しあわせウイルス

@me262

第1話

 とある町の河川敷でホームレス男性の遺体が発見された。遺体を収容した病院は肺炎による病死と診断、警察も事件性はないとして法律に則って処理されたが、手続きを行った医療、警察関係者たちは皆、遺体の様子に違和感を抱いた。

 この男は惨めな人生の末に血反吐にまみれて死んだのに、何故この上もなく幸せそうな顔をしているのか。

 それが第一号の犠牲者だった。


 そのウイルスがどこから来たのかは誰も知らない。某国の研究所から流出したとも、南極の地下から発掘されたとも、あるいは数年前シベリアに落下した隕石に付着していたとも言われるが、どれも噂の範囲でしかない。ともかく、唐突に現れたそれは高い接触感染力により短期間で世界中に蔓延した。

 人間がこのウイルスに感染すると激しい高熱、呼吸器障害、摂食障害を引き起こし、重症化すると命に関わる。一見インフルエンザに似た症状だが、毒性は遥かに高く、悪化する速度も格段に早い。

 しかし、このウイルスの持つ最大の特徴はそこではなく、脳の右楔前部の活動を極端に低下させることにあった。楔前部の活動はネガティブな感情を引き起こすと考えられており、これが低下するということは自己肯定感が高まり、迷いや執着がなくなる。つまりこのウイルスに感染すると強烈な多幸感を得るのだ。更に乱暴な表現をすると、このウイルスに感染した人間は幸せになってしまうのだ。

 ウイルス感染者は通常、激痛を感じるはずなのに、このウイルスの感染者は真逆で、極上の幸福感に包まれる。

 これは恐るべきことだった。

 多幸感を得た感染者は自分が病気だとは思わないので医療機関には行かず、自宅で死亡するケースが多発した。異変に気づいた家族や友人の通報で病院に収容された者もいたが、殆どの患者は自ら治療を拒否して死んでいく。多幸感の虜になって、その状態を終わらせたくないからだ。

 有効な治療薬が存在しない段階で、患者自らが治療を拒否するのではどうしようもない。世界中で死者が発生する中、各国ともに感染者増加に歯止めをかける努力をしたが、それらは徒労に終わった。ウイルスは主に貧困層の間で流行し、驚くべきことに彼らの多くが自ら進んで感染したというのだ。

 何故だと問う医療関係者たちに向かって感染者は答えた。幸せになりたいからだ、と。

 ただでさえ感染力が高いのに未感染者が自ら望んで感染者と接触していくので、感染者数は爆発的に増加していった。

 感染者に多幸感をもたらすこのウイルスはいつしか、しあわせウイルスと呼ばれるようになった。


 このような惨状に手をこまねいている訳もなく、国立感染症研究所では日々しあわせウイルスの治療薬及びワクチンの研究開発が進められていた。激務を極める中、デスクに突っ伏して仮眠を取る若手の研究員に年配の同僚が目覚めの缶コーヒーを差し出した。気づいた若手の研究員は口の周りのよだれを拭って慌てて礼を言う。

「あ、ありがとうございます。見苦しいところを……」

「無理もないさ。みんな疲れ切っているんだから」

「そうですね……。でも研究は確実に進んでいます。必ず治療薬とワクチンは完成します」

 それを聞いた年配の研究員は若手の隣の椅子に座り込み、しばらくの間何かを考え込んでいたが、やがて口を開いた。

「それで全てが解決するのかな……」

「え?どういうことですか?」

 不思議そうな表情の若手に、年配の研究員は唐突な質問をした。

「君、今幸せか?」

 意表を突く質問をされた若手は一瞬口ごもるが、小さく首を縦に動かした。

「まあ、幸せです」

「そうだろうな。学生時代のかわいい彼女と結婚して二年目、もうすぐ子供も生まれる。仕事も安定して高収入、順風満帆な人生だな」

「な、なんですかいきなり?皮肉ですか?」

「気を悪くしたら謝るよ。かく言う俺だって幸せな方だ。俺達みたいな地位も収入もある人間は幸せだろう。でもな、世界にはそうじゃない人間の方が遥かに多いんだ。世界的な格差社会のせいで、幸せになれない人たちが増えている。その人達にとって、しあわせウイルスに感染することが幸せになる唯一の手段だとしたら、感染を止めることは不可能に近い」

「貧しい人が自ら進んでしあわせウイルスに感染しているのは僕も知っています。でもそれは間違っている。このウイルスに感染したら高確率で死ぬんですよ?命を差し出してまでまやかしの幸せが欲しいんですか?」

「それは勝者の理屈だ。この先一生幸せになることができないと分かっているのなら、たとえまやかしでも幸せな気持ちのまま死んだほうがましだと思っている人間が大勢いるんだよ」

「間違っています!確かに世の中は不平等だし成功するためには厳しい競争に打ち勝たなくてはならない。だけど、努力もしないで幸せになろうというのはやはり間違っている!」

「だからそれは俺たちみたいな勝者の理屈なんだよ。俺も君も、何もズルして今の地位を得ている訳じゃない。地道な努力を積み重ねて、色々な誘惑を我慢して競争に打ち勝って、幸せを手にしている。それは全く正当なことだよ。だけど、競争に負けた者はどうなる?競争すらできない者はどうなる?彼らには幸せになる資格がないのか?ちがう。誰だって幸せになりたいんだ。その人達にはしあわせウイルスは手っ取り早い救いなんだよ」

「救い?」

「この間、アフリカの知人からネットで現地のビデオを見せてもらった。地元の新興宗教団体が信者を集めて、わざとしあわせウイルスをばらまいたらしい。教祖や幹部も感染していた。教祖たちは信者に救済を与えたと言っていたそうだ。殆どの信者は助からなかった。血反吐を吐いて死んでいるのに、彼らはみんな満面の笑みを浮かべているんだよ。クーデターや内戦ばかりで、ろくな資源も産業もない最貧国の一つだ。彼らが幸せになる努力をしなかったと思うか?そもそも努力できる環境すらなかったんだ」

「それは……」

「これは貧しい国だけの話じゃない。先進国の薬物中毒者たちがしあわせウイルスにわざと感染している。こいつの与える多幸感は麻薬や覚醒剤よりも遥かに強いんだよ。あってはならないことだが、一部の医者は末期がんの患者にしあわせウイルスを感染させて安楽死させている。富裕層、いわゆるセレブの間でもしあわせウイルスにわざと感染する者が出始めている。中には著名な宗教家や哲学者さえもが意図的に感染しているんだ。幸せなんて主観的なものだ。どんなに豊かな生活をしていてもそれで本人が幸せを感じているとは限らない。結局、カネじゃ幸せは買えないんだ。それに、この激しい競争社会のせいで、今幸せな者もいつそれを失うかわからない不安を常に抱えている。だけど、しあわせウイルスは全ての感染者を強制的に死ぬまで幸せにしてしまうんだ。俺は恐ろしくてたまらないよ。このウイルスは人類を滅ぼすだけの力を持っているかもしれないんだ」

「お、大げさですよ。治療薬とワクチンは必ず完成します。今すぐは無理だけど一年以内には必ず。そうすればしあわせウイルスは駆逐できますよ」

「俺が言いたいのは、この行き過ぎた格差と競争社会をなんとかしなけりゃ、しあわせウイルスを意図的に保管して使用する奴が今後も出てくるかもしれないってことだよ」

 いつの間にか熱弁を奮っている年配の研究員に気圧されながら、若手の研究員はどうにか反論した。

「……お言葉ですが、先生の言っているのは政治の話ですよ。医者が関われることじゃない」

 半ば引き気味の後輩の視線に、ようやく我に返った年配の研究員は深くため息を吐いた。

「……ああ、そうだな。きっと疲れが溜まっているせいだ。今の愚痴は忘れてくれ。さあ、仕事を再開しよう」

 彼は苦笑いを浮かべて若手の研究員の肩を叩き、椅子から立ち上がった。そして、小さくつぶやいた。

「一番恐ろしいのは、俺自身が今後しあわせウイルスに手を出してしまわないか、ということだよ……」


 程なくしてしあわせウイルスの治療薬が完成した。既に全世界で数十万人の犠牲者が出ていたが、これで悲劇は終わる。各国の医療従事者はそう確信した。

 だが……。

 以下、WHOの公式発表。

 しあわせウイルスの感染者数、約1億5050万人。

 しあわせウイルスによる死者数、約50万人。

 治療薬により回復した者、約1億5000万人。

 回復者のうち、重度の鬱病で自殺した者、約1億3000万人。

 自殺者は皆、全て同じ内容の遺書を残しており、それらは次のような文面だった。

“どうして無理やり回復させたんだ。そんなこと頼んでないのに。もう二度とあれ程の幸せを手に入れることはできない。これから苦しみだけの人生を続けるなんて、とても耐えられない”

ワクチンの接種率は世界平均で30パーセント未満。

 WHOは現時点でのしあわせウイルスの撲滅を確認していない。

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