明けない夜はない
瞬間、猫が私の頭に飛び乗った。肉球がつむじをぷにゅん、と押して。
『そら、男の人間になった』
「え」
いやいやいや。今なんて言ったこの黒猫。
パーカーの中に手を突っ込む。いくら深夜でも下着もつけずに出歩くわけにはいかないだろうと、カップ付きのキャミソールを着てはいるけど。そのカップが収めるものを収めていない。上からつつけば、空洞のカップがぺこぺことへこんだ。
ということは、下の方は。
「おおおおおおお?!」
おっさんのような叫び再び。っていうか、なんか声、いつもより太くなってないか?!
「ついてる……」
私の股間に、男の人の象徴たるそれがついていた。
体が本当に、男になってる!
私は思いっきり目をつぶった。
「目よ覚めろ目よ覚めろおおおお」
めいっぱい目をつぶって、再び開く。夢の最中に『これは夢だ』って気づいた時は、大体こうやれば目を覚ますもんね。目は覚めなくても、場面転換はできるはず。はずだ!頼むから!
『なんだよ、魔法で男にしてやったのに』
猫がまん丸の瞳で私を睨んだ。
「余計なお世話!さっさと元に戻してよ」
これは夢だと言い聞かせながらも、探った体の感触が生々しかった。
無くなった胸を掻き毟るようにパーカーを掴んで、黒猫に訴える。
『よし、じゃあ追いかけっこで俺を捕まえられたら戻してやろう』
言うや否や、黒猫は勢いよくスタートを切った。
「ちょ、早い!」
慌てて黒猫を追いかける。一応、フェアな勝負をする気があるのか、猫は狭い隙間や茂みに身を隠したりはしなかった。堂々と姿をさらしながら、住宅街の路地を縦横無尽駆け巡る。
いや、身体能力の差がもうぜんぜんフェアじゃないんですけど!
「む、無理」
私はあっという間に限界を迎えた。ぜいぜい喉を鳴らし、ジョギングにもならないようなスピードまで速度を落としながらなんとか走る。男の人の体になったからって、飛躍的に身体能力が上がったりはしないようだ。
猫は黒い体を闇に溶け込ませて、しなやかに夜の町を跳び回る。
その余裕たっぷりの身のこなしは、ムカつくなんてもんじゃない。
なんでこんな苦しい思いをしなきゃならないんだ、こんな変な魔法に振り回されて!
「こんなくだらない魔法じゃなくて、もっと役に立つ魔法使ってよ!」
潰れた喉から、振り絞って訴えれば。
『役に立つ魔法?』
猫は走るのをやめて、木に飛び乗った。私の手の届かないところまで登って問う。
『例えば?』
「今、人間たちは大変なんだよ。感染症が大流行してさ、出かけらんないわ、学校には行けないわ。病院とか、開けなきゃなんないようなお店はパニック寸前だし、そうじゃないお店やお仕事はお金を稼げなくて。みんなピリピリしてるし、病気は怖いし、死んじゃうこともあるし。もうめちゃくちゃなんだよ」
奇跡でも魔法でも何でもいいから、こんな先の見えない不安な毎日は終わってほしい。
こんないつまでも真夜中をさまようような、心細い毎日は。
『そうか、世界を救う魔法か。それならなくはないぞ』
「え?」
『ただし条件がある』
猫はその、月と同じような冷えた瞳で私を見据えた。
『世界を救う代わりに、お前はずっと男として生きること』
どうだ?と猫は首を傾けた。しっぽも同じように揺れる。
「……なにそれ」
『だから。お前に今かかってる、男になる魔法をそのままにしておいていいなら。その病気とやらを、魔法で消し去ってやろうと言っている』
「意味わかんない。私が男でいることと、世界を助けることってなんか関係あるの」
『あるともさ。本来、女であるお前の運命を大きく捻じ曲げるんだから、お前の運命という大きな犠牲が、大きな魔力を産むんだ』
魔法なんて、この世に存在するとも思ってなかった力の理屈が、どうなってるかなんてわからない。
だけど、私自身を犠牲にするなら。
人類を救えると、この魔法を使う猫は言うのだ。
『どうする?』
「わたしは」
変身アイテムだったはずのパーカーを、ぎゅっと握りしめる。
「そんなこと、できない」
顔を上げて、木の上の猫にきっぱりと言った。
『さすがに自分を犠牲に他者を救うのなんて、御免か』
「あたりまえでしょ」
だって、私は。
「ただの女の子に、世界なんて背負わせないでくれる」
パーカーでそれっぽく男の子に化けるだけの女の子だ。
「私は自分のこととか、家族のこととか、友達とか。自分の周りにいる人のことだけで精いっぱいなの。全人類のことなんて、考えてられるもんか」
『でもなあ。このままだと、いつかは自分や大事な人たちまで、害が及ぶかもしれないぞ?』
「だから今、みんな頑張ってるんでしょうが。まずは自分と、周りの人のことを考えて、できることをやって。それがもっと大勢の人を助けることになるって、みんな信じて頑張ってるんだ。そうやって一人一人が戦ってるんだから、私一人でなんか背負えない」
いつまで続くともしれない、不安な夜。
疲弊した心はあらゆる悪意を呼び寄せ、誰かの心を傷つけたりする。
かっこいいことを言ってみても、それが何の救いになるかわかりはしないけれど。
『……ま、いいんじゃないか』
低く呟いて、猫は私の頭に飛び乗った。つむじに肉球の感触。
頭からぴょこんと飛び降りて、そのまま猫は茂みの中に消えてしまった。
「あっ、ちょっと!元に戻し……」
そう言った声はいつも通りの高さだった。柔らかな胸と、なくなった下半身のそれ。
「戻ってる」
どうやら魔法は解けたらしい。
私は取り戻した胸を撫で下ろす。まだドキドキしていた。
「何だったんだろう、いったい」
しばらく呆けてから、私はスマホの時計を確認した。
「わ、もう四時になってる!」
確か日の出は五時前。すでに一時間を切っている。
「早く帰んないと」
うっすら白み始めた空に、私は家までの道のりを急いだ。
でもせっかくなら、日の出を見たいな。
東の空に目を向けた。
夜明けまでは、あと少し。
午前三時の小さな冒険 いいの すけこ @sukeko
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