文明が大人になるためには
ルジャンダルが嫌がるので、メエユーシュカは驚いて、理由を訊いた。
「私の毛を切るのを、どうしてルジャンダルが嫌がるんだ?」
「ふわふわ、なくなっちゃう」
そう言うルジャンダルがあんまり悲しそうなので、メエユーシュカはううん、と唸った。
ルジャンダルは、夜眠る時にメエユーシュカのふかふかの毛に抱きついてくることがある。
寒いからだと思っていたが、己は持たない毛の柔らかさを好んでいたのかもしれない。そう思い至って、メエユーシュカはルジャンダルを諭した。
「心配しないで。切った毛は、なくなっちゃうわけじゃない。いつかは糸にして、布にしなきゃいけないけどね。……切った毛は歩きながら乾かす技があるんだ、見せてあげる」
少し興味を見せたルジャンダルに、これ幸いと説得の言葉を掛けて、その爪で毛を切ってもらう了承を取り付けんとする。
実際には、メエユーシュカは鉄で出来た毛を切る道具を持っており、それを使ってひとりで全身の毛を切ることもできる。
けれど、自分の毛を気に入っているらしい小さな同行者の気持ちを無視して切ってしまいたくはない。
かと言って、十分に伸びた毛をそのままにしておいて良いこともない。あまり食事の量のとれない現状、これ以上毛を伸ばすことも難しい。加工して道具作りに使うなり、これから出会うかもしれない残された者たちのために服を作っておくなり、といった道に回す方が合理的だろうというのが、メエユーシュカの考えだった。
「加工するまでは、袋に詰めてまくらにしてもいいよ」
「いつかこうするの?」
「糸で作れる新しい道具が必要になるか、服を持ってない残された人に会うか、かな」
「じゃあ、めえの毛、切る……」
気の進まない様子ながらも了承してくれたルジャンダルの額を撫でた。
「うん。ありがとう」
その日は温泉の熱でスープを温められたので、暖かい身体で眠ることができた。
天の光が昇り始めると、メエユーシュカは目を覚まして、朝食のスープと肉を取り分けて温めておき、毛を洗って切るための準備を始めた。
鉱山街から拝借してきた針金を丸く曲げ、切った毛を乾かす道具に整形するのだ。……即席だが、まあ機能するだろう。
そうしたら、はさみや毛を整える道具を並べて、切った直後の毛を並べてざっと水を切るのにちょうどいい場所を見繕う。
ルジャンダルには、先に毛を洗っておくと伝えてある。起き出してくる頃には、切るだけで済むように準備を整えておくつもりだった。
湯に身体を浸すと、毛の間の空気がたくさんの小さな泡になって浮かび上がってくる。
濁りの少ないこの温泉では、泡の浮き上がる様子がよく見えた。さまざまな薬草を煎じたり混ぜたりして作る羊人の薬草湯は透明とはいかないので、この光景はあまり見るものではない。
大都市では羊人と親交のある商会が羊人の使う薬草や道具をを流通させているから、旅の途中でも定期的に都市に寄るかぎり、毛の加工には不自由しないのだ。
とは言え、薬草が手に入らない辺境の集落で毛糸を追加で請われ、ありもので紡いで売った経験も一度ではない。
その場でその場で可能な限り商品価値のある仕上がりになるよう励むのが羊人の性であった。
だから、湯だけで毛を洗うのもメエユーシュカにとっては慣れたものだった。
半身を湯につけてじっくり毛を洗っていると、さすがに暑くなってくる。何度か湯から上がって周囲の敷石に掛けて休みながら、全身の毛を洗い終えた。
すると、ちょうど起き出してきたルジャンダルがとてとてとやってきて、メエユーシュカの顔を覗き込んだ。
「おきたよー」
「おはよ」
スープと肉を温めてあるよ、と、立ち上がって器をかけてある温泉の一角へ向かおうとしたメエユーシュカだが、不意によろめいて尻餅をついた。
ルジャンダルは驚いて少し肩を跳ねさせた。そして、メエユーシュカの座っているまわりをぐるぐる歩いて様子を窺っている。
「だいじょうぶ?」
「大丈夫だよ。ちょっとのぼせたせいかも」
改めて、用意してある食事のことをルジャンダルに伝えると、ルジャンダルは小走りでそれが温められている温泉の一角へ向かい、それがあるのを確認すると、すぐに手ぶらで戻ってきた。
とってこなかったのか、とメエユーシュカが尋ねると、ルジャンダルは緊張したような面持ちで言った。
「きってから、たべるね」
「そうか。じゃあ、頼むよ」
「……ほんとに、たのむの?」
「うん?」
ルジャンダルは縮こまって見える。それは、昨日の「ふわふわがなくなっちゃう」落胆とは違うようだ。
訳を聞くと、どうやら竜人の鋭い爪で身体を傷つけるのが怖いらしい。
「はだ、きっちゃうかも」
「ルジャンダルは器用だから大丈夫だろう。ナイフで切るときの安全なやり方もあるから、教えるよ」
ルジャンダルが爪を使うのが嫌なら、自分で切るつもりである。
それを告げると、ルジャンダルは首を振り、言った。
「毛、いたくない?」
メエユーシュカはようやく合点がいった。
竜人には毛がない。
故に、毛を切るのがどういった感覚なのか分からずに、切ったら痛みを感じるのではないか、と怖がっていたのだ。
メエユーシュカは、どう説明したものかと思案したのち、問いかけた。
「竜人も、剥がれかけたうろこの先を傷つけても痛くはないだろう?」
ルジャンダルは自分のあごのうろこに軽く触れてから、うなずいた。
「ん……」
「それと同じようなものだ。さすがに引っ張ると根元が痛いから、優しく掴んでくれ」
そうしてメエユーシュカは自分の鉄のはさみを手に取った。最初の数房は、メエユーシュカがはさみで切って見せる。
ふさの掴み方はこんな感じで、根元はこれくらい残して、切り口の角度はこうで、切ったらこっちにこうならべてほしい。
ルジャンダルはそのどれもよく頷いて、熱心に聞いてくれた。
「じゃあ、きるね」
「うん」
ルジャンダルは鋭い爪を毛の中に進めた。
さくり、さくり。
最初のうちは少しばかり切り口が斜めになったり、切ったふさがばらばらになったりしたけれど、すぐに慣れた手つきで毛を捌いていき、メエユーシュカもおどろくほどの早さで切り終えた。
「これは、広げて歩きながら乾かそう」
メエユーシュカも負けじと手を動かした。
先程作った、針金の道具に毛のふさを挟んで固定する。あとはちょうどいい場所に吊して天の光にさらすなり、背負って歩き風通しをよくするなりして乾くのを待つだけの簡素な道具だ。
ルジャンダルは、その道具が想像していたよりも素朴だったようで、がっかりしていたけれど、
ともあれ、朝食を摂ったら荷をまとめ、切った毛を背負ってまた旅に戻るのだ。
メエユーシュカのからだは、毛を短くしたおかげで素早く乾く。雨に降られた時とは大違いだ。
もとどおり服を着て、荷をまとめて、もう出発できる体勢になった時、ルジャンダルがたまごの鞄を背負ったまま、何やら工作していた。
鉱山街で見つけた椅子の残骸の木片を、普段被っている鍋と組み合わせて、更にその先端にメエユーシュカが作った干し具を吊り下げる。
なるほど、全体が風に当たって、よく乾きそうだ。
強風が吹いたら飛ばされそうでもあるけれど、今日のところは風は穏やかだ。
「それは……いい考えだな」
「にひひ」
ルジャンダルは物干しつきの鍋をかぶって得意げだ。
なんだか変な格好だが、他に見るものもいない。笑われる心配はなかった。よしんば他の残された人が居たとしても、格好を笑いはしないだろう。仲間に出会えた喜びが勝るはずである。
「じゃ、それでいこうか。出発する?」
「うん!」
ゆらゆら揺れる毛のふさを視界の隅にして、荷車をごろごろ押して歩く。
ふと思い出して呟くのは、羊人の毛干し道具の話である。
「前に使ってた木の荷車を注文する時、おすすめされたんだ。干し具をつけられますよーって」
「これ?」
ルジャンダルが針金の干し具を指差すと、メエユーシュカは「ううん」と首を振る。
「もっと手の込んだやつがあるんだ。木とばねを組み合わせて、強く簡単に固定できるってやつとか……、荷車と連動してて、車輪が回る力を使って回転させてはやく乾くようにするやつとか」
「つくれないの?」
「さすがに作れないな。そういう仕組みの難しいやつは、専門の職人じゃないとね。いくらルジャンダルの爪が鋭くても、噛み合って滑らかに回る歯車を作るのは、相当勉強しないと難しいと思うよ」
「むー」
「ルジャンダルも修行して職人になるかい?」
「なれる?」
「ルジャンダルは器用だし、石でも金属でも削れるすごい爪もある。なろうと思えば、きっとすごい職人になれるよ」
「そっかあ。じゃあ、職人目指してがんばるね」
そうして笑い合って、またしばらく歩くと、ルジャンダルがぽつりと言った。
「すごい職人って、なにをつくるひとかなあ?」
「ううーん……」
メエユーシュカは答えに窮した。
職人と言っても様々だ。道具を作る者、家を作る者、料理をする者。
メエユーシュカは羊人の毛があるから、毛の加工をする。素材から成り立っている職人である。毛を上手く加工する知識や技術、道具たちは、あとからついてきたものだ。
ルジャンダルはそうではない。ルジャンダルの職人としての資質は、鋭く強い爪の加工道具としての利用価値の高さによるものだ。
それは何を加工して何を作ってもよいということであるし、何を作るかの選択に、職人としての成否がかかっているかもしれない、ということでもあった。
とは言え、今この世界で使える素材といえば、石か土、水とわずかに残された木くらいなもので、考えても仕方ないようにも思える。
しかし、このちびっ子の求めている応えは、多分そういう現実的な話ではないだろう。
だって、当のルジャンダルはゆらゆらと首を揺らしながら、風に問うように、にこやかにしゃべっている。
「なにをつくったら、すごいかなあ。すごいもの、すごいもの……」
「すごいものかあ。私の知っているなかですごいものと言ったら、シェルターかなあ」
「シェルターしってるよ、ちがうところにつながってるやつ」
「うん、どういう仕組みなのか見当もつかない」
シェルターは、おとぎ話や伝説にある、不思議な穴の総称だ。
水を求めて砂漠を彷徨っていた旅人が、流砂に落ちたかと思えば、きれいな水をたたえる涼しい部屋で目を覚ます。助かったかと思いきや、その部屋から出る方法が分からなくなる怖い話。
あるいは、森で大蛇に追いかけられた子供が、見知らぬ扉の中に逃げ込むと、そこは妖精の棲む家で、妖精の知恵を授けられ、知恵を駆使して大蛇から逃げおおせる話。そんな、不思議な空間にまつわる話は、世界の各地に、いくつも伝わっていた。
それら不思議な空間の総称が『シェルター』だ。
それが存在したことを疑う者は、あまりいなかった。列石都市にも、それに連なる技術を使った施設があって、広く公開されているのだから。
とは言え、もう伝説に語られる数ほどには、『本物』のシェルターは実在しないらしかった。
度重なる泥界化で地形に埋れて機能を失ったのか、壊れてしまったのか、あるいは、繋がる先の『この世界ではない場所』に引っ込んでしまったのか、いろいろと囁かれたけれど、定かではない。
「シェルターがどうして作られたかの伝説は、しってるかい?」
対して、それら不思議な空間たちの起源を述べる物語は、メエユーシュカの知る限り、一つしかない。
「そのでんせつは知らない。でも、むかーしのひとがつくった、しってる」
「そっか。じゃあ、今日はその話をしようか」
「ん」
「昔、昔。何百の劫を遡った頃かもわからない、むかし……」
大変技術の発達したその劫では、地上にも地下にも沢山の人が豊に暮らしていた。空の上でさえも、人と家畜と農園で埋め尽くされていた。
山の峰で新鮮な海の魚が食べられる。そういう世界だった。
だから、そこでは人の居場所を増やす技術は特に研究されていた、という。
彼らの文明はまた、泥界化の時を予測するほどに至っていた。
するとどうなるか。
泥界化が起こっても自分たちが、あるいは自分たちの食糧が泥にかえることがないように、泥界化をまぬかれる場所を作ったのだ。彼らの空間の技術を惜しみなく注ぎ込んで、それは果たされた。
だから、『シェルター』なのだ。
人々はシェルターを可能な限りたくさん作って各地に設置した。失いたくない家畜や植物を持ち込んで保護し、その時に備えたのだった。
泥界化は予測した通りの時間に起こった。
小さなシェルターの中でで息を潜めていた人々は外に出て、泥界化をまぬかれたことを喜びあった。
その数日の後——シェルターに仕舞われていた人や家畜がおおかた運び出され、元の生活に戻ろうとしていた時である。
再び泥界化が起こって、戻ってきたものたちの一切をさらっていった。
それでも残された者たちもいたけれど、文明を維持することはできずに、細々と暮して死んでいくのが精一杯だった。
列石都市が成立する前の話だ、と言われている。
シェルターは相当たくさん作られたはずだけれど、さすがに長い長い時の中で大部分は機能を失って壊されるなどして、目立たないところに残されたシェルターの遺構だけが、その劫の記憶として世界に刻まれているのだと。
これが、シェルターの起源を語る伝説だ。
「あんしんしてそとにでたら、また泥界化するなんて、ひどいなー」
ルジャンダルの感想の言葉があまりに素朴なので、メエユーシュカはつい笑いをこぼした。
「ふふ、そうだね……。でも、それから何度も何度も、残された人たちから文明がおこされてる」
「また、もどってくるのかな」
「そうだといいし、そうなるための助けに、私たちもなれたらいいね」
「うん……」
時は、もう天の光が地に隠れる頃になっていた。
不意に、メエユーシュカが足下の何かを踏んづけて転びそうになった。荷車を二人でしっかり掴んでいたから、転倒はせずに済んだ。
「ふうっ、びっくりした」
メエユーシュカが足元を見ると、なんの変哲もない石、蹄の三分の一もないくらいの小石を踏んでいた。
「だいじょうぶ?」
「ああ。今日は朝早くから動き回ったから、疲れたかな……」
「やすむ?」
メエユーシュカは頷いた。
周囲に建物は見当たらないけれど、水場は見つけることができた。野宿だが、さしたる問題はない。
切った毛もよく乾いていて、仕舞ってもよさそうだ。
メエユーシュカが干し具から干していた毛束を外してまとめていると、かばんを下ろして寝床とたまごの場所を作っていたはずのルジャンダルが寄ってきていた。
「どうしたの?」
「とれた」
ルジャンダルが差し出してきたのは、鱗だった。ルジャンダルの体を覆う鱗としては、やや大きい。黒くてつややかで、透き通るような光沢がある。……時折、金色の稲妻が光るように、鱗の中できらめきが起こる。
美しく神秘的な、稲妻竜人の鱗だ。宝石よりも価値がある、と言われたこともある。
しかし、本当の価値はそうではない。
「あごのところの鱗かい?」
「うん」
「そっかあ、大人に近付いたってことだね」
メエユーシュカは大きく喜んでみせた。ルジャンダルの里では、下顎についたひときわ大きな鱗が四度取れると大人になるという。ならば、その手にある鱗は、成長の証ということなのだ。
そして、今この子の成長を喜んでやれるのは、メエユーシュカしかいない。
当のルジャンダルはメエユーシュカの喜びようにピンとこない様子だったが、どうやら悪い気はしないらしく、機嫌良く食事をして、『おとうと』のたまごを撫でて、「大人になったら職人になる」とかなんとか語りかけたのち、すんなりと眠った。
翌日の旅路で、メエユーシュカは五回転んだ。
悠久の泥の夢 teigi @horse_teigi
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