最終話
まだ七時を過ぎたころ、気持ちのいい朝日が弱く部屋に差し込んでいた。携帯をサイドボードに置いてリビングに降りると、お母さんが朝ごはんの支度をしている途中だった。
「おはよう、都。予約は何時だったかしら?」
「おはようお母さん。十時からだよ」
「じゃあまだ時間あるわね、ちゃんとご飯食べなきゃダメよ」
運ばれてくる朝ごはんに手を合わせると、お兄ちゃんがリビングの扉を開いた。眠そうに目をこすりながら、私の隣に座った。
「珍しいな、都がこんなに早起きなんて」
「なんか目が覚めちゃって。外に行くのも久しぶり、だしね」
ぱくぱくとご飯を口に運びながら、開けられたカーテンの向こうは冬にしてはぽかぽかとした陽気が心地よく見える。
テレビに映るたくさんの人間は、酸素ボンベを背負っているようにはもう見えなかった。
まだ時間が余りすぎているので、一度部屋に戻ってパソコンの電源を付けた。栞さんの夢の絵が残っているし、最後に見た夢をもう一度描きたかった。
キャンバスを立ち上げて描きかけていた栞さんの線画から取り掛かった。家を出るまでまだ二時間も時間がある。少しでも進めてしまおうと筆を走らせた。
ふと、さっきまで見ていた夢を思い出す。もうヨルンさんには会えない。私が死ぬ直前になるまでは。きっと私が死ぬときに、彼はもう一度姿を現してくれるだろう。そう信じている。
そんな前向きな気持ちとは別で、やっぱり悲しくなってしまった。
さよならを言うためだけの夢で、あの夢で描いた絵ももうどこにも残ってはいない。もう一度描いたからといって、全く同じようには描けないだろう。
外に出ることだってまだまだ怖い。本当に怖くなってしまわないか、きちんと出ていけるのか。そんなことは関係なしに時間はどんどん過ぎていく。
世界はいつも通りの日曜日を迎える。
そんな世の中とは裏腹に、たくさんの人間が今日も死を迎えて、たくさんの人間が幸せな夢を見るだろう。
私はこれからもきっと死にたいと思うことがたくさん出てくる。生きることが嫌になることだってある。生きているからこそ、そんな思いをすることは絶対的不可避だろう。
例えば今日だって、私の家からお父さんはいなくなる。髪を切りに行けば、出ていくお父さんの手伝いが待っている。毎日会えていたはずなのに、もう会えなくなる、そんな日曜日だ。
学校のことだってこれから考えていかなければならない。いつか荻原さんのことを思い出して自分を責めることだってあるかもしれない。
だけど私はまだ何もかも描きかけなのだ。これからの人生を生きるために、私は描き続ける。
死にたくても生きていけばきっと何か見えることがある。昔なら切り捨てていた綺麗事を、今では信じてみたいと思える。
あんなに死にたかった私は眠りに落ちた。それを言葉に出して、最後の言葉にしたヨルンさんを思い出してくすりと笑ってしまった。
「おやすみ、死にたがりって……。夢なのに、変なの」
線画が終わること、時間が迫ってきていたので、久しぶりにクローゼットを開けた。
どうせすぐに帰ってくることになる。だけどいつもみたいなTシャツにカーディガンというわけにもいかないだろう。
茶色のニットとジーパンと靴下を取り出して、ベッドに投げた。着替える最中はこれといって吐き気はしない。
学校と兼用で使っていたリュックの中に財布を入れて、ジーパンの後ろポケットに携帯を突っ込んだ。イヤホンを握りしめて、一階へ降りた。
心臓がうるさくなっていくのを無視して、私は大きめに声を張り上げた。
「いってきます!」
あんなに重そうだった扉はかなり軽く感じた。目前に広がるのは何も息苦しくないただの世界だった。イヤホンを付けて、お気に入りのプレイリストを再生した。そうやって歩く世界も息苦しくはなかった。
死にたくても死ねなくて、結局生きてしまった私は、これからも生きていく。そして死ぬ間際にヨルンさんが現れたのなら、また一緒に絵を描いてみたい。
おやすみ、死にたがり 仮名 @kamei_tyan
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