第五話
私は困惑した。
先ほどの会話で、てっきり「私の自己紹介に対して自分の名前を開示してくれた」ものと考えていたのだが、どうもそうではないらしい。そもそも「私が自己紹介をした」という認識があったかどうかも怪しかった。
「相手の名前を聞いて、自分も名前を開示する」――これはわりと重要な要素である。
なぜなら「相手から名前を教えてもらう」というのは、人間相手の場合でもアンドロ糸相手の場合でも、カウンセリング時のラポール形成手段としてよく用いられるテクニックであるからだ。
『ラポール』というのは、フランス語で「橋を架ける」という意味を持ち、カウンセリングでカウンセラーと患者の間に信頼関係ができている状態を指す。
「名前を教える」という行為は一見たいしたことがないことのように見えるが、不審な相手に対して普通はやらない。そのため逆に、信頼感を持ってもらうための最初の架け橋として使われるのだ。
それに、相手の名前を聞き、自分の名前を開示することで「不特定多数の誰かではない特定の個人」とお互いに認識するようになり、そうすると無下に扱うことも出来なくなる。誘拐犯との交渉人が最初に氏名の開示を求めるのは、そのためである。
そこで私は、現在の状況をいくつかの仮説に分けてみた。
まず、『キヤルミノン』が氏名だと仮定する。
相手が急に自分の理解できない言葉を話し出したとして、少なくとも「言葉を使っている」ことが理解できれば、まず最初に伝えようとするのは「氏名」だろう。従って、この可能性は高い。
そして、名前だとすれば個体認識と言語認識が機能していることを示す。
仮想人格そのものに問題が生じて内面世界自体が構成されていない、簡単に言えば「からっぽの初期状態」というわけではなくなる。
ただ、彼女は私の質問には反応しなかった。
これは、氏名の認識はあってもコミュニケーション手段としての言語理解が出来ていないことを示している。
言語である可能性は理解できるが、その意味内容が分からない—―つまり「共通言語がプリセットされていない状態」ということになる。辞書がない状態で、言語を自主的に理解しようとするアンドロイドは存在しないからだ。
まあ、この点は人間も同様である。
言語習得前の乳幼児は「あー」や「だー」といった
それに、彼女が発した『キヤルミノン』という言葉は、複数の母音・子音で構成された単語と判断できるから、喃語とは根本的に異なる。
となると、個別言語に特化したタイプとみるべきなのだろう。
少なくとも市販のアンドロイドには人類共通言語、英語、中国語がプリセットされているが、特殊な目的で個別言語のみプリセットされる例がないわけではない。それであれば論理が機能しているのに言語理解が出来ない点は了解できる。
しかし、そうなるとその個別言語でないと会話が成立しない。
今からここで共通言語の教室を始めるわけにもいかないし、その時間もなかった。
彼女は私を見つめて黙っている。
それすらない—―ということは、彼女自身「話しても理解できない」ことを理解している可能性がある。
次に私は『キヤルミノン』という単語が、「名前」ではない場合を考える。
アンドロイドの場合、「型式と製造番号」または「主がつけた愛称などの固有名称」が個体認識の源泉となる。
前者の場合、彼らにとっては具体的事項でしかないし、情報伝達以上の意味をもたない。それゆえ「名前を教えてもらって打ち解ける」という手順自体が無意味であり、ラポールは成立しない。
指数の調律次第では人間のように、少しずつ打ち解けていくような感情の流れを表現することも可能かもしれないが、愛称を与えないアンドロイドにそこまでの繊細な心理調律を行う必要性は考えにくかった。
一方、『キヤルミノン』という型式のアンドロイドは私の知る限り存在しない。
絶版となった旧型やアンダーグラウンドで流通しているものの型式も職業柄記憶していたが、その中に該当するものはない。従って、型式とも違う固有名詞ということになるが、『キヤルミノン』あるいはそれに近い音の響きを持つ単語を外国語で聞いたことがなかった。
ただ、これは「単に私が知らないだけ」ということもありえるから、さほど重要ではない。
さて、そのいずれだろうか。
私の言葉が理解できていない—―これは彼女の反応から明らかだろう。
私が言葉を発していることは理解している—―これも間違いなかろう。
『キヤルミノン』は氏名である—―これも蓋然性が高そうに見えるが、私の心理調律士としての経験が「おかしいぞ」と訴えていた。
なぜなら彼女は最終的に『キヤルミノン』と発音するまでに、何度か言い直したからである。
氏名であっても型式であっても、個体を示す固有名称をわざわざ言い直すアンドロイドというのは前代未聞である。
むろん、人間であっても自分の名前をわざわざ言い直すというのはあり得ないが、自分の名前が嫌いで、あまり人に言いたくないという躊躇いからそうなったという可能性は考えられる。
ただその場合、人間であれば恥じらいか、あるいは嫌悪感ぐらいは表情に現れそうなものだが、彼女からはそのような複雑な感情の流れは見られなかった。
ゆえに、『キヤルミノン』は氏名ではないが、なんらかの固有名称である—―これがその時点で最も可能性の高い仮説となる。
そこまで考えると、私は別な方向性を探るために頭を切り替えることにした。
その結果、重要な見落としがある—―使用言語の一般名詞を何度か言い直さなければならない状況というのは、普通に起こりえる—―ことに、この時点でまったく気がつかなかった。
死者の魂は相対性理論の対象外となるか? 阿井上夫 @Aiueo
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