シロツメクサの指輪

@SO3H

シロツメクサの指輪

――このシロツメクサの指輪に誓って、約束!



黒咲華恋が麗しく優秀で誰にでも優しい、父の立派な後継者になると決めたのは、幼い頃の約束のためだった。


小学生だった華恋が訪れた父の別荘は、緑豊かな丘にあった。普段過ごしている都会とは違って冷たく澄んだ空気が肺を満たし、走り回りたいと体全体がムズムズした。

それなのに父は客人とつまらない挨拶ばかり。華恋もそれに付き合って応接間で革のソファに収まっていた。


それに耐えられなくなった3日目の早朝。いつもより早起きして、華恋は部屋を抜け出した。


朝露に濡れる庭を抜け、肌寒さに上着を羽織ってくればよかったかと後悔したのもつかの間、開けた草原に着くと、華恋は駆け出した。小さな体はすぐに内側から温まり、華恋は憂いを忘れた。


大の字になって寝転がり、胸いっぱいに草と土の香りを吸い込んだ。


息を吐き、身体を起こすと、少し離れて華恋を不思議そうに見つめる少女と目が合った。華恋は目を見開き、考えた。華恋と同じくらいか少し歳下だろうか。好奇心と怯えがその瞳で溶け合っていた。


「こんにちは!」

「こ、こんにちは」

華恋が元気に挨拶すると、少女の肩がびくりと跳ねた。遊び相手を見つけたとばかりキラキラとした瞳で、華恋は彼女を手招きする。少女は辺りを見回してから、おずおずと近寄ってきた。


「あ、あの……」

「ねえ、いっしょにおにごっこしましょう!まずはアナタが鬼ね!」

ここに来て華恋は意識してかせずか、お嬢様と呼ぶに相応しい我儘ぶりを発揮した。相手の返事も聞かぬ間に、全速力で駆け出した。

少女はその場で何度も足踏みし、華恋の溌剌とした笑顔を見、足元の葉をまた踏み、華恋に鬼さんこちらと呼ばれて、そうしてえいとばかり走り出した。


どのくらい走り回っただろう。2人は鬼を何度か交代しながら、息が切れるまで追いかけっこを続けた。

疲れて草原に並んで倒れ込むと、青い空がどこまでも高く高く見えた。

気の抜けたようにため息をついた少女は、突然はらはらと泣き出した。

華恋はいつもうるさく言われているのにハンカチを持って出なかったことを後悔した。


落ち着くまでおろおろとそばにいて、泣き止んだら話すのを待った。

少女は華恋より1つ歳下で、転勤族の父と共に今年このあたりに引っ越してきたのだという。

友達がいない。話しかけられない臆病な自分が嫌だ。そんなことを少女は話した。

「こんな風にあそんだの、はじめて。クラスの子とも、仲良くしたいのに。もっと、明るくなりたい……」

「大丈夫、なれるよ」

「そうかな……私なんて」

少女はまた目に涙を溜めた。

「そうねえ……そうだ。私も、きっと立派にお父さまのようなしゃちょーになるわ!」

黒咲家は曽祖父の代から続く大きな企業グループだった。現社長の父はじきにグループ会長に、その頃には華恋が跡を継いで社長になっていることだろう。勉強は苦手だし、退屈な話を聞いているとあくびが出てしまう毎日だが、自分もそういう苦手なことを頑張ってみる。そんなことを、幼いなりに拙い言葉で話した。

「だからアナタもなりたい自分になれるよう、勇気を出して。いつかまた会えたときには、お互いをほめてあげましょうね」

華恋は今まで、半ば強制される努力を煩わしく思っていた。こうして付き合いを放って駆け回っている方が好きだった。

だが目の前の少女を勇気づけるためになら、自然と乗り越えられる気がした。それは、初めてできた妹のような友達に対する、一種の意地だったのかもしれない。

良いことを思いついたと子どもらしく笑う華恋につられて、少女も笑った。そして、じゃあ、と手早く花を手折り器用に編んだ。それを差し出し、こう言った。

「このシロツメクサの指輪に誓って、約束!」

華恋は手を眼前に掲げて、親指に嵌ったそれをじっくりと眺めた。



「そういえばアナタ、名前は?」


「わかば……真白若葉」

「若葉。私は、黒咲華恋よ」


***



あれから時が経ち、華恋は大学生になっていた。


交換したシロツメクサの指輪は、ほどなく枯れてしまったけれど、あの約束を頼りに、華恋は嫌いだった勉強にも社交界での振る舞いにも一生懸命取り組んだ。

別荘には翌年も泊まったが、若葉はあの草原に現れなかった。また父の仕事で引っ越して行ったのかもしれない。

寂しい思いはあったが、きっとどこかで若葉も勇気を出して頑張っているのだと、華恋は自分を奮い立たせて生きてきた。


今では学部の華と呼ばれるほど才色兼備を誇り、その微笑みには老若男女問わず虜にする力があると言われていた。家の力もあるが何より彼女自身の努力が周囲を惹きつけていた。



ゼミに入ってきた新人の歓迎会が、その崩壊の始まりだった。

自己紹介のため並んだ後輩たち。強張った笑みは緊張からだろうか。微笑ましく端から順に眺めていた華恋の目に飛び込んだのは、驚くべき、しかし喜ばしい顔だった。

「真白若葉です。栃木で生まれて、そのあと何度か引っ越して、最後に住んでたのは山口でした。よろしくお願いします」

明るくひょこりと頭を下げた後輩は、全く話し方は違うけれど、確かに面影があった。

もう会えないかもしれないと思っていた。

華恋の胸は、泣き出しそうなほど高鳴った。


自己紹介を終え、歓談する学生と教授の間を抜け、華恋は若葉の肩を叩いた。

「黒咲華恋です」

「はじめまして、黒咲先輩。よろしくお願いします」

お互いに成長し、あの頃とは背丈も言葉も変わり、わからないのも無理はない。しかし「はじめまして」の言葉は、胸に刺さった。

同姓同名の別人かとも考えた。だが昔はとにかく臆病だったという話や、転校先で行事をきっかけに友達ができた話を、酒と食事と話術で聞き出し、確信した。この子は、あの若葉だ。

しかし、華恋と走り回ったあの草原のことは、一度たりともその口から聞けなかった。


自分は今まであの約束を支えに生きてきた。

若葉は、忘れてしまったのか。

若葉からくれた指輪だったのに。




若葉と再会してから、華恋の胸には苦く重い感情が居座っていた。再会できたら話したかったことが沢山あった。隣にいるのが自分ではないという事実が身を焼いた。

それは涙にも言葉にもならず、華恋の心を支配していった。




私以外見えないようにしてみせましょう。




奨学金で大学に通い、バイトに追われる後輩たちを懐柔することは黒咲家の財を以てすれば容易かった。

学費を負担し、奨学金の返済も補助をすると持ち掛ければ、若葉に関わるなという交換条件はあっさりと飲まれた。

卑しいことをしているという意識はあったが、同時に華恋は薄暗い優越感に笑みを浮かべた。

結局何を置いても若葉を大切にできるのは、自分なのだ。


友人たちが離れていく。

若葉の表情は曇った。それはあの頃の、自分に自信がない少女のようだった。

華恋は独りになった若葉に寄り添った。研究室で課題を手伝い、カフェで紅茶を勧め、運転手付きのドライブに誘った。

若葉は少しずつ笑顔を取り戻した。

もっと、独り占めしたい。

自分しかいないと思わせたい。

華恋の指は、スマホに部下への指示を紡いだ。 



交通事故で全治1か月のけがを負った若葉は、華恋の紹介で、清潔で真っ白な個室に入院していた。


親元を離れて上京してきた若葉には、頼れる身内が近くにいない。友人たちも、華恋によって離れていった。

自然、若葉の見舞いに来るのは華恋だけだった。

白い病室に、華恋が持ってきた花だけが鮮やかに照り映えていた。

「いつもすみません。先輩がいてくれて本当に心強いです」

「いいのよ。私が好きでやっていることだから」

花瓶の水を取り替えると、華恋はベッド脇の丸椅子に腰かけた。


「ねえ真白さん、これを差し上げるわ」

華恋はベッドに横たわる若葉の手を取り、小指にシロツメクサで編んだ指輪を嵌めた。

「お守りよ」

「ありがとうございます、黒咲先輩!」

あの時と同じ指輪を見ても、若葉は無邪気に笑うだけ。その笑顔はあの日と同じに華恋を見ているのに、何も覚えていない。

微笑みの裏でどす黒く膨れ上がった愛情を凶器にする華恋には、若葉に誇れるようにと生きてきた美しい令嬢は、見る影もない。




――これは、私の人生を変えたアナタへの「復讐」よ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シロツメクサの指輪 @SO3H

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ