐえぐと泣きじゃくるリディアの背中をとんとんと優しく叩いてくれる。
ずっと怖かった。ソフィアにおいて逝かれること。ひとりぼっちになること。だからがむしゃらに前だけ見据えて、いつか必ず訪れるはずの別れから目を逸らした。
だが、約束したのだ。ひとりになることは絶対にないのだ。それが嬉しくて、リディアはただ大好きな人の胸の中で泣き続けた。
どれほど時間が経ったのだろう。時折雷の轟音を鳴らしながら唸り続けていた雨はすっかり止み、洗い流された空にぽっかりと浮かんだ月が二人並んで横たわるベッドを優しく照らしていた。泣き疲れうとうととまどろむリディアの胸に、ソフィアの手がそっと触れる。と、不意に柔らかな風が吹き、二人の周囲を真っ白な花が包み込んだ。
清廉さを表す白百合と、女性らしいしなやかな美しさを思わせる白木蓮。まるでリディアを表すような、リディアの魂が作った花。最初で最後の、ソフィアの魔法。
「私が、魔法が苦手っていうのは本当なんだよ。私の魔法は、一回でリディの魂全部を使うものしかできなかったから」
本当は、リディアだけに魔法を使わせるのは心苦しかった。彼女がソフィアのために出世しようとしていたのは分かっていたから。
それでも、例え一緒に死ぬ約束があったとしても、ソフィアは少しでも長くリディアと一緒に生きたかったから。施設から逃げ出した後の自由を少しでも共に感じたかったから。ソフィアは自分の魔法を使わないことに決めた。
きっとリディアは、ソフィアでは計り知れないような苦難と苦痛の中にいたのだと思う。それを思えばボロボロになりながらリディアを狙う反対勢力を殺すことくらいどうってことなかったけれど、沢山心配もかけてしまったことは少し反省している。
まとまりを欠いてきた思考の波の狭間で、目元を赤くしたリディアを見た。こみ上げる愛しさのままに残った僅かな力で抱き寄せた。
「沢山生きて、いっぱい戦ってくれてありがとう。……リディ、お疲れ様」
「……サフィも、ありがとう」
幼い子供が小さな秘密を共有しあうように、顔を見合わせてくすくすと笑い合う。それから、いつかのようにどちらからともなく目を閉じた。
月下の花々が見守る中。そっと、最期の熱を貰っていくように、ソフィアとリディアは互いの唇を触れさせ合った。
*
それは、あたしにとって二度目のキス。
一度目は、あなたと自分の魂を贄にする契約を交わすときにした。
あんな大事な約束、どうして忘れていたんだろう。ずっと置いてかれるんだって怯えて、馬鹿みたいね。もう大丈夫。ちゃんと全部思い出したから。
あなたは、もう目を閉じたまま開かない。あたしも眠くて仕方がないんだけど、最期にあの約束についてもう一度考えてみる。
施設から逃げても結局戦場ばかりで、ほとんど何も見られなかったね。それでも、あなたと生きた日々はあたしにとってかけがえのないものだった。
あたしは、あなたのために生きられたのかな。
結局あたしは、何も変えられなかった。魔法による差別は、未だこの国に根強く残っている。それでもあたし、あなたに「お疲れ様」って言ってもらって本当に嬉しかったんだよ。
あたしが沢山の人を殺して進んだ道は、あなたのためになったのかな。
あなたがいるだけで、あたしはこんな世界でも生きることができた。嫌われてもいい。恨まれてもいい。それで少しでもあなたが私の魂を削って生きたいと思ってくれたら。そう思っていた。あなたがいない世界なんて、あたしには何の意味も価値もなかった。だから、あなたと死ぬことができて、最期まで一緒にいることができて。
――あたし今、すごく幸せ。
たとえ、この魂が燃え尽きたとしても 潮風凛 @shiokaze_rin
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